早川書房編集部・編『世界SF作家会議』早川書房

装画:森泉岳士
装幀:早川書房デザイン室

 フジテレビの地上波番組(ただし東京ローカル)で放映された全3回の「世界SF作家会議」(2020年7月/2021年1月/同2月)をまとめたもの。全員が(たとえスタジオに居ても)リモート参加で、6分割画面という今風のスタイル。カットシーンを補完した拡張バージョンは現在でもYouTube版が視聴できるが、本書は文字にする段階でさらに手を加えた決定版である。担当ディレクター黒木彰一がSFファンだったために実現した企画だという。海外の作家も参加したので(陳楸帆が同時通訳参加、劉慈欣/ケン・リュウ/キム・チョヨプらはビデオ参加)、世界SF作家会議でも大げさではないといえる内容になった。

【第1回】コロナパンデミックをどうとらえたか/パンデミックと小説/アフターコロナの第三次世界大戦(冲方丁)アフターコロナのトロッコ問題(小川哲)アフターコロナのセックス(藤井太洋)アフターコロナは・・・・・・ない(新井素子)/劉慈欣のメッセージ。

【第2回】パンデミックから一年・・・・・・SF作家たちはどう見たか?/人類はチーズケーキで滅亡する(小川哲)人類は宇宙からの災難で滅亡する(劉慈欣)人類はポスト人類で滅亡する(ケン・リュウ)人類は愛で滅亡する(高山羽根子、藤井太洋)人類は目に見えないもので滅亡する(キム・チョヨプ)人類は滅亡しない(新井素子)/地球滅亡の日に食べるなら、ご飯か麺か。

【第3回】SF作家が考えるコロナ禍の現状/100年後の企業帝国と惑星開拓(冲方丁)100年後の和諧(ハーモニー)(陳楸帆)100年後はサイボーグたちの世界(キム・チョヨプ)100年後は人間が変化する(劉慈欣)100年後は分からない(樋口恭介)100年後は予測不可能(ケン・リュウ)100年後はあまり変わっていない(新井素子)/地球脱出時に連れていくなら犬か猫か。

 司会者のいとうせいこうは作家兼タレント、大森望がコメンテーター的な役割、それ以外は全員が作家である。6人で進行するのは、SF大会のパネルとしても多い方だろう。深夜帯とはいえ、非専門的な地上波TV番組として成り立つのかどうか見る前は疑っていた。評者はYouTube版で視聴したが、ネタ的な話題に偏らず(テーマはネタ的だが)、SF作家らしいキーワードを交えた分かりやすい流れで作られていた。さらに本書になると、キーワードに読み物としての重みが加わる印象だ。SF作家は予言者かと問われると誰でも違うと答えるだろうが、あらゆる可能性を(ありえないことまで含めて)考えてみるのがSF作家だという見方はできる。ハードな明日を冷めた視点で語る冲方丁、あくまで希望を失わない陳楸帆、何も変わらないとうそぶく新井素子が対照的で面白い。

ロバート・シルヴァーバーグ『小惑星ハイジャック』東京創元社

One of Our Asteroids is Missing,1964(伊藤典夫訳)

カバーイラスト:緒賀岳志
カバーデザイン:岩郷重力+T.K

 珍しい本を読んだ。シルヴァーバーグはペンネームを多用するペーパーバックライターだった(ピーク時に年30冊)が、この年に出しているのは長編3冊と短編集1冊ぐらい。ノンフィクションが多かったのだろう(また、雑誌にたくさんの中短編を書いていた)。本書はエースブックスのダブルブック(1952年から78年の間に出版された、2作家の本を裏表どちらからでも読めるようにしたお徳用合本)でヴォークトとのペアだったもの。いかにもチープな雰囲気が漂う。

 主人公は鉱山技師の資格を得て大学を出た後、大手探鉱会社の就職口を蹴って一人小惑星帯に赴く。太陽系は開発ブームに沸いており、個人であっても有望な未登録小惑星を見つければ莫大なもうけが得られるのだ。2年間という自らに科した期限はあったが、その最後に直径8マイルほどの小惑星を発見する。

 主人公はそのあと不可解な事件に巻き込まれる。登記したはずのデータが無くなり、自分の記録すら消し去られているのだ。宇宙が舞台、主人公は一匹狼で、相手は太陽系を席巻する大企業(ユニヴァーサル・カンパニー)。どうやって戦うのか、そこにもう一役が加わる、というスペースオペラだ。

 400枚に満たない長編である。いまどきの小説に比べると、さまざまな要素が削ぎ落とされている。主人公は知性と腕力を兼ね備え、しかし合理性よりも冒険心と一攫千金を優先する(なぜそうなのか、背景は分からない)。ヒロインはお飾りで、主人公の帰りをひたすら待つ役割(なぜ馬鹿な主人公に惹かれるのか不明)。敵は企業なのだが、強欲で人殺しも厭わない(頭の悪い経済ヤクザ)。ダブルブックは2冊分を1冊にまとめるため、分量に制約がある。余計なことは書けない。それに適応した、完全なフォーミュラ・フィクションに見える。

 食うために仕方なくなのか。しかし、作者はそのあたりを承知の上で、愉しみながらタイプを叩いたようだ(メカ式タイプライタの時代)。伸び伸びと破綻なく(たぶん)推敲することさえなく一気に書きあげたのだろう。さまざまなシルヴァーバーグのエピソードを聞くと、内容よりも書くこと自体に憑かれた作家である。時間さえ取れれば、すぐに執筆に没入できたのだ(訳者は、推敲をほとんどせずに大長編を書いた栗本薫に例えている)。作風をがらりと変え、ニューシルヴァーバーグと呼ばれるようになるのは1967年以降のことだが、方向性が変わっただけで書き方自体に変化はなかったと思われる。残念ながらシルヴァーバーグの現行本は『時間線をのぼろう』くらいしかない。『夜の翼』などを古書で入手して、読み比べてみるのも面白いだろう。

エリザベス・ハンド『過ぎにし夏、マーズ・ヒルで エリザベス・ハンド傑作選』東京創元社

Last Summer at Mars Hill and Other Stories,2021(市田泉訳)

装画:最上さちこ
装幀:岩郷重力+W.I

 エリザベス・ハンドは1957年生まれのベテラン作家だが、これまで6冊出た翻訳書のうち『冬長のまつり』(1990)を除く5作品は、映画のノヴェライズや企画絡みのシリーズの一部など、本格的な紹介からほど遠いものが多かった。本書は代表作といえる中短編4作をまとめた傑作選である。アメリカでも17編を収める大部の傑作選は編まれているが、それよりコンパクトで読みやすくなっている。

 過ぎにし夏、マーズ・ヒルで(1994)メイン州の沿岸にあるマーズ・ヒルには超常的な現象を信じる人々が集うコミュニティがあった。お互い病に冒されている父と母を持つ少年少女は、丘で不思議な現象を見る。
 イリリア(2007)ニューヨーク州の郊外に住む一族に、かつて演劇で身を立てた曾祖母がいたが、子供たちは同じ道を歩まなかった。そんな中で、ひ孫の世代である少年と少女は、ハイスクールでのシェイクスピア劇から意外な才能を芽吹かせる。
 エコー(2005)犬と離島で暮らす女は、外の世界で何か良くないことが起こっていると気がつく。とぎれとぎれのラジオ電波、数週間に一度くらいつながるインターネットに届くメッセージ。
 マコーリーのベレロフォンの初飛行(2010)かつて博物館に勤めていた男たちに、昔上司だった女性が重い病にかかっていることが伝えられる。その上司のために、失われた記録フィルムを再現しようというアイデアが生まれるのだが。

 「過ぎにし夏、マーズ・ヒルで」では、かつてヒッピーだった両親を持つ少年少女と、スピリチュアルな存在との関係が描かれる。1995年の世界幻想文学大賞(中編部門)と96年のネビュラ賞を受賞。「イリリア」の少女と少年は、お互い(誕生日が同じ)いとこ同士なのに惹かれ合い、意外な形で才能の開花を迎える。2008年の世界幻想文学大賞(中編部門)を受賞。この2つのお話では、家族に根ざす複雑な関係と、シェイクスピアの古典劇が物語を支える大きな枠組みになっている。かつて役者だったライバーの小説より、むしろリアルな形だろう。

 「エコー」の孤島の女は遠く離れた恋人との手紙(メール)をプリントする。2007年ネビュラ賞(短編部門)を受賞。「マコーリーのベレロフォンの初飛行」では、博物館の男たちは冴えない中年おやじだが、何十年も前の青春時代を蘇らせようと奮闘する。2011年の世界幻想文学大賞(中編部門)受賞作。どちらも失われた過去を(不格好でもいいから)取り戻そうとする物語だ。

 4作とも、SFというよりファンタジイ寄りの作品だろう。「エコー」だけはアポカリプスを暗示させていて、そこがネビュラ賞の理由かもしれない。ただ、ファンタジイといっても異世界要素は象徴にすぎず、描きたかったのは現実寄りの青春小説なのではないかと感じさせる。どの物語も悲劇では終わらない。登場人物たちはそれなりの達成感を味わうが、かつて夢見たものとはどこか違っていて、ほろ苦い後味を残すのだ。

ケン・リュウ『宇宙の春』早川書房

Cosmic Spring and other stories,2021(古沢嘉通編訳)

カバーイラスト:牧野千穂
カバーデザイン:川名潤

 古沢嘉通編によるケン・リュウの日本オリジナル短編集も、SFシリーズ版はこれで第4集目になる。2011年から19年までに書かれた全10編を収録している。これまでに比べ、かなりヘヴィーな作品が中核を占めているのが特徴だろう。

宇宙の春(2018)宇宙は真冬だった。すべての星が光を失い死につつある。だがその先には再生の春が待っている。
マクスウェルの悪魔(2012)日系アメリカ人だった主人公は優秀な物理学者だったが、家族を人質にとられスパイとして帝国日本に送り込まれる。
ブックセイヴァ(2019)あるウェブ・プラットフォームには、特別なプラグインが用意されている。それを使うと、読者が不快と思う文書が自動的に改変されるのだ。
思いと祈り(2019)銃撃事件で娘を亡くした母は、ある運動のために娘のデータを提供するのだが。
切り取り(2012)雲上の寺院に住む僧侶たちは、聖なる書物に書かれた文字を、一文字一文字切り取っていく。
充実した時間(2018)シリコンバレーのハイテク会社に就職した主人公は、家庭用のロボット開発で思わぬ困難に直面する。
灰色の兎、深紅の牝馬、漆黒の豹(2020)疫病発生後の未来、動物に変身するという超常能力を持つ3人娘の友情と活躍のはじまり。
メッセージ(2012)遠い昔に滅び去った文明が残した異形の遺跡を、在野の学者である男と別れた妻に育てられた少女が探索する。
古生代で老後を過ごしましょう(2011)危険な大型動物のいない古生代は、リタイア後の終の住まいに最適だった。
歴史を終わらせた男――ドキュメンタリー(2011)過去の情景をただ一度だけ再現できるタイムマシンは、その使用方法によりさまざまな波紋を広げる結果になる。

 「宇宙の春」「切り取り」は詩的なイメージに溢れた短いお話、「ブックセイヴァ」「充実した時間」「古生代で老後を過ごしましょう」はちょっと皮肉を効かせたアイデアSF。「メッセージ」も同様だが、いまから何万年後かの地球に宇宙人が来たらこうなるのかも。親子関係が微妙に絡む展開はいかにも著者らしい。「灰色の兎、深紅の牝馬、漆黒の豹」は著者得意の中国古典からインスパイアされた作品(訳者が書いているように、ほとんど原型は分からない)。

 本書でメインとなる作品は「マックスウェルの悪魔」「思いと祈り」「歴史を終わらせた男」だろう。「マックスウェルの悪魔」の主人公は、両親が沖縄出身の日系人である。この作品ではアメリカ移民に対する差別、日本では沖縄人であったことに対する差別が二重のものとして描かれる。「思いと祈り」は銃社会や日本でも同様の熾烈なネットによる中傷問題が扱われ、「歴史を終わらせた男」ではもし歴史の真実をタイムマシンが捉えたらという設定で、細菌戦に関わる日本軍部隊の残虐行為が掘り下げられている。主人たちは被害者に対する尊厳を訴えるのだが、政治的なメンツや浅はかな世論に押しつぶされようとする。情の作家ケン・リュウの、社会派的一面がうかがえる力作だ。

J・G・バラード『旱魃世界』東京創元社

The Drought,1965(山田和子訳)

cover direction+design:岩郷重力+R.F

 バラードが書いた最初期の三部作『沈んだ世界』(1962)『燃える世界/旱魃世界』(1964/65)『結晶世界』(1966)の中の1冊(長編2作目)である。『燃える世界』の翻訳は1970年に出ているのだが、当時はアメリカ版(1964)を底本としたために、大幅に改稿されたイギリス版(1965)の内容は反映されなかった。本書は初翻訳から半世紀を経て初めて登場する〝決定版〟なのである。

 主人公は医師だ。自宅を出て湖に浮かぶハウスボートで暮らしている。しかし、世界は極めて深刻な旱魃に襲われており、湖の水位はみるみる低下していく。渇きが増すにつれて周囲の治安は悪化し、不穏な空気が渦巻く。人々は町を次々と脱出して海岸線に向かおうとする。だが、主人公は町に残る奇妙な人々とともに、出発をためらっていた。

 妻から心が離れた医師(妻は他の男と出て行くが、主人公は黙って見送る)、丘の上に住む豪邸の建築家と妹(奇矯な服装をし、水を浪費する生活を続ける)、水上生活する親子(ほとんど動けない老女と、異様な行動を取る息子)、動物園の園長の娘(動物を助けようとするが見通しはない)、湖で生活していた自然児(失われゆく水辺で、ボートを自在に操る)、過激な思想を叫ぶ牧師とその追従者(漁民たちと対立し抗争する)。乾ききった世界。至る所で火災が発生し、舞い上がった灰が降り積もる。湖は泥濘から砂場に変わり、河は干上がり、海岸線には乾いた塩の大地だけが拡がる。

 バラードの《破滅三部作》は原著出版順に翻訳されたのではなく、まず『沈んだ世界』が1968年に出て、翌年に『結晶世界』が先行翻訳され、最後に出たのが『燃える世界』である。『沈んだ世界』には伊藤典夫による解説が付いていた。ニューウェーヴをアジる熱気溢れる評論だったので、文字通りの厨二SF病だった評者は強い影響を受けた憶えがある。バラードは人気を得た。『結晶世界』の翻訳が出た後、立て続けに短編集『時の声』『時間都市』『永遠へのパスポート』が出版される(さらに間を置かず『時間の墓標』『溺れた巨人』が出る)。先行する2長編と比べ本書の印象が薄かった(ほとんど記憶にない)のは、怒濤の短編ラッシュの合間に埋もれてしまったせいもあるだろう。

 さて、半世紀ぶりに出た新訳であり、決定版でもある本書はどうか。訳者や解説者(牧眞司)も指摘しているとおり、本書の設定や登場人物のありさまは、そのまま以後のバラード作品を反映したものとなっている。萌芽と言うより、未来の作風そのものだ。《破滅三部作》はサブジャンル的な意味の破滅ものではない。破滅(デザスター)のメカニズムは書かれないし、政府も社会もほとんど出てこない。バラードは、そんな俯瞰的な抽象化は、破滅の本質ではないと考えたのだろう。同じことは登場人物にも当てはまる。不可思議な行動を取る人物たちは、ふつうの小説で描かれるような背景(どう生まれてどう生きたのか、生活の動機は何か)を持っていない。今しかなく過去も未来もない。その空虚さは、周囲に拡がる旱魃世界(砂や塩に埋もれ何も見えない世界)と等価に繋がっている。バラードは長編第2作目にしてここまで完成していたのかと驚かされる。

ザック・ジョーダン『最終人類(上下)』早川書房

The Last Human,2020(中原尚哉訳)

カバーイラスト:緒賀岳志
カバーデザイン:岩郷重力+A.T

 アメリカ在住の作家ザック・ジョーダンによる昨年3月に出たばかりの初長編である。大学を中退後、U.S. Killbotics名義で楽曲を作り、ゲームやFEMAなどのプロジェクトに関わった後、本書を構想してから書き上げるまで4年半を要した。エージェントからの高評価を受けて、英米の他、ドイツや韓国でも出版されることになっている。アシモフやクラークなどの伝統的な宇宙SFを現代に再現したものという

 主人公は蜘蛛に似た姿のウィドウ類に育てられた娘だ。出自を偽っているが、滅ぼされた人類の最後の末裔なのだ。彼らは高度にネットワーク化された宇宙に住んでいる。ネットワークに参加する種族は、知性の段階により階層化がされている。上位の種族は、コミュニケーションも困難な集合知性ばかり。しかし、なぜ人類は滅亡したのか。娘にはもはや仲間はいないのか。

 クラークなどは、人類より進んだ生命は肉体を持たない集合知生になると考えたわけだが、まさにそういう世界が描かれている(本書の場合は、現代的な情報ネットワークによるAR空間)。第1階層から第5階層に至る段階的な知性の階層(その上もあるらしい)を、章ごとにたどっていくのである。第2階層相当の主人公は、同レベルの仲間たちを得て、さらに上位の知性から驚くべき提案を受ける。

 ポール・ディ・フィリポはローカスのレビューでハインラインの古典宇宙もの、ヴィンジの宇宙もの(『最果ての銀河船団』を含む三部作。蜘蛛に似た生命が登場)や、ディレイニー『エンパイア・スター』(知性を段階的に表現)を引き合いに出し本書を評価していた。本書では、人類は銀河ネットワークに加入する際、取り返しのつかない失策を犯して滅ぼされてしまう。そのチャンスがあったとして、ここは過去の復讐を遂げるべきだろうか。秩序を重んじるネットワークに埋没するより、何ものにも支配されない自由を重視すべきだろうか。主人公の心理は二転三転する。

 単純な(白黒が明白な)勧善懲悪ものではなく、かといって哲学的な思索が目的ではない。熱心なファン上がりの作家デニス・E・テイラー(下記リンク)や、ネット人気から出版に繋がったアンディ・ウィアー(『火星の人』)らが帯に推薦文を挙げている。この2人のファンならば、本書も面白く読めるだろう。

柴田元幸・小島敬太編訳『中国・アメリカ 謎SF』白水社

装幀:緒方修一
装画:きたしまたくや

 英米文学翻訳家の柴田元幸と、中国を拠点に活動するシンガーソングライター小島敬太による(選定から翻訳まで)日本オリジナルのSFアンソロジイである。日本での紹介がないか、もしくは雑誌紹介のみの作家6人(中・米各3人)7作品を収めている。

 ShakeSpace(遥控):マーおばさん(2002)主人公は、図形により人とコミュニケーションする、馬姨(マーイー)と名付けられた試作機をテストするうちに、装置の中身に疑問を感じるようになる。
 ヴァンダナ・シン:曖昧機械(2018)〈概念的機械空間〉の中には3つの不可能機械が存在する。モンゴル人の技術者、トルコ人の数学者、マリの考古学者が発見・発明したものである。
 梁清散:焼肉プラネット(2010)事故で惑星に不時着した乗客は、有害な環境なので宇宙服のヘルメットが外せず飢えに苦しむ。そこには見るからに美味そうな肉に似た生き物たちが生息していた。
 ブリジェット・チャオ・クラーキン:深海巨大症(2019)3人の科学者とスポンサーになった教会の受付係、コーディネータたちは、民間に払い下げられた原子力潜水艦に乗って、深海の底で海の修道士(シーマンク)を探す。
 王諾諾:改良人類(2017)ALSの治療を期待し冷凍睡眠に入った主人公が600年後に目覚める。人々も社会も理想的と思えたものの、彼を目覚めさせるための何らかの理由があるようだった。
 マデリン・キアリン:降下物(2016)戦争が終わってから20年後、世界や人々には戦争の深い傷跡が残されている。500年過去からやってきた主人公は、その時代の自称考古学者と出会うが。
 王諾諾:猫が夜中に集まる理由(2019)真夜中に開かれる猫の集会には、世界を守るための秘密の仕事が隠されている。

 巻末の編訳者対談「〈謎SF〉が照らし出すもの」では、本書収録の作家たちの背景が語られる。都会世代の感性を表現した中国作家は(70、80、90年代生まれ)と各年代にまたがり、一方のアメリカ作家は全員が女性で、インド系物理学者や中国系、考古学者など出自が広い。

 中国の作品はチューリングテストや遺伝子改変、シュレーディンガーの猫などストレートなSFネタで書かれている。アメリカの場合は、マイナーな文芸誌や短編集に載ったオープンエンドで実験的な作品である。未来への希望と絶望、アイデアの明快さの差異など、中・米では結構違いがある。それでも、本書の切り口「現代文学」として交互に読むと、意外な親和性や共鳴し合うものがあって面白い。同じではないけれど、それぞれの現在とシンクロしているのだ。

ピーター・ワッツ『6600万年の革命』東京創元社

The Freeze-Frame Revolution / Hitchhiker,2018(嶋田洋一訳)
カバーイラスト:緒賀岳志
カバーデザイン:岩郷重力+W.I

 ピーター・ワッツの最新刊。先に出た日本オリジナルの短編集『巨星』に3作品が収められている《サンフラワー・サイクル》で、未訳だった中編と続編に相当する短編1作が収録された作品集だ。短編は暗号を解読した読者だけのボーナストラックなので、書籍でそのまま読める日本の読者はお買い得である。著者が中編と主張する本編は、350余枚あるので短い長編ともいえる。

 国連ディアスポラ公社が建造した恒星船〈エリオフォラ〉は、銀河を周回しながらワームホールゲートの敷設をする任務を続けている。ブラックホールを内蔵し、航路周辺の天体を燃料に変え、敷設したゲートは既に10万を越える。しかし、その間6600万年が経過した。3万人の乗員は少人数に分割され、数千年に一度必要に応じて目覚めるのみ。船のコントロールはすべてAIに委ねられている。

 6500万年が経った時点で、乗員たちの一部にAIによる恣意的な操作が行われているのでは、という疑念が生まれる。対抗するため、密かにAIからの解放革命が進められるが、それには100万年もの時間がかかる。人間の寿命は任務の長さに比して極端に短いので、何度も休眠と覚醒をタイムラプスのように繰り返すことになる。

 登場人物への共感を拒否するワッツの作品の中では、この《サンフラワー・サイクル》は比較的人間寄りのシリーズである。ここに出てくる人類は(詳細な説明はされないものの)おそらく我々とは異なる存在だろう。途方もない時間スケールの中で、精神に異常を来さず任務をやりとげねばならないのだ。そこに超AIならぬ頭の悪いAIチンプ(チンパンジー並という蔑称)が絡み、乗組員たちと駆け引きをする。宇宙的時間が流れ、登場する全員が非人間なのに、妙に人間的な弱みが見えるのが面白いところだ。

橋本輝幸編『2010年代海外SF傑作選』早川書房

カバーデザイン:川名潤

 11月に出た『2000年代海外SF傑作選』に続く、橋本輝幸編の翻訳SFアンソロジイである。このくらいの時期になると、ケン・リュウやピーター・トライアスなど新刊でも入手容易な作家が多くなる。11作品を収める。

 ピーター・トライアス:火炎病(2019)*兄は周りが青い炎に包まれるという病に犯される。主人公は、治療の手がかりを探すうちに、感覚操作並列SOPというARエンジンの存在を知る。
 郝景芳:乾坤と亜力(2017)*社会全般を統括するAI乾坤(チェンクン)は、ある日、三歳半の子ども亜力(ヤーリー)から学ぶように命令される。亜力の言動は理解不能のものばかりだった。
 アナリー・ニューイッツ:ロボットとカラスがイーストセントルイスを救った話(2018)*全米の医療が崩壊したアメリカで、ドローン型ロボットと一羽のカラスが協力することを学ぶ。
 ピーター・ワッツ:内臓感覚(2018)*グーグルのデリバリーに暴行を働くというもめ事を起こした男は、パラメータ化の専門家と名乗る女の非公式訪問を受ける。
 サム・J.ミラー:プログラム可能物質の時代における飢餓の未来(2017)*ソフトウェアで自在に変化する、形状記憶ポリマーが爆発的に普及する。しかし、ハッキングのために恐ろしい事態が生じるようになる。
 チャールズ・ユウ:OPEN(2012)ある日突然、部屋の中央に”door”という文字が出現する。僕は彼女と話し合わねば、と思う。
 ケン・リュウ:良い狩りを(2012)清朝末期、香港の近辺に住む妖狐と妖怪退治師だった親子は、魔法が消えていく時代の中で、姿を変えながら生き抜いていこうとする。
 陳楸帆:果てしない別れ(2011)**主人公は脳内出血で倒れ、かろうじて意思の伝達こそ可能なものの全身麻痺のままとなる。ところがそんな主人公に、思わぬ仕事が依頼される。
 チャイナ・ミエヴィル:“ ”(2016)* “ ”とは〈無〉を構成要素とする獣である。現実の事物の反対側にある負の存在は、新たな学問を生み出すことになる。
 カリン・ティドベック:ジャガンナート(2012)いつなのか分からない未来、異形の生き物マザーの中に生まれた主人公は、やがて成長し生涯の役割を与えられる。
 テッド・チャン:ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル(2010)仮想空間に生きる人工生物ディジエントは、独自のゲノム・エンジンを使って知能を持つ生き物としてふるまう。
 *:初訳、**:新訳

 7作品は初紹介、または入手困難な本の新訳。ピーター・トライアス郝景芳アナリー・ニューイッツピーター・ワッツらは、まさに今のテクノロジーであるAIや、ネットで構成されたGAFA的な世界を切り取った小品だろう。サム・J・ミラーは登場人物が現代的、チャールズ・ユウチャイナ・ミエヴィルは円城塔風(文字のような純粋に抽象的な存在を生き物のように扱う)である。カリン・ティドベックは酉島伝法『皆勤の徒』(英訳版)を高評価したヴァンダミアのアンソロジイから採られたが、本作もそういう流れを汲む作品。陳楸帆も後半はよく似た雰囲気だ。ケン・リュウは『紙の動物園』収録のスチーム・パンク作品、テッド・チャンはデジタル生命の意味を考察する力作で、比較的最近(約1年前)出た『息吹』収録の中編だが、テーマ的にも欠かせないということであえて収録されたようだ。

 2010年代は終わったばかりの近過去なので、客観的な評価を下すのは難しいが、本書の中にそのエッセンスは見える。ネットがその存在感を広げ、AIは偏在化(あらゆるところに分散化)し、無形(ソフト)が有形(ハード)を凌駕する社会だ。また、国家に替わって企業が情報=人間を支配する。男女の定型的な役割は否定され、人に似たものは人間とは限らない。本書の多様な視点から、そういう社会的な変化が顕わに見えてくる。

 2020年はパンデミックで明け暮れ、さまざまなものが終わりまたは加速されたが、これらは2010年代(2010-19)より後に物語の形を成すものだろう。

橋本輝幸編『2000年代海外SF傑作選』早川書房

カバーデザイン:岩郷重力+M.U

 評論や最新海外SFの紹介で知られる新鋭、橋本輝幸による初のアンソロジイである(『2010年代ー』が続刊)。編者は英語だけでなく中国語も読めるので、本書には劉慈欣の作品も含まれている。しばらく途切れていたが、小川隆+山岸真編『八〇年代SF傑作選』(1992)や山岸真編『九〇年代SF傑作選』(2002)に続く、10年区切りの年代別海外SFアンソロジイの一環でもある。

 エレン・クレイジャズ:ミセス・ゼノンのパラドックス(2007)二人の女がカフェで語り合う。その内容には矛盾が混じり一貫性もないように見えて……。
 ハンヌ・ライアニエミ:懐かしき主人の声(2008)違法クローン作成容疑で南極の霊廟都市に収められたご主人を奪取しようと、飼い犬と猫が活躍する。
 ダリル・グレゴリイ:第二人称現在形(2005)ドラッグ・ゼンの中毒で「死んだ」少女の体には「別人」であるわたしがいる。両親は少女が蘇ったと喜ぶのだが。
 劉慈欣:地火(2000)古い炭鉱の町出身の主人公は、炭鉱をガス田に変貌させるプロジェクトのリーダーとなった。だが、大胆な実験の結果は予想を裏切る結果を招く。
 コリイ・ドクトロウ:シスアドが世界を支配するとき(2006)夜中にサーバーダウンの急報を受けてデータセンターに駆けつけた主人公は、そこに他のサーバーのシスアド(システム管理者)たちが詰めかけているのを知る。世界的な異変なのだった。
 チャールズ・ストロス:コールダー・ウォー(2000)冷戦下の時代、ソ連で密かに進むコンチェイ計画に動きが見られた。それがもし無制御で動き出せば世界は滅ぶ。
 N.K.ジェミシン:可能性はゼロじゃない(2009)なぜかニューヨークだけで、大当たりが偏在して起こっている。良いことだけじゃなく悪いことも。
 グレッグ・イーガン:暗黒整数(2007)数学的な公理が異なる宇宙が、この宇宙と重なって存在している。そこでは抽象的な数学の証明が他の宇宙への攻撃になるのだ。
 アレステア・レナルズ:ジーマ・ブルー(2005)惑星規模の芸術家が最後の作品を発表するという。主人公は単独インタビューに成功し、芸術家の秘密を知る。

 ニューウェーヴやサイバーパンク相当の大きなムーヴメントは、ゼロ年代には起こらなかった。すれ違う会話をしゃれた文体で魅せる「ミセス・ゼノンのパラドックス」や、電脳クローンを動物もので書いた「懐かしき主人の声」、21世紀のヴァーミリオン・サンズ「ジーマ・ブルー」は、複合化されたアイデアをいかに料理するかというテクニカルな面白さがある。一方、社会的には9.11事件(2001年)が起こり、世界同時テロの時代が訪れた。ニューヨークが舞台の「可能性はゼロじゃない」には、そういう得体の知れない不安感がバックにある。また、ネット社会の台頭が「シスアドが世界を支配するとき」の奇妙なアフター・ホロコーストもの、「暗黒整数」(「ルミナス」の続編)の情報戦争に姿を見せる。「コールダー・ウォー」も面白いが、これはもはや普遍的テーマなのでこの傑作選でなくてもよいと思う。

 本書の中では「地火」が異色だろう。1970年代の炭鉱が舞台で、書かれた1990年代末の中国は、2020年比10分の1の経済力しかない貧しい時代だ。日本で同等の(経済10分の1)時期は1950年代後半なのだから、他の欧米SFとは時間経過のスピードが異なる。科学技術がもたらす危険性や、未来に対する希望などに独特の思いが感じられる。(英米SFではなく)海外SFと称する限り、今後はこういう英米外の別の文化、別の時間軸にあるSFを取り入れていく必要があるだろう。