サラ・ピンスカー『新しい時代への歌』竹書房

A Song for a New Day,2019(村上美雪訳)

装画:赤
デザイン:坂野公一(well design)

 著者はニューヨーク生まれのアメリカ作家。2012年にデビュー、2019年ネビュラ賞長編部門受賞作の本書が初紹介となるが、今回を含め同賞を3回受賞(ノミネーションまで含めれば9回も!)した実力派だ。インディーズレーベルで3枚のアルバムを出したシンガーソングライターでもある(ホームページでライブ映像などが視聴できる)。

 近未来のいつか、多人数の集会をねらったテロが頻発する。ライブ会場を巡るツアーの途上だったバンドは、イベント中止により発表の場が閉ざされるという厳しい現実に直面する。集会の機会が失われたのと同じころ、輪をかけるように感染症が蔓延し、移動の自由すら奪われる。人との接触はバーチャル空間主体となり、ライブもネット以外では法的に禁止される。

 物語の主人公は、ライブ活動を封じられたルースと、田舎町で人と接触する機会のないまま育ったローズマリーの2人だ。ルースは密かにライブハウスを作り、生の音楽を求める演奏家や観客たちを集めている。ローズマリーはアマゾンを思わせるオンラインストアの顧客対応係だったが、あるときネットライブの面白さに目覚め、VR音楽配信会社のミュージシャン・スカウト部門に転職する。

 最近でも『零號琴』など、音楽をテーマにしたSFは数多く書かれてきた。また、幻のロックアルバムを描いたルイス・シャイナー『グリンプス』という変わり種もある。しかし、小規模なライブハウスを舞台に、演者の立場を踏まえた作品は本書がはじめてだろう。2019年に書かれているのでパンデミック以前の作品ながら、人との接触が断たれたオンラインライブの実態など、感染症やテロが蔓延した世界で音楽業界がどうなるかを予見する内容で書かれている。

 オンライン化によるメリットは確かにあるが、著者は人と人とが密集して盛り上がるライブコンサートに意義を感じている(実体験してきたことだ)。人と触れあえてこそわかり合えるという考えだ。パンデミック下での難しさはあるものの、自身の知見に基づく見解にはそれなりの説得力がある。

R・A・ラファティ『町かどの穴 ラファティ・ベスト・コレクション1』早川書房

Best Short Stories of R.A.Lafferty,2021(牧眞司編 伊藤典夫・浅倉久志・他訳)

カバーデザイン:川名潤

 牧眞司編によるラファティ・ベスト版の第1集「アヤシイ編」(編者自ら付けた愛称)。ハヤカワSF文庫で過去に出たラファティは本書を含め5冊あるものの、20世紀既刊の3冊『九百人のお祖母さん』『どろぼう熊の惑星』『つぎの岩につづく』は新刊での入手がもはやできない。カルト的な人気はあっても、残念ながらラファティは万人の受け入れる作家ではないのだ。しかし、本書ではそういうラファティの魅力を、円やかにではなく、逆に先鋭化して再提示してみせる。

 町かどの穴(1967/72)仕事から帰ってくると、家族はなぜか自分を怪物呼ばわりして叫び出す、ゼッキョー、ゼッキョー。
 どろぼう熊の惑星(1982/93)その惑星ではあらゆるものが盗まれる。食料や資材だけでなく、人の記憶や知性までもが。
 山上の蛙(1970/72)銀河系で最も危険な狩りに挑む男の前に、猫ライオン、熊、コンドル鷲、そして岩猿またの名(翻訳しだいでは)蛙男が立ち塞がる。
 秘密の鰐について(1970/87)世界にはたくさんの秘密結社があり、裏から社会の各分野を支配している。その中でも〈鰐〉こそが最上位に君臨する結社だった。
 クロコダイルとアリゲーターよ、クレム(1967/88)優秀なセールスマンだった主人公は、ある日猛烈な空腹感と違和感に襲われる。その原因は自分自身にあった。
 世界の蝶番はうめく(1971/92)世界をぐるりとひっくり返し、裏の世界と入れ替えてしまう蝶番がある。ひとたび反転が起こると、住んでいた人々は別のものに変わってしまう。
 今年の新人(1981/81)* 能力増強剤が普及してから毎年飛び抜けた新人が生まれてくる。でも今年の新人はどこかダサかった。
 いなかった男(1967/80)* 嘘つきと評判の家畜商の男がとっておきの話を始める。存在感の薄かった男を消してみせるというのだが。
 テキサス州ソドムとゴモラ(1962/77)国勢調査員の男は人がほとんど住まない地域を担当するが、そこで数万の小さな人々を見つけ調査用紙に記入しようとする。
 夢(1962/74)その娘は、緑色の雨が降りしきる夢の世界の話をする。話を聞きつけた男は、夢の内容を執拗に聞き出そうとする。
 苺ヶ丘(1976/2015)* 外部と没交渉のまま孤立する丘の上の家に、二人の少年が肝試しに潜り込もうとする。
 カブリート(1976/2014)* 小さな居酒屋に集う7人の男たちと、カブリート(仔山羊肉のロースト)を売る女主人が話すおかしな話。(1957年に書かれ保留されていた初期作)。
 その町の名は?(1964/79)辞書の単語と単語のすき間、人々の記憶のすき間に、この世から失われたある町の名前が潜んでいる。《不純粋科学研究所》の1編。
 われらかくシャルルマーニュを悩ませり(1967/79)過去改変を試みる大実験の成果は、しかし実証が困難なものばかり。《不純粋科学研究所》 の1編。
 他人の目(1960/79)今度の大発明は大脳走査機である。他人の脳と自分の脳を同期させることができるのだ。《不純粋科学研究所》 の1編。
 その曲しか吹けない(1980/2014)* 友人たちとを比べると、主人公の能力は劣っていたのだが巧妙さでは勝っていた。その性質が、やがて恐ろしい運命を呼ぶ。
 完全無欠な貴橄欖石(1970/72)リビア海岸を「北」に見ながら太洋を進む帆船は、澄み切った海水の中に得体の知れないジャングルの存在を感じ取る。
 〈偉大な日〉明ける(1975/2017)* 偉大な日がやってくる、それも今日にだ。時計からは分針が取り除かれ、飲み物のコップすらなくてもよくなる。
 つぎの岩につづく(1970/72)石灰岩の台地を発掘する考古学チームは、燧石に彫られたラブレターらしきものを発見するのだが。
 (原著発表年/初翻訳)*…短編集初収録(雑誌、アンソロジイ収録作)

 基本的には入手困難な3短編集からの13作品と、これまで短編集には収録されていなかったレアな6編からなるオリジナル作品集である。

 あらためてラファティの作品を19編立て続けに読んでみると、その抽象度の高さに驚かされる。「町かどの穴」からは、自分が非人間だとは思っていない怪物が現われ、むさぼり食われる妻はセリフを棒読みするように無感動に叫ぶのみ。「完全無欠の貴橄欖石」では、非実在の海を帆走する船が実在の(ような)アフリカに浸食される。「つぎの岩につづく」はアメリカの地層を掘っていくと、ありえないものが次々現われる。描き出されるのは、リアルからはるかに遠い奇想の世界である。

 非倫理的で(人肉嗜食や)始原の野蛮さが顔をのぞかせる点は、ボルヘスのような観念的・哲学的なものとは印象が異なる。だが、エンタメ小説の過剰なサービスやスプラッターを目指しているわけではない。どれも淡々というか、飄々としている。ユニークさを重視する編集者、デーモン・ナイトやフレデリック・ポールらが好んだのも頷ける内容だ。ただし、本書を読むのなら一日1作程度が望ましいだろう。一度に読むと目まいを起こしてしまう。想像力が物語に追い越されてしまうのだ。

スタニスワフ・レム『インヴィンシブル』国書刊行会

Niezwyciężony,1964(関口時正訳)

装幀:水戸部功

 国書刊行会レム・コレクション第Ⅱ期の筆頭(通算7巻目)は、『砂漠の惑星』で知られる同著の53年ぶりの新訳である。旧訳はロシア語からの重訳だったが、本書はポーランド語から直接翻訳された決定版だ。グラシン紙のカバーから惑星面をイメージする円が薄く透けて見えるという、写真だけからは想像できない上品な装幀。標題『インヴィンシブル』とは無敵を意味し、主に軍艦の名称に使われてきた(そのあたりは訳者解説に詳しい)。本書に登場するインヴィンシブルは、所属する琴座星域で最強を誇る巡洋艦である。

 レギスⅢは赤色矮星のような太陽を巡る、火星ほどの大きさの惑星だった。寒冷化していて、海洋と大陸を持つが、奇妙なことに陸地には生命が一切存在せず砂漠だけが広がる。先に着陸した姉妹艦のコンドルが音信を絶ったことを受け、インヴィンシブルは遭難の真相を突き止めるべく派遣されたのだ。まもなく、先遣隊の運命が明らかになる。

 本書は500枚に満たない短い長編である。そのため一切の無駄がない。謎めいた惑星、行方不明の探検隊、未知の文明の存在、恐るべき敵の出現と一挙に物語は進む。終章に至って「無敵」の意味が象徴的に描き出される。しかし、枝葉がないからといって物語は単純ではない。沼野充義による解説では、アウシュビッツに絡めたレムの政治性の反映についても言及されており興味深い。解釈の余地はまだまだある。

 本書と旧訳とではいくつかの相違がある。一つは登場人物の名前で、艦長ホルパフと若い副長ロハンが、ホーパックとロアンに変わっている。旧訳では艦長がロシア人、主人公である副長はポーランド人と解釈されていた。しかし、新訳では国籍はどちらでもなくなっている。ロアンはフランス系の名前だという。もともと原著には国籍や人種への言及はない。未来のグローバル社会を示唆したというより、そういった本論から外れる(余談に流れる)要素をあえて排除したと考えるべきなのだろう。

 インヴィンシブルは惑星に着陸すると、直ちにエネルギーシールドを張り巡らし外敵の侵入に備える。これはアメリカ映画『禁断の惑星』などとよく似ている。しかし襲いかかってくるのが(精神分析の国アメリカらしい)フロイド的なイドの怪物(人間の無意識)なのに対し、本書ではサイバネティクスから生まれたまったくの非人間的存在であるところが対照的だ。

 レムはノーバート・ウィーナー(ちなみにウィーナーはポーランド系アメリカ人)のサイバネティクスに大きな影響を受けた。本書の訳文では、その専門用語が正しく反映されていて分かりやすい。登場する「雲」は、ウィーナーの同僚でもあったフォン・ノイマンによる「自己複製オートマトン」を思わせる。自己を無限に複製でき(単純コピーだけでなく、自分以上のものを作ることが可能)、自己の恒常性(ホメオスタシス)を保つ存在だ。現在のコンピュータはフォン・ノイマン型と呼ばれるが、自己複製オートマトンではない。コンピュータが勝手に自分を書き換えては困るからである。しかし、ほぼ同じ動きをするものがある。後の時代になって、それは「コンピュータ・ウィルス」と呼ばれるようになる。つまり、「雲」は「コンピュータ・ウィルス」の具現化とみなすこともできるのだ。『インヴィンシブル』はウィルスの概念を目に見える光景として活写し、ウィルス対人間の戦いを描いた世界最初のサイバーパンク小説といえる。

 また、本書には未訳作品名を含む詳細なバイオグラフィ(生まれてから生誕百周年の今年まで)が収められている。レムファンにとっては必読だろう。

宝樹『時間の王 宝树短篇作品合集』早川書房

时间之王,2021(稲村文吾、阿井幸作訳)

装画:Shan Jiang
装幀:早川書房デザイン室

 宝樹(バオシュー)は1980年生まれの中国作家。デビューは2010年だが、『三体』の2次創作『三体X』(2011)が劉慈欣にも認められ、公式に出版されてから有名になった。本書は、著者が得意とする時間もの7編を収めた中短編集である。本国でもこのテーマではまとまっていないようなので、日本の読者はいち早く作品集として読めるわけだ。

 穴居するものたち(2012)恐竜時代の哺乳類から有史以前、古代、現代、未来と長大な時間で生きた人々のオムニバスドラマ。
 三国献麺記(2015)時間旅行会社の担当者が、零細から大手にのし上がった魚介麺チェーンの幹部から、三国志時代に干渉するという無理難題を要求される。
 成都往事(2018)成都が広都と呼ばれていた古代、主人公は朱利と称する神女と出会う。女は神の言葉しか話せなかったが、やがて有益な託宣を授けるようになる。
 最初のタイムトラベラー(2012)世界初のタイムマシン実験に志願したタイムトラベラーの運命は。
 九百九十九本のばら(2012)大学でも評判の美女の歓心を買うために、友人の貧乏学生はありえない理論を唱えて999本の薔薇を入手しようとする。
 時間の王(2015)人生の中に存在したさまざまな事件、事象をランダムに彷徨う主人公には一つの目的があった。
 暗黒へ(2015)銀河中心に位置する巨大ブラックホールの外縁、事象の地平線を越えようとする際(きわ)に、人類最後の宇宙船が漂っていた。

 時間もの(タイムトラベルやタイムループ)はもはやカジュアルなテーマになっていて、映画やアニメはもちろん、ミステリ、純文学やラノベでもふつうに登場する。しかし、そこで生じるはずのパラドクスなど理屈を突き詰める作品はあまり見られない。あたりまえになった反動で、扱いが説明不要の小道具へと矮小化しているからだ。本書は、その点とても丁寧に作られている。たとえば「三国献麺記」は三国志とラーメンとを結びつけたコメディだが、時間旅行の制約事項や矛盾点を綿密に設定し、最後のオチもその延長線上に置かれている。

 著者は幼い頃に小松左京のジュヴナイル『宇宙漂流』(原著1970/翻訳1989)を読み、大人になって以降、光瀬龍、広瀬正、小林泰三らの時間ものに影響を受けたという。そういう感性の類似性があるためか、梶尾真治の《クロノス・ジョウンター》や《エマノン》を思わせる情感に溢れた作品も本書には含まれる。「穴居するものたち」「暗黒へ」の、膨大な時間スケールを描く手法は小松左京的でもある。一方、コメディ要素の濃い「九百九十九本のばら」などは、ハードな森見登美彦という雰囲気でとても親しみやすい。

アーシュラ・K・ル=グウィン『文体の舵をとれ』フイルムアート社

Steering the Craft A 21st Century Guide to Sailing the Sea of Story,1998/2015(大久保ゆう訳)

装画:モノ・ホーミー

 副題が「ル=グウィンの小説教室」とあり、自らが主催したワークショップ(創作講座)の内容をまとめた1998年版を、21世紀の現状に合わせて改めたアップデート版である。経験ゼロの純粋な初心者向けではなく、すでにプロアマを問わず作品を書いている作家のための手引き書だ。もともと英語の技法について書かれているので、日本の読者には合わないのではないかと思われるが、発売(7月30日)1ヶ月で3刷と好評である。ファンの多いル=グウィンの本であること、翻訳者にも参考になること、豊富な練習問題が読者のチャレンジ精神をくすぐるという面もある。ただし、問題に「模範解答」はないので、答え合わせは自分で行う必要がある。

 作品を声に出して朗読することによって文のひびきを知ることができる、どこに句読点を打つかで印象はまったく変わる、一つの文の長さをどれぐらいにすべきか、繰り返し表現は冗長ではなく効果的に使える、いかに形容詞と副詞をなくして文章を成立させられるか、人称と時制をごたまぜにすると読み手が混乱する、どのような視点(ポイント・オヴ・ビュー)を選ぶかで語りの声(ヴォイス)は違ってくる、視点の切り替えは自覚的にすべきだ、説明文で直接言わず事物によって物語らせる、文章に的確なものだけを残す詰め込み(クラウディング)と不要なものを削除する跳躍(リープ)が必要である(以上は評者による要約)。

 「言葉のひびきこそ、そのすべての出発点だ」文章を声に出して(小声ではだめで、大きな声で)読み上げる。コンマ=読点は日本語でもあるが、コンマ(休止)とセミコロン(短い休止)を使い分け息づかいを調整する技などは、読み上げを重視する著者だからこそ。形容詞と副詞をなくすのは難しい。その難しさを克服することで文章が磨かれる。ル=グウィンはまた文法を重視する。最近はアメリカでも実践重視で、文法(グラマー)はあまり教えなくなったらしい。しかし、文法に則った文書を分かっていないと、それを壊した新たな文体を生み出すことはできない。単にでたらめになるだけである。人称に伴う視点と時制(日本語では明確ではない)も厳密にコントロールしないと混乱した文章になる。

 英語向けではあるが、これらは日本語を書いたり読んだりする上でも意味がある。ジェーン・オースティンからヴァージニア・ウルフなど、古典作家による豊富な実例も載っている。エンタメ小説だからといって、単に筋書きとアクションシーンだけでは成り立たない。本書で述べられた各種の技巧(クラフト)を駆使することで、彩りやリズムが生まれ深い印象を与えられるのだ。付録には合評会(リモートも含む)の具体的な運営方法が載っている。仲間の意見は貴重だが、誰かの一人舞台になったり、けなし合いや褒め合いに陥りがちだ。同様のことを進める際の参考になるだろう。

エイドリアン・チャイコフスキー『時の子供たち(上下)』竹書房

Children of Time,2015(内田昌之訳)

デザイン:坂野公一(well design)

 著者は1972年生まれの英国作家。2008年のデビュー後は、主にファンタジイを書いてきた。本書は初のSF作品だが、2016年のアーサー・C・クラーク賞を受賞するなど高い評価を得たものだ。好評を受けて、すでに続刊の Children of Ruin が2019年に出ている(これは同年の英国SF協会賞を受賞している)。

 地球は滅亡の危機にある、そう考えた人類は複数の異星をテラフォーミングする計画を立てる。完成までには時間がかかるため、人を送り込むのではなく、動物と知性化を促進するナノウィルスをセットで投入するのだ。だが、非人類を使う計画に異議を唱える過激派により実験ステーションは損傷を受ける。統括する科学者は軌道上で緊急避難的な冷凍睡眠に入り、地上では予期しない動物、蜘蛛たちによる文明が育まれようとしていた。

 物語は2つの視点で語られる。1つは、原始的な部族社会から、やがて統一された文明国家へと進化していく蜘蛛たちの視点。言葉や文字ではなく、知識を遺伝子に直接書き込むことで伝承するため、同じ知識を持つ子孫は(世襲のように)同じ名前を持っている。もう1つは、滅んだ文明から脱出した世代宇宙船の人類の一団である。二千年に及ぶ恒星間飛行を冷凍睡眠で切り抜ける。登場人物は断続的に冷凍睡眠を繰り返しているので、二千年+数百年であってもほぼ同じメンバーが支配層になる。ピーター・ワッツ『6600万年の革命』でも登場したが、時間を超越するためSFでは時々使われる仕掛けだ。蜘蛛たちの進化は『竜の卵』的でもある

 お話は、蜘蛛社会と宇宙船の人間という二重の時間の流れで構成されている。人間社会は旧テクノロジーを維持する単独の宇宙船だけという設定なので、急速に進化する蜘蛛族に対して絶対的な優位性はない。登場人物は、(世襲とはいえ)前向きに生きる蜘蛛に対して、(いくら冷凍睡眠しても)次第に老いていく人間たち。となると、非人間であっても(擬人化されていることもあり)前者の方が魅力的だろう。著者は意図的にそうしていると思われる。世代宇宙船やテラフォーミングといった古典的なアイデアに、性差別といった現代的要素を交えたことで、かえって新鮮さを感じる作品になっている。

 本書に出てくる蜘蛛は、日本の家の中でもよく見かけるハエトリグモらしい。手足が短くごく小さなクモ(イエバエと同サイズくらい)なのだが、しぐさに何となく愛嬌がある。続編はタコらしい。それにしても英米人はいつからクモやタコの愛好家になったのだろう。

津田文夫「サタイアや不気味な風景を感じさせることは短編SFの得意とするところなのである」『豚の絶滅と復活について』解説

 以下は『豚の絶滅と復活について』巻末に収録した、津田文夫解説を全文掲載したものです。

 本書『豚の絶滅と復活について』は著者岡本俊弥のSF短編集として五冊目にあたる。収録作品はすべて大野万紀主催THATTA ONLINE初出。ただし改稿改題されているものがある。

 最初の短編集『機械の精神分析医』が出たのが、二〇一九年七月(奥付)なので、二年と二ヶ月で第五短編集発刊の運びとなったわけである。ということは、このペースで行けば五年足らずで一〇冊、一〇年後には二〇冊もの短編集が出ているという計算になる。そんなわけないだろ、とツッコまれるかも知れないが、いやこの著者なら可能性は充分と思わせるところが、岡本俊弥という作家の恐るべきところなのである。それは、先に出た著者の第四短編集『千の夢』の解説で、水鏡子が述べているように

六〇代という人生の折り返し点で培ってきた個人的及び俯瞰的な世界と制度と将来への知見、そうした公的私的な景観を、品質管理を施した基本四〇枚前後のSF小説の枠組みに落とし込んでいく

ことができる作家だから。とはいえ今後のことは、著者/神のみぞ知る、なのだけど。

 さて、著者の作風については、第三短編集『猫の王』の大野万紀氏の解説に

作品の特色は、その静かでほの暗い色調と、工学部出身で大手電機メーカーに勤めていた経験を生かした、科学的・技術的、あるいは職業的にリアルで確かな描写、そしてそれが突然、あり得ないような異界へと転調していくところにあるだろう

とあり、すでに本書収録の作品群を読んだ方にはとても納得しやすいのではないかと思うのだけれど、もちろんそれだけが岡本作品の特徴ではない。もっとも水鏡子解説のように

意外であったのは、SFの最先端や周辺文学を読み込んでいるはずの著者であるのに、落とし込む先の小説形態がノスタルジックなまでに第一世代のころのSFの骨組みに近しい印象があること。はっきり言ってしまうと、眉村さんの初期作品群を彷彿とさせる

といわれると、大野解説との落差があまりにも大きく、ちょっとあたまのなかに「?」が浮かんでくるが、これは水鏡子先生お得意の超絶SF論ワザなのであまり気にしない方がいいでしょう。

 ここで三番目に登場した解説者(筆者のこと)は、作家岡本俊弥の作風をどう受け止めているかを書く前に、著者との関わりを書いておこう。

 第三及び第四短編集の解説者は、それぞれ著者の出身大学のSF研究会の先輩方で、著者とはそれ以来ほぼ半世紀近いあいだ定期的に集まってさまざまな話をしてきた人たちである。

 一方、筆者が京都の私立大学に入ったのは一九七五年で、当然のごとくSF研に入りその夏初めて第一四回日本SF大会(筒井康隆/ネオ・ヌル主催のSHINCON)にSF研の仲間とともに参加した。このSF大会で水鏡子、大野万紀、著者の三氏は筒井康隆が発行していたファンジン『ネオ・ヌル』関係者(著者は編集長)でもあり大会スタッフとして参加していたのだが、当時はまったく三氏とは面識がなかった。しかしわがSF研メンバーとして筆者は珍しくペイパーバックでSFを読むタイプだったことで、熱心に英米SFを読んでいる人たちが毎週日曜日に集まる大阪の喫茶店へ、先輩が連れて行ってくれたのである。そこで初めて著者や大野万紀や水鏡子と知り合ったのだった。当時この集まりには多いときで十数人が参加していた。これが後に関西海外SF研究会(KSFA)となる。新参の筆者は当然集まりの中で若年だったが、最年長者でも三〇歳そこそこだったことを思うとまだSFファン層自体が若かった時代といえる。まあ筆者は最若年とはいえ浪人していたので、水鏡子、大野万紀、著者、筆者はそれぞれが一歳違いである。

 大学を終えて田舎に帰ったあとも、KSFAの活動やイベントに参加していたこともあり、また二一世紀に入ってからは大野万紀主催のTHATTA ONLINEにも読書感想文もどきを定期的に投稿することで、やはり四半世紀近くの付き合いが続いている。ただし、家族が増えて以来は年一、二回集まりに顔を出せればいいような具合である。すなわち、前二作の解説者たちとちがって筆者には著者に関する個人的な情報があまりなく、作家としての著者に関しては一読者に近い立場にあるということなる。

 ここで著者の作風の話にもどると、本書をふくめ五冊の短編集に収録された四二編とその四二編の原型を含め六〇編以上の作品を読んできて、まず感じるのは著者の文体の冷静さであろう。著者の作品は基本的に科学技術にかかわってストーリーが構成されるいわゆるSFの最たるものであるが、その叙述法は科学技術/SF的アイデアの核はさまざまなものがありながら、ストーリーの語り口に一定の冷静さが常にある。それは最終的に物語の話者が狂気に侵されるような作品でも変わらない。大野万紀解説いうところの「ほの暗い色調」である。それはまた水鏡子解説にある「この数年の毎月生産される短編のその静かで五年前も最近作も変わらぬ安定感」をもたらすというのと同じかもしれない。

 そして短編SFとしてその結末がもたらす印象は、サタイア/風刺的なものと不気味なもの/ホラーへの傾斜であろう。もちろんそれだけでは語れない作品も多数あるが、サタイアや不気味な風景を感じさせることは短編SFの得意とするところなのである。著者の短編としてはおそらく一番多いと思われるこのタイプの作品が、冷静な語り口と相まって、水鏡子解説いうところの「岡本地獄」の印象を引きだすのだろう。

 しかしなんと云っても岡本SF作品の最大の特徴は工学部出身者で長年電機メーカーの研究所に籍を置いたその経歴からうかがえるとおり、バリバリの理工学系SFになっていることだ。これは根っからの文系SF読みである筆者がもっとも強く感じる岡本SFのトレードマークなのである。そのことは本書収録作の印象を並べてみて考えてみよう。

 冒頭の「倫理委員会 Ethics Committee」は、最初に出てくるカタカナで呼ばれる四人の登場人物がネットメディアのフェイク度を議論する場面から「倫理委員会」の意味は了解され、その登場人物が分野別に特化したAIであること、というところまではなんの違和感もなく読めてしまうが、人間である語り手がAIの議事録を書いているというところからこの作品のSF性が生じる。AIたちの議論を書き残せるとはどういうことかに思いを巡らせば、そこに著者が半世紀近く前の大学時代からコンピュータを操っていた経験から、人間とAIの違い/落差を読み手に納得させる小説のアイデアが立ち上がる。人間とAIの線引きの鮮やかさに著者の理工学系的思考が見える。

 続く「ミシン Sewing Machine」は、「ミシンが頭に被さり、針を打つ」というホラータッチの一文から始まるけれど、あとの文章を読めば、これは最先端技術による極小の針と糸を使った手術のようだと分かる。物語は「コロナ禍」のソーシャル・ディスタンス/テレワーク化が極限まで進んだ社会で生じる「事故」の激増とその解決法が主人公によってもたらされるまでの経緯が語られる。ここでは他人に認知されない特性を持つ主人公が駆使する最先端脳科学テクノロジーによってある種の解決がもたらされる。この作品の語り口がいわゆる「ほの暗い色調」であり「岡本地獄」であり、筆者が岡本作品の特徴と思っている「遅延性ホラー」の典型だと思われる。頭に無数の針が刺さったイメージはやっぱりホラーだし、「ミシン」というと家庭用ミシンしか思い浮かばない筆者のような読者には不気味なものに感じられる。

「うそつき Fibber」もまたAIが出てくるが、ここでは一般家庭でもAIが日常化した社会の陥穽(最近見ませんね、こんな文字)を描いたサタイアでありホラーである。開発コストを意識しながら、AI技術開発を人間側の心地よさに合わせて進めることに対する著者の視点が実体験からもたらされているかのように見える。

「フィラー Filler」は、デジタル技術でよみがえらせた物故俳優ばかりを使ったドラマが作られるようになった時代だが、役を演じるという行為はAI(作中では機械)だけではどうしてもうまくいかない。修正には膨大なコストかかるので、その修正を請け負うのが機械エンジニア出身の語り手だ。もうこの設定だけで理工学系SFになっている。しかし、語り手の物語は役を演じる行為のオリジナリティという意外な視点で進んでいく。ここでも人間と機械の線引きの鮮やかさに理工学系的思考を感じる。

「自称作家 Call Yourself a Writer」は、文学部出身ではないが作家志望というか実際に会社勤めをしながら何十年も文芸作品を書いている主人公が、作品を広く読者にアピールできるという電子出版サービスからのメールを受け取るところから始まる。実際契約してみると、主人公の作品が売れ始めるのだが……。ネットメディアによく話題になる人為的な売れ筋の話を著者ならではの着実な技術的背景とともに進めていく。これは悲哀の色が強いサタイアでホラー色はない……でもないか。

「円環 Wheel」は、著者としてはめずらしいアイデア一本勝負な作品。ヒトは老いとともに赤子に返って行く、というのはよくある話で、わが老親を見ていると実感が湧いてくるのだけれど、著者は表現に工夫を加えなおかつ表題のとおり実現してみせる。最後の一行がまた著者にはめずらしく叙情/感傷を湛えている。

「豚の絶滅と復活について On the Extinction and Resurrection of pigs」は本書表題作。このタイトルからオールドSFファンなら誰でも五〇年代アメリカSF短編のレックス・ジャトコ作「豚の飼育と交配について」を思い浮かべる。これは、ある惑星で変異ウィルスのため人口が激減、男は二人しか残っていない、という設定のSFで、男の片方が養豚場の経営者ということで、男たちの立場は……、というもの。この設定はスタンダードになっていて最近では筒井康隆が短編集『世界はゴ冗談』収録の「不在」で部分的に使っている。と、ここまで引っ張ってきてなんなんだといわれそうだけど、この表題作と「豚の飼育と交配について」が似ているのはタイトルだけで、こちらでは本当に変異ウィルスでリアルに豚が絶滅して復活する話である。研究所の男女研究員のユーモラスな会話のなかで立ち上がるこの「リアル」というところに理工学系の話づくりの確かさが感じられる。しかもこれは著者の作品としては思わずニヤリとさせてくれる珍しいコメディタッチが成功している一品。でもやっぱり結末はサタイアでホラーだと思う。

「チャーム Charm」は、「いじめ」を受けている子供が話から始まるが、その途中でいじめっ子たちは気まずそうに立ち去る、チャームが発現したからだ……。このプロローグが主人公の体験であり、主人公のチャームへのこだわりは、彼を脳科学に向かわせ国立の研究所で「感情の脳内マップ」を研究するまでになった……。まさに理工学系作家岡本俊弥の典型的な設定といえる作品で、これがSFなのは表題となっている「チャーム」がいかにもありそうな仮説に見えて、その上で物語の結末を支えるアイデアにもなっているからだ。われわれが若い頃の本格SFの定義に「SF的設定を抜くと物語が成立しないような作品」というのがあったけれど、これは岡本作品の多くに見られる。それにしてもこの結末がまた不気味な風景で作者の持ち味がよく出ている。

「見知らぬ顔 An Unknown Face」は、入国審査が高速の自動化ゲートだけになってしまった時代に、ある国の男が観光目的で入国しようとして機械ゲートに虚偽判定されたエピソードから始まる。筆者は著者が「機械」と名付けているものがAIに思えるのだけれど、常に「機械」と呼んでいるところに長年の理工学系技術研究を実践してきた著者のこだわりがあるのだろう。この物語は「ぼく」が機械ゲートの判定は何を意味していたかを依頼人の弁護士に報告する形になっている。すなわちこれは「機械の精神分析医」シリーズの一編なのだ。ということで岡本作品中最も多く書かれているシリーズの雰囲気がここでも味わえる。多分、「機械の精神分析医」である「ぼく」が著者にとっていちばん自分を仮構しやすい人物なのだろう。

「ブリーダー Breeder」は、二度目の定年を迎えた主人公がこれといった趣味もないのでよくある自宅のDIYを始めるが、それに飽きたころ「ブリーダー募集」のチラシに興味を持つ。この募集元が「株式会社 次世代知能技術研究所 NTL」というところが、やっぱり著者のSFたるところ。主人公が任された「ブリーダー」の相手は「会話するアプリ」で、主人公は画面中の猫アバターを選択し結構熱中するのだが……。ここでもまるでAIのディープ・ラーニングみたいなものを思わせておいて、著者は近未来テクノロジーのSF的ヴィジョンを披露する。これはサタイアでもホラーでもない一作。

 トリは本短編集の中でいちばん長い「秘密都市 The Secret City」。視点人物は会社を早期退職し、家族と別れヤモメ同然の生活をしていたが、ある日、以前ライターをしていたころ世話をした若者がいまはネット投稿記事サイトの編集者として取材仕事を依頼してきた。取材先の近くにいるので経費が安く済むと考えたらしい。あまり乗り気ではなかったが引き受けた。そして物語は主人公が書いた取材レポートとして展開する……。これはいわゆる陰謀論/トンデモ系のウラ歴史物で、ソ連崩壊時に多くの核技術者が各国へ離散したという事実を踏まえて、著者の作品としてはかなり異例の大がかりな仕掛けを用いている。さすがに話が大きすぎるのではと思うけれど、著者は最初からウラ事情系ネット投稿サイトの取材記事として予防線を張っている。著者の作品の中でも異色な部類に入ると思う。

 最後に、著者の刊行予告を見たら本短編集のテーマは「お仕事」とのことだった。うーむ、それにふさわしい作品紹介になっているか心許ないが、ここらで〆とさせていただく。

 POD/Kindle版解説ではこの後に「おまけ」が続きます。ここでは割愛しています。

 津田文夫さんは、全国的に有名な某ミュージアムや文化施設の幹部を務めた近代史の専門家です。今回は学生時代からの「一読者に近い立場」から執筆していただきました。

高野史緒『まぜるな危険』早川書房

装幀:早川書房デザイン室

 高野史緒の活動は長編が中心である。中短編も相当量書かれてきたはずなのだが、なかなか書籍にはまとまらなかった。本書は『ヴェネチアの恋人』(2013)に続く、8年ぶりの第2短編集である。帯にはロシア文学とSFのリミックスとあり、表題の「まぜる」もこのリミックスを意味している。本書は、ロシアに関係する著名な文学や歌などと、SFやミステリを「まぜた」作品を集めたものだ。第58回江戸川乱歩賞受賞作『カラマーゾフの妹』(2012)がドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の続編であったように、ロシアに対する造詣の深さが作品の特徴になっている。

 アントンと清姫(2010)ラトヴィアからの短期留学生が帰国する際に、日本の研究所に勤める叔父がつくばで時間改編の実験を行うことを知る。
 百万本の薔薇(2010)ソビエト時代の末頃、薔薇を栽培するグルジアの試験場に赴いた主人公は、関係者の不可解な死に疑問を抱く。
 小ねずみと童貞と復活した女(2015)屍者の使役が当たり前になったロシア帝政末期、スイスの研究所で知能を回復しつつある男は、取り仕切る教授の隠された意図を探るようになる。
 プシホロギーチェスキー・テスト(2019)赤貧の中で金が必要になった主人公は、高利貸しの女から奪い取ろうと考えるが、偶然立ち寄った古本屋で奇妙な冊子を見つける。
 桜の園のリディヤ(2021)列車を降りた主人公は、見知らぬ少女に導かれるまま、桜の木の広がる庭園の奥にある邸宅を訪問する。
 ドグラートフ・マグラノフスキー(書下ろし)記憶を失った主人公が精神病院で目覚める。どうやら重大な事件の真相を知る人間であるらしいが。

 それぞれのベースとなるのは以下の作品/事物である。歌舞伎で有名な「安珍と清姫」(いわゆる娘道成寺)+クレムリンにある巨大な割れ鐘「鐘の皇帝」、ソビエト時代の世界的ヒットソング「百万本の薔薇」、ドストエフスキー『白痴』+ベリヤーエフ『ドウエル教授の首』+伊藤計劃『屍者の帝国』+キイス「アルジャーノンに花束を」+他多数、ドストエフスキー『罪と罰』+江戸川乱歩「心理試験」、チェーホフ『桜の園』+佐々木淳子「リディアの住む時に…」、夢野久作『ドグラ・マグラ』+ドフトエフスキー『悪霊』。各作ごとに著者による解題と参考とした作品が列記されているから、詳細はそちらを読めば分かりやすい。

 著者の推しなのか、ドストエフスキー色を強く感じるが「百万本の薔薇」のようなワンアイデアのものから、「小ねずみと童貞と復活した女」のように過剰にまざりあったものまで、ロシア・ソビエトネタといってもさまざまである。ロシア文学は過去から連綿とした人気があってファンも一定数いる。しかし、SFファンとはほとんど重ならないと思われる。そういうニッチなリミックスがどの程度受け入れられるかだが、本書は原典が未読でも楽しめるように配慮されていて読みやすい。ただし、逆のケースでSF/ミステリの元ネタを知らないと、どこが面白いのか、その意味が分からないかもしれない。

ンネディ・オコラフォー『ビンティ』早川書房

BINTI:The Complete Trilogy,2015-2017(月岡千穂訳)

カバーデザイン:川名潤

 著者は1974年生まれの米国作家。両親がナイジェリア出身で、自身の出自を明確に意識したアフリカ系アメリカ人だ。この作品もアフリカン・フューチャリズム(アフリカの文化や視点に基づくもの)であり、欧米生まれのSFとは異なるルーツで書かれたものとする。本書は3つの中編(原著にあった書下ろし中編は含まれず)からなる長編。第1作目(第1部)が2016年のヒューゴー賞(同様の主張をするジェミシン『第五の季節』と同年)、2015年のネビュラ賞をそれぞれ中編部門で受賞している。

 未来のアフリカのどこか。田舎に住む伝統的な調和師である16歳の少女が、保守的な家族の反対を押し切って異星にある名門大学へと旅立つ。彼女の一族からその大学に入学したものはいないのだ。だが、新入生を乗せた宇宙船は何ものかの襲撃を受ける。

 調和師とは、ハンドメイドの通信端末作りに携わる工芸家で、高度な数学的センス(ある種の直感力?)を有する。主人公は閉鎖的で伝統重視のヒンバ族(現在のナミビアに住む少数民族)に属する。乾燥地帯には、砂漠の民もいる。地球の支配層クーシュ族はクラゲ状の異星人メデュースと対立しており、ちょっとしたきっかけで戦争になる。一方、大学は銀河中のあらゆる異星人を受け入れるオープンな施設である。宇宙船もユニークで、エビに似た姿を持つ生体宇宙船なのだ。

 物語では、広い世界を見ようと飛び出した主人公が、次第に調和師としての自我に目覚め、姿形のまったく異なる異星人すら味方に付け、葛藤しながらも大いなる宥和へと向かう姿が描かれる。本書中には風習の違いや少数民族に起因する差別はあるが、いまの欧米で見られるような意味での人種差別とは異なるものだ(クーシュ族は白人ではない)。テクノロジーも今現在の延長線上にはないようで、そういう価値観の転換が面白い。アフリカン・フューチャリズムを体現しているのだろう。

 アフリカ、それも西海岸のナイジェリアとなると、日本人は知識もなく関心が薄い(過去のビアフラ内戦や、現在のイスラム過激派ボコ・ハラムによるテロ活動など、ネガティヴな情報を耳にしたことがあるかも知れない)。しかし、ナイジェリアは人口2億余、ブラジルに匹敵する大国で、アジア時代(21世紀前半)の次にくるアフリカ新時代(21世紀後半)には、世界のリーダーになると目される国だ。そこに、複数(250)の民族に由来する独特の文化があっても不思議ではない。われわれの見たことのない新たな光景が描かれることに期待したい。

アーカディ・マーティーン『帝国という名の記憶(上下)』早川書房

A Memory Called Empire,2019(内田昌之訳)

カバーイラスト:Jaime Jones
カバーデザイン:早川書房デザイン室

 アーカディ・マーティーンは1985年生まれのアメリカ作家だ。パートナーはファンタジー作家のヴィヴィアン・ショーで、共にサンタフェに在住する。ビザンツ帝国史で博士号を取得し、後に都市計画の修士号を得て現在はそちらを生かした仕事に就いている。SF作家としてのデビューは2012年、本書は2019年の初長編だが、2020年ヒューゴー賞長編部門を受賞するなど高い評価を受けた。経緯は異なるものの、初長編でいきなりブレークした『最終人類』と似たところがある。スペースオペラに歴史の専門分野を織り込み、エキゾチックな雰囲気を配した作品だ。

 遠い未来、銀河宇宙は大帝国テイクスカラアンにより支配されている。小さな独立ステーションにすぎないルスエルは新任大使を首都に送り込むのだが、そこで連絡を絶った前任大使の謎めいた行動が明らかになる。何を画策しようとしていたのか。足跡を追ううちに、新任大使の身にも次々と難事が降りかかってくる。

 登場人物の名前が変わっている。帝国の人々はスリー・シーグラス、シックス・ダイレクション、ワン・テレスコープなど、数字と単語を組み合わせた奇妙な名を持つのだ。しかも、ビザンツとアステカが混ざりあった文化を持つ帝国では、意見表明の際に詩の朗読をする風習になっている。ただし、物語の(文明の衝突などの)文化人類学的な側面はあくまでも背景にすぎない。主人公とペアの案内役(第一秘書的な地位)の2人が、宮廷内で密かに進む陰謀の真相に切り込むサスペンスがメインとなる。このあたりは、ジョン・ル・カレのスパイ小説から影響を受けたと著者自身が述べている。

 帯に『ファウンデーション』×『ハイペリオン』とあるのはちょっと書きすぎで、それらと本書では銀河帝国やスターゲートが出てくる以上の共通項はない。解説で指摘されるもう一つの影響元C・J・チェリーが、日本で絶版状態なのは惜しいと思う。チェリーの描く異世界は、ファンタジー寄りではなくSF的だったからだ。本書ではその設定を前提に、表紙イラストに描かれた『ゲーム・オブ・スローンズ』風の玉座を巡る、権謀術数のドラマが楽しめるだろう。登場人物の関係は性差もなく今風。また、続編 A Desolation Called Peace は今年出たばかりだが、すでに翻訳が決まっているそうだ。