ジョン・スラデック『チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク』竹書房

Tik-Tok,1983(鯨井久志訳)

イラストレーション:GAS
デザイン:坂野公一(welle design)

 人を喰った(長すぎる)邦題ではあるが、内容相応、著者らしいともいえる。本書はカルト作家スラデックの書いたロボットものの長編である。スラデックの作風はSFでも文学でもない独特のもので、一部読者に人気はあっても賞には恵まれなかった。本書は唯一、英国SF協会賞(1983年)を受賞した作品である(スラデックは当時英国在住だった)。

 とある金持ちの家で使われていた家庭用ロボットのチク・タクは、ペンキ塗りをしていた際にインスピレーションを得て壁画を描く。主人は気に入らなかったが、ロボットの絵は評判を生み高値で売れるようになる。チク・タクは有名になった。しかし、このロボットは倫理を規定する「アシモフ回路」が正常に働いていないのだ。

 7年前に翻訳が出た『ロデリック』(1980)もロボットが主人公だった。成長していく無垢なロボットのお話である。本書のチク・タクは既に大人で、自身の利益のためにはどんな手段も厭わない。葛藤がないので、ノワール(悪人)というよりサイコパスに近いといえる。ロボットサイコパスなのである。

 一方、この物語の社会では、ロボットは道具というより「奴隷」扱いである。道具だと人の手を煩わせる。奴隷ならぞんざいに命令しさえすればよい。知能があっても差別は当たり前と思っている傲慢な人間を、倫理感を欠いたロボットが出し抜くのだ。書かれた当時は寓意に過ぎなかったろうが、AIが急成長する今の時代では妙にリアルである。

 スラデックは、『黒い霊気』(1974)、『黒いアリス』(1968)、『見えないグリーン』(1977)、『スラデック言語遊戯短編集』(1977)と1970~80年代にかけて翻訳されてきた。このあたりは変格ホラー/変革ミステリに分類される作品である(今なら奇想小説だろう)。前評判に反して、SF作家という印象は薄かった。90年代になってから『遊星よりの昆虫軍X』(1989)が紹介され、日本で編まれた短編集『蒸気駆動の少年』(2008)でようやくその全貌が窺えるようになる。スラデックのSFは代表作が『ロデリック』とされる。本書はそれをひっくり返したような面白さがある。長さも半分ほどで軽快に読める。

 ところで、訳者の鯨井久志は京大SF研出身者(京大生ではなかったようだが)としては、大森望世代以降30年ぶりにプロ出版を果たした翻訳家。

ジョン・スコルジー『怪獣保護協会』早川書房

The KAIJU Preservation Society,2022(内田昌之訳)

装画:開田裕治
装幀:日高祐也

 スコルジーの「怪獣小説」。本文でも「KAIJU」と書かれているのだから間違いはない。今年のローカス賞の長編部門を受賞したほか、ヒューゴー賞(今年の世界SF大会は成都)の最終候補作にも選ばれている。

 博士課程を中途で辞めてまでフードデリバリー業界に就職した主人公は、パンデミックのロックダウンが始まる直前にクビになり、やむを得ず「デリバレーター」(配達員)に就くが、今やそれさえ危うくなっている。しかし、NGOでの仕事のオファーを思いがけず受ける。経歴は問うが経験不問、NGO=KPSは動物を保護する団体だというのだ。基地は極寒グリーンランドから抜けた先、高温多湿のジャングルの中にあった。

 冒頭いきなり『スノウ・クラッシュ』が登場、主人公はSFで修士論文を書いていて、向かうKPSの基地はタナカとかホンダと呼ばれている。タナカは田中友幸(東宝「ゴジラ」などのプロデューサー)だし、ホンダは本多猪四郎(同監督)のことらしい。『レッド・スーツ』でもおなじみの、ネタを存分にちりばめたオタク小説でもある。

 怪獣が存在する世界については、物理的に生存不可能な生態(大きすぎて自重を維持できないなど)を克服する説明が用意されている。とはいえ、日本の特撮怪獣ものに対するリスペクトはあるにしても、山本弘小林泰三らの作品が持っていた濃いオマージュ感とはちょっと違う。主人公を中心とした、アメリカンなチームワークのドラマになっているからだ。「ジェラシック・パーク」の恐竜たちと同じく、怪獣は時に暴走しても、あくまで人間のコントロール下、保護下にある(だから保護協会なのだ)。

 ということもあり、敵役は宇宙人でも怪人でもない今風の人間である。密かに仕掛けられた罠を巡って、主人公と博士号取得者ばかりのチームが挑む。エンタメドラマのお約束を踏襲し二転三転、読者を飽きさせないのはこれも著者ならではの技があるからだろう。

シーラン・ジェイ・ジャオ『鋼鉄紅女』早川書房

Iron Widow,2021(中原尚哉訳)

カバーイラスト:鈴木康士
カバーデザイン:岩郷重力+A.T

 著者は中国生まれのカナダ人作家、コロナ絡みで職を失い本書を書いた。そのデビュー作がいきなりベストセラー、同時に始めたユーチューバーも登録者数53万人を集める。たまたまではなく、何らかのカリスマがあるのだろう。著者近影が牛のコスプレ(岩井志麻子を思わせる)なのは友人との約束の結果、また霊蛹機はアニメ「ダーリン・イン・ザ・フランキス」から着想を得たものという。

 華夏(ホワシア)国は、渾沌(フンドゥン)と呼ばれる機械生物による侵攻にさらされている。対する人類側も、霊蛹機(れいようき)と呼ばれる巨大戦闘機械(九尾狐+朱雀+白虎+玄武)を主力に擁して対抗する。機械のパイロットは男女一組だった。英雄となる男と、妾女(しょうじょ)と呼ばれる使い捨ての女、機械はその「気」(生気)をエネルギーにして動くのだ。

 まず主人公は英雄をしのぐパワーを有し、武則天と呼ばれるようになる。他にも独狐伽羅、馬秀英ら中国の歴史上の皇女たちの名前が出てくる。李世民、諸葛孔明、安禄山、朱元璋などなど、秦から明、清時代まで、背景も立場も異なる歴史上の人物名が順不同で登場する。もちろん著者も、史実とは関係がないと断っている。

 日本でもそうだが、中国はハイテクから安保まで何かにつけ注目される。それに伴って、中国もののフィクションも、英語では耳慣れない中国語の固有名詞、日本なら見慣れない漢語の多用(翻訳者の工夫もある)による異化効果で読者を引き付ける。

 巨大機械=ロボットは3段階の形態に変身する。そこにダリフラ風男女一組のパイロットが搭乗するのだが、男が女の気力を吸い取るという死の格差がある。ジェンダーに絡む、今風のテーマが重ねられているのだ。華夏世界自体にも、抜きがたい男女差別がある。その障害は、誰をも凌駕する主人公のスーパーパワーと、やはり今風の悩みを持つ友人たちの協力によって打破される。とはいえ、渾沌の正体、この世界の秘密などは明らかにならない。2024年刊行予定の続編に続くようだ(おそらく出版社との3部作契約があるのだろう)。

エディ・ロブソン『人類の知らない言葉』東京創元社

Drunk on All Your Strange New Words,2022(茂木健訳)

カバーイラスト:緒賀岳志
カバーデザイン:岩郷重力+W.I

 著者は1978年生まれの英国作家。主に《ドクター・フー》などのTVドラマシリーズで、シナリオやノヴェライゼーションを手掛けてきた。これまで受賞歴はなかったが、本書は2023年の全米図書館協会RUSA賞のSF部門(ジャンル小説に与えられる賞で8つの部門から成る)に選ばれている。

 主人公はイングランド北部出身の通訳。通訳といっても、異星人と思念言語(テレパシー)で会話するという特殊能力が要求される。近未来、人類は異星文明ロジア(ロジ人)と外交関係を築いていた。彼らは言葉を介さず、テレパシーでコミュニケーションを取るのだ。しかし、文化担当官専属の通訳に就いていた主人公は、担当官が殺されるという重大事件に巻き込まれる。

 長時間通訳をすると飲酒の酩酊と脳が錯覚し、文字通り酔っぱらってしまう(原題Drunkの意味)。赴任地のニューヨークは防潮堤に囲まれ、過去の面影だけが残るテーマパークになっている。ロジ人はテレパシーで会話するが、アナログな文字を重要視しアナログな紙書籍を好む。ロジ語に翻訳された本は、地球側の主要輸出品になっている……という、設定は何とも皮肉っぽい。

 何しろ主人公は酔ってしまって、殺人時に何が起こったのか覚えていない(酔っぱらい科学者のギャロウェイ・ギャラガーみたい)。ロジ人に反感を持つ勢力は存在するので、主人公も一味ではないかと疑われる。物語は、近未来のニューヨークやイングランド北部(ハリファックス)の風俗を点描しながら手探りで進む。

 タイトルから連想される「非人類とのコミュニケーション」は主題ではない。本書は犯人捜しの(特殊設定)ミステリなのである。探偵は太り気味(そういう副作用もある)の通訳だが、八方塞がりな状況ながらしだいに真相に近づいていく。SFとしてのスケール感はやや足りないものの、主人公のユーモラスな語り口でまずまず楽しめる。

グレッグ・ベア『鏖戦/凍月』早川書房

Hardfought/Heads(1983/1990,酒井昭伸/小野田和子訳)

Cover Illusration:小阪淳
Cover Design:岩郷重力+M.U

 まず最初に書誌を記しておく(解説にも書かれているし、ネット検索の時代には不要かも知れないが、評者にはこういう流儀が染みついているのです)。

「鏖戦(おうせん)」(1983)はネビュラ賞ノヴェラ部門の受賞作、1990年10月号のSFマガジン(400号記念号)に一挙掲載され、さらに『80年代SF傑作選』(1992)にも収録された中編。一方の「凍月(いてづき)」(1990)は、1996年2月号(太陽系をテーマにした宇宙SFの一環として)SFマガジンに一挙掲載、1997年星雲賞海外短編部門受賞、1998年に(長い中編なので)同題の文庫として単独出版されている。よく似た経緯をたどった2作品といえる。両者とも文庫で入手が可能だったものの、すでに25年以上が過ぎている。今回は著者が昨年11月に亡くなったことを受け、2023年6月号のSFマガジン追悼特集に合わせる形で、ハードカバーによる復活を果たしたのだ。

鏖戦:いつともしれない超未来の宇宙、人類はメドゥーサ(美杜莎)と呼ばれる原始星系で、銀河の歴史ほども古い異形の宇宙種族セネクシ(施禰俱支)と戦っている。主人公は巡航艦メランジーに乗り組む戦闘だけを教え込まれた兵士で、敵の種子船をザップ(破摧)し蔵識嚢を奪取する使命がある。人類もまた姿を変容させている。主人公は妖精態のグラヴァーだった。

凍月:200万の人々が住む月世界は、独立したコロニーの緩い連合体で運営されている。有力コロニーの一つが運営する〈氷穴〉では絶対零度を作り出す実験が行われていたが、そこに地球で冷凍保存されていた100年前の人体頭部多数が運び込まれる。だが、創業家一族のきまぐれに過ぎないと思われていたそのプロジェクトは、やがて大変な騒動を巻き起こす。

 どちらも宇宙SF、ただし傾向的には全く異なる。前者は、設定どころか個々の単語自体に高圧縮な創造力が詰め込まれた実験的なスペースオペラ。イメージを浮かべるのに難渋するが、酉島伝法的な異形キャラと美少女戦士風ヴィジュアル(容姿は意図的に具象化されていない)を混淆させた類を見ない作品で、ベア自身も自己ベストだとする。

 後者は、月コロニーどうしの政治的な謀略を巡るサスペンスである。背景には著者が会長職を務めていた当時のSFWA内の、サイエントロジー派や子供じみたリバタリアン的風潮(ひたすら管理を嫌う)への反発が込められているという。ただ、そういう内幕を知らなくても面白く読めるだろう。

 ベアの翻訳書は、著者の執筆ペースが落ちたこともあり、21世紀以降(文庫化を除けば)『ダーウィンの子供たち』のみにとどまる。これらを含め『ブラッド・ミュージック』以外は絶版だ。忘れられるには早すぎる作家である。20世紀に出た多くの主要作品が、今後電子書籍の形で復刊されるのは喜ばしい。

 ところで、「鏖戦」は初紹介当時から、原文の造語に仏教用語の難読漢字を充てるなどの翻訳スタイルが話題になった。大森望は「原文をはるかにしのぐ神話性と「なんかすごそう」感を獲得した」(「SF翻訳講座」1993年5月)と評価し、また上記追悼特集でも、翻訳者の酒井昭伸がその際の苦闘を生々しく振り返っている。

フランチェスカ・T・バルビニ&フランチェスコ・ヴァルソ編『ノヴァ・ヘラス ギリシャSF傑作選』竹書房

Nova Hellas,2021(中村融他訳)

デザイン:坂野公一(welle desigh)

 日本版に寄せられた編者による「はじめに」によると、ルキアノスに始まった世界最古のギリシャSFも20世紀末まで長い空白があり、ようやく(アメリカ映画やTVドラマの影響もあって)70年代後半から海外SFの翻訳が、次いで90年代にはギリシャ人作家による短編の創作が行われるようになったという。このあたりの経緯はイスラエルとよく似ている。ただ、(非英語圏共通の課題として)英語での書き手が少ない分、知名度には難があった。本書は、グローバル向けの英訳傑作選からの重訳になる。スタートラインがいきなりサイバーパンク以降なので、過去の伝統などによる縛りがなく新鮮だ。

 ヴァッソ・フリストウ(1962-)「ローズウィード」海面上昇で都市の建物の多くが水没した近未来、移民ルーツの主人公は居住可能な建物を調査する仕事に就いていた。
 コスタス・ハリトス(1970-)「社会工学」VR下のアテネ、社会工学を学んだ男に集票工作の依頼が舞い込む。相手組織の正体は分からなかった。
 イオナ・ブラゾプル(1968-)「人間都市アテネ」アジア・アフリカで経験を積み、コンゴでも駅長を務めた主人公は、アテネ駅長となってギリシャ語を話すことになった。
 ミカリス・マノリオス(1970-)「バグダッド・スクエア」主人公が住むアテネはヴァーチャルな世界と重なり合っている。だが、意外な都市とも隣り合っていた。
 イアニス・パパドプルス&スタマティス・スタマトプルス「蜜蜂の問題」ドローン蜂の修理を生業にしていた男は、本物の蜜蜂が戻ってくるといううわさを聞く。
 ケリー・セオドラコプル(1978-)「T2」胎児の成長診断のため、清潔なT2より廉価なT1車両で移動したカップルは、産婦人科医師から意外な結果を聞く。
 エヴゲニア・トリアンダフィル「われらが仕える者」観光客を迎えるその島には人造人間しかいない。本物の人間は海底にある居住都市に住んでいるからだ。
 リナ・テオドル「アバコス」ジャーナリストと広報担当者との対話で、人の食事環境を決定的に変えるアバコス社の製品について問題点が指摘されるが。
 ディミトラ・ニコライドウ「いにしえの疾病」体のあらゆる機能が衰えていく病、漏失症の患者を収容する施設で、新任の女性医師が真因究明に苦しむ。
 ナタリア・テオドリドゥ「アンドロイド娼婦は涙を流せない」アンドロイドの皮膚に現れる真珠層は、機能への影響がないことから原因不明のまま放置されている。
 スタマティス・スタマトプロス(1974-)「わたしを規定する色」その女は、ある図案のタトゥーの持ち主を探していると告げた。

 本書は2017年に出たギリシャ語の傑作選(13編収録)をベースに、そこから作品の追加/割愛が行われている。全部で11作を収めるが、原稿用紙換算30~40枚程度の短いものが多い。著者は1960~80年代生まれが中心のようだ。中では英語での執筆が多いナタリア・テオドリドゥが、クラリオン・ウェスト出身者で2018年の世界幻想文学大賞Strange Horizens掲載の短編)の受賞者である。

 地球温暖化による海進(多数の島を有するギリシャでは死活問題)、難民/移民(アフリカ、中東からのバルカンルート=渡航の通り道)という現代的な社会問題とVR、アンドロイド(AI)、サイバーパンク的なテーマが混淆する。数値海岸(ヴァーチャルではなくロボットだが)みたいな「われらが仕える者」、虐殺市場なるものが出てくる「アンドロイド娼婦は涙を流せない」、変幻するタトゥー絡みの事件「わたしを規定する色」あたりが、独特の組み合わせでもあり印象に残る。アイデアものはシンプル過ぎるので、もう少し書き込みが欲しいところ。

マシュー・ベイカー『アメリカへようこそ』KADOKAWA

Why Visit America,2020(田内志文訳)

ブックデザイン:川添英昭

 著者マシュー・ベイカーは1985年生まれのアメリカ作家。美術学修士取得後に、さまざまな文芸誌や批評誌(オンライン含む)に実験的な短編を発表し、Variety誌の10人の注目作家に選ばれたこともある。プロフィール写真ごとに髪型をドラスティックに変えるなど、ちょっとクセのありそうなアメリカ純文学の人だ。ただ、発表した媒体の中にはWebジンのSF専門誌Lightspeed Magazineがあり、D・ガバルドン&J・J・アダムズの『年刊SF&ファンタジー傑作選』に「終身刑」が採録されている。日本の若手純文作家も同様だが、SF的アイデアを取り入れることに何らためらいはないのだ。版元の紹介文中で本書が「SF短編集」とキャプションされるのも、そういう理由によるのだろう。

 売り言葉(2012)辞書編纂者の主人公は、盗用防止の幽霊語創作を仕事にしている、だが、姪の虐めに憤ったことから、当事者の高校生のストーカーを始めるようになる。
 儀式(2015)母親の儀式が済んだあと、すでに期限が過ぎている伯父を説得しようとする。しかし周囲の顰蹙を買いながらも、伯父はかたくなに受け入れない。
 変転(2016)過度に保守的ではなく世間並みに良識を持つ家族だったが、体を失うという主人公の選択には誰も賛成してくれなかった。
 終身刑(2019)刑罰により記憶から過去がすべてが失われていた。日常生活を過ごすには支障はなかったものの、家族すら見知らぬものになった。自分は何をしたのか。
 楽園の凶日(2019)ひどい一日が終わり、愚痴を話す相手もいないとわかると、彼女は郊外のガラスドームに覆われた生物園に車を走らせる。
 女王陛下の告白* 主人公はお城のような大邸宅に住み、家族は買い物に明け暮れ、部屋はモノで溢れている。その結果、レシオは非常識な高さになっているのだ。
 スポンサー(2018)結婚式の寸前になって冠スポンサーが倒産してしまう。このままでは式が立ち行かない。やむを得ず、不仲だった大金持ちの知人に泣きつくが。
 幸せな大家族* 保育所から赤ん坊が誘拐される。警察は犯人の動機を知るため人物像を明らかにしようとするが、誰もがあいまいな答えしか返さない。
 出現(2013)レストランの駐車場で「不要民」を待ち伏せし、三人を車の中に押し込むと州境へと走り出す。奴らが出現してからもう13年が経っていた。
 魂の争奪戦(2020)生まれた赤ん坊がすぐに死んでしまうという現象が頻発する。魂の数が上限に達したからだ、とする説が信じられている。
 ツアー* カルト的人気を誇る「ザ・マスター」がやってくる。そのギグに参加するためには莫大な費用とくじ運がかかるが、主人公は奇跡的に両者を手に入れられた。
 アメリカへようこそ(2019)地方の田舎町が突然独立を宣言し、元の国名のままアメリカと名乗る。オールド・アメリカはその理想をすべて失ったからだ。
 逆回転(2011)生まれたばかりの主人公が感じたのは完全な絶望だった。そして、ポケットから数字の書かれた謎の紙切れがでてくる。
*:未発表作または書下ろし

 全部で13編を収める(著者が2009年から書いた短編の4分の1)。すべての作品に奇想アイデアが含まれる。筒井康隆『銀齢の果て』風(あるいは成田悠輔風)、意識のアップロード、死刑に代わる記憶抹消、『男たちを知らない女』の世界、裏返された大量消費社会、過度な広告化、育児の公営化、非人類の難民、井上ひさし『吉里吉里人』的独立秘話、時間の逆転などなど。

 ただし、これらの(もはやありふれた)アイデア自体は目的ではない。登場人物をクローズアップするための「特殊設定」に使われている点が、現代SFや文学と共通する特徴といえる。たとえば「変転」では、コンピュータにアップロードされる主人公よりも、うろたえ動揺する家族と母親がテーマとなっているし、「終身刑」でも受け入れる家族と主人公との距離感が読みどころとなっている。

 特有の文体、数ページにもわたって段落なしに続く容赦のない描写が効果を上げている。「ツアー」などでは、それが対象を変えながら何段階も執拗に続いて圧巻だ。物語に説明を付けず、唐突に断ち切ってしまう終わり方は、エンタメには少ない純文的なミニマリズムだろう。また「出現」や表題作には、アメリカ的な社会問題が織り込まれている。「逆回転」もよくある時間の逆転を描くが、その先に現れるものはまさにアメリカといえる。

マット・ラフ『ラヴクラフト・カントリー』東京創元社

Lovecraft Country,2016(茂木健訳)

装幀:山田英春
図版:GeoImages/PIXTA

 著者は1965年生まれのアメリカ作家、過去に『バッド・モンキーズ』(2007)が翻訳されている。毎回テーマを変える作風で、黒人作家でも女性でもないものの、ジェンダーやレイシズムを背景にした作品も書いている。本書は創元推理文庫のFマーク(ファンタジイ扱い)だが、SFやコミックの要素が組み合わされたものだ。クトゥルーものとはいえず、どちらかといえばニール・ゲイマンのファンタジイ/ホラーと雰囲気が似ている(著者はXファイル黒人版をイメージしたようだ)。ケーブルTVのHBOで、2020年にドラマ化された同題シリーズ《ラヴクラフト・カントリー》(現時点ではAmazonで視聴可)の原作でもある。

 1954年、朝鮮戦争から帰還したばかりの主人公は、父親からの連絡を受けてシカゴに帰省する。しかし、父は正体不明の白人と共に旅立ち、行方が知れなくなったという。残された手掛かりから、目的地がアーカムならぬアーダムと分かるのだが、そこは閉ざされた僻地だった。彼らは伯父や幼なじみを伴って後を追う。

 主な登場人物は黒人である。舞台は1950年代のアメリカ。キング牧師による公民権運動のさらに10年前でもあり、差別はあからさまに残されている。黒人は旅行の自由が(建前はともかく)制限され、立ち入る場所を間違えると命に係わる事態となる。居住地域も(建前はともかく)厳然と分離されている。伯父は黒人旅行者のために、安全な宿やレストランを紹介する旅行ガイドを出版している(モデルとなったグリーンブックは実在のもの)。

 物語はSF(バローズなどのパルプ・フィクション)やラヴクラフトを偏愛する主人公によるアーダムでの波乱後、その幼なじみによる幽霊屋敷購入騒動、伯父と異父弟にアーダムの継承者を交えた「名付けの本」をめぐる争奪戦、伯母が異世界に迷い込む話と続き、さらには幼なじみの姉が白人に変身したり、父が魔法のノート探しの依頼を受けたり、伯父の幼い息子(コミック作家を目指している)は悪魔人形に追いかけられるなど、視点が次々と移り変わって読者を飽きさせない。

 ラヴクラフトが、いわゆるレイシスト(人種差別主義者)であったことはよく知られている。ただ、黒人やイタリア人(貧困層が多かった)などを臆面なく差別したという点では、ある意味19世紀的な世俗観(当時の大衆の風潮)を体現していただけともいえる。本書はその世界観が、50年代(そして現代ですら)生々しく残っているという現実を、魔術や超常現象に準えて映し出した点がユニークだろう。ラヴクラフト・カントリーとは、今われわれが住む世界の暗黒面なのだ。

アーシュラ・K・ル=グウィン『私と言葉たち』河出書房新社

Words Are My Matter,2016(谷垣暁美訳)

装丁:山田英春
カバー写真:(c) Bettmann/Getty Images

 1年前に翻訳が出たエッセイ集『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』(2017)に続く、講演・評論・書評(書評のみ抜粋)を集めたエッセイ集。前著と併せて、2年連続でヒューゴー賞関連書籍部門を受賞したものだ。昨年は、未訳作品を抜粋した『現想と幻実』(底本は2016)なども出ており、亡くなって5年を経ても人気は衰えていない。

 まず詩と前書きがあり、講演とエッセイ21編が収められている。ル=グウィンはノンフィクションであっても物語のように読むという。数学や論理学のような抽象性は苦手、しかし統語論のような言語の論理なら受け付ける。そんな著者ならではのエッセイが、生家シュナイダー・ハウスについて書かれた「芸術作品の中に住む」(2008)である。

 この家は建築家バーナード・メイベックが設計したものだった。大建築を得意としたフランク・ロイド・ライトなどと違って、メイベックはサンフランシスコ・ベイエリアに一般向けの住宅を多く作った。レッドウッド(セコイア)の無垢材で造られ、さまざまな様式が組み合わされた家で、広々とした「虚空」(何もない空間)が配されていたという。影と光に満ちたその家での生活が、まさに物語のように鮮やかに語られる。

 一方、全米図書協会から米文学功労勲章を受章した際の講演「自由」(2014)では、利益追求に走るあまり芸術の実践をないがしろにする(Amazonなど巨大企業の)風潮を批判する。これも、若手が言えないことを代弁する著者らしい主張だろう。

 続いて書籍の序文や解説が14編。文書の性質上批判的なものはないが、作家論作品論として読みごたえがある。まず冒頭のディックでは、長年評価が低かったその境遇と『高い城の男』が書かれた背景や文体と視点の意味を解き明かす。

 SF関係は以下の通り。文明のたどり着く末路を警告したハクスリー『すばらしい新世界』、ここに描かれたビジョン自体が妄想かもしれないレム『ソラリス』、ジェンダーについての重要な視点を見落とされてきたマッキンタイア『夢の蛇』、(科学者とかのエリートではなく)普通の人々がより進んだ異星人の遺物に群がるストルガツキー『ストーカー』、言葉の持つ意味と音の双方を重視したヴァンス、後年の思索的な著作より30代までの初期SF作品が歴史に残ったウェルズ、などなど。

 他では、デイヴィスやマクニコルズら、西部を舞台とし大自然やそこでの人々の生きざまを描く(いわゆる西部劇ではない)小説への共感が印象的である。作品論においては、各作家の女性に対する姿勢を冷静に問うところがSF分野での先駆者らしい。

 最後に書評15編(32編から邦訳があるものを抜粋)。こちらもSF関係では、本人はSFと呼ばれることを望んでいないがSFの為すべきひとつを体現するアトウッド『洪水の年』、科学や時空を相手に言葉遊びをするカルヴィーノ『レ・コスミコミケ』、ボルヘスにも匹敵する実力がありながらマイナーなキャロル・エムシュウィラー(『すべての終わりの始まり』)、完璧な隠喩がすべてのレベルで働くミエヴィル『言語都市』と想像力の活力が驚くばかりの『爆発の三つの欠片』、小説の心臓部に死を秘めたミッチェル『ボーン・クロックス』、夢中になって読める本だが魔法の扱いはそれ以上といえるウォルトン『図書室の魔法』などがある。

 2000年から2016年まで、何れも70代から80代後半の最晩年期に書かれものである。そして、一番最後に日記「ウサギを待ちながら」が置かれている。シアトルの北にある女性だけの作家村に、一週間滞在したル=グウィンの記録だ。そこでは、創作活動に専念できる環境が提供されている。自然の中のコッテージで、小動物と美しい光景、流れすぎる気象の変化だけがある。これもある種の物語になっている。

伊藤典夫編『吸血鬼は夜恋をする』東京創元社

She Only Goes Out at Night and Other Stories,1975/2022(伊藤典夫編訳)

カバーイラスト:後藤啓介
カバーデザイン:岩郷重力+T.K

 1975年に文化出版局から出た伊藤典夫編訳のショートショート・アンソロジイに、9編を増補したもの(これらも50-60年代作品)。編者が32歳で編んだ初のアンソロジイでもある。収録作となると、先週のディッシュよりさらに時代をさかのぼる。改訂されたとはいえ、中味が半世紀を優に過ぎた本書に懐旧以上の価値があるかどうかを確かめてみた。

 ロン・ウェッブ「びんの中の恋人」(1964)埃まみれの酒瓶の中から精霊ジニーが現れ、3つの願いを聞いてくれるという。しかしそれには条件があった。リチャード・マシスン「死線」(1959)クリスマスの夜、老人が死を迎えようとしていたが、医師の聞いたその年齢は信じられないものだった。ジェイムズ・サーバー「レミングとの対話」(1942)山中を歩いていた科学者は、たまたま居合わせた人語を話すレミングと遭遇する。レイ・ブラッドベリ「お墓の引越し」(1952)改葬が必要になり、親戚を集めて墓を掘り起こそうとしたとき、一族の婆さまは昔の恋人を優先するように指示をする。ロバート・L・フィッシュ「橋は別にして」(1963)この国で自動車が占有している面積はどれぐらいあるのか、橋は別にして。リチャード・マシスン「指あと」(1962)バスには奇妙な二人連れの女が乗っていた。アーサー・ポージス「一ドル九十八セント」(1954)道端で助けた小さな神が、お礼に願い事をかなえてくれるという。ただし、願いも小さく1ドル98セント相当だけ。ウォルター・S・テヴィス「受話器のむこう側」(1961)2か月後の自分からだと名乗る電話がかかってくる。いまから話す内容を、残さずすべてメモせよと告げるのだ。ロバート・シェクリー「たとえ赤い人殺しが」(1959)果てしない戦争で死んだ男は、望まなかった再生を強いられる。ロバート・F・ヤング「魔法の窓」(1958)1枚だけのカンバスを売る少女の作品は、陰気だが妙に心を奪われるものだった。リチャード・マシスン「白絹のドレス」(1951)入ってはいけない部屋はママのものだった。そこには真っ白な絹のドレスが掛けられている。ウィル・スタントン「バーニイ」(1951)島にはわたしとバーニイだけしか残されていない。しかしその知能の高さには問題があった。デイヴィッド・H・ケラー「地下室のなか」(1932)建て替わった地上の家とは不釣り合いなほど大きな古い地下室を、その家の長男は幼いころから恐れていた。マン・ルービン「ひとりぼっちの三時間」(1957)突然、人々の気配やラジオ放送すら消え去る。男はたった一人都会に取り残される。ジョン・ブラナー「思考の檻」(1962)地下に閉じ込められた男には、無数の思考がこだまのように聞こえてくる。R・ブレットナー「頂上の男」(1960)未踏峰に一番乗りしたのは、実は世間で知られるあの男ではないのだ。リチャード・マシスン「わが心のジュリー」(1961)強固な性的妄想に突き動かされる男は、一人の女子大生に目を付ける。クロード・F・シェニス「ジュリエット」(1961)医師が病院から帰宅するとき、いつもジュリエットが待ち構えている。アルフレッド・ベスター「くたばりぞこない」(1958)老人は周りにいる人々からすれば、時代遅れのくたばりぞこないなのだった。アラン・E・ナース「旅行かばん」(1955)旅を続けていた男は、ある町で一人の女に惚れこみ結婚を申し出る。W・ヒルトン・ヤング「選択」(1952)未来を視たはずの時間旅行者なのだが、なぜか何も覚えていない。マーガレット・セント・クレア「地球のワイン」(1957)ナパバレーのぶどう園に異星人が訪れる。園主は最高のワインでもてなそうとする。フリッツ・ライバー「子どもたちの庭」(1963)特別な魔力を持った先生のいる学校とは。ジョン・コリア「恋人たちの夜」(1934)天使と悪魔が人間の女性に変身し、お互いの正体を知らずに人間の恋人を奪い合う。リチャード・マシスン「コールガールは花ざかり」(1956)訪ねて来た見知らぬ女は、うろたえる男に性的サービスのデリバリーを匂わせる。ウィリアム・テン「吸血鬼は夜恋をする」(1956)医師の息子がほれ込んだ女性は、なぜか夜にしか会うことができない。マイクル・シャーラ「不滅の家系」(1956)過去を遡り、名を遺す祖先を探し出す会社の社長は、最後に自分の祖先を知ろうとするが。エドガー・パングボーン「良き隣人」(1960)軌道上の宇宙船から巨大生物がアメリカの上空に飛来する。人間たちは慌てて対処しようとするが。A・E・ヴァン・ヴォークト「プロセス」(1950)異星の森林に宇宙船が着陸する。その森には集合的な意識があり、遠い昔に起こった事件を記憶していた。ピージー・ワイアル「岩山の城」(1969)岩山の城が作られ、崩壊し、また別のものへと再建されていく叙事詩的な物語。フレデリック・ポール「デイ・ミリオン」(1966)肉体も心のありようも変化した千年後の世界で、奔放に生きる恋人たちの生活。ウォルター・S・テヴィス「ふるさと遠く」(1958)学校プールの用務員は、ある朝そこにクジラがいるのに気が付く。

 以上、忘備録もかねて全作品を挙げた。マシスンは最多で5編もある。今日的な倫理観とは相いれないが、サイコパスと女性に対する恐怖症とが入り混じった作品が異彩を放つ。テヴィスの2編は、後の短編集『ふるさと遠く』にも入っていたアイロニーあふれるもの。それ以外は1作家1作品である。

 予想通りのオチでも語りが面白い「頂上の男」、筒井康隆「お紺昇天」に先行する「ジュリエット」は自動運転時代に相応しいかも、現代でも通用する憂鬱な未来を描く「たとえ赤い人殺しが」と「くたばりぞこない」、ネットドラマにでも使えそうな設定の「旅行かばん」「恋人たちの夜」と「吸血鬼は夜恋をする」がそれぞれ印象に残る。「デイ・ミリオン」のレトロフューチャーな雰囲気も良い。(これらが厳密に元ネタとはいえないが)定番アイデアの原点を捜すという読み方もできるだろう。総じて(いくらか注釈は必要ながら)いまの読者でも十分楽しめるレベルと思われる。

 34編中22編はF&SFやギャラクシー、ウィアード・テールズなど専門雑誌からの翻訳、あとは短編集や一般誌から選ばれたトラディショナルな小品である。掌編もあるが、概ね20枚弱前後の長さに収まっている。傑作選や別のアンソロジイなどに転載された有名な作品も含まれる。

 編者はMen`s Clubに1965~91年まで翻訳の連載を持っていた。本書の半分(75年分まで)はそこから選ばれたものだ。他は同時期のSFマガジンや、ミステリマガジンの掲載作になる。1970年以前の作品であれば、比較的新しいもの(60年代)でも版権なしで翻訳が可能だった。本書のショートショートに限らず、雑誌に載った伊藤典夫訳の中短編は多かったが、著者もテーマもばらばらな短編はまとめること自体が困難なため、ほとんど本の形で残っていない。

 文化出版局は1975~77年に《FICTION NOW》というレーベルを冠して、本書のほか、豊田有恒『イルカの惑星』、高斎正『クラシックカーを捜せ』、眉村卓『変な男』、矢野徹『王女の宝物蔵』、荒巻義男『時の葦舟』、浅倉久志編訳『救命艇の反乱』、田中光二『エデンの戦士』、豊田有恒編『日本SFショートショート選』を出した。日本作家の作品は再編されたり文庫化された(といっても20世紀以前だ)が、アンソロジイは埋もれてしまっていた。