田場狩『秘伝隠岐七番歌合』ゲンロン/河野咲子『水溶性のダンス』ゲンロン

表紙:山本和幸

 2021年9月に発表された第5回ゲンロンSF新人賞受賞作(第6回は半年遅れて2023年3月発表予定)である。単行本形式の雑誌ゲンロン13(2022年10月)に掲載後、電子書籍化されたものだ。これまで存在しなかったユニークな歌合(うたあわせ)SFと、多様な解釈が可能なファンタジイの2中編になる。

 13世紀、鎌倉時代の日本。京都の自邸にいたはずの藤原定家は、なぜか日本海の只中にある隠岐で目覚める。そこで流刑になった後鳥羽院と再会、しかも歌合の判者(判定者)になるよう要望される。相手はなんと天から来た灰人(はいんど)と呼ばれる異形の者だった。灰人が和歌に注目したのには理由があった。

 新古今和歌集の選者で知られる藤原定家が、後鳥羽院(出家後の後鳥羽上皇)とグレイタイプの宇宙人が和歌を競う歌合の審判員になる。しかも、歌合ではお互いの和歌がガチに披露される。エイリアン灰人の力で幻視した宇宙の光景を織り交ぜながら、お題(テーマ)ごと7組(14首)の和歌が吟じられるのである。宇宙人はともかく、後鳥羽院の和歌を新たに創作するとはなかなかに豪胆だろう。和歌は擬古文ながら、判定の説明は現代文なので読みやすい。

 あいにく評者には和歌の素養はないので出来は分からないが、後鳥羽院が詠んだかもしれないSF和歌、という奇想はなかなか出てこない(思ったところで書けない)。旧来あったSF短歌などとはまた違った新趣向を感じさせるものではある。しかし、円城塔の推薦文(表紙帯)もまた謎。

表紙:山本和幸

 対して河野咲子『水溶性のダンス』は、寓話なのか、風刺なのか、純粋なファンタジイなのか、選考委員を惑わせた作品である。

 主人公はアトリエを開く人体師である。アトリエと言っても芸術作品を作るわけではなく、訪れる客の傷んだ体をそぎ落とし、パーツを補修するのが仕事だった。その街に住む人々は人形のようだった。骨格にはばねや歯車があり、その上に鋳型をとったパテをはめ込むのだ。服はそのパテの上に直接彫り込まれている。あるとき人体師は、一人の踊り子に魅せられてしまう。

 人形は湿気に弱く(水溶性)、時間が経つと体が劣化していく。書割のような街は、ある部分は精細に作りこまれているけれど、大半は奥行きを持たない。この世界自体もまた閉ざされているようだった。主人公は行方不明となった踊り子を捜して彷徨うようになる。

 「夢の棲む街」を思わせる雰囲気「息吹」を思わせる機械的な人々と、設定が面白い。しかし、主人公がなぜこの街を「書割」だと知っているのか(最初からそこに住んでいるのなら、書割という概念自体がないのでは)、真っ白な空白の本が当たり前の世界なのになぜ主人公は文字に執着するのか、そういった理由は明らかにされない。背後の仕掛けをもう少し説明すべきだが、意図的にあいまいさを残したためとも解釈できる。酉島伝法のように世界を膨らませていけるのなら、やがてその答えも明らかになるのだろう。

小川楽喜『標本作家』早川書房

装幀:坂野公一(welle design)
写真:(C)Adobe Stock

 第10回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作。昨年に引き続き大賞(本書)が出て、優秀賞はなく特別賞(別途刊行)が選ばれた。小川楽喜は1978年生まれ。20年近く前になるが《ソード・ワールド短編集》や、紙版のTRPGシナリオでの著作がある。受賞作は他の新人賞へ3度(改稿なく)投稿された作品で、4回目にしてようやく日の目を見たものという(ただし、本書は応募時より加筆訂正されている)。

 また、今年から選考委員に菅浩江が加わっている。ハヤカワのSFコンテストでは(過去を含めて)初の女性選考委員である。近年の日本ファンタジーノベル大賞や創元SF短編賞などと比べても、女性が選ばれ難い(応募し難い?)特異な賞だったので今後の変化を期待したい。

 80万2700年の未来、人類はすでに絶滅している。だが、その世界を支配する知生体「玲伎種(れいきしゅ)」は、〈終古の人籃(しゅうこのじんらん)〉と呼ばれる閉鎖施設の中に、過去に存在した作家たちを復活させ、不死固定化処置を施し作品を執筆させようとする。〈異才混淆(いさいこんこう)〉(作家たちによる共著)を求めるのだ。しかし、無限に近い時間がありながら、出来上がった作品は支配者を満足させるに至らない。

 〈終古の人籃〉は国や地域別に作られていて、舞台はイギリス作家を集めたカントリーハウスが中心となる。そこで〈文人十傑〉というベストメンバーが順番に紹介されていく(ここを含む第2章まで読むことができる)。ほとんどの作家には明らかなモデルがある。

 19世紀の流行作家セルモス・ワイルド(→オスカー・ワイルド)、21世紀の恋愛小説家バーバラ・バートン(→ビバリー・バートン、アメリカのロマンス小説作家)、20世紀のファンタジー小説家ラダガスト・サフィールド(→J・R・R・トールキン、サフィールドは母方の姓)、18世紀のゴシック小説家ソフィー・ウルストン(→メアリ・シェリー、母方の姓がウルストンクラフト)、20世紀のSF小説家ウィラル・スティーヴン(→オラフ・ステープルドン)、22世紀のミステリ小説家ロバート・ノーマン(→不詳、ノーマン・ベロウ? 実体なしの虚構作家として登場)、24世紀のホラー小説家エド・ブラックウッド(→アルジャノン・ブラックウッド)、28世紀の児童文学者マーティン・バンダースナッチ(→ルイス・キャロル、バンダースナッチは詩に書かれた架空の生き物)、19世紀の国民作家チャールズ・ジョン・ボズ・ディケンズ(→チャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ)、そのディケンズと途中入れ替わる20世紀の日本人作家辻島衆(→津島修治=太宰治)、31世紀以降のクレアラ・エミリー・ウッズ(→ヘレン・エミリー・ウッズ=アンナ・カヴァン)。そして、物語の語り手、狂言回しである巡稿者(作家から原稿を集める者)メアリ・カヴァンもまたアンナ・カヴァンなのだ。

 80万2700年というのは、ウェルズのタイムマシンがたどり着く遠未来である。そこでは労働者が地下に住む怪物と化し、地上の富裕層の成れの果てを食用にするのだが、本書では作家が仮想的な檻に強制収容され、上位知性の編集者から解のない小説の執筆を強いられる。そういう意味では、本書は文字通りのメタフィクション(フィクションついて書かれたフィクション、小説を書くということについて書かれた小説)であり、作家のディストピア(人によってはユートピア)小説ともいえる。

 選考委員の選評は以下のようである。

最初から最後まで、人間がなぜ小説を書くのか、何を書くのか、どう書くのかというのがこの話の主題だった。(中略)結末の美しさは他を圧していた。

小川一水

本作を推したのは、書くことの切実さとその限界というものをこの作者自身が身をもって知っていて、その思いを何としてでも書き表したいという強い意志を感じたからだ。

神林長平

『サロメ』はあまりに有名すぎるとは感じましたが、とにかくリーダビリティが高く、ずっと緊張の続く良い作品だったと思います。(中略)器用さと大胆さを兼ね備えた方だと感じ、推しました。

菅浩江

あらゆる設定と標本作家たちの個性が有機的に絡み、かつ語りに工夫を凝らしながら、壮大かつ私的なヴィジョンを紡ぎだすのには本当に感心した。

塩澤快浩(編集部)

 一方、別の見解もある。

モデルは容易に想像がつき、多くは英語圏の有名作家である。受賞作はそんな彼らの大作家としてのイメージを読み替えるのではなく、むしろステレオタイプをなぞるように展開していく。(中略)評者はその文学観に同意できないので評価は厳しくなった。

東浩紀

 この小説のベースとなった作品は多いが、中でも前半のオスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』『サロメ』と、後半のアンナ・カヴァン『アサイラム・ピース』(表題作は8つの断章から成る中編)『氷』が大きい。カヴァンは特に作家本人と酷似するウッズと、語り手カヴァンという二重の表出が印象深い。ジャンル作家(に見立てた作家)の扱いや太宰のイメージの平板さという難点は評者も感じるものの、サロメをシリアルキラーにしたり、キャロルが反出生主義を唱え、ブラックウッドが全人類を再演し、ワイルドとカヴァンとがマッチングするなどのアイデアは大胆だろう。何れにしても、既存のフィクションをパロディではなく大真面目にコラージュし、創作の意義に新たな光を投げかけた点で、特に実作者に感慨深い作品といえる。

谷口裕貴『アナベル・アノマリー』徳間書店

カバーイラスト:鈴木康士
カバーデザイン:宮村和生(SGAS DESIGN STUDIO)

 2000年に第2回日本SF新人賞(第11回まで続いた)を『ドッグファイト』で受賞した著者の、20年ぶりの連作短編集である。専門誌SF Japan(2000‐2011)に掲載した2短編と、書下ろし中短編2作(全体の3分の2を占める)からなる。徳間書店は、最終的にCCC系の連結子会社になるなど、経営的な課題もあり一時期SFから完全撤退していた。しかし、最近になって過去のコンテンツをリニューアルすると同時に、『クレインファクトリー』(三島浩司)など新作も手掛けるように変わってきた。本書はその一環である。

 獣のヴィーナス(2001)アナベルと呼ばれるサイキック少女が殺されてから15年が経った。しかし、不特定の場所でアナベルは復活し、世界を物理的に変容させる。そのつど制圧のためにジェイコブズのSixが出動する。今度の舞台はオーストラリアのダーウィンだった。
 魔女のピエタ(2003)物語は少し時代を遡り、初めてアノマリー(異常事態)による都市災禍が起こったプラハへと移る。そしてもう一人、魔女と呼ばれるサイキックの存在が明らかになる。
 姉妹のカノン(書下ろし)人の記憶を書き換えられるサイキック姉妹がいる。姉は事故で昏睡状態に陥るが、妹は反ジェイコブス運動のリーダーと接触し、過去のブエノスアイレスで起こったアノマリーを体験する。
 左腕のピルグリム(書下ろし)わずか12歳でSixを支配するほどの力を持ったサイキックは、ジェイコブズの権威を貶めながら、ロンドンから始まって世界各地に舞台を変えてアナベルとの戦いを続ける。

 解説で伴名練が指摘する「圧倒的な情報密度、視点人物の錯綜、頻繁に変わる舞台」という本書の特徴は、見方を変えれば「説明不足、視点の混乱、印象の散漫さ」にもなる。読者に投げられないため、細心の注意を払うべき書き方でもあるのだ。

 しかし、20年前の谷口裕貴は、パワーワードを駆使してお話の破綻を乗り切った。サイキックを産み出すレンブラントプロセス、アナベル対策の組織ジェイコブス、世界文学全集に拘泥する6人のサイキックSix(今年のハヤカワSFコンテストの『標本作家』を思わせるアイデア)、邪悪な復活を呼び込むアナベル・アナロジーと、刺激的で独特の造語が頻出するのだ。説明を最小限に絞ったが故に、得体の知れない不気味さと迫力が感じられる。一方、そういう力業を改め、物語のバランスを再考したのが書下ろし部分なのだろう。登場人物の過去に焦点を当てることによりキャラへの共感を高め、章ごとに変転する視点を整理するなど、読みやすさを重視したバージョンとなっている。

柴田勝家『走馬灯のセトリは考えておいて』早川書房

カバーデザイン:早川書房デザイン室
カバーイラスト:MITSUME

 6編を収める著者の最新作品集。『アメリカン・ブッダ』に続く2年ぶり、2冊目の短編集となる。主にSFマガジンに掲載されたものだが、表題作(中編)のみ書下ろしである。

 オンライン福男(2021)コロナ禍でバーチャル空間に移った十日戎の行事は、いつしか独自の発展を遂げて伝説を作るまでになった。
 クランツマンの秘仏(2020)公開不可の絶対秘仏の正体を解明しようとするクランツマンの執念は、信じがたい奇妙な現象と関係していた。
 絶滅の作法(2022)地球の生物が絶滅した後、異星の知的生物が、再現されたコピー東京の情報移民として日常生活を営んでいる。
 火星環境下における宗教性原虫の適応と分布(2021)地球には4000種にも上る宗教性原虫が存在する。火星ではどうか、そのライフサイクルや進化史を概説していく。
 姫日記(2018)美少女ばかりの電脳戦国時代に降り立った軍師は、眼鏡っ娘の毛利元就を天下人にすべく、リセットを多用しながらも奮闘する。
 走馬灯のセトリは考えておいて(書下ろし)死者をデジタルで甦らせるライフキャスターが、余命僅かの老婆から、かつて自分が演じたバーチャルアイドルを復活させたいという依頼を受ける。

 まず「異常論文」が2作。「クランツマンの秘仏」は、三重県の秘仏に執着するスウェーデン人と、“信仰の重さ”が組み合わさるノンフィクション風。「火星環境下における宗教性原虫の適応と分布」は、火星に生息する原虫と宗教(主にキリスト教)との関係を、より論文調(生物学というより文化人類学風)に描き出す。後者はアンソロジイ『異常論文』に収録されたもの。

 他の作品もひと工夫があり、「絶滅の作法」はリアルはロボットで、中の人は情報だけの存在だし、「オンライン福男」や「姫日記」はVR(あるいはゲーム)空間で起こった事件を外から描くルポ風である。どちらも視点を1歩後ろに引いた物語(明らかにフィクションなのに、ノンフィクションを装う)なのだ。より客観的で理屈をつけやすいが、反面登場人物への共感を阻むスタイルともいえる。

 しかし、同じ題材を扱いながら、表題作は登場人物の内面に踏み込んでいる。この作品は“推し活”の物語でもある。届木ウカは、

アイドルを推すことは生身の人間を偶像化することであり、生きた人間の一側面を誇張して神格化するということは仮想的な他殺といえます。

と、宗教性すら帯びたその意味を解説する。ポジティブで明るいバーチャルアイドル(偶像化)と、人間的な苦悩を抱える中の人(人格的に殺された存在)との対比が、“引く”のではなくむしろ“押し”で描かれている。著者の新境地なのかもしれない。

 ところで、表題は走馬灯の(ように記憶が駆け巡る臨終のとき)セトリ(=セットリスト、流す曲の順番)は考えておいてほしい、という意味でしょう(意味不明との感想を散見するので)。

西式豊『そして、よみがえる世界。』早川書房

装画:大宮いお
装幀:坂野公一(welle design)

 本年の第12回アガサ・クリスティー賞で大賞を受賞した作品。毎回言っていることだが、SFでエンタメを狙うのなら間口が広いアガサ賞だろう。清水ミステリマガジン編集長の言い分にあるように、犯人捜しを含むミステリではあるのだろうが、いわゆる特殊(設定)ミステリは奇想小説やSFの一端として読めるものが多い。そういう意味で、本書がSFを謳っても違和感はない。選考委員の講評は以下の通りだった。

特に、ラストの展開が素晴らしい。(中略)仮想現実でまた戦いが始まるのだが、それが予想とは違った形になるのが秀逸。

北上次郎

ポストヒューマニズムものとしても迫力満点の一作でした。(中略)序盤に出てくる仮想空間でのバトルゲーム・シーンから引き込まれ、一気に読みました。

鴻巣友季子

導入部の説明パートはややもたつくが、中盤のホラー展開から理詰めの謎解きに転じると目から鱗のたとえ通り、手の込んだ設定がいっぺんに腑に落ちる。

法月綸太郎

「SFなのか?」と思われるかもしれないが、解かれるべき事件と謎はきちんと書かれていて、ミステリとして成立している。

清水直樹(編集部)

 2036年、仮想空間Vバースには精緻に作られた〈はじまりの街〉がある。どこかの田舎町を思わせる日常的な光景だった。そこでは夕方になると、誰とも知らない女性の歌声が聞こえてくるのだ。他にも〈アスリートゾーン〉があり、高度な反射神経を競うバトルが行われている。その競技では、テレパスと呼ばれる脳内インプラントを埋め込んだ者ほど有利になる。テレパスの多くは身体に障害を持つものだった。

 主人公は脳神経外科の優秀な医師だが、脊髄損傷による四肢麻痺によりキャリアを失う。この時代では、テレパスによるリモート手術も可能だった。しかし新たな仕事は簡単には見つからない。そんな中、かつての恩師から意外な誘いを受ける。Vバースの創業元でもある大手企業が管理する病院で、記憶と視覚を失った少女の手術を担当しないかというのだ。

 本書はかなり複雑な謎を提示している。少女はなぜ全記憶喪失となったのか、院内の限られた患者たちはどういう関係なのか、病院を運営する7人の幹部(セブン・ドワーフス)とは何者か、豊富な資金を持つ病院の目的は額面通りなのか、そして後半現れる謎の影の正体とは?

 周到な伏線が張られていて、すべて無駄なく回収されているのは大賞に選ばれた作品だけのことはある。改稿の成果もあるのだろう。本格推理で見かける「現場」の見取り図まであって、これはミステリ賞への応募を意識したためか。「テレパス」は先入観を招く呼称だが、VR/MRやBMIなどAIや脳神経科学関連の流行タームをそつなく織り込んでいる点は、いかにも今日的な近未来サスペンスといえる。個々のアイデア自体はユニークと言えないものの、重層化された組み合わせに新規性があるのだ。

川野芽生『無垢なる花たちのためのユートピア』東京創元社

装画:山田緑
装幀:柳川貴代

 6月に出た本。第65回現代歌人協会賞を受賞した川野芽生の初短編集である。年刊アンソロジイ《Genesis》掲載のもの2編を含む6つの作品を収める。著者は10月に掌編集『月面文学翻刻一例』も出している。

 無垢なる花たちのためのユートピア(2020)7人の導師と77人の少年たちを乗せた箱船が、楽園を目指して荒廃した地上から飛び立つ。
 白昼夢通信 (2019)展覧会のカタログだけを収めた図書館で偶然知り合った2人が、転々と場所を変えながら不思議な近況を伝え合う。
 人形街 (書下ろし)周りの誰もが人形と化した街で、1人だけ人間のままだった少女には身体的な理由があった。
 最果ての実り (2021)人類が滅亡したあと、体の大半を機械と置き換えた男と、植物の体を持つ少女とが湖の浅瀬で出会う。
 いつか明ける夜を (2021)世界はいつも闇の中にあった。どのような光でも、たとえ月の光であっても住人たちは恐れるのだ。
 卒業の終わり(書下ろし)外部から隔絶された学園で教育を受ける少女たちは、卒業するとそれぞれの配属先で仕事に就く。だが、その社会の仕組みには暗黙の前提があった。

 巻頭の少年たちと、巻末の少女たちにはともに花の名前が与えられている。花の名は美しいが、少年少女たちが人として扱われないことを暗示する。切り花のように鑑賞され、枯れれば棄てられる存在なのだ。「卒業の終わり」では、これを(デフォルメされてはいるが)ジェンダーギャップの問題として描き出している。

 本書の作品の多くは、(昭和初期というより末期の)耽美小説を思わせる雰囲気をまとっている。また、ほとんどはディストピア的な世界を舞台とする。現人類は変貌し、外観や機能までもが異形化した新たな人々が生きている。

 しかし、物語は人類を語るのではなく、彷徨う個人(さまざまな理由で集団に馴染めないノマドたち)に焦点を当てる。過酷な運命に晒されるが、それは酷いのではなくむしろ美しいとも解釈できる。結果的に幸運に導かれるのか、不幸を招くのかは明確にされない(「卒業の終わり」は例外的に明瞭だが)。読者それぞれが思量する余地を残したのだろう。

荻堂顕『ループ・オブ・ザ・コード』新潮社

装画:副島智也

 8月に出た本。2020年に第七回新潮ミステリー大賞を受賞した荻堂顕の受賞第1作で、近未来を舞台としたSFになっている。インタビューの中で著者は次のように述べている。

デビュー前、『擬傷の鳥はつかまらない』を書いた後、次の投稿作はSFにしようと思っていたんです。作中でも言及している、悪帝と判断された人物の彫像や公的な記録を抹消する古代ローマの刑罰をヒントに、国が抹消されるSFにしようと考えていました。

 物語の始まる20年前、地上から1つの国家が抹消される。国軍が遺伝子改変による生物兵器を用い、民族浄化をめざして大虐殺を行った国だ。国連は再発防止策として、その国の過去を一切抹消する。歴史も文化も無くし、新たな国名イグノラビムスを与え、WHOに代わり新たにできた強力な国際組織、軍事力を行使できるWEO(世界生存機構)の事務局長を統治者として送り込む。

 統治は成功し新国家は繁栄する。高層ビルが建ち並ぶ首都は、まるでニューヨークそのままだった。しかし、そこで子供たちに奇妙な病気が広がる。最終的には衰弱死を招く深刻な病だった。病因を解明するため、新たに現地調査要員の責任者が赴任する。だが、彼には隠匿された別の任務があった。

 物語は概ねこの2つの流れをリアルタイムに追う。疫学調査の流れでは、子供たちの環境を家族1人1人と対話しながら精査する。ここでは、いかにも今日的でリアルな家庭問題が暴き出される。その一方では奪われた機密をめぐる、エスピオナージュめいた黒幕捜しが繰り広げられる。

 帯の惹句で、大森望や小島秀夫らが伊藤計劃の『虐殺器官』について言及している。人々を虐殺に駆り立てる器官の存在に、伊藤計劃は絶望を投影した。対して、本書では反出生主義=生まれてくることの是非が重要なテーマになっている。「殺す」と「生きる」は対照的なようでいて裏腹の関係なので、『虐殺器官』を連想するのは自然だろう。

 著者も認めているが、本書は(初期のニール・スティーヴンスン並に)饒舌な物語になっている。端役ではと思われる人物にも深く踏み込み、背景を匂わせるだけでは収まらない。また、表題は装画にあるように「輪(ループ)になったあやとりの糸(コード)」を意味する。コードには複数の意味が重ねられている。いろいろ冗長すぎると感じる部分もあるものの、この濃さにこそ荻堂顕の特徴があると思わせる内容だ。次作はラブコメらしいが、それも恐ろしく重厚なのかも。

熊谷達也『孤立宇宙』講談社

 

 8月に出た本。「SF作家になりたかった、コンテストに応募したこともある」と語る、直木賞作家 熊谷達也による初のSF長編。青春時代のノスタルジーだけでそう言っているわけではない。気になる作家は伴名練と述べ、各パートの冒頭にジェミシン『第五の季節』レッキー『叛逆航路』の引用を付すなど、新しいSFも読むマニアックなファンなのだ。第1部(470枚)が小説現代2022年7月号に一挙掲載され、それに書下ろしの第2部を加えたものが本書となる。

 物語は23世紀の初頭から始まる。人類は各地に点在する都市型シェルターに少数が残存するのみとなっている。およそ150年前に小惑星が地球と衝突し、世界的な大災厄を招いたのだ。生き残れたものは少なかったが、その一つに別のシェルターから救援を求める者がやってくる。

 21世紀の後半にシンギュラリティが起こり、世界は高度なAIに社会の運用を委ねている。そこに小惑星衝突による地球壊滅の危機が迫る。AIはその能力を発揮して、小惑星の軌道変更、植民船による脱出、シェルターへの待避という大事業を試み、ある程度の成果を出すが、人類の大半を救えないまま終末を迎える。

 フェルミのパラドクスやフリーズドライ式冷凍睡眠など『三体』へのオマージュをはじめ、新旧SF小説、アニメ、コミック、映画などさまざまな作品が、明示的/暗示的にコラージュされている。とはいえ、パスティーシュが目的なのではなく、著者なりの本格SFを目指した作品だろう。

 シンギュラリティはもちろん、量子テレポーテーション、電脳アップロード、プラネタリーディフェンス(スペースガード)、パンスペルミア説など、おなじみのテクニカルタームが続出する。舞台も、恒星間を隔てた植民惑星と、荒廃した200年後の地球の2パートに分れる。SFに精通した作家でないと(構成要素的に)お話を維持できない規模のアイデアだ。そこは多くの賞を受賞してきたのベテラン作家(1958年生、97年デビュー)だけあって、初SFといっても物語に破綻が生じることはない。

 結果として、著者のファンが「内容的には意味不明のところだらけ」と嘆く(説明をあえて省く)ジャンルSF特有の難解さが生じてしまうわけだが、そこまでしてもトラディショナルなSFを極めたかったのだ。読めばなるほどと納得できて、とても面白い。ただ、いま本格SFを書くなら『三体』に匹敵する(マニアすら予想できない)大ネタが必要ではないか。意外性の少なさが瑕瑾になると思われる。

長谷敏司『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』早川書房

使用作品=フォード・マドックス・ブラウン
    《ペテロの足を洗うキリスト》1852ー1856
装幀:山本浩貴+h(いぬのせなか座)

 長谷敏司による『BEATLESS』以来の最新SF長編。その間《ストライクフォール》などシリーズものの出版はあったものの、本格SF長編としては10年ぶりとなる。もともと、コンテンポラリーダンスの大橋可也&ダンサーズのために書き下ろされた同題の中編(2016)がベースとなっている(このダンスカンパニーは『グラン・ヴァカンス』でも話題になった)。

 2050年代の日本、主人公はコンテンポラリーダンス界の新星で、所属するカンパニーのエースと目される存在だった。しかし、バイクの事故で右足を失ってしまう。この時代の義肢はIT化されており、装着者の負担を大きく軽減する。日常生活をこなす程度なら問題はない。だが、激しい運動を伴うダンスには十分ではなかった。そんな中で、彼はAIと人との関係性をテーマとする新しいカンパニーに誘われる。

 この物語には2つのテーマがある。1つは表題にもあるヒューマニティ(=人間性)のプロトコル(=手続き)で、舞踏における人と人(演者同士、観客と演者)とのつながりを指す。では、ロボットとならどうか。肉体を有しないAIロボットでは、本来持ちようがない感覚だが、主人公はそれを模索していく。

 もう1つは父子のつながりだ。主人公の父親はコンテンポラリーダンス界のベテランで、老齢になっても現役の舞踏家だった。ところが、ある事件から認知症を発症する。体力はあるのに記憶をすぐに無くし、日常生活をこなせなくなる。兄と父親は仲が悪く、介護は主人公が担わざるを得ない。新たな舞踏の創造と、威厳の失せた肉親の介護の両立は困難だった。

 AIの進化はめざましい。絵画から映像まで自在に創造できるまでになった。舞踏であっても、過去のパフォーマンスを学習し、人を凌駕する物理的な動きを再現するくらいなら可能だ。ただ舞台は違う。コンテンポラリーダンスでは、人間同士の対峙によってパフォーマンスは変化していく。そういう身体性は、ふつうのAIにはない。必要とされないからである。

 AIの死角を、舞踏という切り口(「距離」と「速度」)で捉える試みは面白い。そしてまた、同じ視点が「介護」に注がれる。この分野にこそ、本書が主張する人間的な関係性が必要になるのだろう。二重の意味が大きくクローズアップされる。

石川宗生 小川一水 斜線堂有紀 伴名練 宮内悠介『ifの世界線』講談社/西崎憲『本の幽霊』ナナロク

イラスト:メト
デザイン:長﨑綾(next door design)

 講談社タイガから出た「改変歴史SFアンソロジー」である。小説現代2022年4月号の特集「もしもブックス」をベースに、斜線堂有紀の中編を加えたもの。

 石川宗生「うたう蜘蛛」イタリア南部の町タラントで蜘蛛を媒介した奇病が発生する。スペイン人のナポリ総督はこれを鎮めようと手を尽くし、怪しい噂に満ちたパラケルススの力を借りることにする。
 宮内悠介「パニック――一九六五年のSNS」1965年の日本で、国産大型コンピュータを介した最先端のネット社会が実現する。カナ文字のみの簡素なネットだったが、そこで世界初の炎上事件が発生する。
 斜線堂有紀「一一六二年のlovin’life」後白河天皇の皇女である式子内親王は、御所の歌合では沈黙を保たざるを得ない。なぜなら親王は詠語に自信が持てず、和歌は詠語での朗唱が必須だからだ。
 小川一水「大江戸石廓突破仕留(おおえどいしのくるわをつきやぶりしとめる)」明暦三年、関東代官の長男と親しい小者は、江戸から西十里ほどにある玉川上水の見回りで薬売りの一行を助ける。それは大事件の先触れだった。
 伴名 練 「二〇〇〇一周目のジャンヌ」国家主義時代が終わり第六共和制が成ったフランスで、国家主義者が賛美したジャンヌ・ダルクの再検証が行われる。量子コンピュータ上でシミュレーションが実行されるのだ。否定的な結果が出るまで何千回、何万回も。

 事件/事象やキーパーソンの意志決定に干渉し、歴史の流れを変えるという旧来の意味での「改変歴史」とは、ちょっと違ったニュアンスの作品が多い。宮内悠介の発想はもともとの定義に近いが、岸信介や開高健ら、実在した人物を批評的に解釈する手段に使っている。小川一水のアイデアは壮大(なぜ江戸は石造建築ばかりなのか)で、結末の付け方も伝統的なSFスタイルに準拠する。

 一方、石川宗生、斜線堂有紀は歴史的な事件と言うより、組み合わせの奇抜さ(ナポリの音楽タランテラやタランティズムと錬金術、和歌の名手である式子内親王と英語)の上にフィクションを築くという荒技だ。そうなる理由などは示されない。

 伴名練はシミュレーションと人間の違いはあるが、「アラスカのアイヒマン」を思わせる作品である。この作品では、状況説明の中で設定の意味が明らかになり、さらに歴史的英雄の本質に踏み込むという周到な伴名練節が味わえる。

装画作品:桃山鈴子
装幀:大島依提亜

 今週はもう1冊、西崎憲の短編集を読んだ。新書版の上製本で、カバーはなく帯もミニマルという凝った造本になっている。短編1本(電子書籍で発表済)と、ショートショート4本(書下ろし)からなるコンパクトな内容。

 本の幽霊:海外から届く古書のカタログで、ぼくは長年探していた本を見つけるのだが、その本のことをマニアの友人も知らない。
 あかるい冬の窓:長いつきあいの知人は、転職を考えグラフィックデザインの勉強をしている。ところがある日、スターバックスの二階の窓にどこか見知らぬ街の風景を見る。
 ふゆのほん:詩人が主催する参加型読書会の案内を見つけた。それは街を歩きながら行うイベントのようだった。ぼくはいつもの読書サークルの友人を誘って参加する。
 砂嘴の上の図書館:大雨の後、川の砂嘴に建物が現われる。不審に思った町長はそこを訪れるが、図書館とあるのに本は見当たらない。
 縦むすびの ほどきかた:今度の読書会は京都で開かれる。東京在住でその気もなかったぼくだが、思い立って日帰り参加することを決める。
 三田さん:歌唱を教える一般講座に、三田さんが参加してくる。三田さんには歌いたい事情があったのだ。

 寓話的な「砂嘴の上の図書館」だけは三人称で、あとは一人称のぼくや、ぼくの知人友人たちの体験したこと、聞いたことのお話になっている。読書家と自分を変えたいと思っている人たちの物語である。その両方というのもあるが、どれも強迫観念とまではいえず(著者の視点のためか)柔らかくふんわりしている。思いは叶うこともあれば、叶わないこともあって、人の日常そのものでもある。

 どれも短い。1~2時間もあればすべて読んでしまえる。けれど、それではもったいなくて、この本の場合は1日1編がちょうど良い分量だと思う。ほぼ1週間は楽しめる。