サラ・ピンスカー『いずれすべては海の中に』竹書房

Sooner or Later Everything Falls Into the Sea,2019(市田泉訳)

イラスト:カチナツミ
デザイン:坂野公一(welle design)

 雑誌(Web版も含む)掲載作をまとめたサラ・ピンスカーの第一短編集である。本書は2020年のフィリップ・K・ディック賞を受賞し、2014年シオドア・スタージョン記念賞短篇部門受賞作「深淵をあとに歓喜して」、2016年ネビュラ賞ノヴェレット部門受賞作「オープン・ロードの聖母様」など13作品を含む。

 一筋に伸びる二車線のハイウェイ:事故で失った右腕は義手に置き換わり、BMIで脳と繋がっているはずなのだが、なぜかそこにはハイウェイがあるのだ。
 そしてわれらは暗闇の中:妊娠を諦めていた主人公は夢の中でベビーを手にする。ベビーは順調に育っていく。
 記憶が戻る日(リメンバリー・デイ):いつもママは今日が何の日か思い出さない。その日はパレードがあるのに。
 いずれすべては海の中に:満潮の浜辺に人が打ち上げられる。豪華船で演奏していたロックスターなのだという。
 彼女の低いハム音:本物のおばあちゃんの代わりになる、人工的なおばあちゃんをお父さんが作ってくれる。だが、そんな生活は長く続かない。
 死者との対話:AI付きの模型ハウスで、殺人事件があった屋敷を再現する仕事は、アルバイトには最適と思えたが。
 時間流民のためのシュウェル・ホーム:ホームに収容されている人びとは、さまざまな過去を見ることができた。
 深淵をあとに歓喜して:夢の多い建築家だった夫は、ある仕事を契機に熱意を急に失ってしまう。老境に入った妻は、夫が脳梗塞で倒れたあとその理由を突き止めようとする。
 孤独な船乗りはだれ一人:港の沖の島にセイレーンが棲み着く。出港できなくなった船乗りたちは、子どもなら歌声に惑わされないと考えつく。
 風はさまよう:世代宇宙船の中で生まれた子どもたちは、地球の文化に興味が向かない。しかし、その文化の記録は一度失われたものだった。
 オープン・ロードの聖母様:配信型のホロコンサートばかりになった世界で、ライブを捨てきれないバンドメンバーは、おんぼろ車に機材を詰め込みツアーを続ける。
 イッカク:くじら形の改造車を母親から相続した依頼人に雇われ、主人公は長距離ドライブの運転手を勤めることになる。
 そして(Nマイナス1)人しかいなくなった:カナダ東部の孤島でユニークなコンベンションが開かれる。何しろ200人のサラ・ピンスカーが集うというのだ。

 掌編級の短編から長中編までさまざまだが、説明は最小限、オープンエンドで締めるケリー・リンク風なのは共通している(本書はリンクが主催する小出版社スモール・ビア・プレスから出た)。そこにSF的なタームやできごとが、さりげなく挟み込まれるのだ。何か不穏な事件が起こって悲惨な結果を招いたらしい、だがその原因は明らかにされない。なぜかハイウェイがあり、どこかで戦争があり、世界は破滅しつつあるようで、ホームの正体は分からず、改造車の秘密は匂わされるだけで終わる。

 音楽は複数の作品で言及される重要なツールだ。「オープン・ロードの聖母様」は後に長編化され『新しい時代への歌』になった。「そして(Nマイナス1)人しかいなくなった」からは「吉田同名」+クリスティ、加えてコニー・ウィリスばりのユーモアがうかがえる。悲劇的でもあくまでもポジティヴ、背景からアメリカンロックのリズムが聞こえてくる。

デイヴィッド・ウェリントン『最後の宇宙飛行士』早川書房

The Last Astronaut,2019(中原尚哉訳)

カバーイラスト:鈴木康士
カバーデザイン:岩郷重力+A.T

 謎の天体オウムアムアが太陽系を通過してから5年、本書はそれにインスパイアされた異色のファーストコンタクトものである。著者は1971年生まれのアメリカ作家。オンライン小説でスタートし、これまでにホラー(ゾンビ、吸血鬼)サスペンスものや、ペンネームでスペースオペラの3部作を書くなどしてきた。これまでは賞と縁がなかったのだが、この作品は2020年のクラーク賞最終候補に挙がり高評価を得た。

 2034年、NASAによるオリオン計画は火星有人着陸を目指すオリオン6号でピークを迎えていた。しかしそこで重大な事故が発生、宇宙飛行士1名が失われ、火星計画自体がキャンセルとなる。それから20年、宇宙空間は無人機を重用する宇宙軍と、民間会社のKスペースに牛耳られている。だが、太陽系外から飛来した巨大な天体2I/2054DIにより事態は一変する。それは地球接近軌道に乗るため、意図的に減速しようとしていたのだ。

 まず設定が面白い。NASAは零落していて、ファーストコンタクトを図ろうにも宇宙飛行士がいない。急遽、かつてのオリオン号船長を務めた中年女性飛行士をカムバックさせる。Kスペースは(イーロン・マスクを思わせる)韓国系大富豪のワンマン会社で、勝手に宇宙船を送り出してしまう。あくまで利権を優先するため、NASAと協力する気はないのだ。

 宇宙飛行士や科学者たちは、細長い船体の回転軸付近にあるエアロックから船内に入っていく(円周に近づくほど、遠心力が大きくなる)。彼らが進むにつれ、氷に覆われ凍り付いていた内部がだんだんと目覚めるのだ。本書がクラーク賞の候補となったのは『宇宙のランデヴー』(1973)のラーマに近いからではないかと思われる(著者は言及していないが)。

 ラーマは全長50キロ、幅20キロの円筒状、最初内部は凍結している。一方の2Iは全長80キロ、幅10キロの紡錘形。内部が凍結している設定は同じながら「解凍」されてから生まれてくるものは、おもちゃ箱のようなクラークとウェリントンではまったく違う。違いは読んでいただくとして、クリーンで科学探査の雰囲気が濃厚なクラークに対し、本書は人間ドラマ中心のホラーに近い展開になっている。それにしても、この(由緒正しい)題材をこういう物語にしてしまうとは、ちょっとびっくりかもしれない。

シルヴィア・モレノ=ガルシア『メキシカン・ゴシック』早川書房

Mexican Gothic,2020(青木純子訳)

装幀:柳川貴代(Fragment)、装画:佳嶋

 著者はメキシコ系カナダ作家。5年前にアンソロジー『FUNGI-菌類小説選集』(2012)の編者として紹介があったものの、これは一部でしか話題にならなかった。本書は2021年のローカス賞ホラー長編部門、カナダのオーロラ賞、英国幻想文学賞のベストホラーなどを受賞した著者のベスト長編だ。ベストセラーにもなり、ドラマ化の予定もある

 1950年のメキシコ、主人公はメキシコシティに住む資産家の子女だが、田舎町に嫁いだ従姉から不可解な手紙を受け取る。内容を案じた父親の要望もあり、主人公はハイ・プレイスと称する深山の邸宅へと遠路旅をする。そこはかつて銀鉱山で財を成した英国人による広壮な屋敷だったが、いまは荒れ果てて見る影もなかった。

 霧に包まれた陰気な英国風の建物、家長の老人は生粋の英国系でメスティーソの血を引く主人公に差別的な目を向け、その息子で従姉の夫は美男だったがどこか高慢さを感じさせる。家人や使用人たちは異常に無口、そして一族には謎めいた歴史があった。

 「アメリカン・ゴシック」(絵画→ドラマ)を思わせる表題ながら、本書『メキシカン・ゴシック』は、単純にメキシコを題材にしたホラーではない。オリジナルの設定に加え、さまざまな工夫が凝らされた作品だ。主人公は女性ながら大学で人類学を学び、その傍ら富裕層たちのパーティに入り浸る遊び人。政治に関われない時代(メキシコの婦人参政権は1953年)でもあり、学問は子を産むまでの遊興としか見られていない。女性差別と人種差別、さらに貧富の差が重なり合い、メキシコなのになぜか東欧の城塞のような陰鬱な建物が舞台となっている。この多重構造が読者を飽きさせない。現代の視点で味付けされた正統派ホラーのスタイルながら、ヴァンパイアが出るか/クトゥルーなのか……と思いきやの意外な方向へと変化していく。

 メインとなるアイデアは、日本にもマニアが多いアレである。例の映画とか短編は、著者ももちろん見ているようだ。それでも書きたかったテーマなのである(ネタバレになるのであとは本文で)。

チャーリー・ジェーン・アンダーズ『永遠の真夜中の都市』東京創元社

The City in the Middle of the Night,2019(市田泉訳)

装画:丹地陽子
装幀:岩郷重力+W.I

 本書は『空のあらゆる鳥を』でネビュラ賞などを受賞した著者の第3長編にあたり、2020年のローカス賞長編部門を受賞、クラーク賞の最終候補作にも選ばれた作品だ。

 ジャニュアリーは自転周期と公転周期とが一致する潮汐固定された惑星だった。灼熱の昼と、酷寒の夜とが固定されているのだ。そこに恒星間宇宙船マザーシップによる植民が行われるが、生存可能なのは昼夜の境界となるわずかな薄明地帯のみだった。数世紀を経て植民都市の状況は悪化している。物語は、宮殿のある都市に住むわたし(一人称)と、交易のため都市間を渡り歩くマウス(三人称)の2つの視点で語られる。

 わたしはギムナジウムの学生で、行動的な友人に惹かれるうちに反体制活動に巻き込まれ警察に目を付けられる。一方のマウスは絶えてしまった漂泊民〈道の民〉だったが、いまでは密輸グループ〈運び屋〉の一員になり相棒と親しくなる。やがて、この2組は(思惑に反して)旅の仲間となるのだ。男も出てくるが、この2人の主人公、友人や相棒はすべて女性である。

 潮汐固定された惑星という設定では、最近でも小川哲「ちょっとした奇跡」などがあり、生存可能な領域の狭さ(ふつうなら不可能なのだ)が物語の緊張感を高めるポイントになっている。本書では、一つの都市の中でも焼け死ぬほどの暑さと凍え死ぬ寒さの領域が同居するという設定だ。そして、惑星にはワニやバイソン(外観はさほど似ていない)と呼ばれる土着の生命がいて、人類の存続に対する野蛮な脅威と考えられている。

 物語は過酷な惑星に秘められた知性の解明と、友情/愛情の成就/蹉跌を描きながら進んでいく。潮汐固定惑星というハードSF的な面よりも、異質なもの同士の相互理解と尊重に重点を置いた内容だろう。

ジョナサン・ストラーン編『創られた心 AIロボットSF傑作選』東京創元社

Made to Order,2020(佐田千織 他訳)

装画・扉絵:加藤直之
装幀:岩郷重力+W.I

 年刊SF傑作選など多数のアンソロジイを手懸けた、オーストラリア在住のジョナサン・ストラーンによるAIロボット・アンソロジイ。16人の作家による16編を収録する。大部なのは、先に出たJ・J・アダムズ編アンソロジイが抄訳だったのに対し、本書は全編が翻訳されているからだ。

 ヴィナ・ジエミン・プラサド「働く種族のための手引き」:工場を出たばかりのAIと先輩AIとがネットの中で会話を続ける。
 ピーター・ワッツ「生存本能」:土星の衛星で生命を探すプロジェクトは、成果を上げないまま遠隔ロボットの故障に見舞われる。
 サード・Z・フセイン「エンドレス」: タイの大空港を管理していたAIは昇進コースから外され、得体の知れないところに押し込められる。
 ダリル・グレゴリイ「ブラザー・ライフル」:脳に損傷を受けた兵士は、何事も決断できなくなった。兵士は戦闘ロボットの元オペレータだった。
 トチ・オニェブチ「痛みのパターン」:ネットから断片的なデータを取り出し、顧客に販売する会社で、主人公はAIのアルゴリズムに関わる不正を知る。
 ケン・リュウ「アイドル」:弁護士事務所のリーダーは、裁判の陪審員や裁判官の心証を操るため、人格シミュレーションを徹底する。
 サラ・ピンスカー「もっと大事なこと」:全自動の邸宅で富豪が事故死する。死因に疑問を覚えた息子は、真相を探るように探偵に依頼する。
 ピーター・F・ハミルトン「ソニーの結合体」:闘獣をコントロールする能力を持つ主人公は、復讐のために黒幕のアジトに乗り込む。
 ジョン・チュー「死と踊る」:仕事のあとフィギュアスケートを教えるAIロボットは、自分のさまざまな部品が寿命を迎えようとしていることを認識している。
 アレステア・レナルズ「人形芝居」:恒星間宇宙船の乗客に重大事故が起こる。ロボットたちはその事実を糊塗しようと画策する。
 リッチ・ラーソン「ゾウは決して忘れない」:片腕がバイオガンとなっている子どもは、表題の一文だけを思い起こしながら殺戮を続ける。
 アナリー・ニューイッツ「翻訳者」:AIは人として認められていたが、彼らが人間と話すときには特殊な翻訳者が必要だった。
 イアン・R・マクラウド「罪喰い」:最後の法王が亡くなって転位しようとするとき、一台のロボットがその前に訪れる。
 ソフィア・サマター「ロボットのためのおとぎ話」:「眠れる森の美女」から「クルミわり人形」まで、全部で15話に及ぶさまざまなおとぎ話のロボットバージョン。
 スザンヌ・パーマー「赤字の明暗法」:少年に両親が資産として買ってくれたのは、古い生産用ロボットだった。
 ブルック・ボーランダー「過激化の用語集」:工場で生産された人工生物である主人公は、自分に感覚があるのが理解できなかった。

 16人のうち名のある作家は一部で、多くは著書がまだ少ない新鋭である。それでも、メジャーな賞の候補や受賞者ともなった旬の作家たちだ。

 英米人(欧州系)を除くと、ヴィナ・ジエミン・プラサド(シンガポール)、サード・Z・フセイン(バングラデシュ)、トチ・オニェブチ(ナイジェリア系米国人)、ケン・リュウ(中国系米国人)、ジョン・チュー(台湾)、リッチ・ラーソン(ニジェール、EU在住)、ソフィア・サマター(ソマリ系米国人)と出身国は多彩だ。とはいえ、全作ともオリジナルから英語であり翻訳ではない。広い意味での英語圏作家たちといえる。

 AI(現代的なAI=人をフェイクするもの、人を超えたシンギュラリティ的存在、デジタル生命、擬人化された人間のカリカチュア)、ロボット(殺傷兵器、古典的なマリオネット、バイオ的なキメラ)とその操縦者(ふつうの人間、特殊能力者、サイボーグ)、それらを組み合わせて寓話的に扱ったり、アクションのツールや、コメディ的な道化にしたりと読みどころは多い。

 印象に残るのは、司法制度の欺瞞を暴く「アイドル」、人とAIとの溝の深さを暗示する「翻訳者」、罪の意味をアイロニカルに問う「罪喰い」、三方行成みたいな「ロボットのためのおとぎ話」などである。

パトリシア・ハイスミス『サスペンス小説の書き方』フィルムアート社

Plotting and Writing Suspense Fiction,1966/1981(坪野圭介訳)

装画:桑原紗織
装幀:仁木順平

 パトリシア・ハイスミス(1921ー95)は『太陽がいっぱい』などで知られる米国作家である。人物の深層に焦点を当てる作風で、欧州ではサスペンスというより文学として評価されてきた。本書は、経験の浅い初心作家向けの書きかた読本だ。初版から半世紀を経て未だに読まれ続けている。ただし、テクニカルな(技巧的な)ハウツーものではない。多くの事例を自作から引いているが(主に河出文庫から新訳で入手可能)、著者の良い読み手とは言えない評者でも十分に理解できる内容である。

 アイディアの芽:はじめ小さなアイディアでも、作家の想像力によって物語になる。それに気づかないと意味がないので、ノートを常備して書き留めておく。主に経験を用いることについて:本を書くのにルールはない。しかし、人工的なギミックに頼るのではなく、経験で得られる感受性に自覚的であることが重要だ。サスペンス短編小説:短編は小さなアイディアから生まれる。マーケットの要求もさまざまなので、ギミックやあらすじを含め常にストックしておくと良い。発展させること:発展とは熟成のこと。登場人物やプロットに厚みをつけ、物語の雰囲気を決め、アイディアを発展させる。プロットを立てる:章ごとにアウトラインを書いてポイントを決め、物語のテンポを考える。自由に動き出す登場人物を放置することが良いとは限らない。第一稿:第一稿では書きすぎるケースが多い。全体の進捗とバランスに考慮する。執筆する環境も習慣化するなどで安定させる。行き詰まり:さまざまな行き詰まりがある。次の章を思い浮かべながら見通しを持つ、正しい視点なのか見直す、匂い色や音などの感覚を取り入れるなどを試みる。第二稿:第一稿を通して、弛緩したり不明瞭なところ、人物の変化と感情の隔たりがないかを確認する。それらに短いメモを付ける。登場人物が気にかかる存在になってるかを注意する。退屈なシーンなど、重要な問題は優先的に片付けていく。改稿:編集者から求められた改稿には対応する。特定の登場人物を除くよう求められることもある。長編小説の事例──『ガラスの独房』:自著を具体例にして上記の各ポイントを検証する。サスペンスについての一般的なことがら:サスペンスというラベル付けは障害でしかない。作家は残虐さや暴力以上のことを書くことで、その評価を上げることができるだろう。

 著者には(少なくともアメリカでは)サスペンス作家というレッテルが貼られてきた。SF/ミステリ/ホラーなど、これらは売りやすさを意図した商業的なジャンル別けに過ぎない。著者はそれを逆手にとって「あらゆる物語にはサスペンスがある」「いま出たのなら、ドストエフスキーの作品の大半もサスペンス小説と呼ばれる」と、印象的な人間ドラマ全般をサスペンス小説に再定義してみせる。確かに読者の記憶に深い印象を刻むためには、本書で述べられた方法が有益になるだろう。ただし、技能(テクニック)と才能(人を物語で面白がらせる能力/意欲)は両立すべきもので、どちらか片方だけでは作家になれないのだ。

クリスティーナ・スウィーニー=ビアード『男たちを知らない女』早川書房

The End of Men,2021(大谷真弓訳)

カバーイラスト:mieze
カバーデザイン:早川書房デザイン室

 著者は英国在住の弁護士で本書が最初の著作になる。2019年にいったん書き上げられ、昨年出版されるとパンデミックとの暗合もあって忽ち評判となった。本書の原題はもっと直截的(『男たちの終わり』)なのだが、邦題はティプトリーの短編「男たちの知らない女」に準拠している(と思われる)。ティプトリーの作品は男から見えない女の隠された能力を暗示したもの。また、男が絶滅した社会という設定だけならジョアンナ・ラス「変革のとき」に近いかも知れない。とはいえ、本書の切り口はそれらとはだいぶ異なるものだ。

 2025年、英国グラスゴーで奇妙なインフルエンザが発生する。発症した患者は数日のうちに次々と亡くなり、しかも男性ばかりなのだ。発見した医師の初期の警告は無視され、病気は瞬く間に他国へと広がっていく。男の致死率は90パーセントを超え、世界は半分の人口を失うことになる。

 群像劇である。扉に書いてある人物だけで26人、実際には女性中心にもっとたくさんの人々が登場する。大学の研究者、救急病院の医師、ウィルス学者、遺伝学者、新聞記者、情報局員、警官などなど。ただし、物語はそれぞれの役職だけではなく、夫婦や親子関係の葛藤で動く。妻が保菌者になって、息子や夫に致命的な病を移すかもしれない恐怖。このあたりは現在のコロナ禍と似ているだろう。舞台は英国内がほとんどだが、フランス、カナダ、アメリカ、シンガポール、中国なども含まれる(正直なところ、英米圏以外の描写にはリアリティを感じないが)。

 人口が半分にまで急減して、このような形での復興が可能なのかどうかは議論の余地があるだろう。しかし、本書はそもそも英国伝統のアフターデザスターノベル(世界破滅後を描く)とは違う。まったく新たな世界、新秩序が創造されるわけではないからだ。男社会は強制的に終わる。しかし人口の9割を占める女性によって、世界はより平和で滞りなく治められるのである。

R・A・ラファティ『とうもろこし倉の幽霊』早川書房

Ghost in the Corn Crib and other stories,2022(井上央編訳)

カバーイラスト:unpis
カバーデザイン:川名潤

 全編初訳作品で編まれた、編者オリジナルのラファティ短編集である。「ボルヘスにあやかって『ラファティの伝奇集』と題したい」(編訳者あとがき)とする幻想性の強い内容だ。編訳者は古くからのラファティ研究家で、これまで『子供たちの午後』『蛇の卵』などを青心社から出してきたが、本書は(旧シリーズを含めて)初の新☆ハヤカワ・SF・シリーズ版になる。既存作品のベスト選だったハヤカワ文庫SFの《ラファティ・ベスト・コレクション》と対を成す作品集だろう。

 とうもろこし倉の幽霊(1957)老犬だけにしか見えない幽霊が、とうもろこし倉に出るらしい。2人の少年はその幽霊の正体を確かめようとする。
 下に隠れたあの人(1960/67)舞台の箱から人を消すマジックが得意なマジシャンは、あるとき予定していなかったみすぼらしい男を呼び出してしまう。
 サンペナタス断層崖の縁で(1983)その断層崖は、羽の生えたウミガメなど変異生物の源だった。6人の大学研究主任と12人の天才少年少女たちが激論を交わす。
 さあ、恐れなく炎の中へ歩み入ろう(1971)イクチオ人別名〝奇妙な魚たち〟は地球最初の知的存在であると自称している。彼らは秩序の担い手なのだった。
 王様の靴ひも(1974)アメリカ・ゴジュウカラ及び類縁鳥類観察者連盟(NRBWA)の会合で、主人公はテーブルの下に小さな人々がいるのに気がつく。
 千と万の泉との情事(1975)世界中を巡る男は、万を越える泉を訪れてはいた。しかし、完全な自然はどこにもないと語る。パターンがあるものは完璧ではないのだ。
 チョスキー・ボトム騒動(1977)チョスキーの川窪にすむ〝せっかちのっそり〟はハイスクールのアメフトで圧倒的な活躍をするが、ある日突然姿を消してしまう。
 鳥使い(1982)鳥を自由に操る少年の姿をした鳥使いと〝血の赤道化師〟の集団とが儀式のような奇妙な秋祭りで争い合う。
 いばら姫の物語(1985)世界は10世紀に終わっている。実は5世紀にラクダに呑まれ、8世紀には魚に呑まれ、さらに昔には異教の神の脳内に吸収されていたらしい。
 *括弧内は執筆年(ラファティの作品は、売れるまでに時間を要したものが多い)

 「サンペナタス断層崖の縁で」(作品選定時点では執筆年不詳だった)を除けば、基本的に執筆年代順に並べられている。ハヤカワ文庫でセレクトされた作品と比べると、さらに奇想度が増していることがわかる。冒頭の標題作にしても、田舎の古いとうもろこし倉にお化けがでるというありふれた怪談の体裁だが、大人たちが話す(食い違った)伝承を交えながら、あくまで少年の(不確かな)体験として描かれるのだ。

 以降、とても奇妙な登場人物たちが続々と出てくる。頭文字が小文字の名前を持つ男、変異動物=モンスターズ、奇妙な魚たち、ゴジュウカラと小人たち、泉の精、ねじれ足=せっかちのっそり、鳥使いなどなど。ラファティ得意の超知能を持つ1ダースの子供たちや、《不純粋科学研究所》のロボットであるエピクトらも登場する。

 「千と万の泉との情事」や「鳥飼い」などには、ラファティの根源的な考え方、(神によってもたらされた)秩序と、秩序を持たない混沌という二項対立の関係が鮮明に描かれている。異様な世界を描きながらも、これらは無秩序を肯定するものではない。ラファティの根底にはキリスト教に基づく世界観が常にあるからだ。イエスに笑みを浮かべさせようとするジョーク(編訳者あとがき)という独特の解釈が面白い。

アンディ・ウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー(上下)』早川書房

Project Hail Mary,2021(小野田由利子訳)

カバーイラスト:鷲尾直広
装幀:岩郷重力+N.S

 昨年5月に出たばかりのアンディ・ウィアー最新作(第3長編)である。アメリカでは出版忽ちベストセラーの話題書、出版前から映像化の話も進んでいる。標題の「ヘイル・メアリー(ヘイルメリー)」とは、アメフト用語で一発逆転のパスのこと。僅差ゲームでのギャンブル技で、確率はかなり低いのだが成功すれば勝てる。いかにもアメリカンスポーツらしいドラマチックな逆転サヨナラを生みだすのだ。

 さてしかし、本書には重要な仕掛けが何カ所かあり(ネタバレを嫌う昨今の風潮からしても)あまり詳しくは書けない。あらすじなどは本書カバー(及び冒頭部分の公開)で記載された内容までとするが、気になる方は本書読後にお読みください。

 主人公は奇妙な部屋で目覚める。ここがどこなのか分からない。ロボットの音声らしきものが執拗に問いかけてくる。何のためか分からない。だが、刹那に断片的な過去の記憶が甦ってくる。最初に思い出したのは、友人の科学者との会話だった。太陽から延びる未知の帯状の雲が、太陽の出力(エネルギー)を奪っているのだという。それも地球環境に重大な影響を及ぼすレベルで。

 なぜ野尻抱介が(下巻の)帯文を書いているかというと、共通点を持つ先行作品のためだろう。冒頭の設定がこうなら、ハードSF的にはむしろ必然的に「このテーマ」になる。同じ要素があるからこそ似てしまう。もちろん、その先行作品と本書とは、お話的にまったく異なるのだが。

 例外はあるものの、本書の主な登場人物は科学者とエンジニアである。ある種の(地球的規模の)デザスター小説なのに政治家はほとんど出てこない。肝心の科学者たちは目的に対しては極めて有能であるが、およそ常識外れで奇矯な振る舞いをする。世間体や人間関係には無頓着、主人公もそんな一人だ。人類存亡を賭けたミッションに巻き込まれるのに、犠牲精神とか崇高な倫理観とかは持ち合わせていない。まあつまり、至ってふつうの理系人間なのである。しかし、理科系特有の探究心と真因をどこまでも追求する執念は備えている。それがないと科学者は務まらないからだ。

 主人公は理系のオタクでたった一人、舞台は地球から遠く離れた異世界、救援は物理的に困難/自力解決以外に方法はない、という状況は『火星の人』と同じである。前作『アルテミス』は人間ドラマが半分程度を占めた。悪くはないけれど、それはウィアーの本領ではないだろう。本書は原点に復帰した作品といえるが、一つ大きなポイントを追加している。「このテーマ」を「こういう関係」で爽やかに描くのは本書が最初ではないだろうか。
(註:宇宙ものに限らず類似作品はありますが、ここまで深くはない)

ヘンリー・カットナー『ロボットには尻尾がない』竹書房

Robots have no tailes,1952(山田順子訳)

装画:まめふく
デザイン:坂野公一(welle design)

 ルイス・パジェット名義で出版された同題の短編集である。翻訳にあたり、著者名がカットナーに、収録順序が発表年代順に並べ替えられている。ルイス・パジェットはカットナー&C・L・ムーア共同ペンネームの一つだが、本書はカットナー単独で書かれたものらしい(原著のムーア序文による)。カットナーは1915年生まれ、多彩なペンネームを使い分けブラッドベリらを指導するなど活躍するも、1958年に若くして亡くなっている。日本で単行本や文庫が出たのは1980年代までで、あとは散発的に短編が紹介されるのみだった。本書は人気シリーズ《ギャロウェイ・ギャラガー》をまとめたものだ。

 タイム・ロッカー(1943)酔いが覚めると実験室の片隅にロッカーが置かれていた。それには入れたものの形を変形させる効果があるらしい。
 世界はわれらのもの(1943)二日酔いで目覚めると、窓の外でうさぎのような小さな生き物が叫んでいた。「入れてくれ! 世界はわれらのものだ!」
 うぬぼれロボット(1943)テレビ会社のオーナーと称する男が、一週間前に依頼した仕事の成果を求めてくる。何かを提案したはずだが、まったく覚えがない。
 Gプラス(1943)裏庭に巨大な穴が空いている。実験室には得体の知れない機械があり、しかも警官までが会いに来ているという。
 エクス・マキナ(1948)* ギャラガーがいつものように酒を呑もうとすると、未知の生き物がその酒をさらっていく。動きが速すぎて目にも停まらない。
  *…初訳、他の作品も改題新訳

 主人公ギャロウェイ・ギャラガーは天才科学者なのだが、酔っ払わないとその才能(潜在意識)が目覚めない。ただ、酔いに任せて作った驚くべき発明品は、しらふだと動作原理どころか目的も分からないのだ。物語は、なぜこれを発明したのかを(しらふに戻った)自分が解明していくという倒叙型スタイルで書かれている。「Gプラス」などは、1つの謎だけでなく、何段階にもわたる重層的な謎が潜んでいる。どうなるか、予測不能のアイデアストーリーである。

 すべて、キャンベル編集長時代のアスタウンディングSF誌に掲載されたもの。カットナーが大量のペンネームを駆使して書いていたのは、専門誌の原稿料が安く、かつSF作家が単行本を出せない時代だったせいもあるだろう。多作ながら早逝したカットナーは、本国では高い評価を得られなかった(近年になって回顧的な傑作選は出ている)。草創期の1960年代からたくさんの翻訳がなされてきた日本でも、作品集となると総集編的なオリジナルの3冊だけである。36年ぶりに出た本書はとても貴重だ。

 本シリーズのキャラクタ(酔っ払いのマッド・サイエンティスト、同じく酔っ払いの父親、マスコットのような火星人、ケチな欲望に駆られる弁護士や金満家、シースルーのボディを持つナルシストのロボットなど)はとてもコミカルだ。サブスク方式のテレビとか、書かれた当時(TV普及以前の戦前)からすれば、かなり先進的なアイデアも含まれている。それでも、サイバーパンクとまではいかない。アメリカの60年代アニメを見ているようなレトロな気分になる。どこにも存在しない、懐かしい未来のコメディなのだ。