ステファン・テメルソン『缶詰サーディンの謎』国書刊行会

The Mystery of the Sardine,1986(大久保譲訳)

装画(コラージュ):M!DOR!

 国書刊行会《ドーキー・アーカイヴ》の最新刊。ステファン・テメルソン(1910-88)は亡命ポーランド人の作家である。ポーランド時代は妻のフランチェスカと共に「ザ・テメルソンズ」と呼ばれるコンビで絵本や前衛映画などを制作したという。1942年から英国に移り、小説は英語で書いた(その半世紀前のジョゼフ・コンラッドとよく似た経歴)。著作には多くの児童書や絵本、評論などがあるが本書が日本での初紹介となる。本叢書のパンフレットの中で「SFでもあり幻想小説でもありユーモア小説でもあり……とにかく変な小説です」(若島正)と紹介されたもの。

 ロンドンの仕事場と田舎の自宅を往復していた作家が亡くなる。すると作家の妻と秘書は恋人同士になりスペインのマヨルカ島に旅立つ。島には哲学者の親子が住んでいる。新聞配達をする少年はラブレターを入れる。哲学者のもとにジャーナリストの青年が訪ね、死んだ作家の瞳の色を質問する。そこに、黒いプードルが現れ突然爆発する。

 以上で全体の1割あまり。登場人物が次々と現れ、お話は容赦なく進んでいく。難解な文章はないし、それぞれのエピソードも分かりやすいが、事件と事件の関連性に起伏がなく、人間のつながりがとてもドライだ。冒頭の作家は、憎悪こそが創作を盛り立てると言う。ところが、本書の中にそういう激しい感情は(単語としてあっても)ほとんど描かれない。リアルさは重要視されず、登場人物が唐突に持論を開陳したりする。それも、台詞を棒読みするように。

 さてしかし、物語が支離滅裂なのかというとそんなことはない。登場人物たちの複雑な関係が明らかになり、缶詰サーディンの(驚くべき)解決もなされるからだ。プロットは計算されている。東欧革命以前のポーランドは皮肉っぽく描かれるし、ここは別の地球なのかと匂わせる章があり、村上春樹がSFなら本書もSFといえる部分はあるだろう。とはいえ、いったい何を読まされたのかは、最後まで目を通しても分からない。

 米国では書評家から「タイトルを(内容が)超えない」とされ不評だったようだ。しかし、『銃、ときどき音楽』のジョナサン・レセムが夏休みの読書に推奨し、日本でも『アマチャズルチャ 柴刈天神前風土記』深掘骨が評価するなど、変わった作品を書いている人/読みたい人には刺さるのである。少なくとも、他では読めない小説だ。

誰もたどり着けない弧峰 スタニスワフ・レム

 シミルボン転載コラム、今回はレム。国書刊行会の《レム・コレクション》は第2期まで進み、日本での人気の根強さを感じさせます。この作家紹介コラムは、いきなり選書ではハードルが高いという初読者の方や、数冊読んだが全体像が分からないという方のために、おおまかな全体像を提供する目的で書かれています(マニアの皆さまには今更ながらの内容ですが悪しからず)。以下本文。

 1921年生。2006年に84歳で亡くなる。レムは究極の弧峰である。多くのファンを持ち、ポーランド国内はもちろん国際的な評価は高いけれど、その流れを継ぐ者や、追従者すら見当たらない。何ものも寄せ付けないという意味で、そびえ立つ弧峰なのである。

 『高い城・文学エッセイ』(1966)に収められた自伝によると、レムは旧ポーランド領(現在はウクライナ領)のルヴフに生まれた。父親は医師で、幼いころから高価だった多くの本を読むことができた。際限のない知識欲を満たすために、百科事典をくまなく読んだりもしている。もらったおもちゃは残らず分解され、元に戻ることはなかったという。

 ギムナジウム時代に、レムは奇妙な遊びに熱中する。それは架空の国/機関の書類(パスポート、許可証、証明書類)を捏造するというものだ。さまざまな役職と、複雑な許認可制度が考え出され、書類ひとつひとつに意味が持たされた。これなどは、官僚的迷宮に主人公が迷い込む『浴槽から発見された手記』(1961)を思わせるが、レムのお話作りのベースがどこにあるのかをうかがわせるエピソードだろう。

 レムが30歳の時書いたデビュー長編『金星応答なし』(1951)は、ツングース隕石に書き込まれたメッセージをもとに、金星に向かった探検隊が遭遇する異星文明を描くものだった。社会主義リアリズム全盛期に書かれた作品だが、後に書かれる思索的な宇宙ものの萌芽を含んでいる。この後、労働部分と思考部分が分離した生物が登場する『エデン』(1959)『ソラリス』(1961)、昆虫のような群体ロボットを描く『砂漠の惑星』(1964)を出版する。それぞれ極めてユニークな知的生命を創造した、宇宙3部作といえる作品だ。

 『ソラリス』(1961)惑星ソラリスが人類に知られてから百数十年が経った。その惑星は二重太陽系に伴う不安定な軌道を、重力を制御することによって自立的に安定させているのだ。ソラリスは惑星海面全体を覆う巨大で単一の生命だった。しかし、最初の接触を目指したさまざまなプロジェクトはことごとく失敗する。あまりに異質で、共通点のない知性とコミュニケートする手段はないのか。しかし、ある日ステーションの科学者が行った個人的な実験が思わぬ結果を生む。科学者たち自身の奥底に隠されていた傷跡が、実体を伴って現れるのである。主人公の場合、それは19歳で自殺したかつての恋人だった……。

 『ソラリスの陽のもとに』(ロシア語からの重訳版)が出たのは、半世紀以上前のことである。その時点で、すでに『ソラリス』は伝説的な傑作と評されていた。本書は2回映画化されている。アンドレイ・タルコフスキー監督は『惑星ソラリス』(1972)でロシア的な原風景をふんだんに鏤めた原罪と罰の物語を作り、スティーヴン・ソダバーグ監督『ソラリス』(2003)は悲劇的な失われた愛と甦りのロマンスを映像化した。しかしレムが描き出すのは、異質な知性=不完全な神とのコンタクトの物語である。現在入手できる最新版は、コンタクトテーマに関わる欠落部分が補われた、ポーランド語原典からの完訳である。

 550枚ほどしかない短い長編だが、余計なものは一切含まれない。そこに、コンタクトの物語、人の持つ罪と奥底に隠された罪悪感の物語、失われた甘美で悲劇的な恋の物語という、複数の物語が並存している。そもそも単一の視点しかない作品では、これほど長生きできなかったろう。ようやく世間がレムに追いついてきたのか、原点としてのテーマ“完全に異質なものとのコンタクト”が重要な意味を持ち始めている。たとえば、人の知性=大脳生理作用の物語、不完全=欠陥を持った神の物語と見れば、グレッグ・イーガンやテッド・チャンとも違和感なくつながってくる。

 レムはこの他にも、相対論的(ウラシマ)効果で未来社会にもどってきた宇宙飛行士たちの戸惑いを描く『星からの帰還』(1961)や、宇宙から届くメッセージを解読しようと苦闘する科学者たちの考察『天の声』(1968)を書いた。どちらも、未知のものとの意思疎通の困難さという問題に踏み込んだ作品だ。

 『完全な真空』(1971)は書評集である。といっても、ここに収められた書評の対象はどこにも存在しない。レムが書こうとして果せなかった“架空の本”についての書評なのである。理想の作品を想像しながら、なおかつそれについての書評を書くという、極めて倒錯した作品集なのだ。中には思わず読みたくなる傑作もある。アルゼンチンの奥地に忽然とあらわれたフランス『親衛隊少将ルイ十六世』や、失われた天才を探索する旅『イサカのオデュッセウス』などである。物理法則自体がゲームであると説く『新しい宇宙創造説』はイーガンの《直交3部作》のようだ。小説レベルを越えた巨大なアイデアである。

 『虚数』(1973)は架空序文集である。「GOLEM XIV」は思考するスーパー・コンピュータの本で、序文だけでなく一部の抜粋が収録されている。GOLEMはプログラムされるコンピュータではない。今日の人工知能を思わせるが、どちらかというと人工生命に近いのかもしれない。レムの描くGOLEMは、既存の頭の悪い人工知能を遥かに超越した上位概念を垣間見せる。それが人間に語りかける様子を一部とはいえ書いているのだから、まさに離れ業に近い。本書が序文集でしか収録できなかったわけもわかる。人間以上の知性が書いた、文章や概念と出会ったらどうなるのかを問いかけているのだ。『完全な真空』『虚数』も、書かれている本はすべて存在しない。しかし、実在の本を読むのと同等、あるいはそれ以上の衝撃を与えてくれる。

 レムはこの他にもユーモアあふれる一連のシリーズものを書いている。1つはレム流の《ロボット》が登場するお伽噺風のシリーズ『ロボット物語』(1964)『宇宙創世記ロボットの旅』(1965)などだ。ロボットといっても、これらは人工知能の原点サイバネティクスを発展させたもので、アシモフ流のロボットとはずいぶん違う。

 もう1つは宇宙探検家泰平ヨン(イヨン・ティーヘ)が、さまざまな惑星や地域を訪れる《泰平ヨン》である。『泰平ヨンの航星日記』(1957/1971)『泰平ヨンの回想記』(1971)『泰平ヨンの未来学会議』(1971)『泰平ヨンの現場検証』(1981)で、もともと文明風刺の色合いが濃かったシリーズだが、後半に行くほど、生物学から宗教論を含む幅広い考察が含まれるようになる。

 『泰平ヨンの未来学会議』は、人口問題を解決するために赴いた世界未来会議で、ヨンが幻覚剤を使ったテロ事件に巻き込まれ、奇妙な未来社会に迷い込むお話だ。2013年にアリ・フォルマン監督による『コングレス未来学会議』として映画化され、アニメと実写の混淆したユニークな仕上がりになっていた。

 残念ながら、レムの短編は紙版が途切れ電子書籍化も進んでいない。これ一冊だけというのであれば、紙書籍だが、国書刊行会レム・コレクションに含まれる『短篇ベスト10』(2001)がある。クラクフで出版された15編を収録する短篇ベスト選から、さらに10編を選びだしたものだ。上記で紹介した《ロボット》《泰平ヨン》などレムの主要な短編が万遍なく盛り込まれている。

(シミルボンに2017年2月27日掲載)

 《レム・コレクション》の第2期が開始となったのは2021年のこと。現在も継続中ですが、『マゼラン雲』など幻の初期作や、新訳の『インヴィンシブル』『浴槽で発見された手記』という既訳作品に対する新解釈/新発見まであって目が離せません。泰平ヨンものの最後の作品『地球の平和』も出ています。

スタニスワフ・レム『捜査・浴槽で発見された手記』国書刊行会

Śledztwo/Pamiętnik znaleziony w wannie,1959/1961(久山宏一/芝田文乃訳)

装訂:水戸部功

 新訳となったレムの2長編である。『捜査』は初訳が1978年(深見弾訳)、『浴槽で発見された手記』は1980年(深見弾訳、邦題『浴槽で発見された日記』)/1983年(村手義治訳)以来なので、ほぼ半世紀を経たことになる。当時も、解釈を巡ってさまざまな議論を巻き起こした。どちらかといえば「なぜレムがこれを書いたのか不明」とする戸惑いが多かったように思う。今回はポーランド語専門家による翻訳(過去はロシア語を主とする翻訳者)で、新たに読み取れるものも多いだろう。

捜査:ロンドン周辺の遺体安置所で奇妙な事件が起こる。一晩のうちに遺体が動いているというのだ。うつ伏せになっていたり、棺から出ていたり、さらに遺体消失が頻発するようになる。しかも、安置所の警備を担当していた巡査が、飛び出し事故で重傷を負うという事件までが発生する。

 主人公の警部補は事件を詳細に追っていく。ある科学者は特定のデータを地図にプロットすることで、統計的に次の事件を予測しようとする。警部補は科学者に疑いをかけ証拠を集めるが、かえって謎は深まる。一方、主任警部は曖昧な状況証拠を並べ、真犯人を決めつける。……あらかじめ書いておくと、この作品はミステリではないので「真犯人」は見つからない。

浴槽で発見された手記:まず「まえがき」がある。ロッキー山脈にあった3000年前の廃墟の浴室で手記が見つかった。大崩壊によりセルロースが失われ、電子化以前の文字はすべて失われたため、奇跡的な記録なのだ。しかし、その中に書かれていたのは……。

 評者は『浴槽で発見された手記』の1983年版に解説を寄せている。何しろ40年前のものなので最新の知見は盛り込まれていないが、当時の読み方を反映するものとして抜粋(一部修正)してみる。

 本書『浴槽で発見された手記』は、1961年に出版されています。レムは、その創作法から考えてとても多作になるとは思えない作家です。あるインタビューで、200ページの本を書くのに、4~5000ページ分のタイプを叩くのだ、といっているぐらいです。何度も推敲し書き直すからでしょう。それなのに、61年には3冊の長篇が出ています。レムの活力の顕れであると同時に、何か共通点があるんじゃないか、とも考えられます。

 その1冊目は、代表作でもある『ソラリスの陽のもとに』、2冊目が『星からの帰還』です。この2長篇は、生きている海を描いていたり、未来の地球を描いていたりするわけですが、 どちらも明白なストーリーを持っている作品です。ストーリー性の稀薄な本書とは、ずいぶん対照的でしょう。ただ、それでも、一連のレム作品の持つ特質が、三者に共通していることも、否めない点があります。

 例えば、謎の追求と解明という一点、『星からの帰還』の冒頭で繰り広げられる、あの異様な描写を思い出して下さい。はるかな未来に帰還した宇宙船の乗員たち。ウラシマ効果で、彼らの知っていた地球とは全く様相が変わっています。我々が現在の都会を見て、あれはビルだあれは自動車だと見分けられるのは、その存在が何かを教えられ認識しているからです。もし、 隔絶した未来に突然投げ出されでもしたら、どんな形のものがあるのか、どう動いているのかさえ理解できないでしょう。そして、市民感情すら昔と違っているとしたら……。帰還した宇宙飛行士たちが捜し出す『謎』とは、人々を駆り立てたはずの情熱、消え去ってしまった宇宙 への夢の追求でもあったのです。一体、自分たちは何のために存在するのか――その問いかけは、本書の中にも窺えます。

 『ソラリス――』に至ると、その謎は海の姿をとってあらわれます。科学的な正体の究明(ソラリス学)と、人間の精神を写し出す鏡としての存在の二点から海の謎は追求されていきます。しかし、無数のアプローチが示されながら、その実、一つの真実も浮かび上がってきませ ん。答えがない、つまり本書と同じ迷路の世界が広がっているのです。

 『浴槽――』には、一貫したストーリーがありません。ところがこの手記が 、紙のあった時代から残された貴重な文献である云々という、奇妙な「まえがき」が付けられています。「まえがき」はそこだけ読むと、以下の本編がまるで風刺SFであるかのように感じさせます。しかし、本文はどう考えても、「まえがき」の雰囲気と乖離した印象を残します。本文では、およそ風刺を超越したグロテスクな世界が描かれています。

 指令書を捜しに出かけた主人公は、総司令官から秘密指令を受けます。ところが、その任務の内容がまず分かりません。主人公は、必死で中味を探ろうとします。探索の途上には、棺の安置された礼拝堂があり、暗号解読室があり、埃にまみれた図書室があります。提督の部屋も、 病棟もあります。しかし、何も解明されません。どこにでもスパイが潜んでいるようです。あらゆる文書が、暗号で書かれているようです。シェークスピアの小説さえ実は暗号だった? これだけ雑多なさまざまなレベルの「謎」を提示したものは、他の多くのレムの作品を通してみても本書しかありません。一冊の本全てが、暗号で書かれているかのようです。

 レムはいわゆる「象徴」や「暗喻」を嫌います。嫌うとまで書くと、断定のしすぎになるのかもしれません。ただ、ロブ=グリエやジョイスらを評価しながらも、それらの手法は、自分とは別の立場にあるものだと述べているのです。アメリカの研究家フェイダーマンが、あるインタビューの中で「完全な真空』(1971)を取り上げ、架空の本の書評集はヌーヴォーロマン的な手法ではないか、と問いかけますがレムは明確に答えません。ファウンデーシ ョン誌のインタビューでも、『砂漠の惑星』(1964)のラスト近くにある、人間の形をした影がサイバネティクスの虫たちの雲に浮かぶシーンを指して、あれは何を象徴するのかという質問に、単なるブロッケン現象で意味はないと素気なく答えたりします。

 つまり、レム自身、そのような批評的な書き方をしていないのです。けれども、 ニュー・フィクションや、ヌーヴォーロマンの手法に対して理解がなかったわけではありませ ん。1970年に出た「SFと未来学」の中に「メタファンタジア――SFの可能性」という小論が収められています。標題から分かるように、この中では、文学のいわゆるメタ視点が言及されます。もちろん、ヌーヴォーロマンもその立場で触れられています。

 ちょっと話が脱線しました。本書には、正しい答えなんてないのだ、全てが暗号なのだ。そんな話の途中でした。なぜ答えがないのか、作者に答えが分からないはずもないだろう――いや、推理小説ではないのです。犯人が何かさえ、誰にも(作者にも)分かりません。 例えば、本書の2年前に出た『捜査』は、作者自身答えを設定せず書き進めていったそうですし、レムの(当時の)書き方としてはそれほどめずらしいものではないのでしょう。(対照的に15年後の『枯草熟』(1976)は答えを持った書かれ方をしています)。

 本書は、一種の実験の上で書かれた雰囲気があります。何の実験か――ユーモアとスラップス ティック、そしてまた風刺のようでも、象徴のようでもある。おそらく、そのどれもが正しくてどこか間違っているのでしょう。小説は決して一通りではなく、 どれも機通りかの読み方ができるものです。それは時代と共に移り変わっていく場合もありますし、人によって違うこともあるでしょう。レムの作品には、そういう無数の視点が可能な、幅広さが内在されています。

 まずレムは本書で無数の実験とバロディ、アイデアの検証をしたように思えます。タイトルがボーの「曇のなかの手記」のパロディですし、「まえがき」は冗談めかしています。ちょっと無理な比較かもしれませんが、筒井康隆『脱走と追跡のサンバ』に相当する作品だという気もするのです。各章にばらまかれたアイデアは、なんともユニークで深みがあります。あらゆるものを、別の方向からひっくり返していく、SFのもっとも基本的な発想が、至るところに見られるはずなのです。そのつもりで読んでみてはどうでしょうか。

 そして、40年目の新訳には新たな指摘がある。訳者は、ヤン・ポトツキ『サラゴサ手稿』(著者はポーランド人だがフランス語で書き、その訳題が『サラゴサで発見された手稿』だった)の表題とまえがき、作品スタイルなどを本書が広く踏襲したとする。さらにカフカはもちろん、ポーランドの亡命作家ゴンブローヴィチ(『フェルディドゥルケ』や『コスモス』で知られる)を意識した不条理スパイ小説仕立てであり、ホロコーストを暗示するなど(人体の一部を展示するホールが登場する)奥が深いというのだ。これまで十分ではなかった、ポーランド文学におけるレム作品の位置づけを再検証する意義を感じさせる。

 レムは当時「答えのない」ものをどう描くか模索していたと思われる。自身の初期SF(『マゼラン雲』や『金星応答なし』)の器ではそれらを書くには十分といえなかった。ミステリ形式の『捜査』である程度の目途を立て、『ソラリス』では異質であるがゆえに理解不能の知性を、『星からの帰還』では現代からは予測不能の未来を、『浴槽で発見された手記』では不条理極まる政治をと、それぞれの形式を吟味しながら「答えのなさ」を書き分けたのだ。

スタニスワフ・レム『火星からの来訪者 知られざるレム初期作品集』国書刊行会

Człowiek z Marsa, Nieznane wczesne utwory Lema,1946(沼野充義、芝田文乃、木原槙子訳)

装幀:水戸部功

 最初の長編『金星応答なし』(1951)以前に書かれたレム最初期の中短編と詩作を収録した、日本オリジナルの作品集である。

 火星からの来訪者(1946)ドイツが降伏したのと同じ頃(45年5月)、アメリカ北中部の山中に宇宙からの飛来物が落下する。3か月後、残骸を解析するチームに紛れ込んだ元記者は、それが火星からのミサイルで正体不明の機械を内蔵していたことを知る。
 ラインハルト作戦(1949)強制収容所に送られるユダヤ人狩りが始まっていた。混乱の中、貨車に押し込まれる人々と共に、ポーランド人医師が誤って乗せられてしまう。
 異質(1946)ドイツのミサイル攻撃が続くロンドン郊外に住む少年は、原理の分からない「永久機関」を発明してしまう。その謎を解くため、高名な学者のもとを訪ねるが。
 ヒロシマの男(1947)戦争末期、英国で諜報活動を行う主人公は、核が投下されるヒロシマに自分が諜報員として送り込んだ日系の英国人がいることを知る。
 ドクトル・チシニェツキの当直(1950)多忙を極める産科の当直医は、さまざまな出自の妊産婦たちや同僚の医師、看護師たちと生誕や死を切り抜けて仕事をこなしていく。
 青春詩集(1947/48)「カトリック週報」(1945年創刊の週刊誌とのこと)に掲載された、20代後半の青春時代に記した12編の詩。

 「火星からの来訪者」は300枚近くもあって、短い長編クラスといえる中編。解説にもあるようにウェルズ『宇宙戦争』を意識した作品である(宇宙から来た円錐形状の機械は、3本の触手を持っている)。しかし、強烈な放射線を発するその機械(ある種の生命とも考えられる)は、意思疎通の反応を見せながらも正体は明かされない。その点はウェルズと観点が異なっている。舞台が秘密基地のような閉鎖空間で登場人物が限られるなど、15年後の『ソラリス』の萌芽が窺われる。

 「ラインハルト作戦」「ドクトル・チシニェツキの当直」はもともと『主の変容病棟』3部作の、それぞれ第2部/第3部から抜き出されたものという。この2部/3部はレム自身によって封印されてしまったので、今後も翻訳は望めない。この両方の作品には共通する医師が出てくる。ユダヤ人狩りや戦争の傷跡を残す妊婦たちなど、大戦下/戦争直後のリアルを切り取った貴重な作品といえるだろう。「ヒロシマの男」はジョン・ハーシー『ヒロシマ』(1946)に影響を受けたとされる。戦争を身近に知っているが故の迫真的な描写に強い印象を受ける。

 「異質」は永久機関を発明した(と思い込む)少年の物語だが、その少年が相談する学者は哲学者ホワイトヘッドである。「火星からの来訪者」が科学者たちの物語(しかし解答は得られない)だとすると、「異質」は哲学/スペキュラティヴな解決を模索する物語なのだといえる。そういう、若きレムによる迷い(サイエンスだけでは解明できない事象に、思索的な裏付けを求める)までが読み取れる興味深い作品集だ。

スタニスワフ・レム『マゼラン雲』国書刊行会

Obłok Magellana,1955(後藤正子訳)

装幀:水戸部功

 スタニスワフ・レム・コレクションの第2期3巻目(通算で第9回配本)でレムの第2長編にあたる作品。1953年から54年に雑誌連載されて人気を博し、55年に単行本が出版された。1200枚弱にも及ぶ大作で、レムの既訳の長編中もっとも長く、また他では見られない構成で書かれている。広く東欧旧ソ連圏では翻訳が出たものの、日本での翻訳は本人からの許諾が得られず、長い間まぼろしの作品だった。

 32世紀、人類は巨大な恒星間宇宙船ゲア号を建造する。船には15層にも及ぶデッキがあり、四半世紀にも及ぶ航海を快適にするため、自然を模倣した環境まで造られている。物質転換炉(と思われる)エンジンを備え、光速の半分にまで達する恒星船は、227名の乗組員たちを乗せてアルファケンタウリを目指すのだ。グリーンランド生まれの主人公は、医師の資格で高倍率だった乗船資格を得る。

 本書が設定する32世紀では、人々は科学者か芸術家、あるいは医師のような専門職に就き、単純労働はすべてオートマトン(ロボット)が代行する。職業は自由に選べ、ロケット網と真空鉄道で結ばれた国境のない地球では、自由にどこにでも行ける。気候はコントロールされ、エネルギーは豊富にあり、何でも入手可能なので貨幣すら必要ない。ただ、太陽系は飽和しつつあり、外宇宙へと向かう気運が高まっている。

 日本で許諾が得られなかった理由はさまざまに考えられる(本書の解説に詳しい)が、本書が共産主義イデオローグになるのを嫌ったという説明(レムのインタビューによる)はどうか。『マゼラン雲』を読んでも、そういったプロパガンダめいたものはほとんど感じられないからだ。確かに、誰もが知的エリートの賢人統治ユートピアで、かつて共産主義究極の姿と考えられた社会(エフレーモフ『アンドロメダ星雲』も同様)を描いているが、これをイデオロギーと思う人は少ないだろう。年月を経たせいもあり、漂白された(リアリティが失せたが故に美しい)無色の理想社会なのである。

 むしろ、物語のバランスを崩すほど詰め込まれた科学者たちの議論や、詩人リルケの影響下にあったとされる叙情的な文章(あるいは、主人公の若くナイーヴな恋のエピソード)、後の諸作で否定される異質な知性とのコミュニケーションなど、わずか6年後に書かれるパーフェクトな『ソラリス』との落差が大きいように思われる。映画化の関係で翻訳されてしまった『金星応答なし』はやむを得ないとしても(1961年に翻訳)、代表作が紹介済み(『ソラリス』は1965年に翻訳)の国に、矛盾をはらんだ初期作をさらしたくなかったのではないか。

 本書には解説が3つも収められている。ポーランドのレム研究者イェジイ・ヤジェンプスキによる本国版全集のあとがき、訳者あとがき、沼野充義による解説である。それぞれ歴史的経緯や執筆当時の状況、レム作品史における本書の位置付け、連載版との差異や発行部数などなどの詳細な記載があり、ここまで多面的な分析が読めるのだから、日本の読者も待っただけの甲斐はある。

 ちなみに『マゼラン雲』をベースとしたチェコの「イカリエ-XBー1」(1963)は、ヌーベルヴァーグ版スタートレックとでもいえる映画。本書のエピソードを採り入れながらも、地球でのシーンが全くなく、だいぶ印象が異なる内容だった(それなりに楽しめますが)。

スタニスワフ・レム『地球の平和』国書刊行会

Pokój na Ziemi,1987(芝田文乃訳)

装訂:水戸部功

 スタニスワフ・レム・コレクション第2期2冊目(第1期を含めると8冊目)は、レム最後から2番目の長編である。《泰平ヨン》もので、《宇宙飛行士ピルクス》の『大失敗』と同じ年に出ているが、実際に書かれたのはこちらの方が早い。

 冒頭ヨンは半身の反抗に悩んでいる。何しろ右脳と意思が通じないのだ。右脳にあるはずの記憶も呼び出せない。原因は月面での事故にあった。人類は地球の平和を保つため、あらゆる軍事技術を月に封印した。しかしそれは欺瞞的なもので、月では各国の人工知能による軍事技術開発が依然として行われている。地球側は状況をモニタしていたが、最近になって偵察機がことごとく失われる事態が生じた。そのため、現地調査にヨンが赴いたのだ。

 『地球の平和』では、2つに分離された存在がいくつも重層的に登場する。脳梁切断で切り離されたヨンの右脳と左脳、本物の人体と遠隔人(リモート人体)、偽りの平和が訪れた地球(本書の表題の由来は小松左京「地には平和を」と同様、聖書のルカ福音書によるもの)と戦争に明け暮れる月、そして地球側組織間の拭いがたい不信感などなどである。

 それぞれに興味深い問いかけが出てくる。左右の脳が分離したとすると、自分(ヨン)の存在は2つに分裂してしまうのか。それとも、言語が使える理性的な左脳だけがヨンなのか。月のAIに支配された地域は国ごとに厳密に隔離され、別の地域に侵攻することは許されない。では、どうやって兵器を進化させるのか。その結果生まれる究極の兵器とは何か。そして、月から帰還したヨンの甦らない記憶を巡って、『浴槽で発見された手記』風の謎めいた騙し合いが繰り広げられる。

 レムは1982年から6年間、西ドイツの高等研究院やオーストリアの作家協会の招待など、オフィシャルな理由を付けて国外に脱出していた。不穏な国内情勢(戒厳令が敷かれるなどしていた)を嫌っての行動と思われるが、国を捨てる「亡命」までは踏み込まない。『地球の平和』は、そのころ(1984年5月)に書上げられたものだ。レムは認めてはいないものの、本書では当時の政治に対する疑念や揶揄が顔を覗かせている。

 本書の結末は、『インヴィンシブル』で仄めかされたウィルスの存在(下記リンクを参照)と直結したものといえる。月の各区画では、SUPS(スーパー・シミュレータ)が兵器を製造して、SEKS(セレクティブ・シミュレータ)がそれに対抗する仕組みが描かれている。これなどは、AIの機械学習方法であるGANとほぼ同じ考えだ。本書が書かれた1984年には、サイバーパンクを象徴するギブスン『ニューロマンサー』こそ出ているが、今日的なAIについては何も述べられていない。本書にある分散/離散化された雲のような存在は、クラウド上にあるニューロネットワークが生み出すAIを思わせる。しかも、それは実は「知能」などではなく「本能」、それも原始的な本能に近い制御不能の存在なのだ。まさに予言的な示唆である。

スタニスワフ・レム『インヴィンシブル』国書刊行会

Niezwyciężony,1964(関口時正訳)

装幀:水戸部功

 国書刊行会レム・コレクション第Ⅱ期の筆頭(通算7巻目)は、『砂漠の惑星』で知られる同著の53年ぶりの新訳である。旧訳はロシア語からの重訳だったが、本書はポーランド語から直接翻訳された決定版だ。グラシン紙のカバーから惑星面をイメージする円が薄く透けて見えるという、写真だけからは想像できない上品な装幀。標題『インヴィンシブル』とは無敵を意味し、主に軍艦の名称に使われてきた(そのあたりは訳者解説に詳しい)。本書に登場するインヴィンシブルは、所属する琴座星域で最強を誇る巡洋艦である。

 レギスⅢは赤色矮星のような太陽を巡る、火星ほどの大きさの惑星だった。寒冷化していて、海洋と大陸を持つが、奇妙なことに陸地には生命が一切存在せず砂漠だけが広がる。先に着陸した姉妹艦のコンドルが音信を絶ったことを受け、インヴィンシブルは遭難の真相を突き止めるべく派遣されたのだ。まもなく、先遣隊の運命が明らかになる。

 本書は500枚に満たない短い長編である。そのため一切の無駄がない。謎めいた惑星、行方不明の探検隊、未知の文明の存在、恐るべき敵の出現と一挙に物語は進む。終章に至って「無敵」の意味が象徴的に描き出される。しかし、枝葉がないからといって物語は単純ではない。沼野充義による解説では、アウシュビッツに絡めたレムの政治性の反映についても言及されており興味深い。解釈の余地はまだまだある。

 本書と旧訳とではいくつかの相違がある。一つは登場人物の名前で、艦長ホルパフと若い副長ロハンが、ホーパックとロアンに変わっている。旧訳では艦長がロシア人、主人公である副長はポーランド人と解釈されていた。しかし、新訳では国籍はどちらでもなくなっている。ロアンはフランス系の名前だという。もともと原著には国籍や人種への言及はない。未来のグローバル社会を示唆したというより、そういった本論から外れる(余談に流れる)要素をあえて排除したと考えるべきなのだろう。

 インヴィンシブルは惑星に着陸すると、直ちにエネルギーシールドを張り巡らし外敵の侵入に備える。これはアメリカ映画『禁断の惑星』などとよく似ている。しかし襲いかかってくるのが(精神分析の国アメリカらしい)フロイド的なイドの怪物(人間の無意識)なのに対し、本書ではサイバネティクスから生まれたまったくの非人間的存在であるところが対照的だ。

 レムはノーバート・ウィーナー(ちなみにウィーナーはポーランド系アメリカ人)のサイバネティクスに大きな影響を受けた。本書の訳文では、その専門用語が正しく反映されていて分かりやすい。登場する「雲」は、ウィーナーの同僚でもあったフォン・ノイマンによる「自己複製オートマトン」を思わせる。自己を無限に複製でき(単純コピーだけでなく、自分以上のものを作ることが可能)、自己の恒常性(ホメオスタシス)を保つ存在だ。現在のコンピュータはフォン・ノイマン型と呼ばれるが、自己複製オートマトンではない。コンピュータが勝手に自分を書き換えては困るからである。しかし、ほぼ同じ動きをするものがある。後の時代になって、それは「コンピュータ・ウィルス」と呼ばれるようになる。つまり、「雲」は「コンピュータ・ウィルス」の具現化とみなすこともできるのだ。『インヴィンシブル』はウィルスの概念を目に見える光景として活写し、ウィルス対人間の戦いを描いた世界最初のサイバーパンク小説といえる。

 また、本書には未訳作品名を含む詳細なバイオグラフィ(生まれてから生誕百周年の今年まで)が収められている。レムファンにとっては必読だろう。