アーシュラ・K・ル=グウィン『文体の舵をとれ』フイルムアート社

Steering the Craft A 21st Century Guide to Sailing the Sea of Story,1998/2015(大久保ゆう訳)

装画:モノ・ホーミー

 副題が「ル=グウィンの小説教室」とあり、自らが主催したワークショップ(創作講座)の内容をまとめた1998年版を、21世紀の現状に合わせて改めたアップデート版である。経験ゼロの純粋な初心者向けではなく、すでにプロアマを問わず作品を書いている作家のための手引き書だ。もともと英語の技法について書かれているので、日本の読者には合わないのではないかと思われるが、発売(7月30日)1ヶ月で3刷と好評である。ファンの多いル=グウィンの本であること、翻訳者にも参考になること、豊富な練習問題が読者のチャレンジ精神をくすぐるという面もある。ただし、問題に「模範解答」はないので、答え合わせは自分で行う必要がある。

 作品を声に出して朗読することによって文のひびきを知ることができる、どこに句読点を打つかで印象はまったく変わる、一つの文の長さをどれぐらいにすべきか、繰り返し表現は冗長ではなく効果的に使える、いかに形容詞と副詞をなくして文章を成立させられるか、人称と時制をごたまぜにすると読み手が混乱する、どのような視点(ポイント・オヴ・ビュー)を選ぶかで語りの声(ヴォイス)は違ってくる、視点の切り替えは自覚的にすべきだ、説明文で直接言わず事物によって物語らせる、文章に的確なものだけを残す詰め込み(クラウディング)と不要なものを削除する跳躍(リープ)が必要である(以上は評者による要約)。

 「言葉のひびきこそ、そのすべての出発点だ」文章を声に出して(小声ではだめで、大きな声で)読み上げる。コンマ=読点は日本語でもあるが、コンマ(休止)とセミコロン(短い休止)を使い分け息づかいを調整する技などは、読み上げを重視する著者だからこそ。形容詞と副詞をなくすのは難しい。その難しさを克服することで文章が磨かれる。ル=グウィンはまた文法を重視する。最近はアメリカでも実践重視で、文法(グラマー)はあまり教えなくなったらしい。しかし、文法に則った文書を分かっていないと、それを壊した新たな文体を生み出すことはできない。単にでたらめになるだけである。人称に伴う視点と時制(日本語では明確ではない)も厳密にコントロールしないと混乱した文章になる。

 英語向けではあるが、これらは日本語を書いたり読んだりする上でも意味がある。ジェーン・オースティンからヴァージニア・ウルフなど、古典作家による豊富な実例も載っている。エンタメ小説だからといって、単に筋書きとアクションシーンだけでは成り立たない。本書で述べられた各種の技巧(クラフト)を駆使することで、彩りやリズムが生まれ深い印象を与えられるのだ。付録には合評会(リモートも含む)の具体的な運営方法が載っている。仲間の意見は貴重だが、誰かの一人舞台になったり、けなし合いや褒め合いに陥りがちだ。同様のことを進める際の参考になるだろう。

エイドリアン・チャイコフスキー『時の子供たち(上下)』竹書房

Children of Time,2015(内田昌之訳)

デザイン:坂野公一(well design)

 著者は1972年生まれの英国作家。2008年のデビュー後は、主にファンタジイを書いてきた。本書は初のSF作品だが、2016年のアーサー・C・クラーク賞を受賞するなど高い評価を得たものだ。好評を受けて、すでに続刊の Children of Ruin が2019年に出ている(これは同年の英国SF協会賞を受賞している)。

 地球は滅亡の危機にある、そう考えた人類は複数の異星をテラフォーミングする計画を立てる。完成までには時間がかかるため、人を送り込むのではなく、動物と知性化を促進するナノウィルスをセットで投入するのだ。だが、非人類を使う計画に異議を唱える過激派により実験ステーションは損傷を受ける。統括する科学者は軌道上で緊急避難的な冷凍睡眠に入り、地上では予期しない動物、蜘蛛たちによる文明が育まれようとしていた。

 物語は2つの視点で語られる。1つは、原始的な部族社会から、やがて統一された文明国家へと進化していく蜘蛛たちの視点。言葉や文字ではなく、知識を遺伝子に直接書き込むことで伝承するため、同じ知識を持つ子孫は(世襲のように)同じ名前を持っている。もう1つは、滅んだ文明から脱出した世代宇宙船の人類の一団である。二千年に及ぶ恒星間飛行を冷凍睡眠で切り抜ける。登場人物は断続的に冷凍睡眠を繰り返しているので、二千年+数百年であってもほぼ同じメンバーが支配層になる。ピーター・ワッツ『6600万年の革命』でも登場したが、時間を超越するためSFでは時々使われる仕掛けだ。蜘蛛たちの進化は『竜の卵』的でもある

 お話は、蜘蛛社会と宇宙船の人間という二重の時間の流れで構成されている。人間社会は旧テクノロジーを維持する単独の宇宙船だけという設定なので、急速に進化する蜘蛛族に対して絶対的な優位性はない。登場人物は、(世襲とはいえ)前向きに生きる蜘蛛に対して、(いくら冷凍睡眠しても)次第に老いていく人間たち。となると、非人間であっても(擬人化されていることもあり)前者の方が魅力的だろう。著者は意図的にそうしていると思われる。世代宇宙船やテラフォーミングといった古典的なアイデアに、性差別といった現代的要素を交えたことで、かえって新鮮さを感じる作品になっている。

 本書に出てくる蜘蛛は、日本の家の中でもよく見かけるハエトリグモらしい。手足が短くごく小さなクモ(イエバエと同サイズくらい)なのだが、しぐさに何となく愛嬌がある。続編はタコらしい。それにしても英米人はいつからクモやタコの愛好家になったのだろう。

ンネディ・オコラフォー『ビンティ』早川書房

BINTI:The Complete Trilogy,2015-2017(月岡千穂訳)

カバーデザイン:川名潤

 著者は1974年生まれの米国作家。両親がナイジェリア出身で、自身の出自を明確に意識したアフリカ系アメリカ人だ。この作品もアフリカン・フューチャリズム(アフリカの文化や視点に基づくもの)であり、欧米生まれのSFとは異なるルーツで書かれたものとする。本書は3つの中編(原著にあった書下ろし中編は含まれず)からなる長編。第1作目(第1部)が2016年のヒューゴー賞(同様の主張をするジェミシン『第五の季節』と同年)、2015年のネビュラ賞をそれぞれ中編部門で受賞している。

 未来のアフリカのどこか。田舎に住む伝統的な調和師である16歳の少女が、保守的な家族の反対を押し切って異星にある名門大学へと旅立つ。彼女の一族からその大学に入学したものはいないのだ。だが、新入生を乗せた宇宙船は何ものかの襲撃を受ける。

 調和師とは、ハンドメイドの通信端末作りに携わる工芸家で、高度な数学的センス(ある種の直感力?)を有する。主人公は閉鎖的で伝統重視のヒンバ族(現在のナミビアに住む少数民族)に属する。乾燥地帯には、砂漠の民もいる。地球の支配層クーシュ族はクラゲ状の異星人メデュースと対立しており、ちょっとしたきっかけで戦争になる。一方、大学は銀河中のあらゆる異星人を受け入れるオープンな施設である。宇宙船もユニークで、エビに似た姿を持つ生体宇宙船なのだ。

 物語では、広い世界を見ようと飛び出した主人公が、次第に調和師としての自我に目覚め、姿形のまったく異なる異星人すら味方に付け、葛藤しながらも大いなる宥和へと向かう姿が描かれる。本書中には風習の違いや少数民族に起因する差別はあるが、いまの欧米で見られるような意味での人種差別とは異なるものだ(クーシュ族は白人ではない)。テクノロジーも今現在の延長線上にはないようで、そういう価値観の転換が面白い。アフリカン・フューチャリズムを体現しているのだろう。

 アフリカ、それも西海岸のナイジェリアとなると、日本人は知識もなく関心が薄い(過去のビアフラ内戦や、現在のイスラム過激派ボコ・ハラムによるテロ活動など、ネガティヴな情報を耳にしたことがあるかも知れない)。しかし、ナイジェリアは人口2億余、ブラジルに匹敵する大国で、アジア時代(21世紀前半)の次にくるアフリカ新時代(21世紀後半)には、世界のリーダーになると目される国だ。そこに、複数(250)の民族に由来する独特の文化があっても不思議ではない。われわれの見たことのない新たな光景が描かれることに期待したい。

アーカディ・マーティーン『帝国という名の記憶(上下)』早川書房

A Memory Called Empire,2019(内田昌之訳)

カバーイラスト:Jaime Jones
カバーデザイン:早川書房デザイン室

 アーカディ・マーティーンは1985年生まれのアメリカ作家だ。パートナーはファンタジー作家のヴィヴィアン・ショーで、共にサンタフェに在住する。ビザンツ帝国史で博士号を取得し、後に都市計画の修士号を得て現在はそちらを生かした仕事に就いている。SF作家としてのデビューは2012年、本書は2019年の初長編だが、2020年ヒューゴー賞長編部門を受賞するなど高い評価を受けた。経緯は異なるものの、初長編でいきなりブレークした『最終人類』と似たところがある。スペースオペラに歴史の専門分野を織り込み、エキゾチックな雰囲気を配した作品だ。

 遠い未来、銀河宇宙は大帝国テイクスカラアンにより支配されている。小さな独立ステーションにすぎないルスエルは新任大使を首都に送り込むのだが、そこで連絡を絶った前任大使の謎めいた行動が明らかになる。何を画策しようとしていたのか。足跡を追ううちに、新任大使の身にも次々と難事が降りかかってくる。

 登場人物の名前が変わっている。帝国の人々はスリー・シーグラス、シックス・ダイレクション、ワン・テレスコープなど、数字と単語を組み合わせた奇妙な名を持つのだ。しかも、ビザンツとアステカが混ざりあった文化を持つ帝国では、意見表明の際に詩の朗読をする風習になっている。ただし、物語の(文明の衝突などの)文化人類学的な側面はあくまでも背景にすぎない。主人公とペアの案内役(第一秘書的な地位)の2人が、宮廷内で密かに進む陰謀の真相に切り込むサスペンスがメインとなる。このあたりは、ジョン・ル・カレのスパイ小説から影響を受けたと著者自身が述べている。

 帯に『ファウンデーション』×『ハイペリオン』とあるのはちょっと書きすぎで、それらと本書では銀河帝国やスターゲートが出てくる以上の共通項はない。解説で指摘されるもう一つの影響元C・J・チェリーが、日本で絶版状態なのは惜しいと思う。チェリーの描く異世界は、ファンタジー寄りではなくSF的だったからだ。本書ではその設定を前提に、表紙イラストに描かれた『ゲーム・オブ・スローンズ』風の玉座を巡る、権謀術数のドラマが楽しめるだろう。登場人物の関係は性差もなく今風。また、続編 A Desolation Called Peace は今年出たばかりだが、すでに翻訳が決まっているそうだ。

メアリ・ロビネット・コワル『火星へ(上下)』早川書房

The Fated Sky,2018(酒井昭伸訳)

カバーイラスト:加藤直之
カバーデザイン:岩郷重力

 昨年8月に翻訳が出た『宇宙へ』の続編。原著は正続とも2018年に出ているため、賞を総なめした正編に比べると本書は評価に恵まれなかった。とはいえ、内容的には前作に劣らない面白さといえる。

 最初の女性宇宙飛行士〈レディ・アストロノート〉で知られる主人公だったが、現在の任務は月コロニーと地球とを結ぶ小型往還機の副操縦手という面白みのないものだった。一方、国連主導による宇宙開発は火星コロニー建設まで進んだものの、最大の資金拠出国のアメリカで予算削減の動きが起こる。宇宙開発を維持するためには、何か派手な宣伝活動、演出が必要だった。

 前作からおよそ10年後1961年の物語である。主人公は紆余曲折を経たあと、最初の有人火星着陸船チームの一員となる。貨物船を従えた有人船2機にチームの14名が分乗するのだ。コンピュータは力不足でまだまだ操船の自動化はできず、航行には天測(六分儀を使う!)と手計算が欠かせない。チームは国際協調を謳うために、黒人や女性を含む諸外国の乗員がいたが、南アフリカ人(アパルトヘイト政策下の白人男性)は黒人差別を隠そうともしない。役割分担も不公平だった。その上、主人公は大戦中から知り合いの船長を毛嫌いしている。いかにも何かが起こりそうでしょう?

 本書の注目ポイントは、問題だらけの設定で起きるさまざまな危機だ。半世紀前の価値観だけでなく、現在でも続くジェンダーや肌の色、LGBTQの差別までが織り込まれている。小さな集団なので、どれもが任務を脅かす恐れがある。それらを組み合わせ、トラブルの1つが解決すると別の1つがほころびるという、連続ドラマ的(「フォー・オール・マンカインド」的)な波瀾万丈さをドライブしているのは著者の巧さだろう。

キジ・ジョンスン『猫の街から世界を夢見る』東京創元社

The Dream-Quest of Vellitt Boe,2016(三角和代訳)

カバーイラスト:緒賀岳志
カバーデザイン:岩郷重力+W.I

 本書は、7年前に短編集『霧に橋を架ける』が翻訳されているキジ・ジョンスンによる、250枚ほどの中編小説(ノヴェラ)である。2017年の世界幻想文学大賞などを受賞、ネビュラ賞やヒューゴー賞を受賞した中編「霧に橋を架ける」(2011)以来の高評価を得た作品だ。

 主人公はウルタール大学女子カレッジのヴェリット・ボー教授。ある日、カレッジの学生が知り合った男と駆け落ちしてしまう。だが、男も学生も特別な出自のものたちだった。逃亡先へは簡単にはたどり着けない。しかし連れ戻さなければ、この街そのものが危険にさらされる。主人公は若いころの旅装束をふたたび着け、一匹の猫を連れて、さまざまな脅威に満ちた「夢の国」の辺境へと捜索の旅に出る。

 表題の「猫の街」とは冒頭に登場するウルタールのこと。ある事件(ラヴクラフト「ウルタールの猫」(1920)参照)の後、決して猫を殺してはいけない街になった。解説にも書かれているとおり、本書はラヴクラフトの初期作品〈ドリーム・サイクル〉に属する「未知なるカダスを夢に求めて」(1926)のオマージュなのである。ダンセイニの影響が大きいとされ、後期のクトゥルーものよりも幻想色が濃い。ラヴクラフトについては、近年その差別的な言動から忌避される傾向にあるが、その一方、黒人作家ヴィクター・ラヴァルや本書の女性作家キジ・ジョンスンなど、作品自体を再評価する声も根強くある。捨てがたい魅力があるのだ。

 本書の主人公は、かつて〈ドリーム・サイクル〉の主役ランドルフ・カーターと恋仲だったという設定になっている(元の作品では主人公格の女性は出てこない)。カーターのような夢見る人は、その眠りの中で「夢の国」を創り、王として君臨する。彼らは目覚めると現実の世界に戻れるのだ。夢とうつつでは流れる時間すら異なる。主人公は夢見られるはかない存在なのだが、「鍵」を得ることで目覚めた世界=現代のアメリカに行くことができる。物語は、ラヴクラフトのカダスをなぞりながらも、その本家を凌ぐ壮麗さで主人公の冒険行を見せてくれる。ちなみに、猫は主人公ではありません。

伊藤典夫編訳『海の鎖』国書刊行会

Chains of the Sea,2021(伊藤典夫編訳)

装幀:下田法晴+大西裕二

 国書刊行会の叢書《未来の文学》最後の一冊。最初の作品『ケルベロス第五の首』が出たのが2004年なので17年ぶりの完結である。河出の《奇想コレクション》のときも『たんぽぽ娘』が最後だった。とはいえ、叢書の1つ前『愛なんてセックスの書き間違い』が2019年に出ているので、それほど間が空いたようには感じない(と思うのは、老齢による時間感覚遅延のせいかも)。本書は、過去に伊藤典夫自身が翻訳してきた作品(原著1952~85/翻訳68~96)を、自らが選んだ自選傑作選である。

 アラン・E・ナース「偽態」(1952)金星の探査を終え、地球を目前とした宇宙船内で、明らかに人間と異なる血液を持つ乗組員がみつかる。異星人が潜入したのか。
 レイモンド・F・ジョーンズ「神々の贈り物」(1955)異星の宇宙船が着陸、国連は東西陣営と中立国を交えた使節団を送り込むが、人類側には政治的な思惑があった。
 ブライアン・オールディス「リトルボーイ再び」(1966)2045年8月6日、その日に大きなイベントが行われる。しかし、何の記念日なのかは誰も知らなかった。
 フィリップ・ホセ・ファーマー「キング・コング堕ちてのち」(1973)キング・コングの墜落死を目撃した少年は、いま孫娘にそのときの記憶を語っている。
 M・ジョン・ハリスン「地を統べるもの」(1975)アポロ計画により月の裏側で発見された神が降臨する。主人公は〈神の高速道〉を調査するように指令を受ける。
 ジョン・モレッシイ「最後のジェリー・フェイギン・ショウ」(1980)TVやラジオ放送で地球人を学んだ異星人が、お下劣な話術で人気のTVショーに出演する。
 フレデリック・ポール「フェルミと冬」(1985)戦争が起こり、核の冬により地上の人々も生き物も死滅していく。アイスランドに逃れた人々は必死に生き延びようと戦う。
 ガードナー・R・ドゾワ「海の鎖」(1973)異星人の宇宙船が地上に忽然と現われたが、かれらは人類側のあらゆる試みを無視して反応しない。一方、田舎町に暮らす少年は、家庭的な問題を抱え、大人には見えない存在と会話することができた。

 全部で8編あるうちの5作品に異星人(神を含む)が出てくる。「擬態」はかなりストレートなボディ・スナッチャー(体から心まで人に化ける)もの。「神々の贈り物」は映画「地球が静止する日」ふうで、異星人は使節としてやってくるが、その中で主人公の心理に人間的なひねりがある。70年代になると、異星人そのものは物語の正面から後退する。答えのない謎に満ちた「地を統べるもの」や、ばかげたTV業界を皮肉っぽく描く「最後のジェリー・フェイギン・ショウ」に変わっていくのが面白い。中編「海の鎖」では、異星人は人類にまったく興味を示さない。これは大人が見えないもの、見失ったものと交感できる少年の物語なのだ。

 「リトルボーイ再び」は翻訳された当時(1970年)、むしろプロの間で騒ぎになった。世代的にまだ生々しい戦争の記憶が残っていたからだ。だがそれから半世紀が経ったいま、われわれはまだ当事者意識を持っているだろうか。歴史的悲劇は個人の体験でしかない(体験者が亡くなれば失われる)という、この小説の描いている世界に近づきつつあるように思える。

アマル・エル=モフタール&マックス・グラッドストーン『こうしてあなたはたちは時間戦争に負ける』早川書房

This Is How You Lose the Time War,2019(山田和子訳)

カバーデザイン:川名潤

 2019年に出てヒューゴー賞やネビュラ賞、ローカス賞、英国SF協会賞(それぞれノヴェラ部門)など5賞を軒並み受賞した話題作。もともと中編の長さなのでコンパクトで読みやすい。著者はレバノン系カナダ人アマル・エル=モフタールとアメリカ人マックス・グラッドストーンのコンビだ。

 時空の覇権を賭けて《エージェンシー》と《ガーデン》という2つの組織が争っている。レッドは前者に、ブルーは後者に属する有能な工作員だ。各陣営は自分たちに有利な時間改変の種を植え付け、相手のそれを根絶やしにしながら勢力範囲となる並行世界(ストランド)を拡張/消滅させようとしている。そんなあるとき、戦いを終えたレッドはこの世界にはあり得ない一通の手紙を見つける。

 時間を股にかけた2大組織の抗争というと、サンリオSF文庫世代の読者なら、フリッツ・ライバー『ビッグ・タイム』の《スネーク》と《スパイダー》を思い出すだろう。ライバーも単純な冒険活劇ではないのだが、本書の場合はさらに奇妙で、レッドとブルーはお互い惹かれ合い、組織に知られない方法で(メールでもSMSでもない)文通を交わそうとするのだ。エージェント同士が「文通」するってなに? ちなみに、本書の中で2人の性別は女性(文中では彼女とある)のようではあるが、もしかすると、われわれのような性を持たない存在かも知れない。

 手紙はさまざまなところに隠れている。クリーム色の紙、MRIの中の水、僧院の納骨堂、神殿に収められた古代の(Appleの)シリ、あるいは何世紀も経た木の年輪。本書の最大の特徴として、歴史(時間ものなので)から文学作品と音楽(シェリー、テニスン、キャロル、キーツ、そしてディランなどポピュラー・ミュージックまでさまざま)に至る多彩でお洒落な引用がある。日本の読者には分かりにくいけれど、手紙のバリエーションと絡めて、詩的でリズム感ある文体の一要素だと解釈すれば楽しめるだろう。

J・J・アダムズ編『この地獄の片隅に』東京創元社

Armored,2012(中原尚哉訳)

装画:加藤直之
装幀:岩郷重力+W.I

 3月に出た本。『スタートボタンを押して下さい』(2015)と同じ編者による「パワードスーツSF傑作選」である(発表年的には本書の方が古い)。編者は LightspeedNightmare Magazine 等の電子/Web版雑誌の編集を長年手がけ、年3~4冊のペースでアンソロジイの編纂も行うなど、独自の短編市場を切り開く活動を続けているJ・J・アダムズ。

 本書は、傑作選といっても既存作品からのセレクトではなく、すべて書下ろしのオリジナル・アンソロジイになっている。訳者が全23編から12編を選び、読みやすいように掲載順序を入れ替えているのは前作と同じスタイルだ。原著よりコンパクトなことが人気を呼んだのか、7月にはさらなる新刊 Federations,2009 が予定されている。

 ジャック・キャンベル「この地獄の片隅に」有毒な大気に満ちた惑星で、異星人と交戦する機動歩兵の部隊は将軍から直々に無謀な命令を受ける。
 ジュヌヴィエーヴ・ヴァレンタイン「深海採集船コッペリア号」藻類を刈り取る作業船が、水中に沈んでいたデータドライブを偶然見つける。そこに映っていたものとは。
 カリン・ロワチー「ノマド」人とロボットが一体化した融合者は「縞」と呼ばれる縄張りを作り、他の縞との抗争を繰り返していた。
 デヴィッド・バー・カートリー「アーマーの恋の物語」その天才発明家は、決して自身のパワーアーマーを脱がないことで有名だった。
 デイヴィッド・D・レヴァイン「ケリー盗賊団の最期」19世紀のオーストラリア、隠棲した発明家のもとに強盗団の一味が現われ、実現不可能と思われる兵器製造を命じる。
 アレステア・レナルズ「外傷ポッド」戦闘中に負傷し医療ポッドに収容された兵士は、それでも戦闘に関わろうとするが。
 ウェンディ・N・ワグナー&ジャック・ワグナー「密猟者」全域が自然保護区となった地球で、異星の密猟者に対処するアーマーを着たレンジャーたち。
 キャリー・ヴォーン「ドン・キホーテ」スペイン内戦末期、アメリカ人のジャーナリストは、劣勢の共和国軍の開発した恐るべき新兵器を目撃する。
 サイモン・R・グリーン「天国と地獄の星」凶暴な植物が生い茂る惑星にハードスーツを着た要員が送り込まれる。彼らにはそうならざるをえない過去が隠されていた。
 クリスティ・ヤント「所有権の移転」もともとの外骨格の所有者が殺される。殺人者が代わりに使おうとするが、もちろん思い通りには動かない。
 ショーン・ウィリアムズ「N体問題」ワープゲートの終点にある星は異星人達の坩堝だった。そこで主人公はメカスーツをまとう女と出会う。
 ジャック・マクデヴィット「猫のパジャマ」強烈な放射線を放つパルサーを巡る観測ステーションから連絡が途絶える。補給船はその中で唯一の生命反応を見つける。

 日本で単行本が出ている作家は、ジャック・キャンベル、カリン・ロワチー、アレステア・レナルズ、サイモン・グリーン、ショーン・ウィリアムズ、ジャック・マクデヴィットと結構いるが、現行本が残るのはキャンベルくらいだろう。逆に言えば、作者名にこだわらず内容だけで読めるわけだ。

 パワード/アーマードスーツというアイデアがハインライン『宇宙の戦士』由来だとすると、必然的に本書はミリタリものになりそうなものだが、実際にはミリタリーSFは少数派である。キャンベルとレナルズくらいしかない。代わりに知性を持ったアーマー/外骨格が主人公になったり、宇宙服の延長線上やスチームパンクのメカ、アーマーを着ていることが設定の一部になっていたり、あるいは事件解決の手段になったりする。やや強引なものを含めて、機動歩兵ばかりがアーマーネタではないのだ。最後の作品は(古い読者は誰もが思うように)クラークネタ。ただし、オチに使っていないのがミソ。

マイクル・ビショップ『時の他に敵なし』竹書房

No Enemy But Time,1982(大島豊訳)

デザイン:坂野公一(welle design)

 名のみ高いまま翻訳されることがなかった(そういう作品は、まだいくつもある)1983年のネビュラ賞長編部門受賞作。マイクル・ビショップの長編という意味では、3年半前に『誰がスティーヴィ・クライを造ったのか?』が出ているのだが、そちらはメタ構造の変格ホラー小説だった。本書はタイムトラベルものであると同時に人類学SFでもあるので、ビショップ全盛期80年代の代表作といえるだろう。表題はイェイツの詩の一節 The innocent and the beautiful/Have no enemy but time. から採られたもの。

 200万年前のアフリカ東部に、一人の空軍兵士が送り込まれる。そこには人類直系の祖先にあたるホモ・ハビルスたちが暮らしていた。時間旅行には制約があり、タイムトラベラーとその時代とが同調している必要があった。若い兵士はその条件に適合していたのだ。だが、過去と現在を結びつけていた通信が途絶してしまう。

 本書では2つの物語が描かれている。200万年前に島流しされた男の苦闘と、自分は何ものなのかを探る出自をめぐる物語である。主人公は小柄な黒人男性、実母はスペインの娼婦だったが赤ん坊の頃に捨てられ、アメリカ人軍属の養子となる。養父はヒスパニック、養母の実家は保守的な田舎で差別は日常的にある。主人公は赤ん坊の頃から、200万年前の世界を夢の中で見る“魂遊旅行”をすることができた。やがて、著名な古人類学者の目に留まり、アメリカ軍がアフリカの新興国と秘密裏に進める時間旅行計画に参加することになる。

 複雑な過去を抱えた主人公の葛藤を背景に、200万年前のホモ・ハビルス女性との不思議な愛情関係が描かれる物語は、日ごろエンタメ小説を読まない読者にもお奨めできる重層的な構造になっている。魂のタイムトラベルというのも、それが個人のルーツではなく人類のルーツにつながるという点でいかにもSF的だが、主人公の心の問題の一解釈ともいえる。

 訳者は本書を最低でも2回読めと薦めている。難解ではないが、実際それだけの内容をともなう作品だろう。600ページを超える分量(原稿用紙で1000枚越え)があり、読み応えも十分だ。あいにくなことに、評者はまだ1回しか読めていませんが。