筒井康隆『ジャックポット』新潮社

装画:筒井伸輔
装幀:新潮社装幀室

 2017年から2021年かけて主に文學界、新潮などで発表した14作品を収めた最新短編集。

漸然山脈(2017)ジャズ「ラ・シュビドゥンドゥン」の曲に乗って、言葉が意味不明、文脈不明のままひたすら書き貫かれる。
コロキタイマイ(2017)35分間の漫才のやりとりの体裁で、「フランス文学/批評が内部から溢れかえる」(掲載誌編集長)作品。言葉の連想が、文脈不明でひたすら書き貫かれる。
白笑疑(2018)人類終末の予感、豪雨や気温上昇に伴う気候変動、迫り来る核戦争、押し寄せる難民。
ダークナイト・ミッドナイト(2018)DJとなった著者(闇の騎士)が、合間にジャズを流しながら、哲学者ハイデカーの思想を交え、死についてえんえんと語り続ける。
蒙霧升降(2018)戦争が終わり、民主主義がホームルームとなって突然現われた。何も知らない者でも、自由に意見をいえるようになったのだが、その行方にはどこか違和感がある。社会やマスコミや大衆の下に蒙昧の霧が降りていく。
ニューシネマ「バブルの塔」(2019)美人のロシア人詐欺師、泥棒とロシア中央銀行から大金をだまし取った私は、仲間に裏切られその金を奪われる。その後も詐欺と殺し合いの応酬のあげく、物語は究極の詐欺的文学を目指す。
レダ(2019)同族企業の老いた会長が若い秘書と歩いている。会社を継ぐはずの息子たちは愚かだった。秘書は新たな息子となる卵を産む。物語にはチェーホフやヘミングウェイや横山隆一らが混ざり込み混沌となる。
南蛮狭隘族(2019)
太平洋戦争で米軍や日本軍が引き起こした野蛮な行為、残虐さを精神の隘路として描き出す。
縁側の人(2020)
縁側に座るいくらか惚けてきた老人が、しゃべる相手が孫なのか誰かも分ないまま詩について語り続ける。
一九五五年二十歳(2020)著者が同志社大学に在学していた二十歳のころ、演劇に入れ込み、映画を見て俳優に憧れる日々。
花魁櫛(2020)
母親が亡くなり、家財整理で唯一残した仏壇から鼈甲の櫛が見つかる。それには思わぬ骨董的な価値があるようだった。
ジャックポット(2020)ハインラインの「大当たりの年」を念頭に、新型コロナ禍の世界で起こるフィクションやノンフィクションを、経時的に描き出したコラージュ作品。
ダンシングオールナイト(2020)ジャズから楽器に興味を持ち、ダンスの修行を経て、フリージャズから山下洋輔のファンとなり、やがて憧れたクラリネットを手に入れる。死ぬまでにダンスをまた踊りたい。
川のほとり(2021)夢の中に亡くなった長男が現われる。長男とは昔のように会話をするのだが、それは自分自身が話していることだと分かっている。

 「漸然山脈」のテーマ曲「ラ・シュビドゥンドゥン」は著者自身が作詞作曲している。「ダンシングオールナイト」でも言及されているが、意図的にでたらめを歌うバップ唱法(ビバップ)に則っている。この曲も、意図的に意味不明となっているのだ。そして作品はというと、ほとんどすべてに著者の言うところの「破茶滅茶朦朧体」が取り入れられている。単語の意味は分かっても、一文の意味は分からない(何らかの引用だったりするが)。しかし、作品全体で読むとリズムがありまとまりを感じる。

 本書の中では「花花魁」がショートショート、私情の濃い「川のほとり」がさらに短い掌編で、トラディショナルな文体で書かれている。「漸然山脈」「コロキタイマイ」は朦朧文体で書かれた短編、「レダ」「ニューシネマ「バブルの塔」」はその中間的な文体だ。一方「白笑疑」では終末、「ダークナイト・ミッドナイト」では死が、「蒙霧升降」では民主主義、「南蛮狭隘族」では戦争、「縁側の人」では詩、「ジャックポット」ではコロナ禍が、それぞれの特定のテーマとして取り入れられている。これらは著者の批評精神が発露されたものだろう。「一九五五年二十歳」と「ダンシングオールナイト」は(もともとの依頼に基づく)自伝的な要素が強い。

 筒井康隆はいまでもSF作家を名乗っているが、1970年代にはもはやSF専門ではなくなっている。いまでは純文学の最前衛に位置するわけで、幅広いファンに支えられている。本書を読んでも、まだ果ては見えない。

我妻俊樹/円城塔/大前粟生/勝山海百合/木下古栗/古谷田奈月/斎藤真理子/西崎憲/乘金顕斗/伴名練/藤野可織/星野智幸/松永美穂/水原涼/宮内悠介/柳原孝敦『kaze no tanbun 移動図書館の子供たち』(柏書房)

ブックデザイン:奥定泰之
カバーイラスト:寺澤智恵子

 《kaze no tanbun》の第2集目。1集目はハードカバーだったのが、今回は新書サイズのソフトカバーに変わった。この方が手に取りやすくて良い。誰が編纂したか本文には記載もなく(西崎憲プロデュース)、著者名が五十音順で帯に並ぶだけの体裁は、惑星と口笛ブックスのアンソロジイなどと同じである。

 古谷田奈月「羽音」人生でただ一度だけ、歌うために生まれてきたのだと信じたことがある。宮内悠介「最後の役」考えごとをしているときなどに、麻雀の役をつぶやく癖がある。我妻俊樹「ダダダ」ヒッチハイクでここまで来れたのは上出来だった。斎藤真理子「あの本のどこかに、大事なことが書いてあったはず」あの本のどこかに、大事なことが書いてあったはず。伴名練「墓師たち」墓師が来ても戸を開けてはならぬと父に教えられたのに、言いつけを破ってしまった。木下古栗「扶養」もう何年も前の話になる。大前粟生「呪い21選──特大荷物スペースつき座席」人のかたちをした穴が町のそこかしこにある。水原涼「小罎」村の灯はまだ遠い。星野智幸「おぼえ屋ふねす続々々々々」子どもたちの名前は「ふねす」。柳原孝敦「高倉の書庫/砂の図書館」島尾ミホは加計呂麻島での少女時代を回想し、「いろいろな旅人たち」が「渡ってきては去って」行ったことを記録している。勝山海百合「チョコラテ・ベルガ」年若い住み込み弟子の黄紅は、師匠が留守でもいつものように夜明けまえに起きた。乘金顕斗「ケンちゃん」私たちがかつて子供たちであった頃(文章が一段落分、切れ目なく続く)斎藤真理子「はんかちをもたずにでんしゃにのる」はんかちをもたずに/でんしゃにのる(詩)藤野可織「人から聞いた白の話3つ」私服の制服化、というのが流行っている。西崎憲「胡椒の舟」東都が水の都であることは誰もが知っている。松永美穂「亡命シミュレーション、もしくは国境を越える子どもたち」大きい荷物はもうチェックインした。円城塔「固体状態」物理学というものはときに不思議な文章を生み出すことがあり、たとえばそれはこういうものだ。

 上記は、各文の冒頭一文だけを引用している。意味があるかどうかはともかく、書き出しを並べるだけでも雰囲気が(なんとなく)分かるだろう。自身の体験に基づく(のかもしれない)エッセイ風ノンフィクション風だったり、ホラー、SF、ファンタジイ風のものだったり、それらが混ざり合っていたり、テーマのない「短文」なので内容はさまざまだ。

 16作家17作品、目次は最後に押し込められており、順不同のようにも読める。1作品の平均15ページ(原稿用紙にして20枚前後)、読み飛ばせばあっという間だが、気分に合わせて少しずつ読むのに適している。全体を通して、子どもたちのお話が多い。子ども時代の記憶、子どもたちの運命。あるいは青年や少女だった若い頃のできごとなどなど。

水鏡子「なにぶん「岡本地獄」であるので」『千の夢』解説

以下は『千の夢』巻末に収録した、水鏡子解説を全文掲載したものです。

 著者の第四短編集。「会社」に焦点をあてた十二篇を集めている

 社会人としての経歴は、大学のシステム工学科を卒業後、大手電機メーカーに就職、半導体その他の研究開発にも携わり、三八年間勤続し、二〇一三年度末に六〇歳で定年退職した。二一世紀に入ってからは会社の方もごたごたがあり、現在は海外資本の傘下にある。直接聞いたわけではないが、したくもない得難い体験をいろいろ経てきたのではないか大変だったのではないかなど本書に漂う鬱屈を味わいながら思ったりする。今の日本は国の要請で定年退職後一年ごとの継続で六五歳までの五年間、再雇用の可能な仕組みになっているのだが、二年未満で再雇用を打ち切り、創作の道に踏み入る。

 六〇の手すさびというわけである。

筆者も同類ですが、最近は本業をリタイアした自称作家が急増しているそうです。新人賞応募などがあると、自伝まがいのフォーミュラ・フィクション(ある種の願望充足小説)を書く老年応募者が殺到して、増えすぎたシカやイノシシなみの害獣扱いになっているとか。駆除されないまでも、有力な若い作家がたくさん出てくる中、受賞できる確率はとても低いでしょう。将来性がない、というか、そもそも活動可能な賞味期間・作家余命が短かすぎるからです

自身による『機械の精神分析医』のプロモーション

 たんたんと無表情で毒を吐くのは昔からである。別に年を食って偏屈狷介になったわけではない。

 とはいえこの手すさびが尋常ではない。長年ひとつのジャンルに親しんだ人であるなら四、五篇の短編作品を捻り出すのは、それなりにできなくはない。「小説家になろう」にあるように、だらだらひとつらなりの話を書き綴るのはたぶんそれよりもっと楽。ほどほどに語り続ける才があれば、設定や構想の不備は後付けで輔弼していくことが可能であるから。

 しかしながら安定した商業出版レベルのクォリティで数十篇の短篇を書き続けるとなるとプロの作家であってもどれくらいの人間に可能であることか。大野万紀主宰のWEBマガジンTHATTA ONLINE誌上においてほぼ毎号、年十作のペースで作品の発表を継続し、現在までの総数は六〇篇に及んでいる。

 二〇一九年七月に第一短篇集『機械の精神分析医』を刊行したのを皮切りに、半年単位でテーマごとにまとめ、作品集を刊行している。現在までの収録作品総数が四〇篇。今後も年十篇の発表が続くものと仮定して、残り四冊の刊行が待ち構えている。

 六〇の手すさびと言ったが、元々が創作系の人間で、ファン活動の始まりは高校時代のショートショートの投稿である。

 MBSラジオで深夜の一時半から五時まで二年余り放送されていた「チャチャヤング」という番組で、故眉村卓氏が木曜日のパーソナリティを務め、その中でリスナーからの投稿を受け付け朗読されていたもので、「四当五落(五時間寝ると受験で受かれない)」といった言葉が普通に使われ、深夜ラジオ放送が共有文化だった時代である。はっきり言ってラジオを聞きかじっている時間はまるで勉強は身につかなかった。当時の関西の受験世代のSFファンは必死になって眉村氏を聴いていた。かくいうぼくもそのひとりであり、投稿もじつは何度かしている。この番組でしか流されなかった「スラリコ・スラリリ」という曲のメロディはいまだに耳にこびりついている。

 番組の終了に合わせて、七二年九月に優秀作を集めた『チャチャ・ヤング=ショート・ショート』が講談社から刊行されている。メンバーは、その後も眉村氏も囲んで(何年かの空白期間はあるものの)現在に至るまで親交を絶やさずそれぞれに創作中心の活動を続けている。

 ただ、著者については、進学したうちの大学サークルが海外SF指向で翻訳やレビューを中心に、活動を商業誌まで拡大していくなかで中心的な役割を担っていった関係もあり、創作活動は余技的にとどまり、活動はもっぱらレビュー中心にシフトしていった。

 レビューの対象作品は、五〇年代SFとかハードSFとか冒険SFとか会員各自で大まかに棲み分けがなされ、そうしたなかで著者の守備域は〈新しい波〉や主流文学系が中心となり、商業誌での「SFチェックリスト」の分担系レビュー(その月、刊行されたすべてのSF作品を数名の人間が分担してレビューする)においてもそうした方向性が引き継がれていった。

 読むことや書くことは、読みながら書きながら、煮詰まったりときほぐれていったりするものだというのが、僕自身が読んだ作家や書いた自分から導き出した実感なのだが、著者の文筆活動には、そんな陥穽を避け、持続していくことをなにより重視していると思える一面がある。なにか決まった製造工程に則って、きちんとした品質管理のもと、均質な生産物を送り出し続ける。均一ではなく均質である。そんな印象があるのだ。この数年の毎月生産される短篇の五年前も最近作も変わらぬ安定感から生まれた印象であるのだけれど、そんな持続と品質維持への意思は、翻るに過去半世紀に及ぶレビュー活動の中から生じたものであるかもしれない。

 創作活動に軸足を残しながら、SF及び周辺作品二千冊あまりの内容を言葉にしてきて半世紀、その中で蓄えられたSF知識、小説作法、SFファン活動や社会人生活のなかでの体験とその渦中での様々な思い、それらを積み重ね六〇代という人生の折り返し点で培ってきた個人的及び俯瞰的な世界と制度と将来への知見、そうした公的私的な景観を、品質管理を施した基本四〇枚前後のSF小説の枠組みに落とし込んでいくというのが現在行い続けている著者の作業であるのだと思う。

 意外であったのは、SFの最先端や周辺文学を読み込んでいるはずの著者であるのに、落とし込む先の小説形態がノスタルジックなまでに第一世代のころのSFの骨組みに近しい印象があること。はっきり言ってしまうと、眉村さんの初期作品群を彷彿させる。

 私的な心情や思いついたアイデアを小説に落とし込む手つきがすごく似通っている。テーマが重なるということもある。眉村氏との長い親交が影響を与えているのは間違いないのかもしれない。けれどもそれなら中期後期の氏の作品であってもいい。

 多感な高校生時代、なりたてのSFファンであった少年が最初に出会い、親身になってもらった作家の当時の作品群が、強烈に、小説作法として著者の心中に刻印されているのでないか。

 「インサイダー文学論」という眉村氏の提唱がある。サラリーマン、というより会社や社会制度の有り方をを知らずに文学は書けない。組織の一部となりながら、埋没せず、自分であることを捨てない生き方。そうしたものを組織や体制に組み込まれている人々に届ける努力をしなければ世の中に訴える力を持つことはできない。そんな趣旨の発言で、当時仲間のSF作家たちから反発を受けていた。社会学科卒業のぼくからするとすごくまともな意見であると思うのだが。

 主張の実践意図をもって書き上られた長編にはあまり感心しなかった。むしろ中間管理職的な立場に置かれてしまった主人公が投げ出さず、悲哀と諦観を交えながら事案を処理する「クイズマン」のような作品こそが作者の主張に沿っていると思っている。

 著者の第一短編集『機械の精神分析医』の前半は、AIの不調の原因を解決していく主人公による連作だが、その読後感は、アシモフの『われはロボット』のようなパズル性より、クライアントの病理を浮き彫りにする方向に話をまとめる。AIと人間が共存する社会制度のもとでその場その場の調整しかできない橋渡し的職業の悲哀と諦観を描いていく。

 そこに「クイズマン」の印象が重なり、さらには眉村氏初期の多彩な短篇群と、第二、第三短編集『二〇三八年から来た兵士』『猫の王』から共通する手つき、手触りが感じて、ぼくにとって「岡本俊弥作品は眉村卓初期短篇群の多大な影響下にある」という結論になった。

 ただし、それは手つき手触り、様々なアイデア、事象を小説の枠に落とし込む作法が共通しているだけで、展開される世界は天国と地獄くらいに隔たっている。当然眉村天国、岡本地獄である。

 人情味にあふれた眉村氏と異なり、著者は「まるでアンドロイドみたい」と形容される人格容貌だった。高度成長のきざはしにさしかかった六年間のサラリーマン生活、日本の未来が開けていたのが眉村氏の「インサイダー」なら、三八年間働いて、団塊の世代の後塵を拝し、不況下のグローバリズムに翻弄され、老後の展望はというと、ここでも団塊の世代に食い散らされ、さらには国の借金財政、少子高齢化が暗澹たる未来を予見させる現状である。著者の性格からすれば、嬉々として地獄八景を繰り広げるに値する素材が積もりに積もっている。

 「機械と人」「異世界」「獣性」と過去の短篇集もそれぞれテーマ設定がなされていたが、「機械と人」をテーマとした第一短篇集こそ同じ主人公による連作もあって、それなりのまとまりがあったが、第二、第三短篇集はテーマがあいまいすぎてテーマ短篇「集」としてはまとまりに欠けるきらいがあった。

 ところが本書はどうだろう。研究開発だったり、テレワークだったり、セキュリティ、あるいはグローバリズムだったり、内容は多岐に渡り、作品間のつながりもない、発表時期もばらばらである。にもかかわらず異様なまでに「集」として収束し、まとまりがある。著者の「会社」に対するいろいろな思いのたけが重くのしかかってくるようで、個人的には四冊の中でいちばん高く評価している。

 のしかかられてつらくなる人もいるかもしれないが。なにぶん「岡本地獄」であるので。

郝景芳『人之彼岸』早川書房

人之彼岸,2017(立原透耶・浅田雅美訳)

カバーデザイン:川名潤

 郝景芳(ハオ・ジンファン)の最新短編集である。AIをテーマとした6つの中短編と2つのエッセイから成る。このエッセイはリファレンスこそないものの、AI研究に対する科学や哲学的な分野を網羅するサーベイ論文で、異例なことに小説の手前に置かれている(しかも百ページ近くある)。著作に対する意図を、あえて明確化したものといえるだろう。

 あなたはどこに:主人公はAIのアバターを使って、自分の分身を作るビジネスを展開している。多忙のあまり恋人の相手にも分身を使うが。
 不死医院:不治の患者を回復させると評判が高い病院があった。重い病を患った母親も元気になって帰ってきた。しかし主人公には、母親の回復が信じられない。
 愛の問題:著名だった科学者が殺される。疑われたのは、複雑な家庭環境で仲が悪かった長男である。しかし、長男は家政を担当するAIロボットの犯行だと主張する。
 戦車の中:破壊された村の中で、ロボット戦車は見慣れない機械車と遭遇する。機械車が伝える情報は疑わしかった。
 人間の島:ブラックホールを抜ける旅から宇宙船が帰還する。地球では既に百年の歳月が流れ、世界は乗組員たちの知るものとは異なっていた。
 乾坤と亜力:交通制御から経済の安定まで、すべてを司る人工知能乾坤は、ある日一人の子ども亜力から学べと指令を受ける。

 これら短編の前にエッセイ、スーパー人工知能まであとどのくらい(人類を凌駕するようなスーパーAIは現われるのか、それにはどんな課題があるのか)と人工知能の時代にいかに学ぶか(人とAIとの学習の違い、これからどういう学習が重要か)がある。短編の前提条件を述べたに止まらず、人工知能と人との関係をガチに、かつ平易に論じたものだ。

 小説では、上記エッセイをベースにさまざまな問いかけがなされる。主要テーマは、感情面を含めAIは人の代替ができるのかである。「あなたはどこに」の恋人や「不死医院」の母親、「愛の問題」ではばらばらになった家族が象徴的な存在として登場する。何れの作品も、AIにはない人間特有の情動をキーにしている。たとえば「人間の島」では、スタニスワフ・レム『星からの帰還』のように(相対論的効果で)未来へと帰還した宇宙飛行士たちが、社会に平穏と安定をもたらすAIのユートピアに疑問を投げかけるのだ。

 最後の「乾坤と亜力」(『2010年代海外SF傑作選』にも収録)には小さな希望がある。この中でAIは、子どもの想像力がもたらす非論理的なものの価値を学ぶ。それは今あるAIでも人間でもない、新しい知性による未来を示唆している。

柴田元幸・小島敬太編訳『中国・アメリカ 謎SF』白水社

装幀:緒方修一
装画:きたしまたくや

 英米文学翻訳家の柴田元幸と、中国を拠点に活動するシンガーソングライター小島敬太による(選定から翻訳まで)日本オリジナルのSFアンソロジイである。日本での紹介がないか、もしくは雑誌紹介のみの作家6人(中・米各3人)7作品を収めている。

 ShakeSpace(遥控):マーおばさん(2002)主人公は、図形により人とコミュニケーションする、馬姨(マーイー)と名付けられた試作機をテストするうちに、装置の中身に疑問を感じるようになる。
 ヴァンダナ・シン:曖昧機械(2018)〈概念的機械空間〉の中には3つの不可能機械が存在する。モンゴル人の技術者、トルコ人の数学者、マリの考古学者が発見・発明したものである。
 梁清散:焼肉プラネット(2010)事故で惑星に不時着した乗客は、有害な環境なので宇宙服のヘルメットが外せず飢えに苦しむ。そこには見るからに美味そうな肉に似た生き物たちが生息していた。
 ブリジェット・チャオ・クラーキン:深海巨大症(2019)3人の科学者とスポンサーになった教会の受付係、コーディネータたちは、民間に払い下げられた原子力潜水艦に乗って、深海の底で海の修道士(シーマンク)を探す。
 王諾諾:改良人類(2017)ALSの治療を期待し冷凍睡眠に入った主人公が600年後に目覚める。人々も社会も理想的と思えたものの、彼を目覚めさせるための何らかの理由があるようだった。
 マデリン・キアリン:降下物(2016)戦争が終わってから20年後、世界や人々には戦争の深い傷跡が残されている。500年過去からやってきた主人公は、その時代の自称考古学者と出会うが。
 王諾諾:猫が夜中に集まる理由(2019)真夜中に開かれる猫の集会には、世界を守るための秘密の仕事が隠されている。

 巻末の編訳者対談「〈謎SF〉が照らし出すもの」では、本書収録の作家たちの背景が語られる。都会世代の感性を表現した中国作家は(70、80、90年代生まれ)と各年代にまたがり、一方のアメリカ作家は全員が女性で、インド系物理学者や中国系、考古学者など出自が広い。

 中国の作品はチューリングテストや遺伝子改変、シュレーディンガーの猫などストレートなSFネタで書かれている。アメリカの場合は、マイナーな文芸誌や短編集に載ったオープンエンドで実験的な作品である。未来への希望と絶望、アイデアの明快さの差異など、中・米では結構違いがある。それでも、本書の切り口「現代文学」として交互に読むと、意外な親和性や共鳴し合うものがあって面白い。同じではないけれど、それぞれの現在とシンクロしているのだ。

酉島伝法『るん(笑)』集英社

装幀:松田行正
表紙図版:Spiderplay/Getty Images

 昨年11月に出た本。「群像」と「小説すばる」に掲載された3つの中編からなる連作集である。SF以外の(人間を主人公とした)単行本は初めてなのだが、著者の場合ほとんど印象が変わらないのが特徴かも知れない。「普通の人間の書き方がわからなくなっていて、二本足でどう歩くのかを確かめるようにして書いた」とある(エッセイ「千の羽根をもつ生き物」)。

 三十八度通り(2015):結婚式場に勤める主人公は、38度の熱を帯びるようになった。夢の中で北極点から南極点へと、緯度を下りながら歩き続けている。
 千羽びらき(2017):女は全身が蟠(わだかま)る病に苦しんでいる。しかし民間療法「るん(笑)」により治療ができるという。
 猫の舌と宇宙耳(2020):この世界では猫が排斥されている。子どもたちは立ち入りを禁止されている地図にない山で、猫を探そうとする。

 「三十八度通り」の主人公の妻には病にかかった母親がいて、その物語が「千羽びらき」になる。そして、妻の幼い甥の物語が「猫の舌と宇宙耳」である。親類縁者たちの物語なのである。舞台となる世界は、迷信や疑似科学的な法則により支配されている。町には全長15キロにも及ぶ巨大な龍が横たわり、人々は贄(にえ)とよばれる捧げ物を毎日投げ落として運気を高めようとする。薬はいかがわしいものであり、場末のヤクザイシから買わなければならない。民間療法は公的な医療行為を超越し、猫はなぜか忌み嫌われている。

 エッセイ中でも書かれているのだが、著者の作品のベースには実体験=現実がある。デビュー作「皆勤の徒」では特殊な造語を駆使することで、現実世界がほぼ隠蔽されていた。本書で描かれる別の常識に支配された日常も、実社会とはだいぶ異なるように見える。しかしフェイクや疑似科学に溢れる今現在と、たいした違いはないともいえる。著者自身が違和感を抱いてきた「すこし角度を変えて見た現実社会そのもの」なのである。

久永実木彦『七十四秒の旋律と孤独』東京創元社

ブックデザイン:岩郷重力+WONDER WORKZ。
装画:最上さちこ
装幀:長﨑稜(next door design)

 第8回創元SF新人賞を受賞した標題作を含む連作集。著者初の単行本でもある。なお、久永実木彦はWebラジオのパーソナリティ(視聴するには会員登録が必要だが、東京創元社のyoutubeチャンネルでも聞ける)を務めていて、なかなか流暢な語りでしゃべっている。

 七十四秒の旋律と孤独(2017)宇宙空間に適合した朱鷺型人工知性マ・フは、その能力を使って宇宙船の警護に就いている。
 一万年の午後(2018)惑星Hで調査の任務に就く8体のマ・フたちは、環境への変更を一切加えず観測だけに徹していたが、あるきっかけにより干渉を余儀なくされる。
 口風琴(2019)失われていたはずのヒトが蘇った。ヒトは口風琴を使いふしぎな音楽を奏でる。マ・フたちはその指導に従い生き方を変えていこうとする。
 恵まれ号I・恵まれ号II(書下ろし)ヒトは次々と復活し村を築くまでになる。やがて、古い宇宙船の所有権を巡って、不穏な動きが見られるようになる。
 巡礼の終わりに(書下ろし)さらに長い歳月が経過し、ヒトたちは逆にマ・フを崇めるようになっている。そんな村にマ・フの助けが必要な事件が発生する。

 表題作のみが独立した短編で、主人公であるマ・フの登場編になっている。それ以外の5作品は、惑星Hを舞台とした《マ・フ クロニクル》という連作である。マ・フとは人型のロボットを指す。しかし、この物語はいまどきのAI:人工知能をテーマとしたものではない。それぞれが個性を持ち、ストイックながら人間的な感情を有しているからだ。AIのような万能感はなく、無垢な子どものような存在ともいえる。それでいて、1万年の繰り返し作業に耐える精神的な堅牢さがある。

 人間をご主人様と慕うけなげなロボットたちというと、トマス・M・ディッシュの『いさましいちびのトースター』(1980)を思い出す。本書はそこまで童話的なお話ではないが、マ・フが抱く失われた人類への郷愁には、リアルというより寓話的なアイロニーが感じられる。しかしヒトはご主人様にはならない。やがて、立場の変化がクロニクルの中で明らかになっていく。

ピーター・ワッツ『6600万年の革命』東京創元社

The Freeze-Frame Revolution / Hitchhiker,2018(嶋田洋一訳)
カバーイラスト:緒賀岳志
カバーデザイン:岩郷重力+W.I

 ピーター・ワッツの最新刊。先に出た日本オリジナルの短編集『巨星』に3作品が収められている《サンフラワー・サイクル》で、未訳だった中編と続編に相当する短編1作が収録された作品集だ。短編は暗号を解読した読者だけのボーナストラックなので、書籍でそのまま読める日本の読者はお買い得である。著者が中編と主張する本編は、350余枚あるので短い長編ともいえる。

 国連ディアスポラ公社が建造した恒星船〈エリオフォラ〉は、銀河を周回しながらワームホールゲートの敷設をする任務を続けている。ブラックホールを内蔵し、航路周辺の天体を燃料に変え、敷設したゲートは既に10万を越える。しかし、その間6600万年が経過した。3万人の乗員は少人数に分割され、数千年に一度必要に応じて目覚めるのみ。船のコントロールはすべてAIに委ねられている。

 6500万年が経った時点で、乗員たちの一部にAIによる恣意的な操作が行われているのでは、という疑念が生まれる。対抗するため、密かにAIからの解放革命が進められるが、それには100万年もの時間がかかる。人間の寿命は任務の長さに比して極端に短いので、何度も休眠と覚醒をタイムラプスのように繰り返すことになる。

 登場人物への共感を拒否するワッツの作品の中では、この《サンフラワー・サイクル》は比較的人間寄りのシリーズである。ここに出てくる人類は(詳細な説明はされないものの)おそらく我々とは異なる存在だろう。途方もない時間スケールの中で、精神に異常を来さず任務をやりとげねばならないのだ。そこに超AIならぬ頭の悪いAIチンプ(チンパンジー並という蔑称)が絡み、乗組員たちと駆け引きをする。宇宙的時間が流れ、登場する全員が非人間なのに、妙に人間的な弱みが見えるのが面白いところだ。

エドゥアルド・ヴェルキン『サハリン島』河出書房新社

Остров Сахалин,2018(北川和美・毛利公美訳)
装画:杉野ギーノス
装丁:森敬太(合同会社 飛ぶ教室)

 エドゥアルド・ヴェルキンは1975年生まれのロシア作家。YA向けのSFを書いてきたが、本書で初めて一般読者向けSFを書いた。2019年のストルガツキー賞を受賞。サハリンとは樺太のこと。本書の設定では、復活した大日本帝国の領土となっている。ロシアの文豪チェーホフは、ロシア帝国末期の1893年に同じ題名の『サハリン島』(旅行記ではなく多分に政治的なルポルタージュ)を書いた。本書ではそういった過酷な流刑地だった過去と、作者自身が訪れた現在のサハリン、核戦争後の異様なサハリンが混淆しているのだ。

 北朝鮮の核攻撃を契機に全面核戦争が勃発、アメリカや中国、ロシアは崩壊し、さらに生き残った人々をゾンビ化させる、謎の疫病MOBが蔓延する。日本では自衛隊のクーデターで大日本帝国が復活、鎖国政策により押し寄せる難民を強制的に排除する。物語は東京帝国大学で応用未来学を専攻する主人公が、イトゥルプ島(択捉島)やサハリン島でフィールドワークを行うため、島に上陸する場面から始まる。島には難民の収容所、居住地があり、また日本人流刑囚を収監する刑務所が点在しているのだ。

 主人公はロシアの血を引く美少女、二丁拳銃で撃ちまくる。案内役のタフな銛族(銛を自在に操る)の青年と共に、列車やバギー、ボート、徒歩など移動手段を換えながらサハリン各地を転々とする。サハリンは北海道と同じくらいの広大な島で、交通手段や治安が乱れた状況での移動は極めて困難なのだ。

 と書くとラノベなのだが、ロシアSFはそうそう生易しいものではない。ロシア時代の地名がそのまま残る帝国領は異形の世界だ。本土に入れない中国人難民や、ロシア人、コリアンが溢れている。人の命には価値はなく、無造作に殺され死体は発電所の焚きつけになる。アメリカ人はというと人種を問わず「ニグロ」と呼ばれ、檻に吊されて石打ちの刑に処せられる。海は放射能で汚染されている。支配階級であるはずの日本人も、サハリンではどこか精神に異常をきたすのだ。

 著者は本書と関連ある作品として『宇宙戦争』『トリフィド時代』「少年と犬」『渚にて』「風の谷のナウシカ」などを挙げている。他にもヘンリー・カットナーの〈ホグベン一家〉もの(日本では単行本にまとまっていない)や芥川龍之介の影響を受けたという。そこにソローキンやエリザーロフ(下記リンク参照)の、エスカレーションする凄惨さを加えたカオスが本書になる。日本の読者からすれば、(アンモラルな)差別的描写はフィクションの一要素と割り切り、政治性を排した異世界ものとして解釈すべきだろう。エピローグはちょっと蛇足ぎみでは。

 

橋本輝幸編『2010年代海外SF傑作選』早川書房

カバーデザイン:川名潤

 11月に出た『2000年代海外SF傑作選』に続く、橋本輝幸編の翻訳SFアンソロジイである。このくらいの時期になると、ケン・リュウやピーター・トライアスなど新刊でも入手容易な作家が多くなる。11作品を収める。

 ピーター・トライアス:火炎病(2019)*兄は周りが青い炎に包まれるという病に犯される。主人公は、治療の手がかりを探すうちに、感覚操作並列SOPというARエンジンの存在を知る。
 郝景芳:乾坤と亜力(2017)*社会全般を統括するAI乾坤(チェンクン)は、ある日、三歳半の子ども亜力(ヤーリー)から学ぶように命令される。亜力の言動は理解不能のものばかりだった。
 アナリー・ニューイッツ:ロボットとカラスがイーストセントルイスを救った話(2018)*全米の医療が崩壊したアメリカで、ドローン型ロボットと一羽のカラスが協力することを学ぶ。
 ピーター・ワッツ:内臓感覚(2018)*グーグルのデリバリーに暴行を働くというもめ事を起こした男は、パラメータ化の専門家と名乗る女の非公式訪問を受ける。
 サム・J.ミラー:プログラム可能物質の時代における飢餓の未来(2017)*ソフトウェアで自在に変化する、形状記憶ポリマーが爆発的に普及する。しかし、ハッキングのために恐ろしい事態が生じるようになる。
 チャールズ・ユウ:OPEN(2012)ある日突然、部屋の中央に”door”という文字が出現する。僕は彼女と話し合わねば、と思う。
 ケン・リュウ:良い狩りを(2012)清朝末期、香港の近辺に住む妖狐と妖怪退治師だった親子は、魔法が消えていく時代の中で、姿を変えながら生き抜いていこうとする。
 陳楸帆:果てしない別れ(2011)**主人公は脳内出血で倒れ、かろうじて意思の伝達こそ可能なものの全身麻痺のままとなる。ところがそんな主人公に、思わぬ仕事が依頼される。
 チャイナ・ミエヴィル:“ ”(2016)* “ ”とは〈無〉を構成要素とする獣である。現実の事物の反対側にある負の存在は、新たな学問を生み出すことになる。
 カリン・ティドベック:ジャガンナート(2012)いつなのか分からない未来、異形の生き物マザーの中に生まれた主人公は、やがて成長し生涯の役割を与えられる。
 テッド・チャン:ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル(2010)仮想空間に生きる人工生物ディジエントは、独自のゲノム・エンジンを使って知能を持つ生き物としてふるまう。
 *:初訳、**:新訳

 7作品は初紹介、または入手困難な本の新訳。ピーター・トライアス郝景芳アナリー・ニューイッツピーター・ワッツらは、まさに今のテクノロジーであるAIや、ネットで構成されたGAFA的な世界を切り取った小品だろう。サム・J・ミラーは登場人物が現代的、チャールズ・ユウチャイナ・ミエヴィルは円城塔風(文字のような純粋に抽象的な存在を生き物のように扱う)である。カリン・ティドベックは酉島伝法『皆勤の徒』(英訳版)を高評価したヴァンダミアのアンソロジイから採られたが、本作もそういう流れを汲む作品。陳楸帆も後半はよく似た雰囲気だ。ケン・リュウは『紙の動物園』収録のスチーム・パンク作品、テッド・チャンはデジタル生命の意味を考察する力作で、比較的最近(約1年前)出た『息吹』収録の中編だが、テーマ的にも欠かせないということであえて収録されたようだ。

 2010年代は終わったばかりの近過去なので、客観的な評価を下すのは難しいが、本書の中にそのエッセンスは見える。ネットがその存在感を広げ、AIは偏在化(あらゆるところに分散化)し、無形(ソフト)が有形(ハード)を凌駕する社会だ。また、国家に替わって企業が情報=人間を支配する。男女の定型的な役割は否定され、人に似たものは人間とは限らない。本書の多様な視点から、そういう社会的な変化が顕わに見えてくる。

 2020年はパンデミックで明け暮れ、さまざまなものが終わりまたは加速されたが、これらは2010年代(2010-19)より後に物語の形を成すものだろう。