アーシュラ・K・ル=グウィン『私と言葉たち』河出書房新社

Words Are My Matter,2016(谷垣暁美訳)

装丁:山田英春
カバー写真:(c) Bettmann/Getty Images

 1年前に翻訳が出たエッセイ集『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』(2017)に続く、講演・評論・書評(書評のみ抜粋)を集めたエッセイ集。前著と併せて、2年連続でヒューゴー賞関連書籍部門を受賞したものだ。昨年は、未訳作品を抜粋した『現想と幻実』(底本は2016)なども出ており、亡くなって5年を経ても人気は衰えていない。

 まず詩と前書きがあり、講演とエッセイ21編が収められている。ル=グウィンはノンフィクションであっても物語のように読むという。数学や論理学のような抽象性は苦手、しかし統語論のような言語の論理なら受け付ける。そんな著者ならではのエッセイが、生家シュナイダー・ハウスについて書かれた「芸術作品の中に住む」(2008)である。

 この家は建築家バーナード・メイベックが設計したものだった。大建築を得意としたフランク・ロイド・ライトなどと違って、メイベックはサンフランシスコ・ベイエリアに一般向けの住宅を多く作った。レッドウッド(セコイア)の無垢材で造られ、さまざまな様式が組み合わされた家で、広々とした「虚空」(何もない空間)が配されていたという。影と光に満ちたその家での生活が、まさに物語のように鮮やかに語られる。

 一方、全米図書協会から米文学功労勲章を受章した際の講演「自由」(2014)では、利益追求に走るあまり芸術の実践をないがしろにする(Amazonなど巨大企業の)風潮を批判する。これも、若手が言えないことを代弁する著者らしい主張だろう。

 続いて書籍の序文や解説が14編。文書の性質上批判的なものはないが、作家論作品論として読みごたえがある。まず冒頭のディックでは、長年評価が低かったその境遇と『高い城の男』が書かれた背景や文体と視点の意味を解き明かす。

 SF関係は以下の通り。文明のたどり着く末路を警告したハクスリー『すばらしい新世界』、ここに描かれたビジョン自体が妄想かもしれないレム『ソラリス』、ジェンダーについての重要な視点を見落とされてきたマッキンタイア『夢の蛇』、(科学者とかのエリートではなく)普通の人々がより進んだ異星人の遺物に群がるストルガツキー『ストーカー』、言葉の持つ意味と音の双方を重視したヴァンス、後年の思索的な著作より30代までの初期SF作品が歴史に残ったウェルズ、などなど。

 他では、デイヴィスやマクニコルズら、西部を舞台とし大自然やそこでの人々の生きざまを描く(いわゆる西部劇ではない)小説への共感が印象的である。作品論においては、各作家の女性に対する姿勢を冷静に問うところがSF分野での先駆者らしい。

 最後に書評15編(32編から邦訳があるものを抜粋)。こちらもSF関係では、本人はSFと呼ばれることを望んでいないがSFの為すべきひとつを体現するアトウッド『洪水の年』、科学や時空を相手に言葉遊びをするカルヴィーノ『レ・コスミコミケ』、ボルヘスにも匹敵する実力がありながらマイナーなキャロル・エムシュウィラー(『すべての終わりの始まり』)、完璧な隠喩がすべてのレベルで働くミエヴィル『言語都市』と想像力の活力が驚くばかりの『爆発の三つの欠片』、小説の心臓部に死を秘めたミッチェル『ボーン・クロックス』、夢中になって読める本だが魔法の扱いはそれ以上といえるウォルトン『図書室の魔法』などがある。

 2000年から2016年まで、何れも70代から80代後半の最晩年期に書かれものである。そして、一番最後に日記「ウサギを待ちながら」が置かれている。シアトルの北にある女性だけの作家村に、一週間滞在したル=グウィンの記録だ。そこでは、創作活動に専念できる環境が提供されている。自然の中のコッテージで、小動物と美しい光景、流れすぎる気象の変化だけがある。これもある種の物語になっている。