言葉の綾とり師 円城塔

 今回のシミルボン転載記事は円城塔を紹介したコラムです。2007年デビュー、5年後に芥川賞を受賞、その一方毎年のように年刊SF傑作選(大森望選)に選ばれるなど、どちらから見てもエッジに立つという特徴を持つ作家です。これは、その初期作を紹介したもの。以下本文。

 1972年生。デビュー作『Self-Reference ENGINE』は、締切の関係で第7回小松左京賞に応募、最終候補となるも伊藤計劃『虐殺器官』とともに落選する。結局、早川書房のSF叢書《Jコレクション》から2007年に出るのだが、出版にいたる合間に書かれた短編「オブ・ザ・ベースボール」で第104回文學界新人賞を受賞。また2010年「烏有比譚」で第32回野間文芸新人賞を受賞、2012年「道化師の蝶」で第146回芥川賞、2014年『屍者の帝国』では第33回日本SF大賞・特別賞を受賞する。純文学の賞とSFとが混淆する。しかし、どれもポテンシャルなしで受賞できるほど甘い賞ではない。それくらい、円城塔の作風は文学とSFの境界にあるということなのだ。

カバー:名久井直子

 『Self-Reference ENGINE』は、プロローグとエピローグに挟まれた18の短編から構成されている。未来から撃たれた女の子、蔵の奥に潜むからくり箱、世界有数の数学者26人が同時に発見した2項定理、あらゆるものが複製される世界、究極の演算速度を得た巨大知性体、謎に満ちた鯰文書の消失、無限の過去改変が可能な世界での戦争、祖母の家に埋められた20体のフロイト、宇宙を正そうとする巨大知性体たちの戦争、巨大知性体を遥かにしのぐ超越知性体の出現、過去改変は妄想だと主張する精神医、誰にも解明できない謎の日本語、知性体を飛躍させるために考えられた喜劇知性体、知性体を崩壊させた理論の存在、祖父との時空的問答を楽しむ孫娘、巨大知性体が滅びた顛末、海辺に佇む金属体エコー、超越知性体を動かし巨大知性体を滅ぼした要因。

 本書はSelf-Reference ENGINE(自己参照機械)=ある種の人工知能によって語られた物語ということになっている。フレデリック・ポール『マン・プラス』(1976)もそうだが、直接思い出すのはやはりレム「GOLEM XIV」(1981)になるだろう。ただし、法螺話風の語り口はカルヴィーノ『レ・コスミコミケ』(1965)を思わせるし、幻想の質はボルヘスかもしれない。そういった各種要素がハイブリッドされた内容は、この後の円城塔の活動を象徴するものともいえる。

 芥川賞を受賞した「道化師の蝶」を紹介しよう。この作品は、選考委員の石原慎太郎から「言葉の綾とりみたいな」わけの分からない作品だと強く反対されたが、川上弘美、島田雅彦らの熱心な支持を受けて受賞した(ちなみに石原慎太郎は、この回を最後に選考委員を辞する)。本作は物語の流れを自在に操るアクロバットのような作品で、筋を追うだけの読み方では、行方を見失う読者も出てくるだろう。こんな話だ。

 東京シアトル間を飛ぶ航空機の中で、永遠に旅を続けるエイブラムス氏と出会う。エイブラムス氏に、旅の間しか読めない本の話をすると、氏は蝶の姿を持つ“着想”を捕まえる網を見せてくれる。それは、この世のものではない道化師の模様を持つ蝶だ。この後5章にわたって、物語は順次視点を変えて描かれる。ある章は友幸友幸という作家が、無活用ラテン語で書いた小説だったとされ、友幸友幸は二十の語族の言語で小説を書いた人物とあり、その翻訳者は、故人となったエイブラムス氏の財団から依頼を受けて友幸友幸を追跡している。しかし、レポートを受け取る財団の網/手芸品の解読者こそが、もしかすると友幸友幸かもしれず、解読者が作った網こそ、最初にエイブラムス氏が見せてくれたものかもしれない。最後に物語の時間順序は逆転し、冒頭のシーンにつながっている。

 二転三転する性別、時間軸も一直線ではなく、事実と嘘との境界も曖昧だ。10人中2人が絶賛し、3人は分からないと怒り、5人は寝てしまう難解な小説と言われた。これは公式な選評ではなく冗談なのだが、選考委員黒井千次も、最後まで読み切れなかったと告白している。そのため、発表当時から作品の解釈や、ナボコフとの関連性を論じた解説記事などがよく読まれた。ただし、著者自身がそういった詳細な読み解きを奨めるわけではない。

カバー:朝倉めぐみ

 「道化師の蝶」が収められた同題の短編集には、もう一編「松の枝の記」が収録されている。お互いの小説を翻案しあった異国の2人の作家が、10年目に邂逅を果たすお話だ。自分の小説を翻訳してからまた自国語に訳し直すという、まさにナボコフを思わせる迷宮感がある。純然たるフィクションと思っていたのだが、作中作が円城塔訳チャールズ・ユウ『SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと』(2010)として2014年に出版されると、まるで著者の書くフィクションによって現実が侵食されたような不条理感を覚える。

 最後に『プロローグ』を紹介する。〈文學界〉に連載された長編で、2015年11月に単行本が出たもの。同時並行して〈SFマガジン〉に連載され、10月に書籍化された『エピローグ』と対を成す作品である。同じ話を純文学とSFで書いたが、『プロローグ』は期せずして『エピローグ』をメイキングする私小説(リアルな著者が訪れた地名と関係する描写がある)となったのだという。この発言を含む、本書をテーマとした大森望との対談は『プロローグ』刊行記念対談 円城塔×大森望「文学とSFの狭間で」として電子書籍化されている。ワンペアの両作を読み解く鍵にもなるだろう。

カバー:シライシユウコ

 まず言葉を同定する、日本語だ。次に文字セットの漢字を「千字文」から決め、スクリプトをRubyに、人物の姓名を「新撰姓氏録」から決める。次に設定を決め十三氏族が登場する。21ある勅撰和歌集を分解し、舞台を河南と設定し、小説の分散管理を構想する。次に和歌集を素材に語句のベクトルを統計分析し、世界が許容する人の容量を決める。最後には、全ての章に使用された漢字と語句の統計分析を行う。

 版元の紹介文とはだいぶ異なるが、使用されるツールを並べていくと上記のようになる(これで全てではない)。小説を機械で自動生成するという試みは、過去から現在までいくつもある。残念ながら成果は途上で、文学のシミュラクラ(本物そっくり)レベルにはまだ届かない。その一方、小説を統計的に読み解いて、新しい解釈を加える論考も存在する。本書は計算機の書いた小説ではない。逆に、さまざまなツールを駆使して、ある程度自動的に小説を書こうとする試みだ。ツールの吐き出す定量的なデータの中には、とても興味深いものがある。あいまいさがない分、本質的な何かが分かったような気になれる。ただし、それが何かかは定かではないが。

カバー:シライシユウコ

 文藝評論家のレビューでは、ツールの面白さがほとんど触れられていない。データ解析をするための道具=ソフトを使って「創作する」行為自体が、実感し難いのだろう。実際にソフトを書く=コーディングしているのがポイントで、実践を伴うことでリアリティが増すのである。論文ではないから考察がない。考察の代わりに物語が置かれている。確かに、実在する自動出力装置を使った私小説といえる。石原慎太郎は「言葉の綾とり」を批判的な文脈で用いたが、実際、円城塔は言葉の綾とりを試みているのかもしれない。そこには、誰一人見たことのない新しい形象が姿を現しているのだ。

(シミルボンに2017年2月12日掲載)

 このあと、円城塔はますます言葉に拘泥していきます。その代表作が『文字渦』(2018)で第39回日本SF大賞、第43回川端康成文学賞を受賞、さらにはラフカディオ・ハーン『怪談』を翻訳文体で新訳するなど(平井呈一らの既訳は日本の民話風に寄せている)その行方が見えません。一方『ゴジラS.P』(脚本+ノベライズ)なども手がけています。これも(アニメも小説も)、庵野秀明でもやらない言葉の洪水が印象的でした。

ケヴィン・ブロックマイヤー『いろいろな幽霊』東京創元社

The Ghost Variations: One Hundred Stories,2020(市田泉訳)

装丁:岩郷重力+W.I
イラスト:Kelly Blair

 ケヴィン・ブロックマイヤーの掌編集。著者の作品ついては、2012年に翻訳された『第七階層からの眺め』以来12年ぶり(正確には11年半)となる。アメリカでも10年ほど新著が出ていなかったので、紹介が遅れたせいばかりではない。過去にスリップストリームとかスプロール・フィクションとされた作風は、今日のSF・純文小説ではむしろ主流になってきた。本書は全部で11の章に分かれていて、それぞれに6~13編の掌編(2ページ前後で多少ばらつきあり)計100編が収められている。

 幽霊と記憶(6つの掌編)法律事務所に捉えられた幽霊、進路指導カウンセラーが見た幽霊、夢の中こそ現実と思う男、請願書に署名を求められた男、周りの誰からも助けてもらえる女、人生のあらゆる昨日を再訪する男。
 幽霊と運命(7つの掌編)ヒッチハイカーはみんな死神、願い事を待つ精霊、幽霊出没ゲームの遊び方、運命のバランスが完全にとれている男、方向音痴の幽霊は道に迷う、幽霊が取り憑く生者が減り死者が増えすぎる、突如ステージに案内された女。
 幽霊と自然(10の掌編)ゾウたちに録音の声を聞かせる、白馬の行方を相談されたペット霊媒師、人は二種類の動物からできている、ミツバチのようでミツバチでないもの、木を風景を損なう邪魔ものと考える男、家が木々の幽霊に満ちていると考えた男、幽霊の雨が降り幽霊の実がなる、人生のリズムと芝刈り機のリズム、大統領令により各家庭に砂場が供給される、岩の上で争い合う二人の部長。
 幽霊と時間(8つの掌編)左右の虹彩の色が違う少年、温和な中年男が来世から請求書を受け取る、特定の1分間が死亡する、2方向に向かって年をとる男、時計でいっぱいの国に住む幽霊、生まれる何世紀も前に幽霊になる、夏のあとに秋が来てまた夏が来る、少女が好むのはややこしくないタイムトラベル。
 幽霊と思弁(9つの掌編)動き続けるファンタズムと動かない仇敵スタチュー、巨人で幽霊で魔術師でもある一人の男、宇宙船が到着したとき地球には幽霊しかいない、転送された人は新たな魂を得るのか、宇宙崩壊後には宇宙の幽霊たちだけがいる、宇宙論プリズムは思わぬ発明につながる、男/女らしさを発現する装置、混雑緩和のため新たな来世が建造される、第115連隊の兵士たちは弾丸がスローモーションで飛ぶところを見る。
 幽霊と視覚(9つの掌編)名をなした監督は「見られない」映画を撮る、すべての人が同じ顔に見える、美術愛好家が色覚異常補正眼鏡を入手する、たいていの2歳児とは違う意味で扱いにくい子供、赤の他人の写真を壁紙にする男がいた、村の掟では人影以外の影に入ってはいけなかった、幽霊になりたい少年、男は死ぬとき青をいっしょに連れていくと言う、死後の世界はほぼ空っぽに近かった。
 幽霊とその他の感覚(10の掌編)手で触れずにはいられない像を制作する彫刻家、二流の才人を目指したウィーンの作曲家、世界から歌が尽きてしまった、幽霊はふだん音を立てない、彼が亡くなりやがて匂いも死ぬ、家はいつもより豊かな気がする、紳士は物質的半身と精神的半身からなる、幽霊が幼児の体に閉じ込められる、歯に食べかすが挟まっている幽霊、5人の無関心が住んでいる。
 幽霊と信仰(7つの掌編)死の国は南西に位置する、理論的聖書研究センターの異常派と尋常派、不動産屋が語る教会の様子、このおれはとりわけ運が悪い、幽霊ではないと露見し来世から追放された男、最後の審判が起こったあと、ため込みすぎた罪人の魂を少額硬貨として浪費する悪魔。
 幽霊と愛と友情(13の掌編)少年の体から幽霊が逃げ出す、男はようやく自分が幽霊になったと認めた、独身男は射精したものが幽霊になっていると気づく、朝夕2時間鏡を見つめる女、中年夫婦の気まぐれの奥底にある回転式改札口、恋する男女の思いは懲罰か慰めか、関係が終わったとき友人たちは間一髪で良かったという、ガールフレンドの死を知った男は約束を思い出す、男を忘れようと別の男を探す女、女の夫は優しく魅力的だが心を持っていない、次々結婚する男は誰とも長続きしなかった、死後の世界は学校とそっくりだった、あるとき「あなたの靴が好き」というメッセージが現れる。
 幽霊と家族(11の掌編)男の住む国は幽霊でいっぱいだった、宇宙秩序の混乱で赤ん坊ではなく幽霊が生まれるようになる、その遊びは「見えない、さわれない」というものだった、臆病な少年は勇敢な少年の幽霊兄弟なのだ、人間は生み出す努力をしないと魂を持てない、自分が死んだのに家族は気がつかない、母親から能力を引き継いだ霊能者がいた、男はできるだけ父親と違う人間になろうとする、信仰心の乏しい若者が祈りを捧げる、他人の死を願った男が先に死ぬ、鰐にかまれて死んだ男の幽霊は二つに分かれる。
 幽霊と言葉と数(10の掌編)おしゃべりをする3羽のインコを飼う男、あらゆることが婉曲表現となる村、幽霊が出没する中華料理店、アルファベット27番目の文字が見つかる、既視感を表現する言語とは、会話ができないと悟った騒霊の得たチャンス、隣通しの少年と少女は糸電話で友達となる、揺りかごから数のカウントを聞いてきた少年、神は空想上の存在と現実の存在とのバランスに悩む、かつて書かれた中でもっとも恐ろしい幽霊譚。

 本書の巻末にはテーマ(「幽霊と動物」「幽霊と植物」などなど)ごとの索引が掲げられており、そこに含まれる掌編が列記されている。キーワードは50あるので、そういう順序で読み直すこともできる。さらに全作品の解題(のようなもの)まであって、内容をいくつかの短い単語で要約している(といっても詳細はわからない)。実用的というより、これも作品の一部なのである。

 本書の掌編では、怪談や怪奇現象だけが語られるわけではない。トラディショナルな幽霊譚もあれば、人間/魂と一体化した分身の物語もあったりする。人間の中に潜む欲望とか感情は、理性に対する本能=霊魂に属するともいえる。人だけでなく動植物が魂の乗り物/空き部屋だとすれば、さまざまな生と死の物語も幽霊譚になるだろう。少年少女たちの夢や成長の物語、ちょっとおしゃれな都市伝説風や哲学的なお話もある。それぞれクセのある物語の中には、スペキュラティブなSFもあって多様に楽しめる。

ウルトラ世界を別視点から描き直す

 シミルボン転載コラムは、先週との関連になりますが、ウルトラ世界について書いた2016年のコラムを紹介します。こちらでは山本弘さんだけではなく、4年前亡くなった小林泰三作品を紹介しています。以下本文。

 2013年のデル・トロ版怪獣映画《パシフィック・リム》や2014年のギャレス版ゴジラから、怪獣ものは大人向けエンタテインメントとして再び注目を集めるようになった。それらが、「シン・ゴジラ」を生み出す原動力になったことは確かだろう。怪獣といえば、映画のゴジラに対し、もう一つTVでの原点となるのが円谷プロによる《ウルトラシリーズ》である。

カバー:開田裕治、後藤正行

 『多々良島ふたたび』は、2015年7月に出たアンソロジイで、円谷プロと早川書房(SFマガジン)とのコラボから生まれたものだ。収録作と著者解説は、すべて2015年に出たSFマガジンに掲載されたもの。2015年は怪獣アンソロジイが多数出た(たとえば『怪獣文藝の逆襲』)。それらの多くは、「ウルトラQ」「ウルトラマン」など《ウルトラシリーズ》に対するオマージュに基づく。本書は、その中でもオフィシャルなコラボということで、具体的な怪獣名なども含め、明確に元ネタを明らかにしている点が特長だろう。

 山本弘「多々良島ふたたび」レッドキングとウルトラマンが死闘を演じた島に観測員たちが再上陸する。北野勇作「宇宙からの贈りものたち」防災委員に任命された青年は火星のバラを荒らすナメクジの話を聞く。小林泰三「マウンテンピーナッツ」過激な環境保護団体が、ウルトラマンの怪獣退治を妨害する。三津田信三「影が来る」いつのまにか自分の分身が現われ、勝手に行動するようになる。藤崎慎吾「変身障害」ウルトラセブンが精神を病み、危機に陥っても変身できなくなる。田中啓文「怪獣ルクスビグラの足型を取った男」怪獣の足形を取る特殊な職務は、時代に合わず廃れつつあった。酉島伝法「痕の祀り」倒された怪獣を解体する任務に就く、特殊清掃会社の社員たち。

 ウルトラマン(多々良島)、ウルトラQ(ナメゴン、バルンガ)、ウルトラマンネクサス/ギンガ、ウルトラセブンなどなど、元ネタがあるといっても、大半は2次創作やパスティーシュとは少し違うものだろう。表題作「多々良島…」のみは原典の続編といっても良いが、頽廃感が漂う「宇宙からの…」、正義の立場を逆説的に問う「マウンテンピーナッツ」、ウルトラQ的な不条理感がある「影が来る」、現代の病理に犯されるセブン「変身障害」、滅びゆく職業への哀惜が感じられる「怪獣ルクスブグラ…」、独特の奇怪な会社を描く「痕の祀り」と、各作家の世界観にウルトラ怪獣(の固有名詞)をはめ込んだらどうなるかを試しているかのようだ。

カバー: 後藤正行

 なお、このうち「多々良島ふたたび」「怪獣ルクスビグラの足型を取った男」は2016年の星雲賞(国内短篇部門)を同時受賞している。

 引き続きコラボ企画の第2弾は、三島浩司『ウルトラマンデュアル』である。同書はウルトラマンの大枠を生かしながらも、設定や怪獣名などは独自のものだ。いわば別世界のウルトラマンだった。それに対し、第3弾小林泰三『ウルトラマンF』は、登場人物(早田=ハヤタ、嵐=アラシ、井出=イデ、そして富士明子=フジ・アキコ)や怪獣の名前(ゴモラ、ブルトン、ゼットン、ケムール人、メフィラス星人)も含め、オリジナルの設定をできるだけ取り入れているのが特長だ。その範囲は、《ウルトラQ》から《平成ウルトラマン》までを含む非常に広範囲なものになっている。

カバー:後藤正行

 《初代ウルトラマン》終了直後の時代、ウルトラマンは地球を去ったが、怪獣の脅威は収まることがなかった。科学特捜隊は、ウルトラマンの技術を応用したアーマーで対抗する。某国では人間の巨大化開発を進め、別の某国でも密かに兵器化を模索していた。しかし、強力な怪獣を倒すためには、不完全な兵器では力不足だ。かつて、メフィラス星人により巨大化した実績のある富士隊員の力が必要だった。

 ウルトラマンに限らず、ヒーローものや怪獣ものを小説にすると、物語に矛盾があったり科学的といえない設定が出てきたりする。しかし、50周年を迎えるウルトラマンともなると歴史的な重みがある。安易な改変をしてしまうと、いらぬ批判を招くことになる。原典はあくまで変えず、別の理屈で説明/解釈するしかない。こういう「解釈改変」は、山本弘の《MM9》などでも見られ、特撮とハードSF両者に拘るマニアックな著者らしい手法といえる。

 本書はそういう《ウルトラシリーズ》全体に対するオマージュであると同時に、初代ウルトラマン唯一の女性隊員フジ・アキコの物語となっている。コラボという背景がなければ、きわめて良くできた2次創作と言うしかない。それだけ著者のこだわりが際立っている。とはいえ、ライトなファンであっても十分に楽しめる作品に昇華できている。

(シミルボンに2016年8月27日掲載)

 小林泰三さんはこの4年後の2020年に亡くなっています。「シン・ウルトラマン」公開は2022年のこと。『ウルトラマンF』との類似性も指摘されていますが、マニアは同じように考えるという結果なのでしょう。映画についてはこちらをご参照ください

嵯峨景子+日本SF作家クラブ編『少女小説とSF』星海社

Illustlation:orie
Book Design:長崎綾(next door design)
Font Direction:紺野慎一+十三元絵里

 編者の嵯峨景子は日本SF作家クラブの会員ではないが、少女小説についての著作を複数持つ専門家だ。編者は少女小説を「少女を主たる読者層と想定して執筆された小説」と定義する。明治期の家庭小説や吉屋信子に遡る歴史があるが、本書は「少女小説の書き手によるSFへの貢献」というコンセプトを掲げ、(クラブ員とは限らない)実績豊富な作家を集めたオリジナル(書下し)・アンソロジイである。

 新井素子「この日、あたしは」ある日、あたしは枕型の幼児対応AIと再会する。そこから現在のパーソナルAIとあたしは倫理規定の変化について会話する。
 皆川ゆか「ぼくの好きな貌」双子の妹が死んだあと姉の体に異変が生じる。対照的な生き方をしてきた妹の顔が、人面瘡のように表れるのだ。
 ひかわ玲子「わたしと「わたし」」わたしは人とは違っていた。すべての子どもは二人一組なのに、自分だけが一人なのだ。それでは十歳の儀式を迎えられないという。
 若木未生「ロストグリーン」ドーム都市に住む、引きこもりの少年作曲家と編曲家。新曲すべてがヒットするコンビに鎮魂歌の依頼が来る。
 津守時生「守護するもの」家族皆殺しの中を生き残った主人公は、今では相棒と共に凶悪な宇宙犯罪者を狩る賞金稼ぎになった。
 榎木洋子「あなたのお家はどこ?」植民星で学校生活を送る少女は、親との約束を守らなかったことを咎められ、ささやかな家出を試みる。
 雪乃紗衣「一つ星」発光する奇妙な首輪を嵌められた少女は、出会った少年と共に氷が溶けない北を目指して旅を続ける。
 紅玉いづき「とりかえばやのかぐや姫」竹から生まれた美しい男は、無理難題を並べて求婚者を退ける。かぐや女帝は、その男に惹かれるようになる。
 辻村七子「或る恋人達の話」18世紀、蒸気革命が成ったフランス。恋人同士だった二人は、次々変わる法令の隙間を縫って性別を取り換えていく。

 各作品に著者紹介と解説が入り、さらに編者による概説「少女小説とSFの交点」、巻末には著者コメントもあるなど、一般読者へのサポートが充実している。作家も、始祖新井素子らベテランから中堅作家まで、およそ40年の幅で網羅されている。

 デビュー年~主な舞台(ラノベは対象読者層を細分化しているので、文庫のレーベル名=作品の傾向を表す)を記していくと、新井素子(1978年~集英社コバルト文庫)、皆川ゆか(87年~講談社X文庫ティーンズハート)、ひかわ玲子(88年~X文庫ホワイトハート)、若木未生(89年~コバルト文庫)、津守時生(90年~新書館ウィングス文庫)、榎木洋子(91年~コバルト文庫)、雪乃紗衣(2003年~角川ビーンズ文庫)、紅玉いづき(07年~メディアワークス電撃文庫)、辻村七子(14年~集英社オレンジ文庫)となる。

 スタイルは旧来型だがメッセージ性を高めた新井素子、姉妹や双子など女性ペアの苦悩を描く皆川ゆかとひかわ玲子、若木未生と津守時生も変格的なペアのお話だろう。榎木洋子と雪乃紗衣はオチがついた少女の冒険もの、紅玉いづきは逆転した竹取物語、辻村七子はスチームパンク薔薇/百合小説といえる。最後まで至ると「一般読者が読む小説」に近くなる。レーベルの規範をはみ出す変格的な作家が増えるためなのだろう。

 デビュー順の編年体で編まれており、評者も若木未生まではある程度知っていた。ただ、以降の世代は一部(辻村七子のデビュー作はSF界からも注目された)を除いてあまり読んでいない。これだけ広がったラノベの一部とはいえ、何を読むべきか目安が得られるアンソロジイは有用である。

自然災害としての怪獣たち、《モンスター・マグニチュード9》 山本弘

 シミルボン転載コラムは、訃報が報じられた山本弘さんを取り上げます。評者が初めて山本作品と出合ったのは、デビュー前の1975年のこと。「シルフィラ症候群」という短編で、第1回問題小説新人賞の最終候補作でした。受賞はしなかったものの(同賞の選考委員だった)筒井康隆さんの推しを受け、同人誌NULL No.6(1976)に掲載されました(後に『ネオ・ヌルの時代 Part3』に収録)。一読、未成年(当時)とは思えない著者のストーリーテリングに驚嘆した憶えがあります。コラムでは代表作《MM9》を取り上げています。以下本文。

 《ウルトラ・シリーズ》の歴史は半世紀を越えており、現在50代後半から60代、中年から老年世代の原点といえば、やはりこれら特撮シリーズになるだろう。《ゴジラ》《ガメラ》などの映画は年に数作だったが、誰もが家庭で見られ、週1回放映されるTVのインパクトは大きかった。

装画:開田裕治

 『MM9』は連作短編集である。ウルトラマンの科学特捜隊=科特隊ならぬ、気象庁特異生物対策部=気特対が主人公。どうして「気象庁」なのかといえば、怪獣が自然災害(地震や台風など)であるからだ。

 潜水艦を破壊した巨大な海中生物の正体、岐阜山中に出現した身長10メートルの少女、遠く地球の裏側から日本を目指して飛んでくる怪獣の目的、気特対に密着取材するテレビクルーから見た活動のありさま、瀬戸内海の孤島で目覚めようとする巨龍には9つの頭が!など5編を収録している。

 本書には、さまざまな怪獣や、マイナーなSFに対するオマージュとパロディがちりばめられている。「危険! 少女逃亡中」が、大昔に翻訳されたコットレルのSF短編のパロディだなんて、おそらく誰も気がつかないだろう。登場人物名にも、伴野英世=天本英世とか、稲本明彦=平田明彦など、特撮映画の常連俳優に対する思い入れが感じられる。極めつけは、怪獣出現の「科学的根拠」として多重人間原理(多元宇宙+人間原理から創った造語)を提唱したことだ。神話宇宙(怪獣の存在が許される)と、ビッグバン宇宙(我々の物理法則が成り立つ)とのせめぎ合いが、怪獣を自然災害として出現させるという説明で、怪獣ものの弱点だった物理的な非科学性がうまく回避されているのだ。

装画:開田裕治

 『MM9』には続編があり、長編『MM9 invasion』(2011)と、『MM9 destruction』(2013)として出版されている。2つの作品は、エピソードとしては独立しているが、物語が一連の時間軸上にあるので、この順番に読むほうが良い。

 巨大な少女の姿をした怪獣を移送するヘリが青い火球と衝突、それ以降少女には宇宙人の精神寄生体が棲みつき、少年と精神交感できるようになる。そこで少年は、異星の神話宇宙の宇宙人たちが、怪獣を連れて侵略を試みていることを知る。まず東京スカイツリーを目指し首都圏を蹂躙(invasion)、続いて怪獣の神を伴って再び襲来する(destruction)。追い詰められた少女は、かつての仲間の巫女や日本土着の怪獣たちとともに、異星の怪獣に立ち向かう。

装画:開田裕治

 ウルトラマンへのオマージュと、怪獣大決戦が描きたかった、という著者の願望そのものが長編になっている。ガメラ風、ゴジラ風、モスラ風(そのものではない)怪獣対宇宙怪獣も、夏休み・冬休み東宝・大映特撮の定番だったものだ。怪獣ものが全盛だった頃に小中学生だった世代にとっては、特に説明不要なサービス満載の作品となっている。頼りない少年と、少女の姿をした怪獣、恋人を自称する同級生、超常能力を持つ巫女など、コミック風の三角関係ネタが新味だが、(怪獣ブームから時代は下る)高橋留美子へのオマージュなのかもしれない。

(シミルボンに2017年4月13日掲載)

 このコラムは『創元SF文庫総解説』に寄せた原稿の元記事にもなっています。著者には同じ設定で書かれた『トワイライト・テールズ』もありますのでご参考に。

坂崎かおる『噓つき姫』河出書房新社

装幀:名和田耕平デザイン事務所(名和田耕平+小原果穂)
装画:はむメロン

 著者は1984年生まれ、本書が初の著作になるが、これまでに多くの受賞歴を持つ。表題作は第4回百合文芸小説コンテスト大賞作品である。他にも日本SF作家クラブの小さな小説コンテスト日本SF作家クラブ賞、第1回かぐやSFコンテスト審査員特別賞受賞作などが収められている。さらに収録作以外に広げると、第6回阿波しらさぎ文学賞受賞(後に主催者側の問題により辞退)、第28回三田文学新人賞佳作、第1回幻想と怪奇ショートショートコンテスト優秀作、第14回創元SF短編賞最終候補作などなどがある。どこでも常に高評価を得てきた。また、スピン、文學界、小説現代、『SFアンソロジー 新月/朧木果樹園の軌跡』、『乗物綺譚』(《異形コレクション》)などの文芸誌やアンソロジイに複数の作品を発表している。にもかかわらず、坂崎かおるはコンテストへの応募を止めない。その持続する執念にも注目が集まっている。おそらくどの賞も、チャンピオン(正賞受賞)がゴールなのだろう。

 ニューヨークの魔女(2023/6)19世紀末のニューヨークで魔女が見つかる。発見者はこれが金にならないかと算段を巡らせ、ある見世物を思いつく。
 ファーサイド(2021/6)
1962年、キューバ危機下のアメリカにDたちがいた。少年は下層労働に就くその1人と知り合いになる。
 リトル・アーカイブス(2022/8)若い兵士は、まるで二足歩行ロボットを庇うようにして死んだ。戦死の原因を追究する裁判の過程で見えたものとは。
 リモート(2020/7)6本足のリモートロボットで通学する少年がいた。やがて、級友たちと馴染むようになったが。
 私のつまと、私のはは(書下し)同性のパートナーと同居するデザイナーに、AR下で成長する赤ん坊の仕事が来る。本体はのっぺらぼうのロボットなのだ。
 あーちゃんはかあいそうでかあいい(2023/2)親知らずの治療のために訪れた患者は、小学校時代の同級生だった。その子には歯についての思い出がある。
 電信柱より(2021/1)電信柱を切るのは女性の仕事である。だが、地方都市に赴任した主人公は、一本の電信柱に魅せられてしまう。
 嘘つき姫(2022/3)1940年のフランス、ドイツ軍から逃れ避難する中で、親を失った二人の少女がいた。孤児院での生活には幾重にも重ねられた嘘がまとわりつく。
 日出子の爪(書下し)枯れたホウセンカの代わりに、クラスでは爪が植えられるようになる。そこから生えてきたものは。

 読者を驚かせる奇想に溢れている。といってもガジェットやアイデアが斬新、というだけの意味ではない。表題作の魔女や、D、異形のロボット、同級生の歯、電信柱、お伽噺から始まる嘘、何の変哲もない爪に至るまで、すべてが日常の中に現れた特異点あるいはブラックホールのように作用する。なぜブラックホールなのかというと、物語の中でその正体が観察できず、逆に周囲の現実を吸い込んでしまう存在だからである。SFと文藝をハイブリッドする謎になっているのは、今風の先端スタイルといえる(マシュー・ベイカーの作品を評した下記リンクを参照)。

 もう一つの特徴は、お話がハッピーに終わらない点だろう。虐げられしものの解放者は現れないし、信じていた友は不穏/不可解な行動をとる。主人公は諦観しているのかもしれないが、読者は不安を抱いたまま取り残される。その綱渡りのような絶妙のバランスが、余韻を残すテクニックになっている。

 なお、収録されていない著者のあとがき(作品の解題でもある)がこちらで読める。本書には「玄関」と「勝手口」を設けたそうだ。

死後8年、なおインパクトを残す作家 伊藤計劃

 シミルボン転載コラム、今回は比較的新しい作家を取り上げます。1930年前後生まれを第1世代とすると、伊藤計劃は第5世代になりますね。ただ、残念なことに34歳の若さで亡くなりました。下記の記事は、コラムと『屍者の帝国』レビューを併せたものです。以下本文。

 1974年生。2007年に長編『虐殺器官』でデビュー、2008年には小島秀夫によるゲームのノヴェライズである『メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット』及び『ハーモニー』を出版、翌2009年34歳で亡くなる。プロとしての活動期間はわずか2年あまり、生前に出した単行本は3作のみである。しかし、夭折の作家、闘病生活の傍ら書かれた作品、現代を映し出す特異なデビュー作、没後の星雲賞、日本SF大賞やフィリップ・K・ディック賞特別賞受賞(『ハーモニー』)など、そのインパクトは同世代作家や若手をまきこみ広範囲に及んだ。死後8年が経た今でも、余波は“伊藤計劃以後”と称され残っている。

カバー:水戸部功

 『虐殺器官』はこんな話だ。世界中でテロが蔓延している。第3世界に巻き起こった大量虐殺の連鎖は、とどまるところを知らず拡大を続けている。主人公は米国情報軍の特殊部隊に所属する。彼の任務は、虐殺行為の首謀者/各国の要人を暗殺することだ。しかし、その途上で奇妙な人物が浮かび上がる。要人の傍らには必ず一人の米国人が控えている。無害なポジションにあるように見えて、その男は複数回の襲撃を逃れ、常に紛争国に姿を現すのだ。

 この作品は第7回小松左京賞(受賞作なしで終わった)の最終候補作になった。「9.11をリニアに敷衍した悪夢の近未来社会」であり、小松左京の理念とは異なるという理由から受賞は逃したのだが、本書の完成度は内容や文章ともに初応募作とは思えないほど高かった。圧倒的な火力と情報力で、幼少兵からなる途上国の軍隊を蹂躙して任務を遂行する米兵は、まさに今の対テロ戦争そのもの。その上“虐殺器官”というネタ=表題になっていながら、読者を飽かさずに読ませるリーダビリティ、しかも曖昧な結末ではなく、SFとして納得できる解決が書かれている。

イラスト:redjuice

 『ハーモニー』は『虐殺器官』の未来を描いた続編ともいえる作品。ただし、硬質な文体で暗いテロの前線を描いた前作から一転して、本書の舞台は「福祉社会」である。

 2075年、大災禍と呼ばれる大規模な核テロの時代を経て、世界は高度な生命至上主義社会へと変貌している。国家は複数の「生府」から成り、ナノテク Watch Meにより傷病や不健康なものを一切排除していた。主人公は、未開地域で活動する世界保健機構の査察官である。だが、ある日、世界同時多発の自殺が発生、健康社会の基盤を揺るがす騒乱へとつながっていく。それは、13年前にシステムを出し抜いて自殺を図った少女たちの事件と似ていた。主人公は事件の生き残りなのだった。

 物語の最後は、ある意味グレッグ・イーガンが追及したものと似ている(このアイデア自体は、別の作家も使っている)。〈SFマガジン2009年2月号〉の著者インタビューでは、よりサイエンス寄りのイーガンに比べて、社会的インパクトに対する興味が強かったことが語られている。本書では、誰もが死なない理想社会と、肉体を改変することによる極度な均一社会の矛盾が、明快に描き出されている。もう一つのポイントは、主人公の感情が、そのまま文中にマークアップランゲージとして書き込まれていること。例えば、怒っているなど。これは、物語の結末と密接に関係する重要な伏線である。文体実験を試み、同時に仮想社会の真相をあぶり出した、きわめて野心的な作品といえるだろう。

装丁:川名潤

 伊藤計劃の著作では円城塔との合作『屍者の帝国』があるが、伊藤計劃が書いたのは冒頭のプロローグのみだ。ある種のトリビュート小説といえる。第31回日本SF大賞・特別賞、第44回星雲賞日本長編部門受賞作。

 そのプロローグは、死後〈SFマガジン2009年7月号〉に未完のまま掲載された。ここで出てくる“死者の帝国”という言葉は、前年の〈ユリイカ2008年7月号〉に掲載された、スピルバーグ映画評(『伊藤計劃記録』所収)に現れている。21世紀以降に作られたスピルバーグの映画には、彼岸から我々を支配する“死者の帝国”の存在が見えるのだという。

 19世紀末、大英帝国の医師ワトスンは諜報機関の密命を帯び、第2次アフガン戦争下の中央アジアに派遣される。この世界では、産業革命の担い手は屍者たちである。彼らは死後、無償の労働者/ある種の機械装置として働き、世界を変貌させている。またバベッジの開発した解析機関は、世界を同時通信網で結んでいる。やがてワトスンは、アフガンの奥地にある屍者の帝国の存在を知る。しかしそれは、世界を舞台とする事件の始まりに過ぎなかった。

 出てくるものすべてがフィクションに由来している。もちろん本書は小説だからフィクションなのだが、登場する物/者たちが過去のフィクションに関連しているのである。冒頭の《シャーロック・ホームズ》《007シリーズ》メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』、スチームパンク社会を鮮やかに描き出したスターリング&ギブスン『ディファレンス・エンジン』(あるいは山田正紀『エイダ』)、ドフトエフスキー『カラマーゾフの兄弟』キム・ニューマン『ドラキュラ紀元』など、無数の既作品からの引用に満ちている。伊藤計劃がプロローグで提示した暗号を解くというより、小説のなかで小説について書いた=自己言及(self-reference)したものといえる。つまり、謎をもう一段抽象化した深みへと引きずり込んだのだ。

 本書は3年間をかけて、伊藤計劃の着想を円城塔が長編化したものである。インタビュー記事を読むと、小松左京賞落選の同期で、厳密に言えば友人とまではいえない関係ながら、伊藤の構想を物語の枠組み(制約条件)に置き換え、何度もの中断を経てようやく書き上げられたとある。仕掛け的にはきわめて円城塔らしく、なおかつ波乱万丈のエンタメ小説になっている。完成までの間に伊藤計劃は国内外での評価が高まり、円城塔も芥川賞作家を得て広く名を知られるようになった。その変転も本書の中に反映されている。

カバー:水戸部功

 派生作品集として、同年代作家、若手作家による『伊藤計劃トリビュート』『伊藤計劃トリビュート2』が多彩な顔ぶれで楽しめる。それ以外にも、雑誌、同人誌、ウェブサイトなどから短編やエッセイを集めた『伊藤計劃記録』(2010)『伊藤計劃記録 第弐位相』(2011)がある。これは文庫化にあたり再編集され、短編集『The Indifference Engine』(2012)『伊藤計劃記録I』『同 Ⅱ』(2015)の3分冊になった。また、ホームページなどに載せていた映画関係の、短いながら切れ味の鋭いコメントを集めた『Running Pictures―伊藤計劃映画時評集1』『Cinematrix: 伊藤計劃映画時評集2』(2013)も出ている。

 なお映像関係では、一時製作がストップしていた村瀬修功監督『虐殺器官』が2017年2月にようやく公開された。それに併せ、2015年12月公開のなかむらたかし/マイケル・アリアス監督『ハーモニー』と、2015年10月公開の牧原亮太郎監督『屍者の帝国』が、それぞれ深夜枠でテレビ放映されている。

 この映画公開とコラボする形で、いくつかの書店で『虐殺器官』オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』ジョージ・オーウェル『動物農場』『一九八四年』を並べるディストピア小説フェアが行われたのだが、まるで呼応するかのように世界情勢は不穏さを増してきた。伊藤計劃の夢想した冥い世界は、衰えることなくいまでも拡大を続けているようだ。

(シミルボンに2017年2月9日/11日掲載)

 「伊藤計劃後」の世界はこの後しばらく続きましたが、小川哲『ゲームの王国』の登場により終わったとされます(もともとの提唱者である早川書房塩澤部長の見解ですが)。しかし、その後も世界の状況がますます伊藤計劃的になりつつあるのは、皆さんもご承知のとおりでしょう。

ジリアン・マカリスター『ロング・プレイス、ロング・タイム』小学館

Wrong Place Wrong Time,2022(梅津かおり訳)

カバーイラスト:最上さちこ
カバーデザイン:大野リサ

 著者は1985年生まれの英国作家。本書はリース・ウィザースプーンによるブッククラブに選ばれたことでベストセラーとなった話題の本である。家族を主役にしたファミリー・サスペンスドラマだが、タイムループ的な設定が重要な役割を果たす。表題の「ロング」はlongではなくwrong、運悪く(悪いことに)巻き込まれるの意だが、それと主人公の気まぐれなタイムスリップ現象を掛けているようだ。

 主人公は亡くなった父親の事務所を引き継いだ離婚専門の弁護士、夫は寡黙な自営内装業者で、高校卒業間際の一人息子がいる。ところが、深夜に帰宅した息子は、自宅の前で誰かともみ合いになり相手を刺し殺してしまう。何があったのか。凶器のナイフは息子の持ち物か、殺された男は何者か。主人公にはどちらも全く思い至らない。

 そこから、家族の隠された秘密が明らかになっていく。本のプロモーション文の範囲で書くが、事件の翌日から(一日が終わるたびに)主人公は過去に遡っていく。しかも、最近の映画(2分という極端なものまで)や小説(例えばこれ)に描かれた一定時間のループではなく、その起点が過去に数日、数週間とずれていくのだ。つまり、タイムループというよりタイムスリップなのである。詳細は読んでいただくとして、なるほど時間ものは犯行の原因・動機を探る倒叙型ミステリのプロットと相性が良い。サスペンスを高める効果も十分にある。

 過去に戻ることで、主人公は自身の生き方に疑問を抱くようになる。事務所を切り回すため、あまり家庭を顧みなかったからだ。最愛の家族だと思っていたのだが、息子にどんな友人関係があるのか、そもそも夫が何をしてきたのか(本人が話さないとはいえ)どんな出自なのかも知らない。時を隔て(自身が若かったころの)はるかな過去に隠された真相とは。

 ところで、本書には主人公とは別にもう一人の主役がいる。そのエピソードの時間が、どう本編に関わってくるのかが物語の読みどころだろう。

虚無の先に人間を見た作家 光瀬龍

 今回もシミルボン(#シミルボン)作家紹介コラムから。作家は亡くなってしまうと、一部の例外を除けば、本の入手が難しくなってしまいます。その点光瀬龍は初期作の電子化が進んでいるので、まだ読むことが可能でしょう。以下本文。

 光瀬龍は1928年生、1999年71歳で亡くなった。年齢で言えば、大正生まれの星新一・矢野徹・柴野拓美らと、1931年以降の小松左京・筒井康隆・眉村卓らとの中間になるが、そこまでを含めて日本の現代SF第1世代とされる。第2次大戦を挟んだ時代に青春、子ども時代を生きた経験はほぼ共通するし、同人誌〈宇宙塵〉(1957年創刊)や〈SFマガジン〉(1959年12月創刊)との出会いも同じ時期になる。

装丁・デザイン:中村高之

 大橋博之編『光瀬龍SF作家の曳航』(2009)によると、少年時代の光瀬の記憶は、東京空襲に始まる。東京に生まれ、私立中学に通う光瀬は、突発的な空襲で級友が亡くなって行くという理不尽な体験をする。やがて焼夷弾による大空襲後に岩手県(母親の実家)に疎開。終戦を経て3年後に東京に帰り、大学の入退学を繰り返した後、旧制最後の高校生活を送る。その後、東京教育大学(現筑波大)で生物、哲学を学び、女子高の教師となる。狂騒的な昭和20年代(1946-1955)が終わり、このままの生活に疑問を感じはじめたころ、SFと出会うことになる。

 なぜ光瀬が“東洋的無常観”(王者であれ誰であれ、すべてのものは滅び去る運命を内在している)とする考え方で宇宙ものを書き始めたのか、なぜ『ロン先生の虫眼鏡』(1976)(後に〈少年チャンピオン〉でコミック化もされた)など生物の生態にフォーカスしたエッセイを書いたのか、時代物(後述)に興味を惹かれるのか、そういった背景は光瀬の経歴の中におぼろげではあるが見ることができる。

 デビューは1962年に書いた「晴れの海一九七九年」で、この年代を冠した宇宙ものが《宇宙年代記》と呼ばれる連作になる。『墓碑銘二〇〇七年』(1963)は、著者初の短編集である。表題作の主人公は宇宙探検隊員で、他に生存者がいない任務でも彼だけが生還するため、英雄なのか卑怯者なのかと疑惑を呼ぶ。気を許せるのはペットの砂トカゲのみ。しかし木星への探査の途上で、不可解な事故が発生しカリストへの不時着を余儀なくされる。過酷で逃れようのない運命と、それを受け入れ共存する主人公という構図は《年代記》ものに共通するテーマだ。

 宇宙ものの代表的長編に、初長編でもある『たそがれに還る』(1964)がある。39世紀の太陽系全土が舞台だ。主人公は、シベリア、金星、辺境星区、冥王星と各地域の異変を調査する中で、隠されたメッセージや遺構の存在を知る。やがて、1200万年前に起こった大異変の真相が明らかになる、そんな壮大なお話だ。青の魚座(存在しない星座名)など、独特のタームを駆使して悠久の時を描いたもので、著者の世界観を余すことなく伝えてくれる。

カバー:萩尾望都

 引き続き書かれた『百億の昼と千億の夜』(1967)では、さらにスケールが広がる。プラトンが滅びゆくアトランティスで見た光景に始まり、シッダールタ(仏陀)、ナザレのイエス(キリスト)、阿修羅王という象徴的な主人公たちが、未来のトーキョーや銀河を超えて絶対者と闘うという作品だ。今でも日本SFの代表作に数えられている。宇宙ものの虚無感と、著者の哲学や宗教に対する考え方とが結びついた比類のない傑作といえる。後に萩尾望都がコミック化している。

 宇宙ものを書くのと同時期に、光瀬龍はジュヴナイルSFを書いた。これは、もともと〈中一時代〉などの学年雑誌に掲載されたものが多い。少年が江戸時代にタイムスリップする『夕ばえ作戦』(1967)は、後にNHK少年ドラマシリーズでTVドラマ化され人気を呼んだ。他にも、学園ミステリー『明日への追跡』(1974)など10作あまりがある。

デザイン:岩剛重力+WONDER WORKZ。

 著者の死後にまとめられた『多聞寺討伐』(2009)は、短編集『多聞寺討伐』(1974)『歌麿さま参る』(1976)などから抜粋された時代SF短編の傑作選である。初期の宇宙SFを書いたあと、著者の興味は時代・歴史ものに移る。本書に収録された作品は、後年の本格的な時代小説とは異なり、SF味を色濃く残している点が特徴である。表題作「多聞寺討伐」は多聞寺周辺の村で、死体が自分の首を持って歩くという奇怪な事件が発生する顛末。「歌麿さま参る」は、東京の美術商に希少な刀剣や浮世絵が次々と持ち込まれるが、売り手の正体をさぐるうちに歌麿の正体が見えてくるお話。捕り物帳のSF的解釈というスタイルを創出したのは光瀬龍である。登場人物が生き生きと活躍するさまが印象に残る作品だ。

 SFと歴史をからめた長編には、徳川家光の時代に与力と隠密が暗闘する『寛永無明剣』(1969)、日露戦争を扱った『所は何処、水師営』(1983)や太平洋戦争で日本が優勢になった世界を描く『紐育(ニューヨーク)、宜候』(1984)などがある。どの作品も、歴史改変とタイムパトロールが絡む話になっている。

 この後、著者の興味は本格的な歴史小説に向かい、『平家物語』(1988)『宮本武蔵血戦録』(1992)、遺作となった『異本西遊記』(1999)などを書いている。虚無的な宇宙SFでスタートした関係で、作品に対する先入観を持たれてしまった光瀬だが、一方で人間に対する強い興味が背後にあることを見逃してはいけない。晩年の時代小説は、その雰囲気を良く伝えているといえるだろう。

(シミルボンに2017年3月1日掲載)

 このコラム掲載後に、評伝となる立川ゆかり『夢をのみ 日本SFの金字塔・光瀬龍』が出ています。著者の人となりを知るには好適でしょう。また2018年には初期の宇宙SF短篇を集めた日下三蔵編『日本SF傑作選5 光瀬龍 スペースマン/東キャナル文書』も。

スタニスワフ・レム『捜査・浴槽で発見された手記』国書刊行会

Śledztwo/Pamiętnik znaleziony w wannie,1959/1961(久山宏一/芝田文乃訳)

装訂:水戸部功

 新訳となったレムの2長編である。『捜査』は初訳が1978年(深見弾訳)、『浴槽で発見された手記』は1980年(深見弾訳、邦題『浴槽で発見された日記』)/1983年(村手義治訳)以来なので、ほぼ半世紀を経たことになる。当時も、解釈を巡ってさまざまな議論を巻き起こした。どちらかといえば「なぜレムがこれを書いたのか不明」とする戸惑いが多かったように思う。今回はポーランド語専門家による翻訳(過去はロシア語を主とする翻訳者)で、新たに読み取れるものも多いだろう。

捜査:ロンドン周辺の遺体安置所で奇妙な事件が起こる。一晩のうちに遺体が動いているというのだ。うつ伏せになっていたり、棺から出ていたり、さらに遺体消失が頻発するようになる。しかも、安置所の警備を担当していた巡査が、飛び出し事故で重傷を負うという事件までが発生する。

 主人公の警部補は事件を詳細に追っていく。ある科学者は特定のデータを地図にプロットすることで、統計的に次の事件を予測しようとする。警部補は科学者に疑いをかけ証拠を集めるが、かえって謎は深まる。一方、主任警部は曖昧な状況証拠を並べ、真犯人を決めつける。……あらかじめ書いておくと、この作品はミステリではないので「真犯人」は見つからない。

浴槽で発見された手記:まず「まえがき」がある。ロッキー山脈にあった3000年前の廃墟の浴室で手記が見つかった。大崩壊によりセルロースが失われ、電子化以前の文字はすべて失われたため、奇跡的な記録なのだ。しかし、その中に書かれていたのは……。

 評者は『浴槽で発見された手記』の1983年版に解説を寄せている。何しろ40年前のものなので最新の知見は盛り込まれていないが、当時の読み方を反映するものとして抜粋(一部修正)してみる。

 本書『浴槽で発見された手記』は、1961年に出版されています。レムは、その創作法から考えてとても多作になるとは思えない作家です。あるインタビューで、200ページの本を書くのに、4~5000ページ分のタイプを叩くのだ、といっているぐらいです。何度も推敲し書き直すからでしょう。それなのに、61年には3冊の長篇が出ています。レムの活力の顕れであると同時に、何か共通点があるんじゃないか、とも考えられます。

 その1冊目は、代表作でもある『ソラリスの陽のもとに』、2冊目が『星からの帰還』です。この2長篇は、生きている海を描いていたり、未来の地球を描いていたりするわけですが、 どちらも明白なストーリーを持っている作品です。ストーリー性の稀薄な本書とは、ずいぶん対照的でしょう。ただ、それでも、一連のレム作品の持つ特質が、三者に共通していることも、否めない点があります。

 例えば、謎の追求と解明という一点、『星からの帰還』の冒頭で繰り広げられる、あの異様な描写を思い出して下さい。はるかな未来に帰還した宇宙船の乗員たち。ウラシマ効果で、彼らの知っていた地球とは全く様相が変わっています。我々が現在の都会を見て、あれはビルだあれは自動車だと見分けられるのは、その存在が何かを教えられ認識しているからです。もし、 隔絶した未来に突然投げ出されでもしたら、どんな形のものがあるのか、どう動いているのかさえ理解できないでしょう。そして、市民感情すら昔と違っているとしたら……。帰還した宇宙飛行士たちが捜し出す『謎』とは、人々を駆り立てたはずの情熱、消え去ってしまった宇宙 への夢の追求でもあったのです。一体、自分たちは何のために存在するのか――その問いかけは、本書の中にも窺えます。

 『ソラリス――』に至ると、その謎は海の姿をとってあらわれます。科学的な正体の究明(ソラリス学)と、人間の精神を写し出す鏡としての存在の二点から海の謎は追求されていきます。しかし、無数のアプローチが示されながら、その実、一つの真実も浮かび上がってきませ ん。答えがない、つまり本書と同じ迷路の世界が広がっているのです。

 『浴槽――』には、一貫したストーリーがありません。ところがこの手記が 、紙のあった時代から残された貴重な文献である云々という、奇妙な「まえがき」が付けられています。「まえがき」はそこだけ読むと、以下の本編がまるで風刺SFであるかのように感じさせます。しかし、本文はどう考えても、「まえがき」の雰囲気と乖離した印象を残します。本文では、およそ風刺を超越したグロテスクな世界が描かれています。

 指令書を捜しに出かけた主人公は、総司令官から秘密指令を受けます。ところが、その任務の内容がまず分かりません。主人公は、必死で中味を探ろうとします。探索の途上には、棺の安置された礼拝堂があり、暗号解読室があり、埃にまみれた図書室があります。提督の部屋も、 病棟もあります。しかし、何も解明されません。どこにでもスパイが潜んでいるようです。あらゆる文書が、暗号で書かれているようです。シェークスピアの小説さえ実は暗号だった? これだけ雑多なさまざまなレベルの「謎」を提示したものは、他の多くのレムの作品を通してみても本書しかありません。一冊の本全てが、暗号で書かれているかのようです。

 レムはいわゆる「象徴」や「暗喻」を嫌います。嫌うとまで書くと、断定のしすぎになるのかもしれません。ただ、ロブ=グリエやジョイスらを評価しながらも、それらの手法は、自分とは別の立場にあるものだと述べているのです。アメリカの研究家フェイダーマンが、あるインタビューの中で「完全な真空』(1971)を取り上げ、架空の本の書評集はヌーヴォーロマン的な手法ではないか、と問いかけますがレムは明確に答えません。ファウンデーシ ョン誌のインタビューでも、『砂漠の惑星』(1964)のラスト近くにある、人間の形をした影がサイバネティクスの虫たちの雲に浮かぶシーンを指して、あれは何を象徴するのかという質問に、単なるブロッケン現象で意味はないと素気なく答えたりします。

 つまり、レム自身、そのような批評的な書き方をしていないのです。けれども、 ニュー・フィクションや、ヌーヴォーロマンの手法に対して理解がなかったわけではありませ ん。1970年に出た「SFと未来学」の中に「メタファンタジア――SFの可能性」という小論が収められています。標題から分かるように、この中では、文学のいわゆるメタ視点が言及されます。もちろん、ヌーヴォーロマンもその立場で触れられています。

 ちょっと話が脱線しました。本書には、正しい答えなんてないのだ、全てが暗号なのだ。そんな話の途中でした。なぜ答えがないのか、作者に答えが分からないはずもないだろう――いや、推理小説ではないのです。犯人が何かさえ、誰にも(作者にも)分かりません。 例えば、本書の2年前に出た『捜査』は、作者自身答えを設定せず書き進めていったそうですし、レムの(当時の)書き方としてはそれほどめずらしいものではないのでしょう。(対照的に15年後の『枯草熟』(1976)は答えを持った書かれ方をしています)。

 本書は、一種の実験の上で書かれた雰囲気があります。何の実験か――ユーモアとスラップス ティック、そしてまた風刺のようでも、象徴のようでもある。おそらく、そのどれもが正しくてどこか間違っているのでしょう。小説は決して一通りではなく、 どれも機通りかの読み方ができるものです。それは時代と共に移り変わっていく場合もありますし、人によって違うこともあるでしょう。レムの作品には、そういう無数の視点が可能な、幅広さが内在されています。

 まずレムは本書で無数の実験とバロディ、アイデアの検証をしたように思えます。タイトルがボーの「曇のなかの手記」のパロディですし、「まえがき」は冗談めかしています。ちょっと無理な比較かもしれませんが、筒井康隆『脱走と追跡のサンバ』に相当する作品だという気もするのです。各章にばらまかれたアイデアは、なんともユニークで深みがあります。あらゆるものを、別の方向からひっくり返していく、SFのもっとも基本的な発想が、至るところに見られるはずなのです。そのつもりで読んでみてはどうでしょうか。

 そして、40年目の新訳には新たな指摘がある。訳者は、ヤン・ポトツキ『サラゴサ手稿』(著者はポーランド人だがフランス語で書き、その訳題が『サラゴサで発見された手稿』だった)の表題とまえがき、作品スタイルなどを本書が広く踏襲したとする。さらにカフカはもちろん、ポーランドの亡命作家ゴンブローヴィチ(『フェルディドゥルケ』や『コスモス』で知られる)を意識した不条理スパイ小説仕立てであり、ホロコーストを暗示するなど(人体の一部を展示するホールが登場する)奥が深いというのだ。これまで十分ではなかった、ポーランド文学におけるレム作品の位置づけを再検証する意義を感じさせる。

 レムは当時「答えのない」ものをどう描くか模索していたと思われる。自身の初期SF(『マゼラン雲』や『金星応答なし』)の器ではそれらを書くには十分といえなかった。ミステリ形式の『捜査』である程度の目途を立て、『ソラリス』では異質であるがゆえに理解不能の知性を、『星からの帰還』では現代からは予測不能の未来を、『浴槽で発見された手記』では不条理極まる政治をと、それぞれの形式を吟味しながら「答えのなさ」を書き分けたのだ。