村田沙耶香『世界99(上下)』集英社

装丁:名久井直子
装画:Zoe Hawk

 月刊文芸誌すばるの2020年11月号から24年6月号まで、休載を挟みながらも3年8ヶ月にわたって連載された著者最長(1500枚を超える)の大作である。もともとは既存短編「孵化」(2018)で描かれた「性格のない女性」を、とことん拡張・追求した内容を目指したものだという(ダ・ヴィンチ2025年4月号インタビュー記事)。しかし物語は半ばあたり(下巻)で様相を変え、著者の初期構想を超えた異形の世界が姿を現す。

 主人公は新興住宅街クリーン・タウンに住む少女だった。幼少の頃から空気が読め、その場その場で性格を変えられた。迎合するのではなく、無意識に周囲の感情を「トレース」し自分を分裂させるのだ。「からっぽ」だからできることだった。主人公は父の自己満足に「呼応」して高価なピョコルンを手に入れる。

 ピョコルンはガイコク(外国)の研究所で偶然生まれた人工動物で、飼い主に可愛がらなくてはいけないと強制する力を備えている。その一方で人にラロロリンDNAというものが見つかり、優れた才能があると優遇される反面、大多数の非保有者からはいわれのない差別を受ける。主人公はそういう社会で、そらちゃん、キサちゃん、そらっち、そーたん、姫、おっさんと、次々人格を変えて流されていく。しかし、ピョコルンに隠された驚くべき秘密が明らかになってから、自身の運命もまた大きく変貌するのだ。

 この物語は、まず社会のリアルを提示していく。DV(家庭内の言葉による虐待)、セクハラ・痴漢行為、男女間のあからさまな格差、ウエガイコク(欧米的なもの)とシタガイコク(それ以外)という差別、ラロロリン遺伝子保有者に対する暴力、そしてまた集団の同調圧力によるさまざまな苛めなど、今ある問題を凝縮化したもの、あるいはデフォルメといえる。

 しかし著者はそこにとどまらず、SF的な思考実験を投入する。性行為や生殖と婚姻の分離(これは初期作以来何度か描かれた)ができればどうか、哲学的ゾンビ(人間ではないのに見分けが付かないもの)とリアルな人とに違いはあるのか、個人記憶の改変と共有により人はどう変わるのか。後半は、もはやディストピアやアンチユートピアとかの分類には当てはまらないだろう。人間という存在の奥底、誰もが見たことのない(望みもしない)、異質かつ異様な世界が浮かび上がってくる。

林譲治『惑星カザンの桜』東京創元社

カバーイラスト:尾崎伊万里
カバーデザイン:岩郷重力+S.KW

 林譲治の書下ろし長編。創元SF文庫での書下ろしは初めてになる。これまで著者はハヤカワ文庫を中心に多くの宇宙ものを書き下ろしてきたが、どのシリーズ(あるいは単発もの)でも異星人(あるいはそれに相当するもの)とのファースト・コンタクトを主要なテーマとしてきた。本書も同様の流れをくむものだ。

 一万光年もの彼方にある惑星カザン、文明の兆候を認めた人類は調査チームを送り込む。しかし750名を有した専門家の一団は一切の消息を絶つ。第二次調査隊は総員を5倍近くに増やし、武装した巡洋艦を伴う2隻の体制で、万全を期して向かうことになる。第一次隊生存者の救出と、カザンに存在するであろう文明の調査のためだった。

 カザンの文明が観測の途上で沈黙したことは、残された無人探査機のデータで明らかだった。実際、惑星の表面は灰色の泥のようなもので覆われている。ところが、その中に都市のようなものや不自然な植生が発見される。さらに遭遇する異星人の姿は……。

 オビックとかオリオン集団、ガイナスなど、毎回趣向の異なる異星人を登場させる著者だが、今回はさらに非人類、非生物的な存在が出てくる。レム的なのである。人間と似ているように思えても、それは異星の存在が人を高度に模倣しているのかもしれない(ディック的でもあるのだ)。とはいえ、知性とはそういうものなのかも、とも思える。ここから人間とAIとの関係をも含む、哲学的な考察も読み取れるだろう。

 著者の作風は、論理的で理路を重んじるものだ。反面、情感に乏しいのだが、本作のタイトルのような感傷を愉しむこともできる(その意味は結末で明らかになる)。

カリベユウキ『マイ・ゴーストリー・フレンド』早川書房

装幀:坂野公一(welle design)
写真:(C)Adobe Stock

 第12回ハヤカワSFコンテストの優秀賞受賞作。この回では、カスガ(大賞)、犬怪寅日子(大賞)、カリベユウキと3人の受賞者が出たことになる。著者は1971年生まれ、10年ほど前の文学フリマ出品リストに名前が見つかるが、プロ出版はこれが初めてのようだ。最終候補に残った6人の中で、唯一の(他ジャンルを含むプロ経験のない)アマチュア作家である。

 主人公は売れない女優、紹介を受けた怪しい仕事を受けざるを得ない立場にあった。それは、都内の巨大団地にまつわる怪奇現象を追うドキュメンタリーで、スタッフがレポーターと学生バイトのカメラマンだけというチープな陣容だった。だが、用意された団地の部屋に泊まり聞き込みを始めると、奇妙な人物が次々と現れてくる。楽器で殴られた老人、激情に襲われる管理人、男を棒で叩きのめす女、望遠鏡でこちらを観察するウェイトレス、屋上で踊る女子高生たち。

 物語は都市伝説(人が消える団地)、怪談風に始まる。そこに不条理ホラー要素が加わり、伝奇小説の彩りが添えられ、最後はSFになって終幕する。背景にある「ギリシャ神話」との暗合が、徐々に明らかになっていく展開だ。どちらかといえば、下記リンクにある上條一輝や西式豊のジャンル・ミックス小説を思わせる。アガサ賞ならともかく、これまでのハヤカワSFコンテスト中ではかなりの異色作である。

 選考委員の評価(抜粋)は以下の通り。東浩紀:日常ホラーとして始まりつつ、徐々に話が大きくなり壮大な世界観につながる。(略)いささか中途半端な印象も残すが、複数ジャンルを横断しようとした意欲は評価したい。小川一水:(略)怪物が遠近にちらつき、次第に近づいてくる描写が秀逸だった。(略)神話のエピソードに則った儀式的な行動で怪異を鎮める流れが、コズミックホラーとして面白い。神林長平:現実的な導入部から、すっと異世界の存在が身近になる書き方がいい。だがラスト(略)が、ほとんど夢落ちに等しく不満だった。菅浩江:前半はホラーで描写に凄みがあります。(略)後半はアクション主体で一気に安っぽくなっています。(略)70年代の新書ノベルのように、とにかく活力で引きこまれる作品。塩澤快浩:安定感のある語りとシュアな描写が素晴らしい。(略)小泉八雲まわりのプロットが弱い点だけが惜しかった。

 さて、本作品はSFに収束する。ただ、述べられる理屈は科学的というより(コズミックホラーという評言もあったが)オカルトに近いものだろう。これはこれで面白みがあるものの、最近のSFではあまり見かけない大胆なスタイルと言える。

マンガ 森泉岳士/原作 スタニスワフ・レム『ソラリス(上下)』早川書房

SOLARIS,1961(森泉岳士 マンガ、スタニスワフ・レム 原作、沼野充義 監修)

扉デザイン:鈴木成一デザイン室

 森泉岳士によってハヤコミに連載され(現在、冒頭の3話までは無料で読める)、ハヤカワコミックスから刊行されたマンが版『ソラリス』である。底本はハヤカワ文庫SFに入っている同題のポーランド語版による。

 惑星ソラリスにある観測ステーションに心理学者のケルヴィンが到着する。しかし、内部は装備が散乱する状態で、先任の科学者たちは姿を見せない。ここでは一体何が起こっているのか。やがて、ケルヴィンの前に一人の女性が現れる。それは19歳で自殺したかつての恋人ハリーだった(この物語の詳細については下記コラムを参照)。

 原著発表から64年、初翻訳(ロシア語からの重訳)が出てから60年を経て、いまだにオールタイムベストの1位に選ばれる傑作である。タルコフスキーによる映像化も有名で(その解釈についてレムは不満だったようだが)これを越えるのは困難と思われてきた。森泉岳士は、ビジュアルを意識しないレムの描写を絵にするには、漫画家なりの読解力が必要だとインタビューで述べている。丁寧な読み込みの結果、ソラリスの海で起こる現象が、オリジナルの絵として細密に表現された。映画では表面的な「ソラリス学」の部分も省略されておらず、この出来ならレムも納得するだろう。

 一番印象に残ったのは、「残酷な奇跡の時代はまだ過ぎ去ったわけではない」という巻末の有名なフレーズが、本書では違った意味に感じられたことだ。小説版の持つ「人類の叡智」のようなニュアンスが薄れ、もっと個人の感性に近い感慨のように読めた。

犬怪寅日子『羊式型人間模擬機』早川書房

装画:金井香凛
装幀:田中久子

 ダブル受賞だった第12回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作の2作目。犬怪寅日子は、コミカライズされた『ガールズ・アット・ジ・エッジ』の原作者でもある。カクヨムで小説発表をしているが、本書がデビュー作となる。

 主人公はユウ、ゆー、Uなどと呼ばれている。屋敷に住む一族に代々仕え、家事や雑用を一切切り盛りする不可欠の存在だった。中でも重要なのは羊に関する儀式だ。この一族では、家長が歳を取ると、ある日突然羊に変態するのである。

 物語はUの一人称で語られる。Uはアンドロイドであるらしい。とても長い間仕えてきたせいか、不調の兆しが散見される。また、一族の家系図が7代目まで遡って示されている。登場人物は多く、それぞれの人物の愛憎や特徴が描かれる。ただ、深くはなくスケッチのように淡々としている。一族やUの出自は、匂わされているが明らかにはならない。

 選考委員の評価(抜粋)は以下の通り。東浩紀:力作であるのはまちがいない。しかし筆者には読むのが辛く自己満足にも思われ、最低点となった。小川一水:今回もっともオリジナリティに富んだ一本だった。(略)文体の跳ねるようなリズムが好ましく、引き込まれた。神林長平:内容や描き方がぼくの個人的な琴線に触れたので最高点をつけた。選考会の議論中も、初読時に憶えた「凄み」の印象は揺らがなかった。菅浩江:とても好みの作品でした。語り口も世界観も、幻想文学になれている人には嬉しくなるたぐいです。塩澤快浩:オリジナリティは高く評価するが、(略)イメージの強さがプロットの弱さに勝っていないと感じられた。

 もう1つの作品に批判的だった選考委員2人だが、逆に本作を強く推している。本書には現代的な問題定義やSFガジェットはない(あっても薄い)。物語はフラットで、アンドロイド執事がえんえんとしゃべり続けるだけだ。なかなか読ませるが、その語りに没入できるか冗長と感じるかで評価は分かれるだろう。

 さて、表題では「人間模擬機」とあり、ここでの人間はわれわれの知っている人間ではなく、シミュラクラ=レプリカントという機械、あるいは人間もどきだと示唆される。また英題(表紙記載)はもっと直截的で「人間羊の畜殺アンドロイド」なのだ。だとすると、本書の一族は単なる羊の変種であって、つまり食肉家畜なのである。

カスガ『コミケへの聖歌』早川書房

装画:toi8
装幀:岩郷重力+R.M

 第12回ハヤカワSFコンテストの大賞受賞作。今回は『羊式型人間模擬機』とのダブル受賞である。作者のカスガは1974年生まれ、漫画家として複数の著作がありpixivでは小説も公開しているが、本書が作家デビュー作となる。

 イリス沢は僻地にある小さな村である。文明が滅びておよそ100年が経ち、多くの技術や文化が喪われていた。村も封建社会へと退行している。しかし村に住む少女たちは、遺されたわずかな本から知識を得て、廃屋を〈部室〉と名付け〈漫画同好会〉という〈部活〉をしていた。手描きマンガを回覧し、憧れの〈コミケ〉を目指すのだ。

 2030年代に気象の大変動と世界戦争が起こり、国内は文化を全否定をする強権政府(機械の破壊と焚書を行う)と反政府勢力との内戦で無政府状態となる。東京は致死性の赤い霧に包まれた《廃京》と化した。村人はバラックに住む小作人、豪農や中間層の農民、お屋敷の庄屋的な支配層に分かれる。村の外はノブセリ(野盗)が徘徊する危険地帯だ。ポストアポカリプス後の日本は、中世の身分制社会のようになる。登場人物の少女たち4人は、この社会的格差を象徴している。アンジェラ・カーター『英雄と悪党の狭間で』のような、60年代SFをを思わせるところもある。

 選考委員の評価(抜粋)は以下の通り。東浩紀:本作に最高点をつけた。(略)類型を利用して感動的な物語を破綻なく構築できている(略)。よいエンタメを読んだ。小川一水:絶望と希望の配分の妙により、今回一番の作品だと評価した。神林長平:(この設定でコミケに向かうのは)現実逃避を越えた自殺行為であって、それを救うのは真の創作活動しかない。だが、そこは描かれない。菅浩江:全篇、創作に向き合ってほしかった。(略)肝心の創作に対する熱意やより多くの同志への憧れ、が薄まってしまったと思います。塩澤快浩:SFコンテストの過去の大賞受賞作の中でも、完成度では最高レベル。

 神林長平、菅浩江は、もっと「創作」自体をテーマとすべき、と指摘する。たしかにこの少女たちはコレクターではなくクリエイターなのだから、死を賭した〈コミケ〉遠征には創作者としての動機づけが欲しい。だが、ディストピア(現実)の重みがそれを許さなかった、という著者の描き方も間違いではないだろう。主人公たちの問題意識が(ディストピア転生した)現代人で、暗黒期生まれたと思えないところがちょっと気になったが、なぜ「聖歌」なのかを問う結末は印象に残る。

眉村卓『EXPO’87』小学館

装丁:おおうちおさむ 山田彩純(ナノナノグラフィックス)

 『EXPO`87』はSFマガジンの1967年8月号から68年1月号に連載され、同年末に《日本SFシリーズ》の1冊として単行本化、その後1973年にハヤカワ文庫、78年に角川文庫版が出た眉村卓の初期長編である。1970年の(旧)大阪万博前に書かれ、長らく絶盤状態だったが《P+D BOOKS》(オンデマンドブックに近い廉価な装丁の叢書)で復刊した。舞台を執筆時の20年後に設定し、今でいう近未来サスペンスとした作品である。同シリーズの筒井康隆『48億の妄想』がブーアスティンの疑似イベントに材を採ったディストピア小説だったのとは対照的に、シリアスな社会派群像劇となっている。

 愛知県の安城市で開催される東海道万国博は、その17年前の大阪万博とは大きく意味合いを変えた博覧会だった。貿易自由化の圧力下でアメリカ巨大資本が日本市場に進出、残りのパイを財閥や非系列が奪い合うという構図が、そのまま会場のパビリオンに反映される異例の企業博となっていた。独立系の大阪レジャー産業は、万博を独自技術の実感装置をアピールするチャンスと捉え、身の丈を越える資金投入をしていた。

 政府は財閥の出身者に牛耳られ、女性主体の家庭党が台頭し発言権を増す。世界では核保有国が数十に拡大し不安定化が進み、外資に制圧された経済はネットワーク化が進む。街では電気自動車が主流となり、電話の代わりを映話が担う。群小のタレントは淘汰され、才能あるビッグ・タレントがオピニオンリーダーとなって万博反対を叫ぶ。一方、外資に対抗する秘密兵器、産業将校たちが姿を現す。

 もしこれを予言の書というのなら、1987年段階での的中率は高くないだろう(レトロ・フューチャー的な部分もある)。現代まで敷衍すれば、アメリカ政府が会社のCEOに支配され、日本の情報インフラは外資に制圧されたので、別の形で的中したと見なせるかもしれない。しかし、本書の本質は未来を予見することにはない。最大のポイントは「産業将校」の存在である。産業将校は(肉体、知能の)実務能力を極限まで高めたスーパーエリートなのだが、『ねらわれた学園』を支配するグループとよく似ている。合理的で無駄がないからと民を意図的に操り、独裁を目指すエリートはどんな社会からでも生まれてくる。それでいいのか、と眉村卓は警鐘をならすのだ。

十三不塔『ラブ・アセンション』早川書房

カバーイラスト:シライシユウコ
カバーデザイン:伸童舎

 2020年の第8回ハヤカワSFコンテストで、竹田人造と共に優秀賞を受賞した十三不塔の書下ろし長編。竹田人造は2年前に受賞第1作を書き下ろしているので、これで両者とも並んだ形になる。受賞作ではキャラの造形に関する指摘があったのだが、それに応えたのか、本書ではキャラ主体の作品を仕上げてきた。

 軌道エレベーターを舞台とする配信番組、恋愛リアリティショー「ラブ・アセンション」が開催される。1人の男=クエーサーに対して12人の女性が自己アピールで競い合い、エレベーターの階層を上がるたびに脱落者が決まるというルールだ。女たちには特異なスキルがあり、それに劣らぬ個別の動機がある。さらにクエーサーには隠された過去が、またスタッフにも表に出せない思惑がある。しかも、正体不明の地球外生命まで関係しているらしい。

 各登場人物の独白やインタビュー、放送を意識した女たちの小競り合いや、裏方のスタッフ同士の軋轢などで物語は波乱含みで進む。地球外生命は、ミステリ要素を高める小道具として扱われる。この設定で書くのだからラブコメに違いない、と思い込むと意表を突かれる。

 リアリティショーは台本なしなので本物に見えても、実際は演出のある虚構(フィクション)にすぎない。それは出演者も視聴者も分かっている(が、あえて種明かしはされない)。本書の場合は、この作品自体が最初から最後までリアリティショーというのが特徴だろう。もちろん小説なのだから虚構は当然なのだが、登場人物(出演者だけでなく制作側まで)の心理描写やセリフ回しも、小説中に置かれたショーの一部のようになっている。ここまではショー=偽物、ここからはリアル=本物(配信番組の外)といった境界があいまいなのだ。不思議な印象を残す作品である。

市川春子『宝石の国(全13巻)』講談社

装丁:市川春子

 『宝石の国』は、月刊アフタヌーン誌の2012年12月号から2024年6月号まで、途中休載を挟みながらも12年間108話分連載された長大な作品である(単行本は2013年~24年)。2017年にはアニメ化がされ、本編完結後には第45回日本SF大賞最終候補作に選ばれている。少女戦士ものの学園ファンタジイに見えたお話が、最後には壮大なポストヒューマンSFとなっていく過程は他に類を見ない。硬質で乾いた地上や、曲面を多用する水中、ぬめぬめとした月世界の描写などはバンド・デシネの細密画を連想する。

 何の取り柄もなさそうな主人公フォスフォフィライトは、夜を担当し毒を分泌するシンシャやダイヤモンド属らと交流するが、襲来する「月人(つきじん)」が残した巨大なカタツムリに飲まれて、海中でその生き物の正体知り、海から帰還するも手足を喪う。
【以下はコンデンスされた要約(AIは使っていません)】
 月から次々と分裂する奇妙な生き物が来る。「先生」は何か知っているようだ。他の宝石たちと交わる中でフォスは成長するも、傷つき修復されるたびに人格が混ざり合い性格が変わっていく。「先生」には禁忌があり肝心のことを説明しない。月には内部からせり上がる金属で作られた都市がある。フォスは月人がどういうものかを知り、仲間の再生のために決断を迫られる。しかし、そうするには「先生」を自分に従わせる必要があるのだ。

 「先生」と呼ばれる僧侶姿の金剛と、28人の宝石である「生徒」たちは、草原のただ中にある「学校」に住んでいる。彼らは上半身が少年、下半身が少女の姿をしているが、性別はなく有機生命ですらない。硬度がさまざまな文字通りの無機物=宝石なのだ。硬さの反面砕けやすいが、つなぎ合わせることで元に戻せ、何万年も生きられる。地上には彼らしかいない。かつて人間だったものは、魂(月)と骨(宝石)と肉(海中)に分かれ別々に生きるようになった。しかし、フォスの登場でその関係は不安定になる。

 物語は終盤近くになって凄惨さを増し大きく流転する。(詳細は読んでいただくとして)第12巻では、人類が滅びた後なぜ彼らが分離し、何を目的に生存してきたのか、世界の秘密と始まりが明らかになる。宝石たちの物語はそこで終わっている。2年後に出た最終の13巻は、これまでとは一変する。神と(人形を有しない)無機物たちの黙示録めいた会話(といっても、形而上の難しいものではない)だけで成り立っているからだ。つまり、現世を超越したステープルドン的な神話となって終わる。

藤井太洋『まるで渡り鳥のように』東京創元社

Cover Photo COMPLEX:L.O.S.164
Cover Design:岩郷重力+R.F

 藤井太洋の『公正的戦闘規範』(2017)、『ハロー・ワールド』(2018)に続く第3短編集になる。著者は多くの中短編を書いているのだが(発表先が多岐にわたるためか)なかなか単行本としてまとまらなかった。今回収録の作品も、中国のオンラインイベントや米韓のアンソロジイ、電子書籍の書下ろしなど、日本の文芸作家がほとんどオファーされない(つながる人脈がない)媒体が多く、著者の活動の幅広さを再認識できる。

 ヴァンテアン(2015)バイオハックを得意とするMIT仕込みの技術者は、3Dプリントスタジオで奇妙なサラダコンピュータを開発する。
 従卒トム(2015)南北戦争のあと、屍兵技師のトムは、西郷隆盛の倒幕軍に雇われ遠く太平洋を渡る。だが、江戸湾要塞攻めを準備中の屍兵部隊に予期せぬ敵が現れる。
 おうむの夢と操り人形(2018)東京オリンピックが終わり、廃棄されたロボットの再利用方法を考えていたITと企業サポートの専門家は、意外な組み合わせを思いつく。
 まるで渡り鳥のように(2020)*22世紀、直径85キロもある中国の宇宙島で、主人公は春節帰省する宇宙船の群れを見ながら渡り鳥の研究を続ける。
 晴れあがる銀河(2020)帝国が成立し次第に窮屈になる日常の中、新たな銀河航路図を作成しようとする主人公たちの苦悩(『銀河英雄伝説』のトリビュート作品)。
 距離の嘘(2020)苛烈型の麻疹が、カザフスタン共和国にある難民キャンプで流行している。主人公は支援のため70万人が住むキャンプに赴いた。
 羽を震わせて言おう、ハロー!(2021)*2034年、種子島から離昇した系外惑星探査機はロス128bを目指して恒星間を飛行する。250年後、呼びかける声が聞こえた。
 海を流れる川の先(2021)奄美大島に薩摩の大船団が侵攻する中、阻止のため漕ぎ出そうとする1人の青年の丸木舟に、薩摩の僧と称する男が同乘しようとする。
 落下の果てに(2022)*木星有人観測船を重大事故から救った作業員が治療を受けている。しかし、男は意識があるものの呼びかけに一切反応しない。
 読書家アリス(2023)SF専門雑誌の編集者はAIツールを使って作品を捜す。人間が書いたものを選び出せるのは〈読書家アリス〉だけだった。
 祖母の龍(2024)*軌道作業ステーションで、Xクラスの太陽フレア発生の警報が出る。緊急に作業員覚醒が行われるが、そこで出会ったのは。
*:オンラインイベント科幻春晩に書下ろされたもの

 本書の帯には「技術は人類(われら)を自由にする」とある。つまり、宮内悠介と同じくテクノロジー小説といえるが、受け取る印象はずいぶん違う。同じようにスタートアップ起業家を描いても、宮内の作品はどこか悲哀を感じさせ、対照的に藤井作品では、悲劇であってもまだこれからという高揚感が漂う。AIによる編集者や作家の変貌を描く「読書家アリス」などはその典型だろう。作家業を脅かす生成AI、LLMも(それがよりよいものを産み出すのなら)忌避するのではなく使いこなすべし、と説く。

 「従卒トム」の登場人物(サムライ)はちょっと出来過ぎながら、この組み合わせの巧さには感心する。「距離の嘘」も難民キャンプをまったく異なるものに見せてくれる。「ヴァンテアン」を含めて、現代的な切口のアイデア小説群だろう。

 科幻春晩に掲載された4つの短編は、どれも著者としては珍しい宇宙ものだ。宇宙ステーション、孤独な恒星間宇宙機、太陽フレアが吹きすさぶ宇宙空間、最後の「祖母の龍」などはフレアを龍に見立てたダイナミックな作品である。ショートフィルム(「オービタル・クリスマス」のような)に誰かしてくれないかと思わせる、とてもビジュアルな一編だ。