R・A・ラファティ『ファニーフィンガーズ ラファティ・ベスト・コレクション2』早川書房

Best Short Stories of R.A.Lafferty,2021(牧眞司編 伊藤典夫・浅倉久志・他訳)

カバーデザイン:川名潤

 ラファティ・ベスト短編集の第2弾。編者のコンセプトによると「カワイイ編」らしいが、いったい何がカワイイのだろうか。確かに、登場人物にはかわいい(と記載された)少女や子どもたちが出てくる。とはいえ、言動も行動も破天荒、正体は人類ですらない(のかもしれない)。

 ファニーフィンガーズ(1976/2002)* 養女として育てられた少女は、ある日、自分が何ものなのか疑問を抱くようになる。
 日の当たるジニー(1967/79)4歳の娘ジニーは、永久に年を取らなくなったと言う。だが、世界一美しいはずの姿は、実はほんとうではないのだ。
 素顔のユリーマ(1972/74)物覚えが悪い子だった。賢い子どもだらけの中で最後の愚鈍とまで罵られたが、驚くべき発明によって欠点を克服する。
 何台の馬車が?(1959/2002)* 9歳の少年は、毎晩何台もの馬車が西に向かって走って行く音を聞く。そこは古い馬車道だったが、馬車が通っていたのは大昔のことだ。
 恐るべき子供たち(1971/71)* ナイフの血を落とすにはどうしたらいいか知ってる? 9歳の女の子カーナディンが巡査に質問する。
 超絶の虎(1964/84)カーナディンは7歳の誕生日に赤い帽子をもらい、精霊から贈られたものと説明する。実際、その日から霊力が顕われる。
 七日間の恐怖(1962/68)9歳の少年が消失器を発明した。目についたものを、何でもかんでも消してしまうのだ。
 せまい谷(1966/74)19世紀末、その地で最後のインディアンが自分の土地に魔法をかけ、よそ者から見えないようにしてしまう。
 とどろき平(1971/93)その郡のあらゆる町には影となる第二の町があった。たとえば、ブーマーにはブーマー(とどろき)平(だいら)がある。
 レインバード(1961/67)18世紀末に生まれた発明家レインバードには、数々の業績がありながらまったく知られていない。
 うちの町内(1965/78)うちの町内にはおかしなやつがうようよいる。彼らの住む小さなバラックからは、あり得ない数の荷物が積み出されたりするのだ。
 田園の女王(1970/81)自動車とローカル鉄道、どちらに将来性があるかを思い悩んだ若者は、全財産を一方に投資する。
 公明にして正大(1982/83)お互い親友同士の野心家と内向的な若者がいた。内向的な若者に遺産話が転がり込んできてから状況が変わる。
 昔には帰れない(1981/86)〈まいご月の谷〉でムーン・ホイッスルを吹けば、ホワイトカウ・ロックがその音に反応して動き出す。
 浜辺にて(1973/2007)* 4歳の少年は浜辺で珍しい貝、チリガク芋貝をみつける。それを耳に当てるだけで聡明さを得ることができるのだ。
 一期一宴(1968/81)港町の酒場に奇妙なお客がやってくる。みすぼらしい身なりをしているが、際限なく食べて酒をあおり、女遊びをしたあげくまた食べはじめる。
 みにくい海(1961/75)港の酒場でピアノを弾く少女がいた。気を惹かれた男は女の好みに合わせるため船乗りとなり、いつか添い遂げようと思うがなかなか成就しない。
 スロー・チューズデー・ナイト(1965/72)一日を三交代で生きる世界。しかもその短い一日の時間の間に、一生分の絶頂とどん底を何度も繰り返す。
 九百人のお祖母さん(1966/78)不死だと称する人々を探る調査員は、九百人の祖母がいるという話を聞きだす。
 寿限無、寿限無(1970/80)宇宙創造の妨害をした咎をうけ、1人の下級神に時間の壮大さを認識させる刑罰が処せられる。
 (原著発表年/初翻訳)*…短編集初収録(雑誌、アンソロジイ収録作)

 今回は20編が収められており、うち4編が著者の短編集では初収録となる。日本でのラファティ初紹介作「レインバード」(1967年のSFマガジン掲載)や、50年代に書かれた初期作「何台の馬車が?」が含まれている。

 実際に「カワイイ」子どもが主人公なのは、冒頭の「ファニーフィンガーズ」から「七日間の恐怖」までと「浜辺にて」の8作品。なぜか、4歳と9歳が多くて10歳以上はいない。ラファティ的な意味で、大人との境界を越えてしまうからかもしれない。子どもの特性として、相手の都合や人格など忖度せず(時には残忍に)自分の我を通そうとする。非力な子どもだからこそ抑えられるが、超常的な力を持てば誰も止められない。ラファティの描くかわいさの裏には、そういう怖さが潜んでいるわけで、カワイイと喜べるのは重度のラファティアンだけだろう。

 ラファティを1テーマにまとめるのは難しい。本書には定番のベストも数多い。空間のスケール感を描く「せまい谷」「うちの町内」「昔には帰れない」や、時間のスケール感を描く「とどろき平」「一期一宴」「スロー・チューズデー・ナイト」や「九百人のお祖母さん」「寿限無、寿限無」は、いかにもSF的なアイデアを、ラファティでしか書けないユーモアたっぷりの短編に仕上げた傑作である。一方「公明にして正大」や「みにくい海」は、人の数奇な一生をアイロニー一杯に描いた忘れがたい作品だ。

 今回のラファティ再発見文庫は、本書で完結となる。ラファティもの第3弾となる、井上央編ラファティ新訳短編集は《新☆ハヤカワ・SF・シリーズ》で出るようだ。

サラ・ピンスカー『新しい時代への歌』竹書房

A Song for a New Day,2019(村上美雪訳)

装画:赤
デザイン:坂野公一(well design)

 著者はニューヨーク生まれのアメリカ作家。2012年にデビュー、2019年ネビュラ賞長編部門受賞作の本書が初紹介となるが、今回を含め同賞を3回受賞(ノミネーションまで含めれば9回も!)した実力派だ。インディーズレーベルで3枚のアルバムを出したシンガーソングライターでもある(ホームページでライブ映像などが視聴できる)。

 近未来のいつか、多人数の集会をねらったテロが頻発する。ライブ会場を巡るツアーの途上だったバンドは、イベント中止により発表の場が閉ざされるという厳しい現実に直面する。集会の機会が失われたのと同じころ、輪をかけるように感染症が蔓延し、移動の自由すら奪われる。人との接触はバーチャル空間主体となり、ライブもネット以外では法的に禁止される。

 物語の主人公は、ライブ活動を封じられたルースと、田舎町で人と接触する機会のないまま育ったローズマリーの2人だ。ルースは密かにライブハウスを作り、生の音楽を求める演奏家や観客たちを集めている。ローズマリーはアマゾンを思わせるオンラインストアの顧客対応係だったが、あるときネットライブの面白さに目覚め、VR音楽配信会社のミュージシャン・スカウト部門に転職する。

 最近でも『零號琴』など、音楽をテーマにしたSFは数多く書かれてきた。また、幻のロックアルバムを描いたルイス・シャイナー『グリンプス』という変わり種もある。しかし、小規模なライブハウスを舞台に、演者の立場を踏まえた作品は本書がはじめてだろう。2019年に書かれているのでパンデミック以前の作品ながら、人との接触が断たれたオンラインライブの実態など、感染症やテロが蔓延した世界で音楽業界がどうなるかを予見する内容で書かれている。

 オンライン化によるメリットは確かにあるが、著者は人と人とが密集して盛り上がるライブコンサートに意義を感じている(実体験してきたことだ)。人と触れあえてこそわかり合えるという考えだ。パンデミック下での難しさはあるものの、自身の知見に基づく見解にはそれなりの説得力がある。

R・A・ラファティ『町かどの穴 ラファティ・ベスト・コレクション1』早川書房

Best Short Stories of R.A.Lafferty,2021(牧眞司編 伊藤典夫・浅倉久志・他訳)

カバーデザイン:川名潤

 牧眞司編によるラファティ・ベスト版の第1集「アヤシイ編」(編者自ら付けた愛称)。ハヤカワSF文庫で過去に出たラファティは本書を含め5冊あるものの、20世紀既刊の3冊『九百人のお祖母さん』『どろぼう熊の惑星』『つぎの岩につづく』は新刊での入手がもはやできない。カルト的な人気はあっても、残念ながらラファティは万人の受け入れる作家ではないのだ。しかし、本書ではそういうラファティの魅力を、円やかにではなく、逆に先鋭化して再提示してみせる。

 町かどの穴(1967/72)仕事から帰ってくると、家族はなぜか自分を怪物呼ばわりして叫び出す、ゼッキョー、ゼッキョー。
 どろぼう熊の惑星(1982/93)その惑星ではあらゆるものが盗まれる。食料や資材だけでなく、人の記憶や知性までもが。
 山上の蛙(1970/72)銀河系で最も危険な狩りに挑む男の前に、猫ライオン、熊、コンドル鷲、そして岩猿またの名(翻訳しだいでは)蛙男が立ち塞がる。
 秘密の鰐について(1970/87)世界にはたくさんの秘密結社があり、裏から社会の各分野を支配している。その中でも〈鰐〉こそが最上位に君臨する結社だった。
 クロコダイルとアリゲーターよ、クレム(1967/88)優秀なセールスマンだった主人公は、ある日猛烈な空腹感と違和感に襲われる。その原因は自分自身にあった。
 世界の蝶番はうめく(1971/92)世界をぐるりとひっくり返し、裏の世界と入れ替えてしまう蝶番がある。ひとたび反転が起こると、住んでいた人々は別のものに変わってしまう。
 今年の新人(1981/81)* 能力増強剤が普及してから毎年飛び抜けた新人が生まれてくる。でも今年の新人はどこかダサかった。
 いなかった男(1967/80)* 嘘つきと評判の家畜商の男がとっておきの話を始める。存在感の薄かった男を消してみせるというのだが。
 テキサス州ソドムとゴモラ(1962/77)国勢調査員の男は人がほとんど住まない地域を担当するが、そこで数万の小さな人々を見つけ調査用紙に記入しようとする。
 夢(1962/74)その娘は、緑色の雨が降りしきる夢の世界の話をする。話を聞きつけた男は、夢の内容を執拗に聞き出そうとする。
 苺ヶ丘(1976/2015)* 外部と没交渉のまま孤立する丘の上の家に、二人の少年が肝試しに潜り込もうとする。
 カブリート(1976/2014)* 小さな居酒屋に集う7人の男たちと、カブリート(仔山羊肉のロースト)を売る女主人が話すおかしな話。(1957年に書かれ保留されていた初期作)。
 その町の名は?(1964/79)辞書の単語と単語のすき間、人々の記憶のすき間に、この世から失われたある町の名前が潜んでいる。《不純粋科学研究所》の1編。
 われらかくシャルルマーニュを悩ませり(1967/79)過去改変を試みる大実験の成果は、しかし実証が困難なものばかり。《不純粋科学研究所》 の1編。
 他人の目(1960/79)今度の大発明は大脳走査機である。他人の脳と自分の脳を同期させることができるのだ。《不純粋科学研究所》 の1編。
 その曲しか吹けない(1980/2014)* 友人たちとを比べると、主人公の能力は劣っていたのだが巧妙さでは勝っていた。その性質が、やがて恐ろしい運命を呼ぶ。
 完全無欠な貴橄欖石(1970/72)リビア海岸を「北」に見ながら太洋を進む帆船は、澄み切った海水の中に得体の知れないジャングルの存在を感じ取る。
 〈偉大な日〉明ける(1975/2017)* 偉大な日がやってくる、それも今日にだ。時計からは分針が取り除かれ、飲み物のコップすらなくてもよくなる。
 つぎの岩につづく(1970/72)石灰岩の台地を発掘する考古学チームは、燧石に彫られたラブレターらしきものを発見するのだが。
 (原著発表年/初翻訳)*…短編集初収録(雑誌、アンソロジイ収録作)

 基本的には入手困難な3短編集からの13作品と、これまで短編集には収録されていなかったレアな6編からなるオリジナル作品集である。

 あらためてラファティの作品を19編立て続けに読んでみると、その抽象度の高さに驚かされる。「町かどの穴」からは、自分が非人間だとは思っていない怪物が現われ、むさぼり食われる妻はセリフを棒読みするように無感動に叫ぶのみ。「完全無欠の貴橄欖石」では、非実在の海を帆走する船が実在の(ような)アフリカに浸食される。「つぎの岩につづく」はアメリカの地層を掘っていくと、ありえないものが次々現われる。描き出されるのは、リアルからはるかに遠い奇想の世界である。

 非倫理的で(人肉嗜食や)始原の野蛮さが顔をのぞかせる点は、ボルヘスのような観念的・哲学的なものとは印象が異なる。だが、エンタメ小説の過剰なサービスやスプラッターを目指しているわけではない。どれも淡々というか、飄々としている。ユニークさを重視する編集者、デーモン・ナイトやフレデリック・ポールらが好んだのも頷ける内容だ。ただし、本書を読むのなら一日1作程度が望ましいだろう。一度に読むと目まいを起こしてしまう。想像力が物語に追い越されてしまうのだ。

アーシュラ・K・ル=グウィン『文体の舵をとれ』フイルムアート社

Steering the Craft A 21st Century Guide to Sailing the Sea of Story,1998/2015(大久保ゆう訳)

装画:モノ・ホーミー

 副題が「ル=グウィンの小説教室」とあり、自らが主催したワークショップ(創作講座)の内容をまとめた1998年版を、21世紀の現状に合わせて改めたアップデート版である。経験ゼロの純粋な初心者向けではなく、すでにプロアマを問わず作品を書いている作家のための手引き書だ。もともと英語の技法について書かれているので、日本の読者には合わないのではないかと思われるが、発売(7月30日)1ヶ月で3刷と好評である。ファンの多いル=グウィンの本であること、翻訳者にも参考になること、豊富な練習問題が読者のチャレンジ精神をくすぐるという面もある。ただし、問題に「模範解答」はないので、答え合わせは自分で行う必要がある。

 作品を声に出して朗読することによって文のひびきを知ることができる、どこに句読点を打つかで印象はまったく変わる、一つの文の長さをどれぐらいにすべきか、繰り返し表現は冗長ではなく効果的に使える、いかに形容詞と副詞をなくして文章を成立させられるか、人称と時制をごたまぜにすると読み手が混乱する、どのような視点(ポイント・オヴ・ビュー)を選ぶかで語りの声(ヴォイス)は違ってくる、視点の切り替えは自覚的にすべきだ、説明文で直接言わず事物によって物語らせる、文章に的確なものだけを残す詰め込み(クラウディング)と不要なものを削除する跳躍(リープ)が必要である(以上は評者による要約)。

 「言葉のひびきこそ、そのすべての出発点だ」文章を声に出して(小声ではだめで、大きな声で)読み上げる。コンマ=読点は日本語でもあるが、コンマ(休止)とセミコロン(短い休止)を使い分け息づかいを調整する技などは、読み上げを重視する著者だからこそ。形容詞と副詞をなくすのは難しい。その難しさを克服することで文章が磨かれる。ル=グウィンはまた文法を重視する。最近はアメリカでも実践重視で、文法(グラマー)はあまり教えなくなったらしい。しかし、文法に則った文書を分かっていないと、それを壊した新たな文体を生み出すことはできない。単にでたらめになるだけである。人称に伴う視点と時制(日本語では明確ではない)も厳密にコントロールしないと混乱した文章になる。

 英語向けではあるが、これらは日本語を書いたり読んだりする上でも意味がある。ジェーン・オースティンからヴァージニア・ウルフなど、古典作家による豊富な実例も載っている。エンタメ小説だからといって、単に筋書きとアクションシーンだけでは成り立たない。本書で述べられた各種の技巧(クラフト)を駆使することで、彩りやリズムが生まれ深い印象を与えられるのだ。付録には合評会(リモートも含む)の具体的な運営方法が載っている。仲間の意見は貴重だが、誰かの一人舞台になったり、けなし合いや褒め合いに陥りがちだ。同様のことを進める際の参考になるだろう。

エイドリアン・チャイコフスキー『時の子供たち(上下)』竹書房

Children of Time,2015(内田昌之訳)

デザイン:坂野公一(well design)

 著者は1972年生まれの英国作家。2008年のデビュー後は、主にファンタジイを書いてきた。本書は初のSF作品だが、2016年のアーサー・C・クラーク賞を受賞するなど高い評価を得たものだ。好評を受けて、すでに続刊の Children of Ruin が2019年に出ている(これは同年の英国SF協会賞を受賞している)。

 地球は滅亡の危機にある、そう考えた人類は複数の異星をテラフォーミングする計画を立てる。完成までには時間がかかるため、人を送り込むのではなく、動物と知性化を促進するナノウィルスをセットで投入するのだ。だが、非人類を使う計画に異議を唱える過激派により実験ステーションは損傷を受ける。統括する科学者は軌道上で緊急避難的な冷凍睡眠に入り、地上では予期しない動物、蜘蛛たちによる文明が育まれようとしていた。

 物語は2つの視点で語られる。1つは、原始的な部族社会から、やがて統一された文明国家へと進化していく蜘蛛たちの視点。言葉や文字ではなく、知識を遺伝子に直接書き込むことで伝承するため、同じ知識を持つ子孫は(世襲のように)同じ名前を持っている。もう1つは、滅んだ文明から脱出した世代宇宙船の人類の一団である。二千年に及ぶ恒星間飛行を冷凍睡眠で切り抜ける。登場人物は断続的に冷凍睡眠を繰り返しているので、二千年+数百年であってもほぼ同じメンバーが支配層になる。ピーター・ワッツ『6600万年の革命』でも登場したが、時間を超越するためSFでは時々使われる仕掛けだ。蜘蛛たちの進化は『竜の卵』的でもある

 お話は、蜘蛛社会と宇宙船の人間という二重の時間の流れで構成されている。人間社会は旧テクノロジーを維持する単独の宇宙船だけという設定なので、急速に進化する蜘蛛族に対して絶対的な優位性はない。登場人物は、(世襲とはいえ)前向きに生きる蜘蛛に対して、(いくら冷凍睡眠しても)次第に老いていく人間たち。となると、非人間であっても(擬人化されていることもあり)前者の方が魅力的だろう。著者は意図的にそうしていると思われる。世代宇宙船やテラフォーミングといった古典的なアイデアに、性差別といった現代的要素を交えたことで、かえって新鮮さを感じる作品になっている。

 本書に出てくる蜘蛛は、日本の家の中でもよく見かけるハエトリグモらしい。手足が短くごく小さなクモ(イエバエと同サイズくらい)なのだが、しぐさに何となく愛嬌がある。続編はタコらしい。それにしても英米人はいつからクモやタコの愛好家になったのだろう。

ンネディ・オコラフォー『ビンティ』早川書房

BINTI:The Complete Trilogy,2015-2017(月岡千穂訳)

カバーデザイン:川名潤

 著者は1974年生まれの米国作家。両親がナイジェリア出身で、自身の出自を明確に意識したアフリカ系アメリカ人だ。この作品もアフリカン・フューチャリズム(アフリカの文化や視点に基づくもの)であり、欧米生まれのSFとは異なるルーツで書かれたものとする。本書は3つの中編(原著にあった書下ろし中編は含まれず)からなる長編。第1作目(第1部)が2016年のヒューゴー賞(同様の主張をするジェミシン『第五の季節』と同年)、2015年のネビュラ賞をそれぞれ中編部門で受賞している。

 未来のアフリカのどこか。田舎に住む伝統的な調和師である16歳の少女が、保守的な家族の反対を押し切って異星にある名門大学へと旅立つ。彼女の一族からその大学に入学したものはいないのだ。だが、新入生を乗せた宇宙船は何ものかの襲撃を受ける。

 調和師とは、ハンドメイドの通信端末作りに携わる工芸家で、高度な数学的センス(ある種の直感力?)を有する。主人公は閉鎖的で伝統重視のヒンバ族(現在のナミビアに住む少数民族)に属する。乾燥地帯には、砂漠の民もいる。地球の支配層クーシュ族はクラゲ状の異星人メデュースと対立しており、ちょっとしたきっかけで戦争になる。一方、大学は銀河中のあらゆる異星人を受け入れるオープンな施設である。宇宙船もユニークで、エビに似た姿を持つ生体宇宙船なのだ。

 物語では、広い世界を見ようと飛び出した主人公が、次第に調和師としての自我に目覚め、姿形のまったく異なる異星人すら味方に付け、葛藤しながらも大いなる宥和へと向かう姿が描かれる。本書中には風習の違いや少数民族に起因する差別はあるが、いまの欧米で見られるような意味での人種差別とは異なるものだ(クーシュ族は白人ではない)。テクノロジーも今現在の延長線上にはないようで、そういう価値観の転換が面白い。アフリカン・フューチャリズムを体現しているのだろう。

 アフリカ、それも西海岸のナイジェリアとなると、日本人は知識もなく関心が薄い(過去のビアフラ内戦や、現在のイスラム過激派ボコ・ハラムによるテロ活動など、ネガティヴな情報を耳にしたことがあるかも知れない)。しかし、ナイジェリアは人口2億余、ブラジルに匹敵する大国で、アジア時代(21世紀前半)の次にくるアフリカ新時代(21世紀後半)には、世界のリーダーになると目される国だ。そこに、複数(250)の民族に由来する独特の文化があっても不思議ではない。われわれの見たことのない新たな光景が描かれることに期待したい。

アーカディ・マーティーン『帝国という名の記憶(上下)』早川書房

A Memory Called Empire,2019(内田昌之訳)

カバーイラスト:Jaime Jones
カバーデザイン:早川書房デザイン室

 アーカディ・マーティーンは1985年生まれのアメリカ作家だ。パートナーはファンタジー作家のヴィヴィアン・ショーで、共にサンタフェに在住する。ビザンツ帝国史で博士号を取得し、後に都市計画の修士号を得て現在はそちらを生かした仕事に就いている。SF作家としてのデビューは2012年、本書は2019年の初長編だが、2020年ヒューゴー賞長編部門を受賞するなど高い評価を受けた。経緯は異なるものの、初長編でいきなりブレークした『最終人類』と似たところがある。スペースオペラに歴史の専門分野を織り込み、エキゾチックな雰囲気を配した作品だ。

 遠い未来、銀河宇宙は大帝国テイクスカラアンにより支配されている。小さな独立ステーションにすぎないルスエルは新任大使を首都に送り込むのだが、そこで連絡を絶った前任大使の謎めいた行動が明らかになる。何を画策しようとしていたのか。足跡を追ううちに、新任大使の身にも次々と難事が降りかかってくる。

 登場人物の名前が変わっている。帝国の人々はスリー・シーグラス、シックス・ダイレクション、ワン・テレスコープなど、数字と単語を組み合わせた奇妙な名を持つのだ。しかも、ビザンツとアステカが混ざりあった文化を持つ帝国では、意見表明の際に詩の朗読をする風習になっている。ただし、物語の(文明の衝突などの)文化人類学的な側面はあくまでも背景にすぎない。主人公とペアの案内役(第一秘書的な地位)の2人が、宮廷内で密かに進む陰謀の真相に切り込むサスペンスがメインとなる。このあたりは、ジョン・ル・カレのスパイ小説から影響を受けたと著者自身が述べている。

 帯に『ファウンデーション』×『ハイペリオン』とあるのはちょっと書きすぎで、それらと本書では銀河帝国やスターゲートが出てくる以上の共通項はない。解説で指摘されるもう一つの影響元C・J・チェリーが、日本で絶版状態なのは惜しいと思う。チェリーの描く異世界は、ファンタジー寄りではなくSF的だったからだ。本書ではその設定を前提に、表紙イラストに描かれた『ゲーム・オブ・スローンズ』風の玉座を巡る、権謀術数のドラマが楽しめるだろう。登場人物の関係は性差もなく今風。また、続編 A Desolation Called Peace は今年出たばかりだが、すでに翻訳が決まっているそうだ。

メアリ・ロビネット・コワル『火星へ(上下)』早川書房

The Fated Sky,2018(酒井昭伸訳)

カバーイラスト:加藤直之
カバーデザイン:岩郷重力

 昨年8月に翻訳が出た『宇宙へ』の続編。原著は正続とも2018年に出ているため、賞を総なめした正編に比べると本書は評価に恵まれなかった。とはいえ、内容的には前作に劣らない面白さといえる。

 最初の女性宇宙飛行士〈レディ・アストロノート〉で知られる主人公だったが、現在の任務は月コロニーと地球とを結ぶ小型往還機の副操縦手という面白みのないものだった。一方、国連主導による宇宙開発は火星コロニー建設まで進んだものの、最大の資金拠出国のアメリカで予算削減の動きが起こる。宇宙開発を維持するためには、何か派手な宣伝活動、演出が必要だった。

 前作からおよそ10年後1961年の物語である。主人公は紆余曲折を経たあと、最初の有人火星着陸船チームの一員となる。貨物船を従えた有人船2機にチームの14名が分乗するのだ。コンピュータは力不足でまだまだ操船の自動化はできず、航行には天測(六分儀を使う!)と手計算が欠かせない。チームは国際協調を謳うために、黒人や女性を含む諸外国の乗員がいたが、南アフリカ人(アパルトヘイト政策下の白人男性)は黒人差別を隠そうともしない。役割分担も不公平だった。その上、主人公は大戦中から知り合いの船長を毛嫌いしている。いかにも何かが起こりそうでしょう?

 本書の注目ポイントは、問題だらけの設定で起きるさまざまな危機だ。半世紀前の価値観だけでなく、現在でも続くジェンダーや肌の色、LGBTQの差別までが織り込まれている。小さな集団なので、どれもが任務を脅かす恐れがある。それらを組み合わせ、トラブルの1つが解決すると別の1つがほころびるという、連続ドラマ的(「フォー・オール・マンカインド」的)な波瀾万丈さをドライブしているのは著者の巧さだろう。

キジ・ジョンスン『猫の街から世界を夢見る』東京創元社

The Dream-Quest of Vellitt Boe,2016(三角和代訳)

カバーイラスト:緒賀岳志
カバーデザイン:岩郷重力+W.I

 本書は、7年前に短編集『霧に橋を架ける』が翻訳されているキジ・ジョンスンによる、250枚ほどの中編小説(ノヴェラ)である。2017年の世界幻想文学大賞などを受賞、ネビュラ賞やヒューゴー賞を受賞した中編「霧に橋を架ける」(2011)以来の高評価を得た作品だ。

 主人公はウルタール大学女子カレッジのヴェリット・ボー教授。ある日、カレッジの学生が知り合った男と駆け落ちしてしまう。だが、男も学生も特別な出自のものたちだった。逃亡先へは簡単にはたどり着けない。しかし連れ戻さなければ、この街そのものが危険にさらされる。主人公は若いころの旅装束をふたたび着け、一匹の猫を連れて、さまざまな脅威に満ちた「夢の国」の辺境へと捜索の旅に出る。

 表題の「猫の街」とは冒頭に登場するウルタールのこと。ある事件(ラヴクラフト「ウルタールの猫」(1920)参照)の後、決して猫を殺してはいけない街になった。解説にも書かれているとおり、本書はラヴクラフトの初期作品〈ドリーム・サイクル〉に属する「未知なるカダスを夢に求めて」(1926)のオマージュなのである。ダンセイニの影響が大きいとされ、後期のクトゥルーものよりも幻想色が濃い。ラヴクラフトについては、近年その差別的な言動から忌避される傾向にあるが、その一方、黒人作家ヴィクター・ラヴァルや本書の女性作家キジ・ジョンスンなど、作品自体を再評価する声も根強くある。捨てがたい魅力があるのだ。

 本書の主人公は、かつて〈ドリーム・サイクル〉の主役ランドルフ・カーターと恋仲だったという設定になっている(元の作品では主人公格の女性は出てこない)。カーターのような夢見る人は、その眠りの中で「夢の国」を創り、王として君臨する。彼らは目覚めると現実の世界に戻れるのだ。夢とうつつでは流れる時間すら異なる。主人公は夢見られるはかない存在なのだが、「鍵」を得ることで目覚めた世界=現代のアメリカに行くことができる。物語は、ラヴクラフトのカダスをなぞりながらも、その本家を凌ぐ壮麗さで主人公の冒険行を見せてくれる。ちなみに、猫は主人公ではありません。

伊藤典夫編訳『海の鎖』国書刊行会

Chains of the Sea,2021(伊藤典夫編訳)

装幀:下田法晴+大西裕二

 国書刊行会の叢書《未来の文学》最後の一冊。最初の作品『ケルベロス第五の首』が出たのが2004年なので17年ぶりの完結である。河出の《奇想コレクション》のときも『たんぽぽ娘』が最後だった。とはいえ、叢書の1つ前『愛なんてセックスの書き間違い』が2019年に出ているので、それほど間が空いたようには感じない(と思うのは、老齢による時間感覚遅延のせいかも)。本書は、過去に伊藤典夫自身が翻訳してきた作品(原著1952~85/翻訳68~96)を、自らが選んだ自選傑作選である。

 アラン・E・ナース「偽態」(1952)金星の探査を終え、地球を目前とした宇宙船内で、明らかに人間と異なる血液を持つ乗組員がみつかる。異星人が潜入したのか。
 レイモンド・F・ジョーンズ「神々の贈り物」(1955)異星の宇宙船が着陸、国連は東西陣営と中立国を交えた使節団を送り込むが、人類側には政治的な思惑があった。
 ブライアン・オールディス「リトルボーイ再び」(1966)2045年8月6日、その日に大きなイベントが行われる。しかし、何の記念日なのかは誰も知らなかった。
 フィリップ・ホセ・ファーマー「キング・コング堕ちてのち」(1973)キング・コングの墜落死を目撃した少年は、いま孫娘にそのときの記憶を語っている。
 M・ジョン・ハリスン「地を統べるもの」(1975)アポロ計画により月の裏側で発見された神が降臨する。主人公は〈神の高速道〉を調査するように指令を受ける。
 ジョン・モレッシイ「最後のジェリー・フェイギン・ショウ」(1980)TVやラジオ放送で地球人を学んだ異星人が、お下劣な話術で人気のTVショーに出演する。
 フレデリック・ポール「フェルミと冬」(1985)戦争が起こり、核の冬により地上の人々も生き物も死滅していく。アイスランドに逃れた人々は必死に生き延びようと戦う。
 ガードナー・R・ドゾワ「海の鎖」(1973)異星人の宇宙船が地上に忽然と現われたが、かれらは人類側のあらゆる試みを無視して反応しない。一方、田舎町に暮らす少年は、家庭的な問題を抱え、大人には見えない存在と会話することができた。

 全部で8編あるうちの5作品に異星人(神を含む)が出てくる。「擬態」はかなりストレートなボディ・スナッチャー(体から心まで人に化ける)もの。「神々の贈り物」は映画「地球が静止する日」ふうで、異星人は使節としてやってくるが、その中で主人公の心理に人間的なひねりがある。70年代になると、異星人そのものは物語の正面から後退する。答えのない謎に満ちた「地を統べるもの」や、ばかげたTV業界を皮肉っぽく描く「最後のジェリー・フェイギン・ショウ」に変わっていくのが面白い。中編「海の鎖」では、異星人は人類にまったく興味を示さない。これは大人が見えないもの、見失ったものと交感できる少年の物語なのだ。

 「リトルボーイ再び」は翻訳された当時(1970年)、むしろプロの間で騒ぎになった。世代的にまだ生々しい戦争の記憶が残っていたからだ。だがそれから半世紀が経ったいま、われわれはまだ当事者意識を持っているだろうか。歴史的悲劇は個人の体験でしかない(体験者が亡くなれば失われる)という、この小説の描いている世界に近づきつつあるように思える。