人間六度『烙印の名はヒト』早川書房

デザイン:有馬トモユキ(TATSDESIGN)
イラスト:まるい

 著者は第9回ハヤカワSFコンテストの大賞受賞と、第28回電撃小説大賞を同時受賞して以来、メディアワークス(KADOKAWA)などで楽曲のノベライズやコミック原作ものを書いてきた。また、昨年10月には、小説すばる掲載作を集めた短編集『推しはまだ生きているか』を集英社から一般読者向けに出して注目を集めた。本作はサイバーパンク+AIをテーマとする、オリジナル作品としては初の長編単行本である。

 2075年、主人公はケアハウスに勤める介護肢(ケアボット)と呼ばれるウェイツ(重い装備のロボット)だった。施設にはネオスラヴとの戦争で傷ついた兵士らが収容されている。武器と一体化した彼らは、暴走すると危険なのでケアボットが不可欠なのだ。その患者の一人、老齢の博士と主人公が絡む不可能犯罪の発生が大事件の始まりだった。

 ウェイツは独占企業ヨルゼンによって生産されている。老科学者は会社と繋がりがあるらしい。事件後、ウェイツに人権を与えよと叫ぶウェイツ主義者と、テロによる排斥を図る反擁護派ラダイトとが衝突する。登場人物は多く、片腕だけを武器化した傭兵、思いを寄せる同僚の介護肢、拳闘肢、秘書肢、改造人間ヨコヅナ、VTuberのような配信者などが入り乱れる。心象庭園(マインドパレス)とか、体の王国(フィジック・モナキー)とかの独特の用語も飛び交い、最後は月にまで舞台を広げ一大カタストロフという展開になる。

 物語としてはラノベのスタイルだろう。50年後の近未来が舞台でも、今現在の社会や政治を敷衍するリアルさを追求するのではなく、物語独自の規範・倫理観を重視しているように思える。ウェイツ=ロボットが人であるかどうかより、むしろこの世界のヒトがモンスターに見えてくるのが面白い。

赤野工作『遊戯と臨界 赤野工作ゲームSF傑作選』東京創元社

Illustration:飯田研人
Cover Design:森敬太(合同会社飛ぶ教室)

 架空ゲーム評の本『ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム』(2017)で知られる著者の最初の短編集である。副題にあるとおり、すべての作品が何らかのゲームにまつわるお話であるのが特徴だろう。全11編中6編はWebカクヨムで公開(現在は読めない)、4編が紙魚の手帖などの雑誌やNOVA掲載作、書下ろしが1編となっている。

 それはそれ、これはこれ(2021)ゲームの返金を求めるカスタマーがサービスと会話をする。しかし返ってくる質問はどこか的外れで、そんなことを訊く理由が読めない。
 お前のこったからどうせそんなこったろうと思ったよ(2018)フレーム単位で対戦相手を見切るゲーマーが、即時性の望めない月在住のライバルとあえて勝負をする。
「癪に障る」とはよく言ったもので(2022)海底ケーブル保守会社の入社式で、話し下手な幹部が語る会社発展の契機ともなったゲームソフトの特性とは。
 邪魔にもならない(2018)古典的なゲームのスペランカーをクリアするRTA(リアル・タイム・アタック)は、6分以内がタイムリミットだった。
 全国高校eスポーツ連合謝罪会見全文(2021)eスポーツ大会で退場処分を下した審判の判定を巡って、謝罪に追い込まれた理事長の説明と質疑応答の全容。
 ミコトの拳(2021)主人公は自分がゲーム中の仮想キャラクターだと思い込んでいた。その状況を越えるためには、大岩を正拳で打ち抜かねばならない。
 ラジオアクティブ・ウィズ・ヤクザ(2022)博打打ちの男が、放射性物質の違法所持で追われている。それは前代未聞のイカサマに関わるものだった。
 これを呪いと呼ぶのなら(2024)ネット発言が原因で業界から離れていた男が、久しぶりに仕事に復帰、呪いがかかると噂される中東を舞台にしたゲームをプレイする。
 本音と、建前と、あとはご自由に(2021)VTuberの主人公が裁判で尋問されている。配信したゲームが、反政府活動に関与したと認定されているからだった。
 〝たかが〟とはなんだ〝たかが〟とは(2024)1989年、ハンガリー国境からオーストリアへ逃れようとするロシア人科学者が手土産として持ち出そうとしたものとは。
 曰く(書下し)主人公は、孤独死したゼイリブ好き先輩ゲーマーに取り憑かれる。ひたすら般若心経を唱えて鎮めようとするのだが。

 表現が一人称とは限らないものの、多くの作品が一人称的な独白(一人の視点)で綴られている。Q&A、記者会見、尋問などの形式で、会話風に状況が明らかになるものもある。これらは、社会や世間に対してメッセージを叫ぶのではなく、とにかく聞いてくれる人(理解は求めない)に蘊蓄を語りたいというゲーマーの孤独感を象徴するかのようだ。

 小説のバランス的には、過度に執拗だったり逆に説明不足なものもあって、少しばらつきを感じる。ただ、それもまたゲーマー心理を反映しているのかもしれない。主人公がしだいに狂気に蝕まれていくホラー「これを呪いと呼ぶのなら」、頭のおかしい(褒めていません)諜報員と冷めた亡命科学者の対比が面白い「〝たかが〟とはなんだ〝たかが〟とは」が特に印象に残る。

村田沙耶香『世界99(上下)』集英社

装丁:名久井直子
装画:Zoe Hawk

 月刊文芸誌すばるの2020年11月号から24年6月号まで、休載を挟みながらも3年8ヶ月にわたって連載された著者最長(1500枚を超える)の大作である。もともとは既存短編「孵化」(2018)で描かれた「性格のない女性」を、とことん拡張・追求した内容を目指したものだという(ダ・ヴィンチ2025年4月号インタビュー記事)。しかし物語は半ばあたり(下巻)で様相を変え、著者の初期構想を超えた異形の世界が姿を現す。

 主人公は新興住宅街クリーン・タウンに住む少女だった。幼少の頃から空気が読め、その場その場で性格を変えられた。迎合するのではなく、無意識に周囲の感情を「トレース」し自分を分裂させるのだ。「からっぽ」だからできることだった。主人公は父の自己満足に「呼応」して高価なピョコルンを手に入れる。

 ピョコルンはガイコク(外国)の研究所で偶然生まれた人工動物で、飼い主に可愛がらなくてはいけないと強制する力を備えている。その一方で人にラロロリンDNAというものが見つかり、優れた才能があると優遇される反面、大多数の非保有者からはいわれのない差別を受ける。主人公はそういう社会で、そらちゃん、キサちゃん、そらっち、そーたん、姫、おっさんと、次々人格を変えて流されていく。しかし、ピョコルンに隠された驚くべき秘密が明らかになってから、自身の運命もまた大きく変貌するのだ。

 この物語は、まず社会のリアルを提示していく。DV(家庭内の言葉による虐待)、セクハラ・痴漢行為、男女間のあからさまな格差、ウエガイコク(欧米的なもの)とシタガイコク(それ以外)という差別、ラロロリン遺伝子保有者に対する暴力、そしてまた集団の同調圧力によるさまざまな苛めなど、今ある問題を凝縮化したもの、あるいはデフォルメといえる。

 しかし著者はそこにとどまらず、SF的な思考実験を投入する。性行為や生殖と婚姻の分離(これは初期作以来何度か描かれた)ができればどうか、哲学的ゾンビ(人間ではないのに見分けが付かないもの)とリアルな人とに違いはあるのか、個人記憶の改変と共有により人はどう変わるのか。後半は、もはやディストピアやアンチユートピアとかの分類には当てはまらないだろう。人間という存在の奥底、誰もが見たことのない(望みもしない)、異質かつ異様な世界が浮かび上がってくる。

林譲治『惑星カザンの桜』東京創元社

カバーイラスト:尾崎伊万里
カバーデザイン:岩郷重力+S.KW

 林譲治の書下ろし長編。創元SF文庫での書下ろしは初めてになる。これまで著者はハヤカワ文庫を中心に多くの宇宙ものを書き下ろしてきたが、どのシリーズ(あるいは単発もの)でも異星人(あるいはそれに相当するもの)とのファースト・コンタクトを主要なテーマとしてきた。本書も同様の流れをくむものだ。

 一万光年もの彼方にある惑星カザン、文明の兆候を認めた人類は調査チームを送り込む。しかし750名を有した専門家の一団は一切の消息を絶つ。第二次調査隊は総員を5倍近くに増やし、武装した巡洋艦を伴う2隻の体制で、万全を期して向かうことになる。第一次隊生存者の救出と、カザンに存在するであろう文明の調査のためだった。

 カザンの文明が観測の途上で沈黙したことは、残された無人探査機のデータで明らかだった。実際、惑星の表面は灰色の泥のようなもので覆われている。ところが、その中に都市のようなものや不自然な植生が発見される。さらに遭遇する異星人の姿は……。

 オビックとかオリオン集団、ガイナスなど、毎回趣向の異なる異星人を登場させる著者だが、今回はさらに非人類、非生物的な存在が出てくる。レム的なのである。人間と似ているように思えても、それは異星の存在が人を高度に模倣しているのかもしれない(ディック的でもあるのだ)。とはいえ、知性とはそういうものなのかも、とも思える。ここから人間とAIとの関係をも含む、哲学的な考察も読み取れるだろう。

 著者の作風は、論理的で理路を重んじるものだ。反面、情感に乏しいのだが、本作のタイトルのような感傷を愉しむこともできる(その意味は結末で明らかになる)。

カリベユウキ『マイ・ゴーストリー・フレンド』早川書房

装幀:坂野公一(welle design)
写真:(C)Adobe Stock

 第12回ハヤカワSFコンテストの優秀賞受賞作。この回では、カスガ(大賞)、犬怪寅日子(大賞)、カリベユウキと3人の受賞者が出たことになる。著者は1971年生まれ、10年ほど前の文学フリマ出品リストに名前が見つかるが、プロ出版はこれが初めてのようだ。最終候補に残った6人の中で、唯一の(他ジャンルを含むプロ経験のない)アマチュア作家である。

 主人公は売れない女優、紹介を受けた怪しい仕事を受けざるを得ない立場にあった。それは、都内の巨大団地にまつわる怪奇現象を追うドキュメンタリーで、スタッフがレポーターと学生バイトのカメラマンだけというチープな陣容だった。だが、用意された団地の部屋に泊まり聞き込みを始めると、奇妙な人物が次々と現れてくる。楽器で殴られた老人、激情に襲われる管理人、男を棒で叩きのめす女、望遠鏡でこちらを観察するウェイトレス、屋上で踊る女子高生たち。

 物語は都市伝説(人が消える団地)、怪談風に始まる。そこに不条理ホラー要素が加わり、伝奇小説の彩りが添えられ、最後はSFになって終幕する。背景にある「ギリシャ神話」との暗合が、徐々に明らかになっていく展開だ。どちらかといえば、下記リンクにある上條一輝や西式豊のジャンル・ミックス小説を思わせる。アガサ賞ならともかく、これまでのハヤカワSFコンテスト中ではかなりの異色作である。

 選考委員の評価(抜粋)は以下の通り。東浩紀:日常ホラーとして始まりつつ、徐々に話が大きくなり壮大な世界観につながる。(略)いささか中途半端な印象も残すが、複数ジャンルを横断しようとした意欲は評価したい。小川一水:(略)怪物が遠近にちらつき、次第に近づいてくる描写が秀逸だった。(略)神話のエピソードに則った儀式的な行動で怪異を鎮める流れが、コズミックホラーとして面白い。神林長平:現実的な導入部から、すっと異世界の存在が身近になる書き方がいい。だがラスト(略)が、ほとんど夢落ちに等しく不満だった。菅浩江:前半はホラーで描写に凄みがあります。(略)後半はアクション主体で一気に安っぽくなっています。(略)70年代の新書ノベルのように、とにかく活力で引きこまれる作品。塩澤快浩:安定感のある語りとシュアな描写が素晴らしい。(略)小泉八雲まわりのプロットが弱い点だけが惜しかった。

 さて、本作品はSFに収束する。ただ、述べられる理屈は科学的というより(コズミックホラーという評言もあったが)オカルトに近いものだろう。これはこれで面白みがあるものの、最近のSFではあまり見かけない大胆なスタイルと言える。

マンガ 森泉岳士/原作 スタニスワフ・レム『ソラリス(上下)』早川書房

SOLARIS,1961(森泉岳士 マンガ、スタニスワフ・レム 原作、沼野充義 監修)

扉デザイン:鈴木成一デザイン室

 森泉岳士によってハヤコミに連載され(現在、冒頭の3話までは無料で読める)、ハヤカワコミックスから刊行されたマンが版『ソラリス』である。底本はハヤカワ文庫SFに入っている同題のポーランド語版による。

 惑星ソラリスにある観測ステーションに心理学者のケルヴィンが到着する。しかし、内部は装備が散乱する状態で、先任の科学者たちは姿を見せない。ここでは一体何が起こっているのか。やがて、ケルヴィンの前に一人の女性が現れる。それは19歳で自殺したかつての恋人ハリーだった(この物語の詳細については下記コラムを参照)。

 原著発表から64年、初翻訳(ロシア語からの重訳)が出てから60年を経て、いまだにオールタイムベストの1位に選ばれる傑作である。タルコフスキーによる映像化も有名で(その解釈についてレムは不満だったようだが)これを越えるのは困難と思われてきた。森泉岳士は、ビジュアルを意識しないレムの描写を絵にするには、漫画家なりの読解力が必要だとインタビューで述べている。丁寧な読み込みの結果、ソラリスの海で起こる現象が、オリジナルの絵として細密に表現された。映画では表面的な「ソラリス学」の部分も省略されておらず、この出来ならレムも納得するだろう。

 一番印象に残ったのは、「残酷な奇跡の時代はまだ過ぎ去ったわけではない」という巻末の有名なフレーズが、本書では違った意味に感じられたことだ。小説版の持つ「人類の叡智」のようなニュアンスが薄れ、もっと個人の感性に近い感慨のように読めた。

犬怪寅日子『羊式型人間模擬機』早川書房

装画:金井香凛
装幀:田中久子

 ダブル受賞だった第12回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作の2作目。犬怪寅日子は、コミカライズされた『ガールズ・アット・ジ・エッジ』の原作者でもある。カクヨムで小説発表をしているが、本書がデビュー作となる。

 主人公はユウ、ゆー、Uなどと呼ばれている。屋敷に住む一族に代々仕え、家事や雑用を一切切り盛りする不可欠の存在だった。中でも重要なのは羊に関する儀式だ。この一族では、家長が歳を取ると、ある日突然羊に変態するのである。

 物語はUの一人称で語られる。Uはアンドロイドであるらしい。とても長い間仕えてきたせいか、不調の兆しが散見される。また、一族の家系図が7代目まで遡って示されている。登場人物は多く、それぞれの人物の愛憎や特徴が描かれる。ただ、深くはなくスケッチのように淡々としている。一族やUの出自は、匂わされているが明らかにはならない。

 選考委員の評価(抜粋)は以下の通り。東浩紀:力作であるのはまちがいない。しかし筆者には読むのが辛く自己満足にも思われ、最低点となった。小川一水:今回もっともオリジナリティに富んだ一本だった。(略)文体の跳ねるようなリズムが好ましく、引き込まれた。神林長平:内容や描き方がぼくの個人的な琴線に触れたので最高点をつけた。選考会の議論中も、初読時に憶えた「凄み」の印象は揺らがなかった。菅浩江:とても好みの作品でした。語り口も世界観も、幻想文学になれている人には嬉しくなるたぐいです。塩澤快浩:オリジナリティは高く評価するが、(略)イメージの強さがプロットの弱さに勝っていないと感じられた。

 もう1つの作品に批判的だった選考委員2人だが、逆に本作を強く推している。本書には現代的な問題定義やSFガジェットはない(あっても薄い)。物語はフラットで、アンドロイド執事がえんえんとしゃべり続けるだけだ。なかなか読ませるが、その語りに没入できるか冗長と感じるかで評価は分かれるだろう。

 さて、表題では「人間模擬機」とあり、ここでの人間はわれわれの知っている人間ではなく、シミュラクラ=レプリカントという機械、あるいは人間もどきだと示唆される。また英題(表紙記載)はもっと直截的で「人間羊の畜殺アンドロイド」なのだ。だとすると、本書の一族は単なる羊の変種であって、つまり食肉家畜なのである。

カスガ『コミケへの聖歌』早川書房

装画:toi8
装幀:岩郷重力+R.M

 第12回ハヤカワSFコンテストの大賞受賞作。今回は『羊式型人間模擬機』とのダブル受賞である。作者のカスガは1974年生まれ、漫画家として複数の著作がありpixivでは小説も公開しているが、本書が作家デビュー作となる。

 イリス沢は僻地にある小さな村である。文明が滅びておよそ100年が経ち、多くの技術や文化が喪われていた。村も封建社会へと退行している。しかし村に住む少女たちは、遺されたわずかな本から知識を得て、廃屋を〈部室〉と名付け〈漫画同好会〉という〈部活〉をしていた。手描きマンガを回覧し、憧れの〈コミケ〉を目指すのだ。

 2030年代に気象の大変動と世界戦争が起こり、国内は文化を全否定をする強権政府(機械の破壊と焚書を行う)と反政府勢力との内戦で無政府状態となる。東京は致死性の赤い霧に包まれた《廃京》と化した。村人はバラックに住む小作人、豪農や中間層の農民、お屋敷の庄屋的な支配層に分かれる。村の外はノブセリ(野盗)が徘徊する危険地帯だ。ポストアポカリプス後の日本は、中世の身分制社会のようになる。登場人物の少女たち4人は、この社会的格差を象徴している。アンジェラ・カーター『英雄と悪党の狭間で』のような、60年代SFをを思わせるところもある。

 選考委員の評価(抜粋)は以下の通り。東浩紀:本作に最高点をつけた。(略)類型を利用して感動的な物語を破綻なく構築できている(略)。よいエンタメを読んだ。小川一水:絶望と希望の配分の妙により、今回一番の作品だと評価した。神林長平:(この設定でコミケに向かうのは)現実逃避を越えた自殺行為であって、それを救うのは真の創作活動しかない。だが、そこは描かれない。菅浩江:全篇、創作に向き合ってほしかった。(略)肝心の創作に対する熱意やより多くの同志への憧れ、が薄まってしまったと思います。塩澤快浩:SFコンテストの過去の大賞受賞作の中でも、完成度では最高レベル。

 神林長平、菅浩江は、もっと「創作」自体をテーマとすべき、と指摘する。たしかにこの少女たちはコレクターではなくクリエイターなのだから、死を賭した〈コミケ〉遠征には創作者としての動機づけが欲しい。だが、ディストピア(現実)の重みがそれを許さなかった、という著者の描き方も間違いではないだろう。主人公たちの問題意識が(ディストピア転生した)現代人で、暗黒期生まれたと思えないところがちょっと気になったが、なぜ「聖歌」なのかを問う結末は印象に残る。

眉村卓『EXPO’87』小学館

装丁:おおうちおさむ 山田彩純(ナノナノグラフィックス)

 『EXPO`87』はSFマガジンの1967年8月号から68年1月号に連載され、同年末に《日本SFシリーズ》の1冊として単行本化、その後1973年にハヤカワ文庫、78年に角川文庫版が出た眉村卓の初期長編である。1970年の(旧)大阪万博前に書かれ、長らく絶盤状態だったが《P+D BOOKS》(オンデマンドブックに近い廉価な装丁の叢書)で復刊した。舞台を執筆時の20年後に設定し、今でいう近未来サスペンスとした作品である。同シリーズの筒井康隆『48億の妄想』がブーアスティンの疑似イベントに材を採ったディストピア小説だったのとは対照的に、シリアスな社会派群像劇となっている。

 愛知県の安城市で開催される東海道万国博は、その17年前の大阪万博とは大きく意味合いを変えた博覧会だった。貿易自由化の圧力下でアメリカ巨大資本が日本市場に進出、残りのパイを財閥や非系列が奪い合うという構図が、そのまま会場のパビリオンに反映される異例の企業博となっていた。独立系の大阪レジャー産業は、万博を独自技術の実感装置をアピールするチャンスと捉え、身の丈を越える資金投入をしていた。

 政府は財閥の出身者に牛耳られ、女性主体の家庭党が台頭し発言権を増す。世界では核保有国が数十に拡大し不安定化が進み、外資に制圧された経済はネットワーク化が進む。街では電気自動車が主流となり、電話の代わりを映話が担う。群小のタレントは淘汰され、才能あるビッグ・タレントがオピニオンリーダーとなって万博反対を叫ぶ。一方、外資に対抗する秘密兵器、産業将校たちが姿を現す。

 もしこれを予言の書というのなら、1987年段階での的中率は高くないだろう(レトロ・フューチャー的な部分もある)。現代まで敷衍すれば、アメリカ政府が会社のCEOに支配され、日本の情報インフラは外資に制圧されたので、別の形で的中したと見なせるかもしれない。しかし、本書の本質は未来を予見することにはない。最大のポイントは「産業将校」の存在である。産業将校は(肉体、知能の)実務能力を極限まで高めたスーパーエリートなのだが、『ねらわれた学園』を支配するグループとよく似ている。合理的で無駄がないからと民を意図的に操り、独裁を目指すエリートはどんな社会からでも生まれてくる。それでいいのか、と眉村卓は警鐘をならすのだ。

十三不塔『ラブ・アセンション』早川書房

カバーイラスト:シライシユウコ
カバーデザイン:伸童舎

 2020年の第8回ハヤカワSFコンテストで、竹田人造と共に優秀賞を受賞した十三不塔の書下ろし長編。竹田人造は2年前に受賞第1作を書き下ろしているので、これで両者とも並んだ形になる。受賞作ではキャラの造形に関する指摘があったのだが、それに応えたのか、本書ではキャラ主体の作品を仕上げてきた。

 軌道エレベーターを舞台とする配信番組、恋愛リアリティショー「ラブ・アセンション」が開催される。1人の男=クエーサーに対して12人の女性が自己アピールで競い合い、エレベーターの階層を上がるたびに脱落者が決まるというルールだ。女たちには特異なスキルがあり、それに劣らぬ個別の動機がある。さらにクエーサーには隠された過去が、またスタッフにも表に出せない思惑がある。しかも、正体不明の地球外生命まで関係しているらしい。

 各登場人物の独白やインタビュー、放送を意識した女たちの小競り合いや、裏方のスタッフ同士の軋轢などで物語は波乱含みで進む。地球外生命は、ミステリ要素を高める小道具として扱われる。この設定で書くのだからラブコメに違いない、と思い込むと意表を突かれる。

 リアリティショーは台本なしなので本物に見えても、実際は演出のある虚構(フィクション)にすぎない。それは出演者も視聴者も分かっている(が、あえて種明かしはされない)。本書の場合は、この作品自体が最初から最後までリアリティショーというのが特徴だろう。もちろん小説なのだから虚構は当然なのだが、登場人物(出演者だけでなく制作側まで)の心理描写やセリフ回しも、小説中に置かれたショーの一部のようになっている。ここまではショー=偽物、ここからはリアル=本物(配信番組の外)といった境界があいまいなのだ。不思議な印象を残す作品である。