カバーデザイン:岩郷重力+Y.S
表題をテーマとするオリジナル・アンソロジイである。ポストコロナとなっているが、必ずしも現在のコロナ禍を意味してはいない。また19人の収録作家も、全員が日本SF作家クラブの会員ではないのだ。ジェネレーションやジェンダーのバランスを再考する余地はあるものの、より幅広く多様にという意味なのだろう。
小川哲「黄金の書物」 ドイツ出張中の空港で、主人公は見知らぬ男から古書のハンドキャリーを依頼される。 伊野隆之「オネストマスク」 そのマスクの表面はディスプレイとなっており、着けている者の感情を表出する。 高山羽根子「透明な街のゲーム」 コロナ禍で無人になった街中に出て、インスタ的サービスのインフルエンサーたちがお題をテーマにベスト写真を競う。 柴田勝家「オンライン福男」 コロナ禍にヴァーチャル化した福男レースは、形を変えてその後も続けられている。 若木未生「熱夏にもわたしたちは」 コロナの後、接触を恐れて育った世代の少女2人が生きる、ひとときの夏。 柞刈湯葉「献身者たち」 国境なき医師団に属する主人公は、収束のみえない変異株に襲われるソマリアで、ひとつの解決法を明かされる。 林譲治「仮面葬」 一度は棄てた故郷に戻った主人公は、葬式に仮面を着け代理参加する仕事を得たものの、故人の名前を聞いて驚く。 菅浩江「砂場」 ワクチンが日常化し過剰なまでに投与される時代、ママ友の集う公園の砂場では不穏な世間話の輪が広がっている。 津久井五月「粘膜の接触について」 高校生になった主人公は、感染症対策のため全身を覆うスキンを身につけ、自由な接触を愉しむようになる。 立原透耶「書物は歌う」 三十代になると疫病で死ぬ世界、一人の子供は書物が奏でる歌を探して歩き回る。 飛浩隆「空の幽契」 猪人間と鳥人間が陸と空に別れて住む世界と、衰退した東京で老女とロボットとが会話する光景が交互に物語られる。 津原泰水「カタル、ハナル、キユ」 ハナル十三寺院に秘められた伝統音楽イムについて、詳細に分析した著作が「カタル、ハナル、キユ」である。 藤井太洋「木星風邪(ジョヴィアンフルゥ)」 木星大気に浮かぶ浮遊都市、主人公は月出身の労働者だったが、そこでは木星風邪と呼ばれるファームウェア感染症が蔓延する。 長谷敏司「愛しのダイアナ」 データ人格の家族で、父親の隠していた映像を娘が見たことからもめ事が発生する。 天沢時生「ドストピア」 濡れタオルを叩きつけ合って勝負を決めるタオリングは、滅びゆくヤクザたちにとって有力な収入源だった。 吉上亮「後香(レトロネイザル) Retronasal scape.」 マレー半島の奥深くに住むアガルは、常人にはない特殊な臭覚を持つ人々だった。 小川一水「受け継ぐちから」 隣の星系から飛来した3人乗りのクルーザーは、その製造年代から見てもありえない古さと思われた。 樋口恭介「愛の夢」 人類が眠りについてから1000年が経過し、一人の指導者が目覚めの時を迎えようとしている。 北野勇作「不要不急の断片」 70編からなる、ポストコロナを巡る世の中を点描するマイクロノベル集。
著者の一人、飛浩隆によるとても詳細な解題 が既にあるので、ここでは1文リミックス紹介のみとした。このうち、現状のコロナと直結する話は柞刈湯葉「献身者たち」くらいで、最も遠いのが小川哲「黄金の書物」と天沢時生「ドストピア」だろう。コロナから多重に連想された創造の果てという感じか。
物理的な疫病から逃れられる究極の場所は電脳世界になる。柴田勝家「オンライン福男」、IT的にひねった藤井太洋「木星風邪(ジョヴィアンフルゥ)」、家族まるごと移転したのが長谷敏司「愛しのダイアナ」である。
コロナの現実に生じた異形の風景を、さらにデフォルメした作品が多い。欠かせないマスクの伊野隆之「オネストマスク」、無人の街を切り取った高山羽根子「透明な街のゲーム」、少女の恋に昇華させた若木未生「熱夏にもわたしたちは」、これもマスクだが田舎の因習に形を変えた林譲治「仮面葬」、生活をむしばむ悪意を描く菅浩江「砂場」、肉体の接触が忌避される津久井五月「粘膜の接触について」、極めつけは日常のスナップショット北野勇作「不要不急の断片」だろう。
現実をはるかに越えるお話も読みたい。小松左京「お召し」を思わせる世界を書いた立原透耶「書物は歌う」、飛浩隆「空の幽契」ではロボットと主人公の会話と異世界の物語がシームレスに溶け合い、小川一水「受け継ぐちから」は謎の宇宙船の正体を探り、樋口恭介「愛の夢」は1000年もの皮肉な明日が描かれ、津原泰水「カタル、ハナル、キユ」では緻密に組み立てられた音の秘密が、吉上亮「後香(レトロネイザル) Retronasal scape.」では匂いの秘密が解き明かされる。
枚数的には50枚前後(ばらつきはある)で短編の書下ろしながら、テーマが明確なためか、ひねるにしても正面から書くにしても各作家なりの工夫が楽しめる。評者としては、上記の中で最後のグループが面白かったのだが、それは現実からの距離の置き方にも依存するのだろう。