野田昌宏『山猫サリーの歌』扶桑社

表紙イラストレーション:加藤直之
表紙デザイン:岩郷重力+WONDER WORKZ。

 野田昌宏は2008年に亡くなっている。13年後になって、その遺作がオンデマンド書籍+電子版の形で出版された(扶桑社PODのレーベル)。編集部のまえがきによると本書が書かれたのは1995年、一部未完成のまま埋もれていたものである。どういう経緯でお蔵入りになったのかは分からない。

 昭和40年、主人公がフジテレビの〈日清ちびっこのどじまん〉ディレクターを務めていたころのこと。番組はまだブレークする前で視聴率も伸びず、公開放送での観客集めやPTAからの俗悪番組批判に苦しんでいた。そんなある日、宣伝に回る車の前に1人の少女が飛び出してくる。飛び入りで番組出演を要求するのだが、ただ者とは思えない歌唱力にスタッフ一同は驚愕する。けれど、サリーと名乗る少女が何ものなのか、どこに住んでいるのか親がいるのかさえ不明なのだった。

 野田昌宏のSF関係での代表的な仕事には《キャプテン・フューチャー》などの翻訳やスペースオペラの紹介、オリジナルのスペオペ小説《銀河乞食軍団》などの人気シリーズ執筆の他に、『レモン月夜の宇宙船』に代表されるノンフィクションめいたフィクション群がある。主人公は作者本人、担当した番組名や登場人物の多くは実在するが、そこに大きなフィクションが挟み込まれるスタイルである。昭和40-50年代(1965-75年代)が舞台となり、当時の雰囲気や社会的な状況が色濃く表われていた。本書はそういう一連の作品の総決算、唯一の長編として書かれたものだろう。

 本書には結末があり(サリーの正体が明らかになる)、あとがきまで用意されている。しかしメモ書きのみの章(【断片】とある)や、後で書き直すはずだったと思われる部分も多数ある。原稿としては、ブラッシュアップ前の草稿版/第1版なのだ(いったん最後まで書き上げてから直しを入れる作家は多い)。では、なぜ完成させなかったのか。

 本書は1995年に書かれた。当時でも『レモン月夜の宇宙船』(ハヤカワ版)から20年が経過していた。同書の作品群は、時事風俗描写に同時制=リアルタイム性があるから読者に歓迎された。同じ設定で、本書のように過去(30年前)を描く作品が受け入れられるだろうか。著者にはそんな迷いがあったように思われる。

 とはいえ、現在ならば不完全であっても世に出すべき、という考え方もできる。『山猫サリーの歌』が遺稿であることは間違いないし、もう帰っては来ない(体験として書けない)半世紀以上前を象徴する内容であるからだ。

山本弘『料理を作るように小説を書こう』東京創元社・他

カバーイラスト:竹田嘉文
カバーデザイン:日高祐也

 創作についての本は従来からたくさん出ているが、今年の4月に山本弘と冲方丁『生き残る作家、生き残れない作家』(早川書房)が、さらに3月には、ミステリ作家でベストセラーの常連でもある松岡圭祐による『小説家になって億を稼ごう』(新潮社)が出版され話題になった。3冊をまとめて買った人も多いようだ。今週はこれらを取り上げてみたい。

 まず『料理を作るように小説を書こう』は、隔月刊の「ミステリーズ!」で2016年8月から1年間連載された創作講座を加筆訂正したものである。受講者と著者のQ&Aのスタイルで書かれており、アイデアを食材、プロットを調理法になぞらえ、小説を料理に見立てて説明している。主に1950-60年代SFを中心に著者に影響を与えた作品が、自作のアイデアやプロットにどう応用されているのかを、引用文を多用することで説明している。

 冲方丁『生き残る作家、生き残れない作家』はセンセーショナルな表題が付いているが、内容は著者独自の分析に基づく創作術といえる。この本のベースには、西武池袋コミュニティカレッジで行われた「冲方丁・創作講座」がある。著者には『冲方丁のライトノベル書き方講座』という本が既にあり、ノウハウ的な内容はそちらに書かれている。本書は講座のエッセンスを16のポイントに分割し、コンパクト(250枚ほど)にまとめ直したものだ。例文などもあり具体的だが、初心者向けというより作家としての持続性に重きを置いた内容といえる。

 松岡圭祐『小説家になって億を稼ごう』も煽った題名ではあるものの、内容はむしろ堅実な生き方を勧めている。最初から長編を書くべきだ、その手法はお話をすべて頭の中で組み立て切ってから、三幕構成で書けとある(自身のノウハウなのだろう)。そこまでは創作の方法だが、本書が類書と違うのは、デビュー後の対応について詳細に記載してあることだ。業界の内情を含めて、新人作家がどう振る舞うべきか、何をしてはいけないかが明確に書かれている。

 作家がなぜ創作の方法を人に教えるのか。この3冊には、それぞれが考える理由が書かれている。まず第一に、人に教えることで、自身の創作に対する考え方を総括することができる。それが新たな創作の糧になるかもしれない。また、蓄えたノウハウを、失わせることなく次世代に継承することができる。次の作家が生まれなければ、ジャンルどころか小説そのものすら滅びてしまう。

 もう一つの特徴、作家が自分を語る自叙伝的な要素も注目に値する。著者の経験(どうやってデビューしたのか、何が助けとなり何が妨げとなったのか)が、そのまま半生の生きざまになっているのだ。作者に興味がある読み手にとって、こういう部分は見逃せないだろう。

 山本弘はキャリア40年。冲方丁は25年、年収6千万で12億を稼ぐ。松岡圭祐は24年、ピーク年収1億越えで累計額は冲方丁を上回るだろう。ただ、それぞれの収入の多寡、仕事内容に差異はあっても、多数の著作を世に出したエンタメ分野の成功者である点に違いはない。3人で共通するのは、創作を志す動機を「書くのが楽しいから」としたことだ。金儲けや著名文学賞の獲得に目標を置いただけでは、達成した後/挫折した後に行き詰まる。好きであるからこそ、浮き沈みがあっても乗り越えられるのだ。

日本SF作家クラブ編『ポストコロナのSF』早川書房

カバーデザイン:岩郷重力+Y.S

 表題をテーマとするオリジナル・アンソロジイである。ポストコロナとなっているが、必ずしも現在のコロナ禍を意味してはいない。また19人の収録作家も、全員が日本SF作家クラブの会員ではないのだ。ジェネレーションやジェンダーのバランスを再考する余地はあるものの、より幅広く多様にという意味なのだろう。

 小川哲「黄金の書物」ドイツ出張中の空港で、主人公は見知らぬ男から古書のハンドキャリーを依頼される。
 伊野隆之「オネストマスク」そのマスクの表面はディスプレイとなっており、着けている者の感情を表出する。
 高山羽根子「透明な街のゲーム」コロナ禍で無人になった街中に出て、インスタ的サービスのインフルエンサーたちがお題をテーマにベスト写真を競う。
 柴田勝家「オンライン福男」コロナ禍にヴァーチャル化した福男レースは、形を変えてその後も続けられている。
 若木未生「熱夏にもわたしたちは」コロナの後、接触を恐れて育った世代の少女2人が生きる、ひとときの夏。
 柞刈湯葉「献身者たち」国境なき医師団に属する主人公は、収束のみえない変異株に襲われるソマリアで、ひとつの解決法を明かされる。
 林譲治「仮面葬」一度は棄てた故郷に戻った主人公は、葬式に仮面を着け代理参加する仕事を得たものの、故人の名前を聞いて驚く。
 菅浩江「砂場」ワクチンが日常化し過剰なまでに投与される時代、ママ友の集う公園の砂場では不穏な世間話の輪が広がっている。
 津久井五月「粘膜の接触について」高校生になった主人公は、感染症対策のため全身を覆うスキンを身につけ、自由な接触を愉しむようになる。
 立原透耶「書物は歌う」三十代になると疫病で死ぬ世界、一人の子供は書物が奏でる歌を探して歩き回る。
 飛浩隆「空の幽契」猪人間と鳥人間が陸と空に別れて住む世界と、衰退した東京で老女とロボットとが会話する光景が交互に物語られる。
 津原泰水「カタル、ハナル、キユ」ハナル十三寺院に秘められた伝統音楽イムについて、詳細に分析した著作が「カタル、ハナル、キユ」である。
 藤井太洋「木星風邪(ジョヴィアンフルゥ)」木星大気に浮かぶ浮遊都市、主人公は月出身の労働者だったが、そこでは木星風邪と呼ばれるファームウェア感染症が蔓延する。
 長谷敏司「愛しのダイアナ」データ人格の家族で、父親の隠していた映像を娘が見たことからもめ事が発生する。
 天沢時生「ドストピア」濡れタオルを叩きつけ合って勝負を決めるタオリングは、滅びゆくヤクザたちにとって有力な収入源だった。
 吉上亮「後香(レトロネイザル) Retronasal scape.」マレー半島の奥深くに住むアガルは、常人にはない特殊な臭覚を持つ人々だった。
 小川一水「受け継ぐちから」隣の星系から飛来した3人乗りのクルーザーは、その製造年代から見てもありえない古さと思われた。
 樋口恭介「愛の夢」人類が眠りについてから1000年が経過し、一人の指導者が目覚めの時を迎えようとしている。
 北野勇作「不要不急の断片」70編からなる、ポストコロナを巡る世の中を点描するマイクロノベル集。

 著者の一人、飛浩隆によるとても詳細な解題が既にあるので、ここでは1文リミックス紹介のみとした。このうち、現状のコロナと直結する話は柞刈湯葉「献身者たち」くらいで、最も遠いのが小川哲「黄金の書物」と天沢時生「ドストピア」だろう。コロナから多重に連想された創造の果てという感じか。

 物理的な疫病から逃れられる究極の場所は電脳世界になる。柴田勝家「オンライン福男」、IT的にひねった藤井太洋「木星風邪(ジョヴィアンフルゥ)」、家族まるごと移転したのが長谷敏司「愛しのダイアナ」である。

 コロナの現実に生じた異形の風景を、さらにデフォルメした作品が多い。欠かせないマスクの伊野隆之「オネストマスク」、無人の街を切り取った高山羽根子「透明な街のゲーム」、少女の恋に昇華させた若木未生「熱夏にもわたしたちは」、これもマスクだが田舎の因習に形を変えた林譲治「仮面葬」、生活をむしばむ悪意を描く菅浩江「砂場」、肉体の接触が忌避される津久井五月「粘膜の接触について」、極めつけは日常のスナップショット北野勇作「不要不急の断片」だろう。

 現実をはるかに越えるお話も読みたい。小松左京「お召し」を思わせる世界を書いた立原透耶「書物は歌う」、飛浩隆「空の幽契」ではロボットと主人公の会話と異世界の物語がシームレスに溶け合い、小川一水「受け継ぐちから」は謎の宇宙船の正体を探り、樋口恭介「愛の夢」は1000年もの皮肉な明日が描かれ、津原泰水「カタル、ハナル、キユ」では緻密に組み立てられた音の秘密が、吉上亮「後香(レトロネイザル) Retronasal scape.」では匂いの秘密が解き明かされる。

 枚数的には50枚前後(ばらつきはある)で短編の書下ろしながら、テーマが明確なためか、ひねるにしても正面から書くにしても各作家なりの工夫が楽しめる。評者としては、上記の中で最後のグループが面白かったのだが、それは現実からの距離の置き方にも依存するのだろう。


三島浩司『クレインファクトリー』徳間書店

カバーイラスト:緒賀岳志
カバーデザイン:宮村和生

 三島浩司の書下ろし長編。著者の新作としては『ウルトラマンデュアル2』以来の3年ぶりになる。本書では、巨大ロボットが主人公だった『ダイナミックフィギュア』とは対照的に、小型の人型ロボットが登場する。

 あゆみ地区は全国から伝統工芸の職人が集まってくる特区だ。主人公はある事情で両親から離れ、地区の里親と暮らしている。同じ境遇で暮らす仲間もいた。しかし、ここはもともと此先ファクトリーズと呼ばれる先端工業団地だった。さまざまな工場が建ち並び、ロボットによる無人化が進んでいた。今ではその面影はない。いったい何があったのか。

 まず、著者が得意とする奇想アイデア「分水嶺」が登場する。自然界に生じる完全にランダムな現象をもとにした乱数を物理的乱数という。分水嶺は物理的乱数を攪乱する物体なのだ。疑似乱数ならともかく、こういう概念的なものに影響を与える物質など、ふつうは考えられない。分水嶺はさいころの目の頻度すら左右する。形はさまざま、おもちゃだったり日用品だったりする。ストルガツキーのゾーンにある物質と同様、超自然的存在といえる。

 もう一つがロボットの反乱である。ファクトリーズのロボットが人間に反抗し、治安部隊に向かって破壊活動を企てたのだ。それ以来、ロボットを使う機械化は忌避されることになり、自動化地区は伝統工芸地区になる。なぜロボットは反抗心を持つようになったのか。

 500枚ほどの長編だが、そこに家庭の問題、オーパーツ、AI(ロボット)の知能と心の問題を盛り込むという意欲的な作品だ。著者はかつて、小説にアイデアではなく概念を盛り込みたいと述べたことがある(下記リンク参照)。本書の場合、それはロボットの心がオーパーツを生み出し、家庭問題を救うという3段階の(本来結びつきようのない)連想で作られているのだろう。

早川書房編集部・編『世界SF作家会議』早川書房

装画:森泉岳士
装幀:早川書房デザイン室

 フジテレビの地上波番組(ただし東京ローカル)で放映された全3回の「世界SF作家会議」(2020年7月/2021年1月/同2月)をまとめたもの。全員が(たとえスタジオに居ても)リモート参加で、6分割画面という今風のスタイル。カットシーンを補完した拡張バージョンは現在でもYouTube版が視聴できるが、本書は文字にする段階でさらに手を加えた決定版である。担当ディレクター黒木彰一がSFファンだったために実現した企画だという。海外の作家も参加したので(陳楸帆が同時通訳参加、劉慈欣/ケン・リュウ/キム・チョヨプらはビデオ参加)、世界SF作家会議でも大げさではないといえる内容になった。

【第1回】コロナパンデミックをどうとらえたか/パンデミックと小説/アフターコロナの第三次世界大戦(冲方丁)アフターコロナのトロッコ問題(小川哲)アフターコロナのセックス(藤井太洋)アフターコロナは・・・・・・ない(新井素子)/劉慈欣のメッセージ。

【第2回】パンデミックから一年・・・・・・SF作家たちはどう見たか?/人類はチーズケーキで滅亡する(小川哲)人類は宇宙からの災難で滅亡する(劉慈欣)人類はポスト人類で滅亡する(ケン・リュウ)人類は愛で滅亡する(高山羽根子、藤井太洋)人類は目に見えないもので滅亡する(キム・チョヨプ)人類は滅亡しない(新井素子)/地球滅亡の日に食べるなら、ご飯か麺か。

【第3回】SF作家が考えるコロナ禍の現状/100年後の企業帝国と惑星開拓(冲方丁)100年後の和諧(ハーモニー)(陳楸帆)100年後はサイボーグたちの世界(キム・チョヨプ)100年後は人間が変化する(劉慈欣)100年後は分からない(樋口恭介)100年後は予測不可能(ケン・リュウ)100年後はあまり変わっていない(新井素子)/地球脱出時に連れていくなら犬か猫か。

 司会者のいとうせいこうは作家兼タレント、大森望がコメンテーター的な役割、それ以外は全員が作家である。6人で進行するのは、SF大会のパネルとしても多い方だろう。深夜帯とはいえ、非専門的な地上波TV番組として成り立つのかどうか見る前は疑っていた。評者はYouTube版で視聴したが、ネタ的な話題に偏らず(テーマはネタ的だが)、SF作家らしいキーワードを交えた分かりやすい流れで作られていた。さらに本書になると、キーワードに読み物としての重みが加わる印象だ。SF作家は予言者かと問われると誰でも違うと答えるだろうが、あらゆる可能性を(ありえないことまで含めて)考えてみるのがSF作家だという見方はできる。ハードな明日を冷めた視点で語る冲方丁、あくまで希望を失わない陳楸帆、何も変わらないとうそぶく新井素子が対照的で面白い。

大森望編『NOVA 2021年夏号』河出書房新社

装幀:川名潤

 大森望編のオリジナルアンソロジイ《NOVA》が前号から(出版サイドの事情もあり)1年8ヶ月ぶりに出た。雑誌スタイルなので特定のテーマは設けられていない。書かれて1年以上(コロナ禍を挟みながら)空いたにもかかわらず違和感が少なく、各作家の個性が十分発揮されているのは、時事ネタが少なかったせいもあるだろう。

 高山羽根子「五輪丼」2020年、長期入院のあとで市街地に出た主人公は、街の異様な変貌に戸惑い、食堂で五輪丼と書かれたメニューを見つける。
 池澤春菜/堺三保原作「オービタル・クリスマス」軌道上に浮かぶ作業用宇宙ステーションに、貨物モジュールが到着する。だがAIは、積載物に重量異常があると警告を出す。
 柞刈湯葉「ルナティック・オン・ザ・ヒル」月面上では大気の影響を受けないため、単純な物理法則に則った機械的戦争が行われている。
 新井素子「その神様は大腿骨を折ります」余裕のないブラック労働に沈む主人公は、ある日よろず神様紹介業と称する女と出会う。
 乾緑郎「勿忘草 機巧のイヴ 番外篇」高等女学校の生徒である少女は、お金持ちで金髪碧眼の上級生に憧れ手紙を託そうとする。
 高丘哲次「自由と気儘」世界大戦の後、田舎に逼塞した主人に命じられ、使用人はひたすら猫の世話に明け暮れる。
 坂永雄一「無脊椎動物の想像力と創造性について」京都盆地の市街地全域を蜘蛛の巣が覆いつくしている。主人公は全面焼却作戦が開始される直前、京都大学の中枢にある事件の始まりの場所へと赴く。
 野崎まど「欺瞞」どの個体もたどり着き得なかった自動抽出装置の本質とは何かを、ひたすらアカデミックな文章で解き明かす。
 斧田小夜「おまえの知らなかった頃」チベット自治区の辺境、遊牧民の青年と恋に落ちた天才プログラマーの女が企てたこととは。
 酉島伝法「お務め」いつ頃からなのか、主人公は機械的な生活を強いられている。朝目覚め、豪華な朝食を食べ、昼寝をしてからまた豪華な夕食を食べる、その繰り返し。

 今号はベテラン枠が新井素子、中堅枠に高山羽根子、柞刈湯葉(最新短編集など、すでに5冊の著作がある)、乾緑郎(人気シリーズ《機巧のイヴ》の一編)、野﨑まど、酉島伝法、新人枠に池澤春菜(この作品は、堺三保監督による同題短編映画のノヴェライズ。小説、映画共に長編化が望まれる)、高丘哲次(日本ファンタジーノベル大賞2019)、坂永雄一(第1回創元SF短編賞大森賞)、斧田小夜(第10回創元SF短編賞優秀賞など)と、これまで通り3~4割が新人という新たな書き手向けのバランスを考えた陣容だ。

 この中では、高山羽根子の曖昧な謎に満ちた(2021年に書かれただけあってタイムリーな)短編が印象に残り、あとはパワフルな女の生きざまを描く斧田小夜の中編力作、坂永雄一によるすべてが蜘蛛の巣になるという異形の(静かに荒廃するバラード風)京都作品がベストだろう。

 

岸本惟『迷子の龍は夜明けを待ちわびる』新潮社

装画:tono
装幀:新潮社装幀室

 日本ファンタジーノベル大賞2020の優秀賞となった作品(再スタートから4回目にして、初めて大賞は該当作なしとなった)。著者の岸本惟(きしもとたもつ)は2018年でも最終候補作に選ばれている。

 主人公は天空族の若い女性で、大和族の町に住んで生活している。しかし仕事は上手くいかず、半ば引きこもるようにアパートの一室に逼塞している。ある日、そんな主人公に通訳の仕事が舞い込む。山奥に住む老人に、天空語の書き物の読み聞かせをしてもらえないかというものだった。

 舞台の世界は現代の日本とほぼ同じ、スマホや自動車があり人々はふつうの生活をしている。そこに、天空族と呼ばれる人々もいる。もともと不思議な能力を持つ種族だったが、故郷である天空山での生活は不便で、いまでは山に住む者はいない。大和族と混じり合って麓の町でばらばらに生きている。天空族は緑がかった皮膚の色から、いわれのない差別を受けることがあった。町の生活に自信が持てなかった主人公は、町から離れた山荘で超常的な存在である龍と少年の姿が見えるようになる。

 選考委員の中では、恩田陸が「雰囲気の良さは買うが、ファンタジーノベルにする必要があるのか」と疑問を呈するも、萩尾望都(今回で委員を退任)は「優しく、温かく、ちょっとさみしいところもある独特な雰囲気や世界観を持っている」、森見登美彦は「まるでスノードームの中にあるような閉鎖された小天地を作ることに作者は長けている」と評価している。ただし、主人公が消極的すぎて物語をドライブしていない点は、選評共通のマイナスポイントとして指摘されている。また、独自の文字や言語を持つ種族であるなら、(日本とは)異質の文化や社会を持っているはずだが、そのあたりもあまり明瞭に書かれていないのだ。

 緑色の皮膚を持つ人間という設定は、ピーター・ディキンスンの書いた『緑色遺伝子』(1973)を思い出す。ディキンソンは明確に人種差別を扱った(ケルト人の肌が緑色になる)のだが、本書の場合、それは主人公の個人的な問題(肌が緑色であることで虐められる)として描かれる。本書の女性たちは極めて繊細だ。主人公は、知人のほんの一言に傷つき、老人の妻は幼い頃のトラウマに一生苦しむ。滅び行く天空族と大和族(現状の日本人)とが共存を模索する物語にはならず、自信を失った一女性の回復の物語であるのは、著者の視点がより個に寄り添っているからだろう。

佐々木譲『帝国の弔砲』文藝春秋

カバーイラスト:ケッソクヒデキ
カバーデザイン:征矢武

 佐々木譲の歴史改変ミステリ『抵抗都市』の続編にあたる作品である。ただし、前作の集英社「小説すばる」連載版とは違い、本書は文藝春秋の「オール読物」で2019年3月号から2020年7月号まで約1年半連載されたものだ。続編というより、並行する枝編なのだろう。時代は前作から四半世紀後の1941年7月の東京へと飛ぶ。

 主人公はディーゼルエンジンの整備工だった。下町に小さな家を借り、親しくなった女と籍を入れないまま同居生活を送っている。しかし主人公には隠された使命があった。それは最後の任務と呼ばれ、一度決行すると二度と元の生活には戻れないものなのだ。主人公は、前線で戦った過去を思い浮かべる。それは帝国が存在していた25年前に遡る記憶だった。

 今回舞台は一変する。物語はロシア帝国の沿海州に移住した、日本人家族のエピソードから始まる。入植者たちはロシアと日本が戦争になった後に収容所に送られ、戦後も土地を取り返すことができず貧しい生活を強いられる。なんとか鉄道学校に通えた主人公は、第1次大戦勃発とともに徴兵され西部戦線(ロシアからみた西部、ドイツからみれば東部戦線)に送られるが、そこで思わぬ戦功を上げる。

 日本がほとんど関係しなかったこともあり、第1次大戦のイメージはあまり沸かない。最近の映画「1917 命をかけた伝令」などを見て、英仏とドイツが対峙した西部戦線が人命をすりつぶす塹壕戦だったことが分かるくらいだ。しかし最大の犠牲者を出したのはロシアとドイツの戦いなのである。広大なロシアで総力戦が起こると、被害の及ぶ範囲も果てしなく拡がる(ナポレオン戦争や独ソ戦もそうだった)。主人公は、日系ロシア人としてその戦いに参加する。この設定は、第2次大戦下の日系アメリカ人と似ている。第1次大戦や、それに続く革命の混乱期を、日系ロシア人(二世)の視点で描くというのはユニークだろう。

 本書の場合、ロシア兵器に可変翼グライダーや水中翼船のようなものが出てくる以外は、歴史改変度合いは小さい。ロシア革命後に日本は独立し(史実的にも、ロシア帝国内のバルト三国やフィンランド、ポーランドが独立)、極東共和国の樹立や革命干渉のため派兵された日本軍など、概ね元の歴史をたどりつつあるように見える。物語の最後は太平洋戦争を予感させてまだ続く。小説すばる版の続編『偽装同盟』は新連載が始まったばかりだ。さて、2つの物語はどこでつながるのか。

眉村卓『静かな終末』竹書房

イラスト:まめふく
デザイン:坂野公一(well design)

 日下三蔵編による眉村卓初期ショートショート選集である。デビュー6年目に出版された『ながいながい午睡』(1969)のうち文庫に収められなかった作品28編(下記【I】)と、それ以外にも、著者の単行本または文庫未収録のままだったショートショート作品21編(下記【II】【III】)を加えたものだ。雑誌「丸」収録作など、後にアンソロジイ『SF未来戦記 全艦発進せよ!』(1978)に収められたものも含まれる。著者の初期作品集は、文庫化の際にほとんどがテーマ別に再編集されており、内容が合わない作品が宙に浮くケースが結構あった。

【I】いやな話(1963)深夜のTVから流れ出す声。名優たち(1968)画期的なレジャーの正体。われら人間家族(1968)臓器移植を巡るかけひき。廃墟を見ました(1967)タイムマシン発明者の見たもの。大当り(1968)大当たりの景品は月旅行だった。誰か来て(1962)古びた部屋で誰かを待つわたし。行かないでくれ(1968)久しぶりに出会った友人の様子がおかしい。応待マナー(-)応対技術を促成で取得しようとする主人公。ムダを消せ!(1965)あらゆるムダを削減した会社の顛末。委託訓練(-)新入社員の訓練を外部委託したら。面接テスト(1968)面接を受けようとする男がトラブルに巻き込まれる。忠実な社員(1968)仕事に忠誠を誓う社員は体をいたわる暇もない。特権(1965)絶え間のない仕事に追われる男の特権とは。夜中の仕事(1968)夜中に帰ってくると妻が何かをしている。のんびりしたい(-)忙しすぎる客のために特注のレジャーが提供される。土星のドライブ(-)土星の輪でドライブしたいと要求する客。家庭管理士頑張る(1967)旧家から家庭管理の仕事を受けた新米管理士の奮闘。自動車強盗(1967)雨の中不審なタクシーに乗った客。ミス新年コンテスト(-)未来のミスコンで暴かれる真実。物質複製機(1968)画期的な発明品の秘密。獲物(1962)満員電車の中で一人の男が女にまとわりつく。はねられた男(1968)暴走車にはねられた男が気がつくと。落武者(1968)燃えさかる城の前で落ち武者は百姓に追われる。安物買い(1967)格安月旅行の中身。よくある話(1968)棄てた男から贈られた宝飾品。動機(1968)莫大な財産を持つ政治家の生活は質素に見えた。酔っちゃいなかった(1961)加速剤を使って犯罪をもくろんだ男。晩秋(1962)懐かしい校庭の思い出から得たものとは。怨霊地帯(1967)アフリカに侵攻した国連軍が遭遇する恐怖。

【II】敵は地球だ(1966)月が世界連合に反乱を起こす。虚空の花(1966)人工頭脳が統御する戦闘艦の中では艦長ただ一人が決定を下せる。最初の戦闘(1966)自分の分身を駆使して敵基地を叩く要員。最後の火星基地(1966)科学エリートが築いた火星基地に最後の攻撃が下される。防衛戦闘員(1967)ロボットと見まごうほど改造された兵士。最終作戦(1967)恐ろしい敵に蹂躙される地球で究極の決定がなされようとする。敵と味方と(1968)意識をコントロールする兵器に市民たちは疑心暗鬼となる。

【III】すれ違い(1961)太陽に引き込まれるロケットがみたもの。古都で(1961)滅びた都にあるひとつの像。雑種(1961)昔は良かったはずとの政策の結果。墓地(1961)奇妙な武器の売り込みが来る。傾斜の中で(1961)戦争を恐れる社長の下で働く技術者。あなたはまだ?(1962)一人の男がどことも知れぬ世界から帰ってくる。静かな終末(1962)今日最終戦争が起こるという噂が拡がる。錆びた温室(1963)あれがやってくるまで時間は残されていない。タイミング(1964)これまでで最高のショーの時間が迫っていた。テレビの人気者・クイズマン(人間百科事典)(1967)人気を誇るクイズ選手権ではプロのクイズマンたちが争っている。100の顔を持つ男・デストロイヤー(破壊者)(1968)秘密裏に個人・組織を問わず相手を失脚させる職業。電話(1969)プライベートな行き先になぜかかかってくる電話。店(1969)その店の店員のふるまいは異様だった。EXPO2000(1970)21世紀の万博は失われたものを回復させる。
 註:(-)とあるのは発表年不詳

 最近翻訳が完結した『フレドリック・ブラウンSF短編全集』で確認すると、日本にも大きな影響を与えた名手ブラウンが、ショートショートを書いた時期は60年代前半までである。眉村卓の本書は、ちょうどその時代とシームレスにつながっている。ただ、いつ起こるかも知れない核戦争の恐怖という、60年代共通の背景を別にすれば、ブラウンと眉村卓では描く世界がまったく異なっている。言葉遊びや洒落、ユーモアを重視するブラウンの作品はある意味で観念的だし、変貌する社会に翻弄される人々に視点を置く眉村卓はよりリアルといえる。

 「怨霊地帯」と【II】に収録された作品は、ミリタリー雑誌「丸」で複数作家による競作で連載された「SF未来戦記」の一部。すべてが戦争物で、多くは宇宙を舞台としている。機械に囲まれた孤独の指揮官・命令者という司政官の原型が表われている。戦闘はどれもが虚無的である。70年代の《司政官シリーズ》に派手な会戦・戦闘シーンがないのは、既にここで描いてしまったからかもしれない。

 【III】には(著者による自筆年譜などによると)同人誌「宇宙塵」の掌編をきっかけに掲載が決まった「ヒッチコックマガジン」の最初期作や、筒井康隆の同人誌「NULL」掲載のやや長めの作品が入っている。デビュー前後のもので、同じく「宇宙塵」に載った後に改稿された「準B級市民」などと違い、執筆当時の原形を保つ貴重な初期作といえる。表現はまだ硬いが、何かに追い詰められている人々の苦闘と、どこか夢を見ているような幻想性が併存しており、それはデビュー後の諸作につながっている。

筒井康隆『ジャックポット』新潮社

装画:筒井伸輔
装幀:新潮社装幀室

 2017年から2021年かけて主に文學界、新潮などで発表した14作品を収めた最新短編集。

漸然山脈(2017)ジャズ「ラ・シュビドゥンドゥン」の曲に乗って、言葉が意味不明、文脈不明のままひたすら書き貫かれる。
コロキタイマイ(2017)35分間の漫才のやりとりの体裁で、「フランス文学/批評が内部から溢れかえる」(掲載誌編集長)作品。言葉の連想が、文脈不明でひたすら書き貫かれる。
白笑疑(2018)人類終末の予感、豪雨や気温上昇に伴う気候変動、迫り来る核戦争、押し寄せる難民。
ダークナイト・ミッドナイト(2018)DJとなった著者(闇の騎士)が、合間にジャズを流しながら、哲学者ハイデカーの思想を交え、死についてえんえんと語り続ける。
蒙霧升降(2018)戦争が終わり、民主主義がホームルームとなって突然現われた。何も知らない者でも、自由に意見をいえるようになったのだが、その行方にはどこか違和感がある。社会やマスコミや大衆の下に蒙昧の霧が降りていく。
ニューシネマ「バブルの塔」(2019)美人のロシア人詐欺師、泥棒とロシア中央銀行から大金をだまし取った私は、仲間に裏切られその金を奪われる。その後も詐欺と殺し合いの応酬のあげく、物語は究極の詐欺的文学を目指す。
レダ(2019)同族企業の老いた会長が若い秘書と歩いている。会社を継ぐはずの息子たちは愚かだった。秘書は新たな息子となる卵を産む。物語にはチェーホフやヘミングウェイや横山隆一らが混ざり込み混沌となる。
南蛮狭隘族(2019)
太平洋戦争で米軍や日本軍が引き起こした野蛮な行為、残虐さを精神の隘路として描き出す。
縁側の人(2020)
縁側に座るいくらか惚けてきた老人が、しゃべる相手が孫なのか誰かも分ないまま詩について語り続ける。
一九五五年二十歳(2020)著者が同志社大学に在学していた二十歳のころ、演劇に入れ込み、映画を見て俳優に憧れる日々。
花魁櫛(2020)
母親が亡くなり、家財整理で唯一残した仏壇から鼈甲の櫛が見つかる。それには思わぬ骨董的な価値があるようだった。
ジャックポット(2020)ハインラインの「大当たりの年」を念頭に、新型コロナ禍の世界で起こるフィクションやノンフィクションを、経時的に描き出したコラージュ作品。
ダンシングオールナイト(2020)ジャズから楽器に興味を持ち、ダンスの修行を経て、フリージャズから山下洋輔のファンとなり、やがて憧れたクラリネットを手に入れる。死ぬまでにダンスをまた踊りたい。
川のほとり(2021)夢の中に亡くなった長男が現われる。長男とは昔のように会話をするのだが、それは自分自身が話していることだと分かっている。

 「漸然山脈」のテーマ曲「ラ・シュビドゥンドゥン」は著者自身が作詞作曲している。「ダンシングオールナイト」でも言及されているが、意図的にでたらめを歌うバップ唱法(ビバップ)に則っている。この曲も、意図的に意味不明となっているのだ。そして作品はというと、ほとんどすべてに著者の言うところの「破茶滅茶朦朧体」が取り入れられている。単語の意味は分かっても、一文の意味は分からない(何らかの引用だったりするが)。しかし、作品全体で読むとリズムがありまとまりを感じる。

 本書の中では「花花魁」がショートショート、私情の濃い「川のほとり」がさらに短い掌編で、トラディショナルな文体で書かれている。「漸然山脈」「コロキタイマイ」は朦朧文体で書かれた短編、「レダ」「ニューシネマ「バブルの塔」」はその中間的な文体だ。一方「白笑疑」では終末、「ダークナイト・ミッドナイト」では死が、「蒙霧升降」では民主主義、「南蛮狭隘族」では戦争、「縁側の人」では詩、「ジャックポット」ではコロナ禍が、それぞれの特定のテーマとして取り入れられている。これらは著者の批評精神が発露されたものだろう。「一九五五年二十歳」と「ダンシングオールナイト」は(もともとの依頼に基づく)自伝的な要素が強い。

 筒井康隆はいまでもSF作家を名乗っているが、1970年代にはもはやSF専門ではなくなっている。いまでは純文学の最前衛に位置するわけで、幅広いファンに支えられている。本書を読んでも、まだ果ては見えない。