石ノ森章太郎・原作『サイボーグ009トリビュート』河出書房新社

カバー装画:石ノ森章太郎
カバーデザイン:坂野公一(welle design)
カバーフォーマット:佐々木暁

 最初のコミック版掲載から60周年になるのを記念して企画されたオリジナルアンソロジーである。人気のシリーズだけにこれまでも10年ごとの記念制作はあった。ただ、小説で全編書下ろしは初めてだ。トリビュートを掲げているが、「歴史的なキーワードとしてのサイボーグ009」を、新たに解釈し直したテーマアンソロジーと捉えるべきだろう。

 辻真先「平和の戦士は死なず」小国の王女が隣国の大統領と結婚する。しかしその背後には大国の影があった。そして、過去の同僚からの挑戦状がギルモア博士の下に届く。
 斜線堂有紀「アプローズ、アプローズ」002と共に、宇宙から流れ星となって落ちたはずの009が目を覚ます。なぜ生き残ることができたのか、その方法とは。
 高野史緒「孤独な耳」003がバレエの国際コンクールに出場する。ソビエト連邦のレニングラードで開催されるのだが、そこは001の故国でもあった。
 酉島伝法「八つの部屋」隔離された秘密基地の中で、空中を自在に飛べるよう下半身を複雑に改造される002。同様の改造を受ける数人と共に適応能力を競うのだ。
 池澤春菜「アルテミス・コーリング」バレエ公演で来日した003は1人の少女と出会い、何でも話せるようになる。ただ、少女は何かに怯えていた。
 長谷敏司「wash」今でも兵器のアップグレード試験を続ける004に、旧式サイボーグによる襲撃が行われる。しかし、その正体は予想外のものだった。
 斧田小夜「食火炭」006の中華飯店は繁盛していたが、なりすましの偽チラシを契機に、サイボーグに改造され日本へと流れてくる前の過去が浮かび上がってくる。
 藤井太洋「海はどこにでも」火星軌道上で立ち往生する先遣隊を救難する船で、陰謀が企てられているらしい。宇宙でも活動可能な008が捜査のために潜入する。
 円城塔「クーブラ・カーン」成層圏プラットフォームの情報を盗み出そうとするスパイ、得体のしれないサイボーグ工場の存在、次々と浮かぶ事件の背後にあるものとは。

 石ノ森章太郎(98年没)が手掛けたコミック版は、1964年から66年にメインとなる部分が、以降1986年頃まで続編や枝編がさみだれ的に描かれた。本人の作画ではないが、未完成の遺稿をもとにした2012年の新作もある。アニメ版は、劇場用が1980年までに3回、TVも2002年まで3シリーズ、2010年代になってCGのオリジナルアニメが3種類作られた。後者しか知らないファンが多数派かも知れない。

 これだけ歴史があっても、大半のコンテンツはいまでも読めて視聴ができる(電子書籍や映像配信の環境が整っている)。反面、現代ならではの倫理的な不都合(特に、人種などの人権意識)が気になる点もあるだろう。今回の執筆者は(当事者だった1932年生まれの辻真先は別格として)、1960年代生まれが1人、70年代が5人、80-90年代が各1人と、リアルタイム世代より(平均)20歳は若い。企画が決まるまで(知ってはいても)読んだことはなかった、と正直に語る著者もいる。肯定的に捉えれば、マニアックで懐古趣味のファンはいない。より独創的/客観的な作品が期待できるのだ。

 「平和の戦士は死なず」は、アニメの最終回脚本(1968)を自らノヴェライズしたもの。当時の社会背景(米ソ冷戦のただなか)を伝える貴重な新作でもある。「アプローズ、アプローズ」はいったん終わったはずのお話(『地下帝国ヨミ編』)と断絶のある続編とをシームレスに橋渡しする、「孤独の耳」「アルテミス・コーリング」は引き立て役003を主役に押し立ててジェンダーの偏りを正し、「八つの部屋」は仕組みが謎だったブラック・ゴーストのサイボーグ基地を詳細に解明、「食火炭」はコミカルな脇役006の過去を生々しく再現する(中国が文革前後で荒れていた時代)、中編の長さがある「wash」「海はどこにでも」「クーブラ・カーン」は、いまサイボーグ009を矛盾なく書くならこうなる、という換骨奪胎のサスペンスになっている。元々の主役である009は相対的に出番が少ないが、登場人物のバランスを考えればこの点はやむをえない。

 どの物語も原作を丹念に読み込み、ちょっとした事件やエピソードを拾ってお話を豊かに膨らませている。丁寧さと大胆さを併せ持つところが面白い。

映画の原作を読んでみる、その2

 シミルボン転載コラムは、映画原作を読んでみようという企画の2回目です。今回はノーベル文学賞作家のTVドラマ、日本SF大賞作品のアニメ化、無料ウェブ小説からの映画化と、内容も経緯も異なる3つの作品を紹介しています。以下本文。

カセットテープから聞こえる、わたしを離さないで
 2016年に森下佳子脚本、綾瀬はるか主演でTVドラマ化されたので、(視聴率は振るわなかったようだが)ご覧になった方もおられるだろう。舞台を日本に移しながら、原作の雰囲気をよく伝える内容だった。また、2014年には蜷川幸雄演出で舞台化、2010年にはマーク・ロマネク監督による映画化もされている。

 カズオ・イシグロは、英国を代表するベスト20作家にも選ばれた、寡作で天才肌の作家である。英連邦での最高文学賞であるブッカー賞を含め、多数の受賞歴がある(註:この記事のあと、ノーベル文学賞を受賞した)。本書も、タイム誌が選ぶ1923年から2005年までのオールタイムベスト小説100(ちなみに、SFではスティーヴンスン『スノウ・クラッシュ』、ギブスン『ニューロマンサー』、ディック『ユービック』等が入っている)に選ばれるなど、各方面から絶賛を浴びた話題作だ。

 英国のヘールシャムに寄宿制の学校がある。男女の生徒たちは閉ざされた学園の中で、幼い頃から思春期まで一貫して育てられる。不思議なことに彼らには苗字がない。決められたイニシャルが与えられているだけ。そして、「提供者」となる自分たちの運命を知っている。

 この作品では、学園生活を送る寄宿生たちや、卒業生がたどるその後の人生が描かれている。寄宿生がどのような存在かは、SFファンでなくとも気がつくだろう。舞台は(われわれから見れば)倫理的に許されない残酷な未来社会(あるいは、並行世界の現代)である。主人公たちもどこか閉塞感を感じ、追詰められ苦しみあがく。ただし、これは理不尽な社会に対する抵抗や革命の物語ではない。どれだけ残虐であっても、主人公たちにはそれが守るべき規範なのだ。強固に抑圧された社会では、社会それ自体が壊れない限り、組み込まれた人間側から制度を壊そうという意志は生まれてこない。そういう怖さを感じさせる。

 『わたしを離さないで』は、カズオ・イシグロの描くディストピア小説といえる。社会批判が一切書かれていないかわりに、仄かな恋と友情が淡々と描かれる。ストイックな情動で主張を代弁させているのだ。表紙のイラストは、主人公が偏愛する女性歌手のカセットテープを意味している。表題 Never Let Me Goも、実は歌の題名なのだ。

(シミルボンに2017年4月4日掲載)

一千年後の日本、バケネズミを使役する超能力者たち、新世界より
 第4回日本ホラー小説大賞作家、貴志祐介の2000枚を超える書き下ろし長編。過去にハヤカワSFコンテストで佳作入選したこともある著者だが、大賞受賞後は『天使の囀り』(1998)、『クリムゾンの迷宮』(1999)といったSF風のミステリも書いてきた。本書は、1000年後の日本を舞台とする本格的なSFである。2008年の第29回日本SF大賞を受賞した他、2013年には石浜真史監督によりTVアニメ化されている。

 1000年後、日本にはわずか9つの町が存続するのみ。それらもほとんど交流がなく、最小限の人口を維持しているだけだった。科学技術は大半が失われている。しかし、未来の人類には恐るべき力が発現していた。それは呪力と呼ばれる超常能力で、物理的な破壊を伴う強烈なパワーを持つ。そして、少ない人口を補うため、ハダカデバネズミを始祖とする知的な奴隷バケネズミたちを使役していた。そんなある日、主人公たちは、校外実習で世界の外に潜む脅威を知ることになる。

 呪力があまりに強大すぎるため、お互いを殺傷できなくする禁忌、そのタブーを破る悪鬼の存在。人間並みの知性を持ちながら生殺与奪を人に委ねるバケネズミは、虎視眈々と反逆の時を探る。本書では未来社会の成り立ち(封印された過去の歴史)が非常に精緻に考えられており、舞台そのものが物語の結末に至る伏線にもなっている。

 著者は、学生時代にコンラート・ローレンツの古典攻撃 悪の自然誌(1963)を読んで本書の着想を得たという。同書は脊椎動物の攻撃本能について書かれた論文だが、特に人類の同族攻撃に対する抑制のなさに注目したという。長年構想を温め、書き上げるまでに30年以上かかった。生物の進化が描かれるが、科学技術文明の遺跡が登場する関係で、舞台は数万年ではなく千年後の未来に置かれている。

 コリン・ウィルスンスパイダー・ワールド(1987)は、人類が蜘蛛の奴隷となって地下に棲むという設定である。虐げられた者(人間)が、蜘蛛への復讐に立ち上がる。また、超能力者はヴァン・ヴォクト『スラン』(1946)以来、少数で狩られる立場にある。多数派の人類が超能力を持たないのだから、発想としてはそうなるだろう。貴志祐介は既存の設定を逆さまにした。超能力を持つ人類が支配者になり、能力を持たない非人類を支配するのだ。そこが、本書の物語に対する印象の深さにつながっている。

(シミルボンに2017年4月6日掲載)

オタク宇宙飛行士のサバイバル、火星の人
 著者はプログラマーでSFファンの宇宙オタクである。いくら小説を書いても採用されず、やむを得ず自身のウェブサイトで無料公開、すると大きな反響を呼び、個人出版の電子書籍がまずベストセラーになる。次に、評判を聞いた大手出版社から待望のオファーを得る。すると、出した本は全米ベストセラーまで登りつめ、ついにはリドリー・スコット監督、マット・デイモン主演でメジャー映画『オデッセイ』(2015、日本公開は2016年)になる。嘘のように出世した作品である。

 有人宇宙船による第3回目の火星探査、地上で作業する彼らに猛烈な砂塵嵐が押し寄せる。このままでは帰還船が倒れてしまう恐れが出てきた。彼らは探査を中止し脱出を試みるが、1人が事故で取り残される。生命反応もない。やむを得ず帰還船は発進する。しかし、その1人は生きていた。残された食料を生かし、酸素と水は再生・生産し、電力や熱を作り出しながら、次の探査に使う無人の脱出船が着陸している山岳地帯まで旅立つのだ。

 着陸地点のアキダリア平原は、北の古代の海とされる平坦な地形、目標のスキャパレリ・クレーターは3200キロ離れた山岳地帯にある。火星探検の場合、人が降りる前にまず機材が先に送り込まれる。次の第4回調査隊のため、基地施設や衛星軌道までの帰還ロケットは既に目標に到着している。ただし、長距離の地上走行は危険で、何より想定外の使われ方をした機器の故障が、主人公の障害となって立ちはだかる。けれども、それは技術的な工夫で乗り越えられるものなのだ。

 本書を読んで、マーティン・ケイディン『宇宙からの脱出』(1964)を思い出した。グレゴリー・ペック主演で映画化(1969)もされ、アポロ13号(1970)の事故を予見したといわれる作品である。同じ宇宙事故としてキャンベルの『月は地獄だ』(1951)を挙げる人が多いが、組織的でシステム化された救出計画はアポロ計画以降のものだ。キャンベルの描くのは、19世紀的な「探検隊」なので助けは準備されていない。一度旅立つと自助努力せざるを得ないのである。一方、20世後半以降の宇宙では、国家レベルでの救援が行われる。宇宙とはリアルタイムにつながり、行動も厳密にシミュレーションされる。『宇宙からの脱出』では、初めてそういうシステムによる救出劇が描かれた。本書では火星が遠いため(+ある事情のため)、システム的救援と個人の創意工夫という両方の観点が楽しめる。

 さて、以上の科学的にも正確な宇宙計画に対し、人間ドラマ部分は火星でただ1人取り残された男が、1年半サバイバルするお話になっている。主人公はマッチョというより著者を思わせるメカオタク、ありあわせの機材を改造しまくりで生き残るのだが、泣き言はほとんど言わず冗談で乗り切ってしまう。地球帰還後、ヒーローになって本当に幸せなのかとちょっと心配になる。

(シミルボンに2017年4月8日掲載)

宇津木健太郎『猫と罰』新潮社

装画:はやしなおゆき
装幀:新潮社装幀室

 日本ファンタジーノベル大賞2024大賞受賞作。著者は1991年生まれで、2020年に第2回最恐小説大賞(エブリスタ+竹書房の合同企画)を受賞した経歴がある。

 どこかの地方都市に北斗堂という名前の古書店がある。そこでは、魔女と呼ばれる三十半ばの女が主を務めている。店の周りには何匹もの猫がいて、己(おれ)もまたその中の1匹である。まだ子猫だが、すでに『9つめ』の命を迎えていた。

 猫は9つの命を生きるので、この物語は9つの章に分かれて、それぞれの(必ずしも安閑ではなかった)運命が語られる。それと並行して、現在(=9つめ)の古本屋での主人と他の猫たちとの生活が描かれる。それぞれの猫は、前世で文豪たちに飼われてきた。己もまた、あの文豪と共に生きたのだ。しかし古本屋に入りびたる小学生の生活を知り、魔女の運命を聞いてから物語は大きく動き出す。

 恩田陸「タイトルがいい。シンプルながら、内容ともバッチリ合っている。(最終候補作)四作中、唯一、ユーモアが感じられた作品で、淡々とした文章に引き込まれた」
 森見登美彦「語り手の設定が面白いし、罰を受けた神様が営んでいる古書店という舞台も魅力的である。店に住みついている他の猫たちの来歴など、いくらでも膨らみそうな要素がちりばめられている」
 ヤマザキマリ「(物語の猫は)知性や理性に栄養をあたえるために働く“作家”という種がいることを知っている。(中略)人間社会だけではなく自分たちにも安寧と豊かさをもたらすという可能性を見通しているようでもある。(中略)時にはこうした内的な考察を促してもらえるファンタジーに出会えると心地よい」
(小説新潮2023年12月号)

 今回は選考委員の間で意見が割れた。特に物語の後半で、時を越えるお話のスケールが個人の問題に縮退してしまうのが難点だった。最終的には、温かさを感じさせるファンタジーであり、改稿の余地も考慮して本書が受賞作に選ばれる。実際、加筆訂正された本書では、そのバランスは良くなったように感じられる。

 現代的なDVや過去の人々が経験してきた苦難の歴史、そしてまた神の罰も描かれるが、それらは物語を紡ぐことで超越可能だと説く。人との関係を警戒し斜に構える主人公の猫(おれ)が、小学生(~大人)や店主と交流し気持ちを少しずつ変えていく過程も楽しめる。「文豪と猫」という一方的(作家は猫を溺愛するが、猫がどう思っているかは分からない)かつ情緒的なテーマに、新たな切り口を設けた点は評価できるだろう。

芦沢央『魂婚心中』早川書房

扉イラスト:Q-TA
扉デザイン:坂野公一(welle design)

 芦沢央は、受賞歴も数々ある中堅作家で1984年生まれ。デビュー後12年にして、本書は15冊目の著作となる。SFマガジンや『NOVA 2023夏号』などのアンソロジイ収録作中心の6編を収める。著者自身による詳細な解題まで用意されていて分かりやすい(あとがきを参照)。また、プロモーションの一環として、6人の作家による全作品解説記事(SFマガジン2024年8月号)もある。大括りに「SFミステリ」と称し、作品トーンを統一するためのサブテーマ(例えば「女の友情」「情念と犯罪」とか)を設けない短編集は初めてという。

 「魂婚心中」(2024)マッチングアプリKonKonが一般化する。それは「魂婚」=死後婚の相手を探すためのものだった。主人公は推しのアイドルに選ばれたく葛藤する。
 「ゲーマーのGlitch」(2023)人類の限界を超えた男と、伝説の元絶対王者とがRTAで対戦する。さまざまな裏技、バグ技を駆使する戦いのすべてが実況中継される。
 「二十五万分の一」(2022)嘘をつくと存在自体が記憶もろとも消えてしまう世界。しかし主人公だけは、調整役という役割のために消失の前を忘れず覚えていた。
 「閻魔帳SEO」(2024)天国から地獄までが見える「顕現」以来、閻魔帳のスコアを上げ善行を積むノウハウを得るため、人々はSEO業者の手を借りるようになった。
 「この世界には間違いが七つある」(2021)十畳ほどの閉ざされた部屋、誰もここから出ることはできず、〈マスター〉が見ているときは動くことさえできない。
 「九月某日の誓い」(2020)主人公は山梨から横浜にある資産家の屋敷に奉公をする。挑発的な対話を好む令嬢の相手をするためだった。ただ、そこには秘密があった。

 もっとも初期に書かれた「九月某日の誓い」(小説すばる掲載)は、大正期を舞台に令嬢と科学者の父を持つ娘との関係を鮮やかに描き、さらに一ひねりを加えたものだ。この最後のひねりはSFを意識している。伴名練や大森望らの注目を集め、続くSFアンソロジイやSFマガジンへの道を拓いた。

 表題作や「閻魔帳SEO」では、ITネタと推し活、今どきのブラック企業(あからさまではない分、より陰湿)などのダークサイドを組み合わせている。ここでいうSEOとは、Search Engine Optimization(ネット検索の順位を人為的に上げること)ではなく、Spiritual Entry Optimizationなのだ。善行をランダムに積むのではなく、閻魔帳の順位を上げられるものに限って積む。「二十五万分の一」とか「この世界には間違いが七つある」に至ると、(世界の成り立ちもだが)表題自体が人を喰っている。SFとかミステリ以前に「特殊設定」のありえなさが際立っている。

山尾悠子『初夏ものがたり』筑摩書房

装画:酒井駒子
カバーデザイン:名久井直子

 1980年に出た著者の第2短編集『オットーと魔術師』の中から、後の全集にも収められていない中編「初夏ものがたり」(本の3分の2を占めていた)を切り出し、酒井駒子のカラー装画を多数はさんでコンパクトにまとめた瀟洒な一冊。加筆訂正個所もある。同年に出た初長編『仮面物語』国書刊行会から昨年復刊した。本書と初長編は長年封印されていたものである。しかし40年以上が過ぎ、かつてあった理由(『仮面物語』あとがきを参照)はもはや障害ではないと、著者自身が諦観したのだろう。

 第一部 オリーブ・トーマス:母親と二人暮らしの7歳の少女は、見知らぬ日本人に導かれ、山荘に待つ一人の若い男のところに行く。そこで男は父だと称するのだが。
 第二部 ワン・ペア:親が金持ちで権力もある18歳の少女でも、ルールに反する要望はなかなか実を結ばない。しかし、頑なだった日本人は意外な申し出をしてくる。
 第三部 通夜の客:通夜でごった返す一族の本家に、5月の日本は50年ぶりだと言う老婦人が欧州から帰ってくる。そこで黄色い着物を着た双子の子どもを見かける。
 第四部 夏への一日:父の留守宅に入った女は、自分は娘のいとこなのだと断りを入れた。娘はすでに亡くなっていたのだ。女の願いはルールの穴を突くものだった。

 初夏にちなんだ4つの連作短編から成る。共通の登場人物である日本人ビジネスマンは、屍者の願い(数時間だけ現世に帰れる)を聞く代理人である(1970~80年代頃、日本人は世界の誰とでも商売をするワーカホリックと皮肉られていた)。屍者の甦りというホラー風ながら、このお話には呪いや怨恨ではなく、ビジネスライクな原則や代理人システムなど、ロジカルな仕組みが取り込まれている。サイエンス・ファンタジイを意図したのかもしれない。そのため、過度な情感に流されず(ここは以降の山尾作品とも共通する)、ニール・ゲイマンが描きそうなアーバン・ファンタジイの(以降の作品にはあまり見られない)風合いが感じ取れる。

 もともとの集英社コバルト文庫(ソノラマ文庫と並び、ラノベ発祥の地とされる)版では「SFファンタジー」と称されていた(ちなみに新井素子は「SFコメディ」だった)。そこでは若い読者向けの明るい作品が求められていたが、本書は「暗い」仕上がりで編集者には不評だった(こちらのエッセイに顛末が書かれている)。ただ、内容はともかく本書はとても動的で軽快な文体で書かれている。このころ山尾悠子は一日20枚という多作期にあり、雑誌にも多くの短編を寄稿していた。本書は10日余りで書き上げられた。深慮/推敲より衝動/勢いに任せた(稀有な)時代の産物なのだ。

 山尾悠子は評者とほぼ同時代を生きた。大学は違うが、在学期も重なっている。しかし1975年にデビューし華々しく紹介されたけれど、ファン活動はせず(当時の同志社大学SF研究会とは趣味が合わなかったろう)、イベントは少し顔を出しただけで印象をほとんど残していない。とにかく謎の人だった。「夢の棲む街」京都にはよく行ったが、実在の山尾悠子は町屋の暗がりに隠れていた。意図しなかったにせよ、妖怪めいた神秘性が生まれ、熱心な読者を(後の時代を含めて)惹きつけたのは間違いない。

ベストSFをふりかえる(2013~2015)

 シミルボン転載コラムの《ベストSFをふりかえる》は今回までです。ここで取り上げた9つの作品はひと昔以上(15年~9年)前のものながら、ロングセラーとして今でも読み継がれています。時代を越える普遍性を有していたとみなせるでしょう。そこを含めての「ふりかえり」とお考えいただければ幸いです。以下本文。

2013年:酉島伝法『皆勤の徒』東京創元社
 2011年の第2回創元SF短編賞の受賞作「皆勤の徒」と2012年の受賞第1作「洞の街」に、雑誌掲載の中編、書下ろしを加えた初短篇集である。短編集ではあるものの、一貫した世界観で書かれた長編のようにも読める。第34回日本SF大賞を受賞、2015年に文庫化されている。

「皆勤の徒」(2011)海上に聳える塔のような建物で、従業員はひたすら何物か分からないものを製造し続ける。「洞の街」(2012)漏斗状に作られた洞の街では、定期的に天降りと呼ばれる生き物の雨が降る。「泥海の浮き城」(書下ろし)海に浮かぶ城、二つの城が結合する混乱の中で、祖先の遺骸とされるものが消える。「百々似隊商」(2013)何十頭にもなる百々似(ももんじ)の群れを引き連れ、交易をおこなう隊商の見たもの。

 「皆勤の徒」は、一見ブラック企業に勤めるサラリーマンを戯画化した小説のように読める(実在のモデルがあるそうだ)。しかし現実とのつながりを探そうとすると、たちまち深い迷路に彷徨いこむ。“寓意”や“風刺”といった要素とは異なる、全く異質の世界が広がっている。閨胞(けいぼう)、隷重類(れいちょうるい)、皿管(けっかんもどき)など独特の造語、著者自身が書いたイラストとも併せ、描かれる異形の生き物の不気味さがめまいを呼ぶ。

 「洞の街」は著者の敬愛する山尾悠子「夢の棲む街」のオマージュでありデフォルメでもあるもの、「泥海の浮き城」はエリック・ガルシア《鉤爪シリーズ》に似た昆虫人によるミステリ。「百々似隊商」に至ると、ノーマルな人間世界とこの世界とが対比的に描かれ、世界の成り立ちを仄めかす内容となっている。巻末の大森望による解説では、こういった酉島伝法世界をSF的に解釈する見方が詳細に述べられている。これはこれで本書を読み解く手がかりになるものの、ふつうのSFに還元できない部分にこそ本書の特徴があるのは間違いないだろう。

2014年:ダリオ・トナーニ『モンド9』シーライトパブリッシング
 この年は、映画化もされ第46回星雲賞に選ばれたウィアー『火星の人』や、第35回日本SF大賞の藤井太洋『オービタル・クラウド』が出ている。そんな中で目立たなかったが、長編初紹介となる著者ダリオ・トナーニは、1959年生まれのイタリア作家だ。本書は、2013年のイタリア賞(1972年に始まったイタリアSF大会Italconで選ばれるファン投票によるSF賞。著者はこれまで5回受賞)、及びカシオペア賞(こちらは選考委員による年間ベストのようだ)を受賞するなど非常に高い評価を得た。

 そこは世界9(モンドノーヴェ)と称される。有毒な砂に満たされた砂漠を走る巨大陸上船〈ロブレド〉から、一組の継手タイヤ〈カルダニク〉が分離し脱出するが、二人の乗組員はその中に閉じ込められる。砂漠に座礁した〈ロブレド〉に棲みついた鳥たちを狙う親子がいる。鳥たちは半ば金属と化している。〈チャタッラ〉島は遺棄された無数の船が流れ着く墓場、毒使いたちはまだ生き残っている船の命を絶ち、有用な資材を運び出そうとする。〈アフリタニア〉は交換部品となる卵を生み出す船だ。だが、金属を喰らう巨大な花が口を開き、行く手を阻んでいる。

 雑誌掲載などで、10年に渡って書かれた連作短編4作から成る長編である。“スチームパンク”とされるが、重量感のある鉄をイメージするメカが登場するものの、19世紀的なものではない。金属が非常に有機的に描かれている。金属であるのに人を消化し、逆に疫病によって人や鳥さえ金属と化していくのだ。

 現実を思わせるアナロジーや社会風刺などはなく、ひたすら想像力で世界を構築する。解説の中でバラードを思わせる(恐らく『結晶世界』のことだろう)とあるが、本書の黒々とした不吉さは著者オリジナルのものだ。

2015年:ケン・リュウ『紙の動物園』早川書房
 近年のSF翻訳書としては破格に売れ話題となった本。訳者古沢嘉通による日本オリジナル版である(註:2017年から出ている文庫版は、本書から内容が組み変えられている)。著者の短篇集はこれまで中国、フランスで先行し肝心のアメリカではまとめられていなかったが、本書と同じ表題を付けたものが2015年11月にようやく出た(収録作品は異なる)。

 ケン・リュウは1976年生まれの中国作家。11歳で家族と共に渡米、以降プログラマー、弁護士を経て2002年作家デビュー。この多彩な経歴が作品に生かされている。短編「紙の動物園」は、ヒューゴー/ネビュラ/世界幻想文学大賞の三賞を同時受賞した唯一の作品だ。また中国SF作家の紹介も多く手がけ、劉慈欣の作品《三体》がヒューゴー賞を受賞するなど、翻訳の技量にも定評がある。

 紙の動物園(2011)中国から嫁いできた母は英語を話せなかったが、折り紙の動物に命を吹き込めた。もののあはれ(2012)破局した地球から脱出した恒星船で、航行を揺るがす重大事故が発生する。月へ(2012)亡命を求める中国難民が、弁護士に語る迫害の真相とは。結縄(2011)雲南の山中、文字を持たない少数民族では、縄を結ぶことで記録が作られていた。太平洋横断海底トンネル小史(2013)日米を結ぶ海底トンネルで働く一人の抗夫の語る話。潮汐(2012)月が次第に近づく中、塔を嵩上げしながら潮汐を凌ぐ人々。選抜宇宙種族の本づくり習性(2012)宇宙に住むさまざまな種族が考える、書くことと本の在り方。心智五行(2012)遭難した脱出艇は、記録にない植民星で原始的な文明と遭遇する。どこかまったく別な場所でトナカイの大群が(2011)未来、多次元に広がった世界での両親との関係。円弧(2012)荒んだ人生を歩んだ少女は、やがて一つの出会いから不老不死の手段を手にする。波(2012)何世代も経て飛ぶ恒星間宇宙船に、断絶していた地球からのメッセージが届く。1ビットのエラー(2009)偶然が運命を決める、チャン「地獄とは神の不在なり」にインスパイアされた作品。愛のアルゴリズム(2004)自然な会話をする人形を開発した女性は、次第に精神を病んでいく。文字占い師(2010)1960年代国民党治下の台湾、文字からその意味を教えてくれた老人の運命。良い狩りを(2012)西洋文明が侵透する中国で、住処を追われた妖狐が見出した居場所とは。

 本書には、テッド・チャンの短篇との関係が言及された作品が2つある。「1ビットのエラー」と「愛のアルゴリズム」だ。後者は「ゼロで割る」の影響を受けたとある。ただ、冷徹な「理」に勝つテッド・チャンに対し、ケン・リュウは「情」に優る書き方をする。結果的に作品の印象は大きく異なる。

 例えば、表題作は中国花嫁の悲哀(日本でもあったが、事実上の人身売買だ)、「もののあはれ」は悲壮感漂う最後の日本人を描いている。類型的と見なされても仕方がない設定を、あえて情感によって昇華しているのだ。「太平洋…」の大日本帝国下の台湾人、「文字占い師」の二・二八事件(台湾在住者に対する国民党政府の弾圧事件)、「良い狩りを」の英国が統治する香港などなど、これらは史実の重みを背景に負いながら、物語を「情」に落とす装置ともなっている。

 自身が20世紀の中国を知る東洋人で、作品を総べるオリエンタリズムに違和感がないことが強みといえる。これらは、最新長編、新解釈の項羽と劉邦でもある《蒲公英王朝期》を幅広く受容してもらう際に、大きなアドバンテージとなるだろう。

(シミルボンに2016年8月16日~18日掲載)

ベストSFをふりかえる(2010~2012)

 シミルボン転載コラム、今回はベストSFの2回目です。前回と同様3年分を選んでいます。このうち1つは3部作なのですが、残念ながら現行本/電子版はありません。ただ、古書の入手性は比較的良いようです。以下本文。

 2010年:ジョー・ウォルトン《ファージング三部作》東京創元社
 ファシズム政権下に置かれた英国を描く、の歴史改変小説3部作(Small Changeシリーズと称する)である。ネビュラ賞やサイドワイズ賞(改変歴史小説が対象)などの最終候補になり、第2作『暗殺のハムレット』は2008年の英国プロメテウス賞を受賞している。著者は英国生まれ、現在はカナダのケベック州に在住。9.11(2001年)に衝撃を受け、イラク進攻(2003年)をきっかけに『英雄たちの朝』を書き上げたという。大衆を煽るデマゴーグに怒りを感じたからだ。

『英雄たちの朝』:1949年、ドイツとの戦争が講和で終わってから8年が経過していた。ロンドン近郊のハンプシャーにファージングという地所があり、英国保守党の派閥の領袖たちが集うパーティが催されていた。そこで、次期首相とも目される有力議員が殺される。スコットランドヤードの警部補は容疑者を絞り込むが、貴族院議員、爵位を持つ上流階級のはざまで真相は歪められていく。

『暗殺のハムレット』:殺人事件から1か月後、ロンドン郊外で爆発事件が起こる。しかし、死亡したベテラン女優と爆発物がなぜ結びつくのか。折しもロンドンではヒトラーを迎え、独英首脳会談が開催されようとしている。厳戒体制の下、貴族出身の主人公は男女逆転の新趣向であるハムレットのヒロインに抜擢される。

『バッキンガムの光芒』:1960年、英国がファシズム国家になって10年が過ぎた。警部補は英国版ゲシュタポの隊長となり、逮捕状なしで市民を拘束する密告・恐怖政治の先頭に立つ一方、裏でユダヤ人の国外脱出に手を貸していた。そんな混乱の中、彼が後見人となっている亡くなった部下の娘が、社交界デビューを果たそうとしていた。

 英米文化といっても、日本人の多くは単純なハリウッド映画に映る文化を知っているだけだろう。英国のような、多くの矛盾を抱えた階級社会の深層は分かっていない。本書は、改変歴史ものであると同時に、差別の色濃い旧い英国社会を描き出している。

 1巻目はユダヤ人と結婚した貴族の娘、2巻目は名家(実在した、ミットフォード姉妹がモデル)からスピンアウトした女優、3巻目は、エリザベス女王謁見まで果たした庶民階級の娘が、それぞれの視点で社会について語っている。

 ここでのポイントは、階級やユダヤ蔑視を公然と口にする登場人物が、日常生活では普通の人間という違和感だろう。ヒトラーでさえ怪物ではない。その当たり前の人間がファシズムを肯定し、強制収容所を作るのである。物語はI巻、II巻と緊密度を上げて、ただIII巻目は予定調和的に終わる。少しバランスの悪さを感じさせる結末かもしれない。

 ところで、本書の原題は英国コインの名称になっている。英国独特の12進数(ダース)単位の通貨だったファージング硬貨(4分の1ペニー、1960年廃止)、ハーフペニー硬貨(1970年にいったん廃止、同じ名称で再流通後84年で鍛造終了)、ハーフクラウン硬貨(1970年廃止)に対応する。それぞれ、地名(本書では派閥の名称でもある)、ハムレットが上演される劇場の一番安い座席、王室などバッキンガムの象徴と、2重の意味を持たせている点が面白い。

 2011年:アヴラム・デイヴィッドスン『エステルハージ博士の事件簿』河出書房新社
 翻訳されたデイヴィッドスンの短編集としては3作目となる。本書は主に1975年に発表された《架空の19世紀を描くエステルハージもの》8作品を集めたもので、1976年に世界幻想文学大賞(短編集部門)を受賞した著者の代表作でもある。2013年に亡くなった、ミステリ作家殊能将之が偏愛する作品でもあった。

「眠れる童女、ポリー・チャームズ」30年間眠り続け、見世物となっていた女の運命。「エルサレムの宝冠または、告げ口頭」帝国の権威の象徴、エルサレムの宝冠の行方を捜す博士の見たもの。「熊と暮らす老女」老女が匿う“熊”の正体と、その秘められた顛末とは。「神聖伏魔殿」複数の宗教が混在する三重帝国で、集会の許可を求めてきた“神聖伏魔殿”とは何者たちか。「イギリス人魔術師ジョージ・ペンバートン・スミス卿」霊との交信を可能とする力を持つというイギリスの魔術師。「真珠の擬母」安物故に取引が途絶えたある種の貝が、なぜ注目されるようになったのか。「人類の夢不老不死」不良品の指輪を売りつける男、しかしその材料は本物より高純度の金だった。「夢幻泡影その面差しは王に似て」ある日博士は、老王に似た男を貧民街でたびたび目撃する。

 主人公エステルハージ博士(名前自体は中欧に実在する。たとえばハンガリーの貴族エステルハージ家)は、7つの学位を有し、スキタイ=パンノニア=トランスバルカニア三重帝国の由緒ある伯爵家に産まれながら、在野の学者として名を知られている。

 19世紀末、蒸気自動車(当初、ヨーロッパではガソリン車より蒸気自動車が優勢だった)が普及しようとしてはいたが、帝国の随所には中世やイスラム時代の文化が色濃く残っている。そこで巻き起こる事件は、神秘的/怪奇的というより、(現在の我々から見れば)異質の事件といって良い。まさに「異文化」との遭遇に近い体験だ。

 本書はそういう意味で、いわゆるミステリでもなく、多くのファンタジイとも違う。トールキンでも、その物語の中に現実とのアナロジイは残していたのだが、本書に中欧オーストリア・ハンガリー二重帝国との類似点があるかといえば、おそらくほとんどないだろう。ストレンジ・フィクションとか、奇想コレクションとかの名称は、まさにデイヴィッドスンにこそ相応しい。

 2012年:小田雅久仁『本にだって雄と雌があります』新潮社
 この年は円城塔が芥川賞を獲り、伊藤計劃との合作『屍者の帝国』を出した。野尻泡介の短篇集が売れ、高野史緒の江戸川乱歩賞も話題になった。第33回日本SF大賞の宮内悠介『盤上の夜』も出ている。そんな中で、本書は2009年に第21回日本ファンタジーノベル大賞を受賞した小田雅久仁による長編第2作となる。前作のやや重いトーンから一転して、本書は非常に軽快な小説だ。祖父から語り手である孫、さらにその子までの4代にわたる奇妙な伝記を、わずか700枚余りで描き上げている。

 語り手の祖父は、博識ではあるが軽薄で饒舌、大衆からも人気がありマスコミ受けする学者だった。しかし祖父には旧家に溢れる22万冊の蔵書があり、しかも詰め込まれた本たちは自ら増殖し、それらは羽を生やして、どこかに逃げ去ろうとするのだ。空飛ぶ本の正体は一体何なのか。彼らの目指す目的地はどこなのか。

 本書で書かれた真相とは少し違うが、ジョン・スラデックの短編、読まれなくなった本が飛び去ってしまう「教育用書籍の渡りに関する報告書」を思い起こさせる。大量に蓄積された本は、単なる紙束ではなくなり、独特の生命/目的を得るようになるのだ。

 そんな奇想をベースに、本書では祖父を取り巻くユニークな人物たち、売れない探偵小説家だった曾祖父、祖母は識字に難のある天才画家、祖父のライバルコレクター資産家の御曹司、冴えない政治家の伯父、放浪のシンガーである叔父等々が続々と登場する。これだけ多彩な登場人物が詰め込まれた割に、この分量でも物足りなさは感じさせないのは、優れた文章力の賜物だろう。

 さて、本書には重大な結論が書かれている。
 ――人は死んだら本になる、いや、そもそも、人の一生は「本」なのである。

(シミルボンに2016年8月13日~15日掲載)

 小田雅久仁はこの次に長編『残月記』を書き、第43回吉川英治文学新人賞、第43回日本SF大賞を受賞。『本にだって雄と雌があります』に連なる作品としては、高野史緒「本の泉 泉の本」があり、評者も「匣」を書きました。ご参考に。

高野史緒『ビブリオフォリア・ラプソディ あるいは本と本の間の旅』講談社

装画:YOUCHAN
装丁:bookwall

 『グラーフ・ツェッペリン あの夏の飛行船』星雲賞を受賞した著者の、本にまつわる人々を描いた連作集である。既存の短編2作に書下ろし3作を加え、プロローグとエピローグで挟んでいる。各作品は「ダブルクリップ」というキーワードで結ばれている。ここでは本の校正時にゲラ刷りの束を止めるクリップを指す。ゲラはホチキス閉じができないため、超特大のクリップを使うのだ。

 ハンノキのある島で(2017)「読書法」が成立してから、出版界は活況を取り戻したかのように見えた。作家である主人公は、あるものを捜すため実家に帰る。
 バベルより遠く離れて* 主人公は翻訳者だったが、専門とする言語があまりにもマイナーで、しかも傑作とされる文学作品はおよそ翻訳不可能なものだった。
 木曜日のルリユール* 遠慮のない辛辣な書評で人気を得る評論家は、何気なく見た書店の棚刺しにありえない本があることに気がつく。
 詩人になれますように* 高校生のころ詩人になることを願った少女は、思いがけず有名人となって例外的に売れたが長くは続かなかった。もう一度、戻れないのか。
 本の泉 泉の本(2020)どことも知れない古書店の中で、SWのロボットコンビのような二人組が、希少な本を渉猟しつつ奥へ奥へと彷徨い歩く。
 *:書下ろし

 作家、翻訳家、評論家、詩人、収集家(コレクター)が、それぞれの物語の主人公である。ただ、誰もが葛藤を抱えている。「ハンノキのある島」は、読書法の下に出版物が恣意的に淘汰され、最新刊しか残らないディストピアだ(本がどんどん絶版になる現在の状況をデフォルメしたものだろう)。表題は主人公が初めて買った文庫本の著者エラリー・クィーンを意味しているが、クィーンも残されない。何が残るのが正しいのか、自分の作品はどうなのかと主人公は悩む。

 「バベルより遠く離れて」では、文化的に全く異なる言語を巡って壁に突き当たった翻訳家が、不思議なフィンランド人と知り合う中で新たな発見をする。言語の本質に迫るテーマながら、円城塔とは対照的な切り口だ。「木曜日のルリユール」では、真っ当に評価されない炎上商法で稼ぐ毒舌評論家が、批判できない意外な本と遭遇するという、異界と現実とがシームレスにつながりあう異世界もの。「詩人になれますように」では、詩人という職業でたまたま成功した主人公の、書けなくなった10年後の色褪せた現実を描く。「本の泉 泉の本」は、コレクターの日常/心情が架空の迷宮古書店を舞台に描き出される。この5作の中ではもっともファンタジイに近い設定なのに、なぜかもっともリアルに感じられる。

 すべてが本にまつわるホラーなのだと解釈することもできるだろう。悲惨さの順番でいうと、詩人<評論家<作家<翻訳家<コレクターとなる(コレクターまで行くとユートピア)。とはいえ、詩人は悲惨なようだが、(私が聞く限り)率直な意見を得るコミュニティがあり(数百人未満の)固定読者がいる。マスから個に読者層が変わる現代では、むしろ望ましい形態なのかもしれない。

 ところで、表題はビブリオフィリア(読書好き)ではなく、おそらく意図的にビブリオフォリア(スペイン語/造語? 読書狂い?)としている。

ベストSFをふりかえる(2007~2009)

 シミルボン転載コラム、今週から3回分はレビュー記事です。評者が9年間(2007年から2015年)に選んだ作品を、順次紹介していくという趣旨でした。年1作づつ、長編や中短篇集など単行本を対象としていましたが、ここでは3年分を1回にまとめています。国内外作品を問わず、ノンフィクションが入ることもありました。以下本文。

2007年:最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人』新潮社
 本書は、第28回日本SF大賞、第39回星雲賞を受賞、他にもノンフィクション関連の賞を複数得るなど高い評価を受けたものだ。最相葉月は、主に科学技術やスポーツ関係の著作を得意としてきたノンフィクション・ライターである。

 星新一の父は、星製薬の創設者でもあった星一である。戦前の星製薬は、現存する製薬会社のどれよりも巨大で先進的な企業だった。アメリカ仕込みの経営、例えば全国をチェーン店で結ぶなど斬新な戦略で発展してきた。しかし、星一は典型的なワンマンであり、自分以外を信じなかった。阿片製造(戦前は合法だった)に絡む政界の一部との交流が、逆に恨みを買う要因となって訴訟・倒産につながる。この騒動は破産から立ち直った後も尾を引き、戦後のごたごたの中で星一の急死(1951)、長男親一(本名)への相続へと続いていく。

 SFとの出会いは、周り全てが悪意を持つ債権者たちの時代にあった。矢野徹や柴野拓美ら、宇宙塵とその同人たちとの出会いである。星はすべてを振り棄てて作家に転身する。SF黎明期に先頭を切ってデビューを果たしたのである(1957)。星が選んだショートショートという形式は、昭和30年代から40年代の高度成長期に伸びた企業のPR誌に最適だったこともあり、大きな需要があった。ショートショート集も売れ、流行作家の仲間に入ることになる。ただ、業界の評価は低く、読者の低年齢化が進む中、子供向けの小説とみられて文芸賞とは全く無縁だった。

 星新一は新潮文庫(1971年から)だけで累計3千万部を売ったロングセラーの作家である。小学生から読める内容なので、一度は読んでみた人も多いだろう。しかし、誰もが知っている名前でありながら、多作かつ客観的な作風であることも災いして、明瞭な印象を残さない作家だった。それが結果的に晩年の著者を不幸にする要因でもあった。ピークを過ぎ、先が見えた時に誰でも自分の存在意義を気にする。誰もが知っているが誰も憶えていない作家、まさにその点にこそ本書の焦点がある。

 星新一については、自身が書いた父親や祖父の伝記や、星製薬が解散する前後の事情もエッセイなどで断片的には知られていた。しかし、本書ではこれらの記述が、SF作家星新一デビューと有機的につなげられている。当時のSF界の記述、矢野・柴野・星の関係も正確で新しい視点がある。また、封印されてきた晩年(1983年の1001編達成以降、特にがん発症の前後)の星が何を考え何を行ってきたかが(一部推測を交えているとはいえ)明らかにされたのは初めてだろう。

2008年:クリストファー・プリースト『限りなき夏』国書刊行会
 日本オリジナルに編まれた作品集。『奇術師』クリストファー・ノーラン監督「プレステージ」(2006)として映画化されて以来、プリーストは再び注目を集めるようになった。年間ベストに顔を出すようになり、過去の埋もれた作品も再刊が進んだ。本書はその中で出たベスト版である。

 限りなき夏(1976)テムズ川に架かる橋からは、時間凍結された19世紀初頭以来の“活人画”が見渡せる。青ざめた逍遙(1979)時間を超えられる公園を巡って、大人に成長する少年が見かけた少女の正体。逃走(1966)戦争の影が忍び寄る世界、上院議員の前に少年たちの集団が立ち塞がる。リアルタイム・ワールド(1972)隔絶された宇宙基地で、情報操作により隊員たちをモニターする主人公。赤道の時(1999)赤道上空にある時間の渦の中は、目的の時間をめざして無数の航空機が旋回している。火葬(1978)異文化を持つ島の弔問に訪れた男は、人妻からあからさまな誘いを受ける。奇跡の石塚(1980)10台の頃、島の叔母の家で受けた忌避すべき思い出を追体験する主人公の葛藤。ディスチャージ(2002)3000年に渡る戦争から逃れようとする兵士の体験した群島の出来事。

 66年のデビュー作「逃走」から、主に70年代の作品を収めている。翻訳が2013年に出た《夢幻諸島(ドリーム・アーキペラゴ)シリーズ》に属する「ディスチャージ」や「赤道の時」が比較的新しいが、これはシリーズとしてまとめる際に書き下ろされたものなので、全体のバランスを崩すものではない。80年代以降の作者の活動が長編に移っていった関係で、もっとも作品数が多かった30年前に書かれたものが中心になる。

 プリーストの日本での紹介は『スペース・マシン』(1976)→78年翻訳、『ドリーム・マシン』(1977)→79年、『伝授者』(1970)→80年、『逆転世界』(1974)→83年という順番だった。当時は、『逆転世界』の設定(巨大都市が“最適線”に沿って移動する)が強烈で、ハードSF/数学SFの一種と思われていた。しかし、実際のプリーストの関心は、むしろ「リアルタイム・ワールド」に見られる“現実と幻想の相関関係”を描くことにある。改めて本書を読むことで、作者の意図が分かるようになる。

 それにしても、本書からは少し変わった印象を受ける。一つは、まるで自分の既刊本のように冷静に編集意図を述べる、プリースト自身が寄せた日本語版の序文。もう一つは、本書が安田チルドレン(安田均による海外SF紹介に影響を受けた世代を指す)の産物と説明する訳者あとがき。現実なのか虚構なのかを問う著者の作風から、本書がまるで架空のオリジナル作品集のように思えてくるから不思議だ。

2009年:長谷敏司『あなたのための物語』早川書房
 2009年は伊藤計劃の『ハーモニー』が出て第30回日本SF大賞を獲った。同じ年に出た本書は、著者の原点ともいえる作品である。テーマを深化させ、5年後に第35回日本SF大賞を『My Humanity』で得ることになる。本作品は、今年映画公開も予定されている、テッド・チャンの作品の影響下に書かれた(註:映画は2016年に「メッセージ」として公開)

 表題が『あなたのための物語 A Story for You』となってることから分かるように、本書はテッド・チャン「あなたの人生の物語 Story of Your Life」(1998)に対するある種の返歌となっている。ここで、A Story であることに注目する必要がある。つまり、“あなたのために書かれた複数の物語”の中の1つなのだ、という意味になる。

 21世紀後半の2083年。主人公は脳内に擬似神経を構築し、脳の損傷を改善できる技術によりベンチャーを成功させる。さらに彼女は、脳内の振る舞いを記述する言語ITPにより、物語を語る仮想人格《wanna be(なりたい)》を作り上げる。これで、人間の創造性さえ記述できることが証明できるのだ。しかし、成功の絶頂にいた彼女に、ある日余命半年であることが告げられる。

 神秘的な人間の創造性も、実は脳内物質の多寡に過ぎない。グレッグ・イーガンやテッド・チャンが冷厳に述べてきたその事実を、長谷敏司は一冊の長編にまで敷衍している。死が迫った主人公は、禁じられた手法を用いて自身の脳内を書き直そうとする。「あなたのため」小説を書き続ける仮想人格(wanna be=want to be)は、主人公の死に向き合った怯えや諦観を見るうちに、全く新しい反応を返すようになる。

 著者はライトノベルからスタートし、本書を書き上げるまでに、ほぼ5年を費やしている。アイデアの源泉は既存の作家に由来するが、詳細な伏線(なぜ主人公が孤独なのか)や掘り下げた知能に対する言及(なぜITPで記述された知能に感性の平板化が生じるか)など、既作品に対するアドバンテージは十分あるだろう。「あなたのための物語」とは結局なんだったのかを、最後に反芻してみるとさらに深みが増す。

(シミルボンに2016年8月10日~12日に掲載)

八潮久道『生命活動として極めて正常』KADOKAWA

装画:neni
装丁:bookwall

 著者は1985年生まれ。本書はカクヨムなどに発表した作品5編(はてなダイアリー、ブログに書かれた10年前の作品も含む)に、書下ろし2編を加えた初の作品集である。ある日KADOKAWAの編集者から打診があり…という詳細な出版経緯はこちらに書かれている。インフルエンサーでも有名人でもないと謙遜するが、ブログ記事(やしお名義)が年間総合はてなブログランキングの1位になるなど、注目を集める書き手であったことは間違いないだろう。

 バズーカ・セルミラ・ジャクショ(2016)バズーカのレーティングが突然ゼロになり、電子決済も使えない。主人公はセルミラを勧められ、ジャクショの存在を知るが。
 生命活動として極めて正常(2014)生産管理部の課長が課員を拳銃で撃ち抜く。その後、各部署に電話をかけ申請書を準備し、プロトコルに従って事務処理を進めていく。
 踊れシンデレラ(2016)継母の体育会系体罰や、義姉たちの理不尽な後輩虐めに、体育会的に応じる筋肉派シンデレラの物語。
 老ホの姫(2023)ほぼ男ばかりでロボット介護の老人ホームに新人が入居する。そこでは独特のルールがあり、中でもアイドルめいた「姫」の存在が特異だった。
 手のかかるロボほど可愛い(2021)リゾートにある戦争博物館に一人の老人が訪れる。案内係は古いAIロボットだったが、だんだんと調子がおかしくなる。
 追放されるつもりでパーティに入ったのに班長が全然追放してくれない(書下し)魔物を班(パーティ)単位の部隊が討伐、だが無能な班員を辞めさせるのは難しい。
 命はダイヤより重い(書下し)人身事故が起こっても列車を止めることは許されない。そういう鉄道会社のルールに従う主人公は、奇妙な現象に気がつく。

 少し不思議系なのかと思うと、かなり意外な方向に動く。『バズーカ・セルミラ・ジャンクショ』は、近未来ディストピアが後半「ツリー!」とかのピッピ語により、不条理な雰囲気を増幅していく。表題作は、会社にありがちな官僚的な社内規則に一点の「異常」を付け加える。『踊れシンデレラ』は、文字通りのデフォルメされた体育会系シンデレラ。「老ホの姫」は、老人ホームの老爺アイドルを巡る力関係をパワーゲーム風に描く。「手のかかるロボほど可愛い」は、戦場での老人の過去が明らかになっていく。書下ろしとなる「追放されるつもりでパーティに入ったのに班長が全然追放してくれない」は状況の説明を最小限にして、主人公の利己的なふるまいと状況に流されてしまう気弱さが描かれる。「命はダイヤより重い」は、これも一点異常ものなのだが、他の作品より社内の人間模様に焦点を当てたところが印象的だ。

 近作になるほど登場人物の行動に重点が移る。視点の混乱とか、切り詰め過ぎ/あるいは引っ張りすぎと思われる作品はあるものの、表題作に代表される異常さをシームレスに挟み込むセンス(きわめて非現実的なのにリアルさがある)は優れていて面白い。