谷口裕貴『アナベル・アノマリー』徳間書店

カバーイラスト:鈴木康士
カバーデザイン:宮村和生(SGAS DESIGN STUDIO)

 2000年に第2回日本SF新人賞(第11回まで続いた)を『ドッグファイト』で受賞した著者の、20年ぶりの連作短編集である。専門誌SF Japan(2000‐2011)に掲載した2短編と、書下ろし中短編2作(全体の3分の2を占める)からなる。徳間書店は、最終的にCCC系の連結子会社になるなど、経営的な課題もあり一時期SFから完全撤退していた。しかし、最近になって過去のコンテンツをリニューアルすると同時に、『クレインファクトリー』(三島浩司)など新作も手掛けるように変わってきた。本書はその一環である。

 獣のヴィーナス(2001)アナベルと呼ばれるサイキック少女が殺されてから15年が経った。しかし、不特定の場所でアナベルは復活し、世界を物理的に変容させる。そのつど制圧のためにジェイコブズのSixが出動する。今度の舞台はオーストラリアのダーウィンだった。
 魔女のピエタ(2003)物語は少し時代を遡り、初めてアノマリー(異常事態)による都市災禍が起こったプラハへと移る。そしてもう一人、魔女と呼ばれるサイキックの存在が明らかになる。
 姉妹のカノン(書下ろし)人の記憶を書き換えられるサイキック姉妹がいる。姉は事故で昏睡状態に陥るが、妹は反ジェイコブス運動のリーダーと接触し、過去のブエノスアイレスで起こったアノマリーを体験する。
 左腕のピルグリム(書下ろし)わずか12歳でSixを支配するほどの力を持ったサイキックは、ジェイコブズの権威を貶めながら、ロンドンから始まって世界各地に舞台を変えてアナベルとの戦いを続ける。

 解説で伴名練が指摘する「圧倒的な情報密度、視点人物の錯綜、頻繁に変わる舞台」という本書の特徴は、見方を変えれば「説明不足、視点の混乱、印象の散漫さ」にもなる。読者に投げられないため、細心の注意を払うべき書き方でもあるのだ。

 しかし、20年前の谷口裕貴は、パワーワードを駆使してお話の破綻を乗り切った。サイキックを産み出すレンブラントプロセス、アナベル対策の組織ジェイコブス、世界文学全集に拘泥する6人のサイキックSix(今年のハヤカワSFコンテストの『標本作家』を思わせるアイデア)、邪悪な復活を呼び込むアナベル・アナロジーと、刺激的で独特の造語が頻出するのだ。説明を最小限に絞ったが故に、得体の知れない不気味さと迫力が感じられる。一方、そういう力業を改め、物語のバランスを再考したのが書下ろし部分なのだろう。登場人物の過去に焦点を当てることによりキャラへの共感を高め、章ごとに変転する視点を整理するなど、読みやすさを重視したバージョンとなっている。

劉慈欣『三体0 球状閃電』早川書房

球状闪电,2004(大森望、光吉さくら、ワン・チャイ訳)

装画:富安健一郎
装幀:早川書房デザイン室

 2000年に初稿が書かれ、2004年に初めて雑誌掲載された著者の第2長編。2006年から連載が始まる《三体》の前なので、本来ならシリーズに含まれない単独長編である。しかし、登場人物の1人が後の主役ということもあり(著者の了解を得て)日本独自に『三体0(ゼロ)』を冠することになったようだ。

 14歳の誕生日に球電により両親を失った主人公は、憑かれたようにその奇妙な現象の物理的な解明に没頭する。球電研究を進める中、やがて軍の新概念兵器開発センターで女性少佐と知り合うようになる。自身の運命を左右するその人物は、率直さとは裏腹に、目的のために手段を選ばない無謀さを併せ持っていた。

 この物語の背景には戦争の影がある(1995‐96年にあった台湾海峡危機がイメージされている)。対アメリカの戦争に球電が検討されるのだ。障壁を自在に透過し、目標物(人体や集積回路)だけに作用する性質は兵器に向いている。ただし、さまざまな制約条件があり、シミュレーション小説(架空戦記)に出てくるようなスーパー兵器として扱われるわけではない。この制約が、物語に(後の《三体》でエスカレーションする)予測不可能な筋書きをもたらしている。

 《三体》と比べると、本書の場合は物語が立ち上がるまでがやや長い。前半では、マイナーな基礎科学研究を行う科学者の苦悩や、球電の性質に関するさまざまな(科学的技術的)実験が占めるからだ。キーマン丁儀(ディン・イー)が登場するのは物語の半ば近く、この飲んだくれ天才科学者(マッドサイエンティスト)が加わってからお話は急展開する。ついに明らかになる球電の正体にも驚かされる。

アーシュラ・K・ル=グウィン『私と言葉たち』河出書房新社

Words Are My Matter,2016(谷垣暁美訳)

装丁:山田英春
カバー写真:(c) Bettmann/Getty Images

 1年前に翻訳が出たエッセイ集『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』(2017)に続く、講演・評論・書評(書評のみ抜粋)を集めたエッセイ集。前著と併せて、2年連続でヒューゴー賞関連書籍部門を受賞したものだ。昨年は、未訳作品を抜粋した『現想と幻実』(底本は2016)なども出ており、亡くなって5年を経ても人気は衰えていない。

 まず詩と前書きがあり、講演とエッセイ21編が収められている。ル=グウィンはノンフィクションであっても物語のように読むという。数学や論理学のような抽象性は苦手、しかし統語論のような言語の論理なら受け付ける。そんな著者ならではのエッセイが、生家シュナイダー・ハウスについて書かれた「芸術作品の中に住む」(2008)である。

 この家は建築家バーナード・メイベックが設計したものだった。大建築を得意としたフランク・ロイド・ライトなどと違って、メイベックはサンフランシスコ・ベイエリアに一般向けの住宅を多く作った。レッドウッド(セコイア)の無垢材で造られ、さまざまな様式が組み合わされた家で、広々とした「虚空」(何もない空間)が配されていたという。影と光に満ちたその家での生活が、まさに物語のように鮮やかに語られる。

 一方、全米図書協会から米文学功労勲章を受章した際の講演「自由」(2014)では、利益追求に走るあまり芸術の実践をないがしろにする(Amazonなど巨大企業の)風潮を批判する。これも、若手が言えないことを代弁する著者らしい主張だろう。

 続いて書籍の序文や解説が14編。文書の性質上批判的なものはないが、作家論作品論として読みごたえがある。まず冒頭のディックでは、長年評価が低かったその境遇と『高い城の男』が書かれた背景や文体と視点の意味を解き明かす。

 SF関係は以下の通り。文明のたどり着く末路を警告したハクスリー『すばらしい新世界』、ここに描かれたビジョン自体が妄想かもしれないレム『ソラリス』、ジェンダーについての重要な視点を見落とされてきたマッキンタイア『夢の蛇』、(科学者とかのエリートではなく)普通の人々がより進んだ異星人の遺物に群がるストルガツキー『ストーカー』、言葉の持つ意味と音の双方を重視したヴァンス、後年の思索的な著作より30代までの初期SF作品が歴史に残ったウェルズ、などなど。

 他では、デイヴィスやマクニコルズら、西部を舞台とし大自然やそこでの人々の生きざまを描く(いわゆる西部劇ではない)小説への共感が印象的である。作品論においては、各作家の女性に対する姿勢を冷静に問うところがSF分野での先駆者らしい。

 最後に書評15編(32編から邦訳があるものを抜粋)。こちらもSF関係では、本人はSFと呼ばれることを望んでいないがSFの為すべきひとつを体現するアトウッド『洪水の年』、科学や時空を相手に言葉遊びをするカルヴィーノ『レ・コスミコミケ』、ボルヘスにも匹敵する実力がありながらマイナーなキャロル・エムシュウィラー(『すべての終わりの始まり』)、完璧な隠喩がすべてのレベルで働くミエヴィル『言語都市』と想像力の活力が驚くばかりの『爆発の三つの欠片』、小説の心臓部に死を秘めたミッチェル『ボーン・クロックス』、夢中になって読める本だが魔法の扱いはそれ以上といえるウォルトン『図書室の魔法』などがある。

 2000年から2016年まで、何れも70代から80代後半の最晩年期に書かれものである。そして、一番最後に日記「ウサギを待ちながら」が置かれている。シアトルの北にある女性だけの作家村に、一週間滞在したル=グウィンの記録だ。そこでは、創作活動に専念できる環境が提供されている。自然の中のコッテージで、小動物と美しい光景、流れすぎる気象の変化だけがある。これもある種の物語になっている。

伊藤典夫編『吸血鬼は夜恋をする』東京創元社

She Only Goes Out at Night and Other Stories,1975/2022(伊藤典夫編訳)

カバーイラスト:後藤啓介
カバーデザイン:岩郷重力+T.K

 1975年に文化出版局から出た伊藤典夫編訳のショートショート・アンソロジイに、9編を増補したもの(これらも50-60年代作品)。編者が32歳で編んだ初のアンソロジイでもある。収録作となると、先週のディッシュよりさらに時代をさかのぼる。改訂されたとはいえ、中味が半世紀を優に過ぎた本書に懐旧以上の価値があるかどうかを確かめてみた。

 ロン・ウェッブ「びんの中の恋人」(1964)埃まみれの酒瓶の中から精霊ジニーが現れ、3つの願いを聞いてくれるという。しかしそれには条件があった。リチャード・マシスン「死線」(1959)クリスマスの夜、老人が死を迎えようとしていたが、医師の聞いたその年齢は信じられないものだった。ジェイムズ・サーバー「レミングとの対話」(1942)山中を歩いていた科学者は、たまたま居合わせた人語を話すレミングと遭遇する。レイ・ブラッドベリ「お墓の引越し」(1952)改葬が必要になり、親戚を集めて墓を掘り起こそうとしたとき、一族の婆さまは昔の恋人を優先するように指示をする。ロバート・L・フィッシュ「橋は別にして」(1963)この国で自動車が占有している面積はどれぐらいあるのか、橋は別にして。リチャード・マシスン「指あと」(1962)バスには奇妙な二人連れの女が乗っていた。アーサー・ポージス「一ドル九十八セント」(1954)道端で助けた小さな神が、お礼に願い事をかなえてくれるという。ただし、願いも小さく1ドル98セント相当だけ。ウォルター・S・テヴィス「受話器のむこう側」(1961)2か月後の自分からだと名乗る電話がかかってくる。いまから話す内容を、残さずすべてメモせよと告げるのだ。ロバート・シェクリー「たとえ赤い人殺しが」(1959)果てしない戦争で死んだ男は、望まなかった再生を強いられる。ロバート・F・ヤング「魔法の窓」(1958)1枚だけのカンバスを売る少女の作品は、陰気だが妙に心を奪われるものだった。リチャード・マシスン「白絹のドレス」(1951)入ってはいけない部屋はママのものだった。そこには真っ白な絹のドレスが掛けられている。ウィル・スタントン「バーニイ」(1951)島にはわたしとバーニイだけしか残されていない。しかしその知能の高さには問題があった。デイヴィッド・H・ケラー「地下室のなか」(1932)建て替わった地上の家とは不釣り合いなほど大きな古い地下室を、その家の長男は幼いころから恐れていた。マン・ルービン「ひとりぼっちの三時間」(1957)突然、人々の気配やラジオ放送すら消え去る。男はたった一人都会に取り残される。ジョン・ブラナー「思考の檻」(1962)地下に閉じ込められた男には、無数の思考がこだまのように聞こえてくる。R・ブレットナー「頂上の男」(1960)未踏峰に一番乗りしたのは、実は世間で知られるあの男ではないのだ。リチャード・マシスン「わが心のジュリー」(1961)強固な性的妄想に突き動かされる男は、一人の女子大生に目を付ける。クロード・F・シェニス「ジュリエット」(1961)医師が病院から帰宅するとき、いつもジュリエットが待ち構えている。アルフレッド・ベスター「くたばりぞこない」(1958)老人は周りにいる人々からすれば、時代遅れのくたばりぞこないなのだった。アラン・E・ナース「旅行かばん」(1955)旅を続けていた男は、ある町で一人の女に惚れこみ結婚を申し出る。W・ヒルトン・ヤング「選択」(1952)未来を視たはずの時間旅行者なのだが、なぜか何も覚えていない。マーガレット・セント・クレア「地球のワイン」(1957)ナパバレーのぶどう園に異星人が訪れる。園主は最高のワインでもてなそうとする。フリッツ・ライバー「子どもたちの庭」(1963)特別な魔力を持った先生のいる学校とは。ジョン・コリア「恋人たちの夜」(1934)天使と悪魔が人間の女性に変身し、お互いの正体を知らずに人間の恋人を奪い合う。リチャード・マシスン「コールガールは花ざかり」(1956)訪ねて来た見知らぬ女は、うろたえる男に性的サービスのデリバリーを匂わせる。ウィリアム・テン「吸血鬼は夜恋をする」(1956)医師の息子がほれ込んだ女性は、なぜか夜にしか会うことができない。マイクル・シャーラ「不滅の家系」(1956)過去を遡り、名を遺す祖先を探し出す会社の社長は、最後に自分の祖先を知ろうとするが。エドガー・パングボーン「良き隣人」(1960)軌道上の宇宙船から巨大生物がアメリカの上空に飛来する。人間たちは慌てて対処しようとするが。A・E・ヴァン・ヴォークト「プロセス」(1950)異星の森林に宇宙船が着陸する。その森には集合的な意識があり、遠い昔に起こった事件を記憶していた。ピージー・ワイアル「岩山の城」(1969)岩山の城が作られ、崩壊し、また別のものへと再建されていく叙事詩的な物語。フレデリック・ポール「デイ・ミリオン」(1966)肉体も心のありようも変化した千年後の世界で、奔放に生きる恋人たちの生活。ウォルター・S・テヴィス「ふるさと遠く」(1958)学校プールの用務員は、ある朝そこにクジラがいるのに気が付く。

 以上、忘備録もかねて全作品を挙げた。マシスンは最多で5編もある。今日的な倫理観とは相いれないが、サイコパスと女性に対する恐怖症とが入り混じった作品が異彩を放つ。テヴィスの2編は、後の短編集『ふるさと遠く』にも入っていたアイロニーあふれるもの。それ以外は1作家1作品である。

 予想通りのオチでも語りが面白い「頂上の男」、筒井康隆「お紺昇天」に先行する「ジュリエット」は自動運転時代に相応しいかも、現代でも通用する憂鬱な未来を描く「たとえ赤い人殺しが」と「くたばりぞこない」、ネットドラマにでも使えそうな設定の「旅行かばん」「恋人たちの夜」と「吸血鬼は夜恋をする」がそれぞれ印象に残る。「デイ・ミリオン」のレトロフューチャーな雰囲気も良い。(これらが厳密に元ネタとはいえないが)定番アイデアの原点を捜すという読み方もできるだろう。総じて(いくらか注釈は必要ながら)いまの読者でも十分楽しめるレベルと思われる。

 34編中22編はF&SFやギャラクシー、ウィアード・テールズなど専門雑誌からの翻訳、あとは短編集や一般誌から選ばれたトラディショナルな小品である。掌編もあるが、概ね20枚弱前後の長さに収まっている。傑作選や別のアンソロジイなどに転載された有名な作品も含まれる。

 編者はMen`s Clubに1965~91年まで翻訳の連載を持っていた。本書の半分(75年分まで)はそこから選ばれたものだ。他は同時期のSFマガジンや、ミステリマガジンの掲載作になる。1970年以前の作品であれば、比較的新しいもの(60年代)でも版権なしで翻訳が可能だった。本書のショートショートに限らず、雑誌に載った伊藤典夫訳の中短編は多かったが、著者もテーマもばらばらな短編はまとめること自体が困難なため、ほとんど本の形で残っていない。

 文化出版局は1975~77年に《FICTION NOW》というレーベルを冠して、本書のほか、豊田有恒『イルカの惑星』、高斎正『クラシックカーを捜せ』、眉村卓『変な男』、矢野徹『王女の宝物蔵』、荒巻義男『時の葦舟』、浅倉久志編訳『救命艇の反乱』、田中光二『エデンの戦士』、豊田有恒編『日本SFショートショート選』を出した。日本作家の作品は再編されたり文庫化された(といっても20世紀以前だ)が、アンソロジイは埋もれてしまっていた。

トマス・M・ディッシュ『SFの気恥ずかしさ』国書刊行会

On SF,2005(浅倉久志・小島はな訳)

装幀:水戸部功

 発表当時日本でも話題を呼んだ、「SFの気恥ずかしさ」(1976)を含む評論集である。ディッシュ(1940‐2008)が亡くなる3年前に出たものだ。内容は1970年代から90年代にかけての書評や評論を、意味深なテーマ名に分けてまとめたもの。ディッシュについては若島正編の『アジアの岸辺』以外、アニメ化された『いさましいちびのトースター』(1980)を含め新刊では入手できない。7年前も同じことを書いたが、聞いたことすらないという読者がさらに増えたと思う。それでも、本書を含む国書刊行会の2冊を読めば、(詩人ディッシュこそ未紹介ながら)魅力の一端がうかがえるはずだ。

第一部 森
 SFは児童文学の1ジャンルであり、小説とSFの関係は、科学とサイエントロジーとの関係に近い(SFの気恥ずかしさ)/SFはアイデア優先なのか。しかし科学のアイデアに対する小説のアイデアは、証明不可能という意味で違うものだ(アイデア――よくある誤解)/神話は文学のどこにでも宿るが、特にSFに顕著である(神話とSF)/SFの人気はこれまでになく高まった(80年代後半)。やはり人気を得ているのは児童文学の1部門と述べたタイプである(壮大なアイデアと行き止まりのスリル――SFのさらなる気恥ずかしさ

第二部 祖先たち
 名声がありながら、ポーほどみじめな人生を送った作家はいない(ポーの呆れた人生)/ポーは神秘主義者でモダニストであるより、ずっとペテン師で遊説家だった(墓場の午餐会――ゴシックの伝統におけるポー)/ハクスリー『すばらしい新世界』は、予言的な未来のヴィジョンというより、奴隷労働者階級が存在しなくなる前の神話的な黄金時代に対する郷愁といえる(『すばらしい新世界』再再訪)/ブラッドベリのホラーはハローウィーンの仮装を思わせる。彼が芸術家だというのは、水道屋ではないという意味しかない(テーブルいっぱいのトゥインキー)/(クラークの評論集を評して)SFの学問の命運が編者のオランダーとグリーンバーグその他にゆだねられているのだと思うと、この分野が学会内部でもゲットー化するのはほとんど免れないと思う(原文ママ、ママ、ママ)/機械についての小説という限定的なカテゴリーでは、『楽園の泉』がトップに立つのは間違いない(天国へのバス旅行)/『2010年宇宙の旅』は行きつく先に衝撃や感動はないとしても、知的に閉じた感じはする。『ファウンデーションの彼方へ』は何の動きもないのと全く同じで、アイデアとして通用するものも何もない(宇宙の停滞期)/我々の未来の本当の建設者は、スポーツ馬鹿(ジョック)ではなくて、アシモフのようなガリ勉(ブレイン)なのだ(アイザック・アシモフ追悼)/ヴォネガットは父と息子の軋轢をドラマ化する作家の中では珍しく、常に世代の賢くも悲しい側に同情を寄せている(世代の溝を越えたジョーク)/ギーガーのイラストが選ばれていないSFアートの本は、オランダ芸術の本にレンブラントが記載されていないようなものだ(時間、空間、想像力の無限性――そしてとびっきりの筋肉

第三部 説教壇
 キングの最も顕著な長所は、日用品として、均一で安定した「製品」を生産できることだ。そこに(独自性や文体を裁定する)批評が介在する余地はない(王(キング)とその手下たち――〈トワイライト・ゾーン〉書評担当者の意見)/『ヴァリス』などイエスを扱う5冊の本を取り上げようとすると、なんとディッシュの目の前にイエスが姿を現した(イエスとの対話)/1980年版のSF傑作選で4割を占めるグループ(当時30代半ば)をLDGと総称する。彼らは芸術を捨て量産できる娯楽路線を選んだ。中ではブライアントがひどい(レイバー・デイ・グループ)/5冊を批評、ディックの短編集は良いものが含まれ、マッキンタイアは将来性を見込むが、オールディスは玉石混交、ファーマーは読み通せず、ハーネスはSFにする意味がない(一九七九年――綿くずと水の泡)/クズの本を編集者と書評家がが焚書するという、この祭りにふさわしい本とは(聖ブラッドベリ祭

第四部 選ばれし大きな樹
 ジョン・クロウリーの『エヂプト』(未訳)は、いつもの景色の中で太陽がより明るく輝き、普段の景色が素晴らしいものに変わったように感じる、稀有な人生の特別な日々のようだ(違った違った世界)/『エンジン・サマー』は、まずなんといっても、芸術作品であり得ている点で並外れたSFだ(クロウリーの詩)/ジーン・ウルフは大人の読者も満足させられるし、奇想天外な要素も質の悪い奇想ではなく詩になりうる芸術作品を作り出した(ウルフの新しい太陽)/サイバーパンクというポストモダンのスプロール現象で、ギブスンはいまでも『ヴァーチャル・ライト』を証拠として、最先端の思想家である(サイバーパンクのチャンピオン-――ウィリアム・ギブスンの二作品について)/最高のSFは必ず仮定の力によって働くが、『ディファレンス・エンジン』ほど効果的にその原動力を作用させたものはめったにない(ヴィクトリア女王のコンピューター)/『太陽クイズ』の序文に寄せた詳細な作家論・作品論(ディックの最初の長篇)/『最後から二番目の真実』には、ディック特有のスキーの滑降的な(矛盾が生じても立ち止まらない)書き方が反映されている(一九六四年にならえ

第五部 狂った隣人たち
 UFO体験を描くホイットニー・ストリーバー『コミュニオン』はノンフィクションを装うでっち上げだが、それを批判するディッシュも宇宙人に拉致されてしまう!(ヴィレッジ・エイリアン)/UFO体験と新興宗教は似ている。何のメリットもない大衆が支持するところを見てもそうだ(UFOとキリスト教の起源)/SFと宗教とはよく似ている。センス・オブ・ワンダーと「崇高」とは同じ、「真理」を守護する正統派がいるところも同じだ(SFという教会)/ブラヴァツキー、グルジェフ、シュタイナーら神智学の導師たちの欺瞞的な行動(まだ見ていない事実の確認)/SFは宇宙を描いてきたし、その結果現在の宇宙計画に大きな影響を与えた。しかし、それが軍事化され政治利用されるとなるとどうか(天国への道――SFと宇宙の軍事化)/共和党の保守派キングリッチに徴用された、パーネルら御用作家たちの行動(月光の下院議長―ニュート・ギングリッチの未来学参謀)/この映画がヒットしたのは、印象的な神の実像を描いて見せたからだ(『未知との遭遇』との遭遇)/『宇宙からの啓示』のホイットニーは幽体離脱してディッシュの夢の中にまで登場する!(最初の茶番

第六部 未来のあとで
 ピーター・アクロイド『原初の光』はどこを読んでも目も当てられない(生ける死者の日)/シンドバットの時代と現代とを交互に描いた『船乗りサムボディ最後の船旅』は、ジョン・バースの真骨頂である(おとぎの国バグダッド)/レムが最新の作品を読まずにアメリカSFを難じるのはいただけない(SF――ゲットーへの案内)/ドリス・レッシング『マーラとダン』(未訳)の世界は使い古しのプロットでできていて、情景はどこを見てものっぺりとしてかすんでいる(川を越えて、森を抜けて)/バロウズが初めての方には『裸のランチ』の方をおすすめする(首吊りの方法)/クリスティーン・ブルックローズ『エクスオアンドア』(未訳)は詩の領域に達した造語小説の傑作(天才キッズの秘密の暗号)/『アメリカポストモダン小説集』(未訳)は文学におけるポストモダンの無意味さを知らしめる(とんちんかん、ちんぷんかん、ちちんぷいぷい

 さて、表題作を含む『解放されたSF』(もともとは講演集)が1984年に翻訳されたとき、「SFの気恥ずかしさ」をSFスノッブ(マニア)に向けた辛辣なジョークとする見方が多かった。多少の本音は入っているとしても、「腹を抱えて笑う」べき冗談とみなされたのだ。しかし、本書を読むとそのトーンは一貫している。つまり、ユーモアを交えているとはいえ、ジョークではないのである。

 本書では、SFの読者は少年が夢想するような冒険物語(児童小説)を求めると説く。それは逆境の英雄が活躍する神話伝承ととても近い。ベストセラーとなる小説が、神話のパターンで書かれているのは偶然ではない。(無知蒙昧とまでは言わないまでも)本を読みなれない読者に容易く理解できるからだ。その定型で新鮮さを感じさせるためには「文体」の工夫が重要になる。立場はまったく逆ながら、冲方丁もキャンベル『千の顔を持つ英雄』(本書にも出てくる)を引き合いに同じことを言っている。

 総じてディッシュは、パルプ世代の作家や(クラークを除く)第1世代作家、ナショナリスト、疑似科学や宗教類似の詐欺に関わる作家に厳しい。一方、ベンフォード『タイムスケープ』、クロウリー『エヂプト』『エンジン・サマー』、ウルフ《新しい太陽の書》、ギブスン&スターリング『ディファレンス・エンジン』、ジョン・バース『船乗りサムボディ最後の船旅』、そして欠点を挙げながらもディックの諸作品を称える。褒める技術も並大抵ではない。

 ところで、レイバー・デイ・グループ(LDG)にはジョージ・R・R・マーチン、ヴォンダ・マッキンタイア、タニス・リー、ジャック・ダン、エド・ブライアント、マイケル・ビショップ、ジョン・ヴァーリイらが含まれる。この中では最近翻訳が出た『時の他に敵なし』のビショップが高評価され、ブライアントが酷評されている。当時のファンは、どちらかといえば若いLDG側に同情的だった(そりゃそうでしょう)。とはいえ、作家として生き残っているのは、神話伝承風の物語「ゲーム・オブ・スローンズ」を当てたマーチンくらいだ。本書の正しさを象徴するかのようである。