映画の原作を読んでみる、その1

 シミルボン転載コラム、今週からは3回に分けて映画の原作から選んだブックレビューをお送りします(あくまでもブックレビュー、映画評ではありません)。対象となった作品はいろいろあって、大作映画からマイナーな作品、原作に忠実なものや独特すぎるものなども。原作ありきですので、メディア媒体はTV/劇場、実写/アニメを問わず取り上げています。発表年とか掲載の時期はさまざま。なお、視聴可能なものは配信先(主にAmazon Video)をリンクしています。以下本文。

映画 Arrival(メッセージ) と、あなたの人生の物語
 ネビュラ賞、星雲賞を受賞したテッド・チャンの短篇「あなたの人生の物語」が、Arrivalという題名で映画化される。まるで、マグリット「ピレネーの城」のような異星人宇宙船が印象的だ。2016年11月には全米で公開されるという(邦題は「メッセージ」2017年公開)。ただ、映画は宇宙人とのコンタクトに焦点が移っているようで、小説とは(おそらく)異なるものになる。ここでは、もともとの原作を振りかえってみたい。

 まず、「あなたの人生の物語」にある二人称「あなた」とは、主人公の娘のことである。しかし、それは同時に本書を読むあなたであり、人類すべてを記述する1つの記号のことでもある。すべての人生が、たった1つの文字=記号に凝集され、物語られるのである。

 バビロンの塔(1990)天まで届く塔を建設し、ついに天頂の壁に達した男のたどり着いた世界とは。理解(1991)脳内の神経線維を再生する治療は、主人公に驚くべき“理解力”をもたらす。ゼロで割る(1991)数学を根底から否定する証明を導き出した、数学者である妻と夫。あなたの人生の物語(1998)異星人との接触がもたらした全く新しい文字で、表現された主人公の娘の物語。七十二文字(2000)非生物に生命を与える、ある種の呪文“名辞”の命名師に課せられた新たな使命。人類科学の進化(2000)優れた新人類の叡智を知るには、理解できるものをひたすら“解釈”する道しかなかった。地獄とは神の不在なり(2001)天使の降臨が天変地異を引き起こす世界で、その意味を追いつづける人々の命運。顔の美醜について(2002)美醜を感じ取る機能を遮断する運動は、社会の差別をなくすとされたが…。

 アイデアの作家ではあるが、チャンの場合アイデアはあくまでも物語の一面にすぎない。たとえば表題作は、異星人とのコミュニケーションと、主人公の娘の一生(なぜ、主人公が娘に向かって二人称で語りかけているのかが肝要)が、異星の文字(事象を1語で認識できる)を交点にして焦点を結ぶ。お話の構造としても大変に美しい。

 本書には、ファンタジイも多く含まれている。作者は、魔法は科学と違って、人の意識がより大きな位置を占めるから興味があると語る。「バビロンの塔」や「七十二文字」は、世界の謎を魔法で解き明かす物語だ。よく似た作風のイーガンは、 科学を使って人の主観と相容れない領域に切り込むが、どちらもSFの手法を使っている点は共通している。SFを知らない一般読者向けには、むしろ世界の解明を伴わない「地獄とは…」や、「ゼロで割る」の夫の心理に共感できるだろう。

 「地獄とは…」は、よくキリスト教的な世界観を引き合いに出して難解さを論じられているが、そもそも作者は熱心なクリスチャンではない。これは、理不尽な自分の運命に、意味を見出そうとする人の執念の物語なのである。特異な世界/特異な事件から、人間の意識の奥底が違和感なくつながって見える。

 著者は、20年間で短編集1冊といくつかの短篇しか書いていない(第2短編集が2019年の『息吹』である)。寡作と言わざるをえないだろう。インタビューで本人が述べているように、書く衝動に任せるタイプではなく、アイデアを得てからそれを練り上げるため、なかなか数が稼げないという。情熱(勢い)より様式美が際立つのには、こういう理由がある。

(シミルボンに 2016年8月19日掲載)

太陽系に広がる人類、《エクスパンス・シリーズ》
 ドラマ配信が日本でもスタートし、注目度の高まった本作品だが、原作の翻訳は3年前(2013年)に出ているので紹介する。著者のジェイムズ・S・A・コーリイは、ダニエル・エイブラハムとタイ・フランクという、1969年生まれの作家の合作ペンネームだ。エイブラハムは、ガードナー・ドゾア&ジョージ・R・R・マーチン(《ゲーム・オブ・スローンズ》原作者)との合作『ハンターズ・ラン』の事実上の執筆者でもある。本書は受賞こそしなかったものの、ヒューゴー賞やローカス賞の最終候補にもなり、《エクスパンス・シリーズ》(人類世界の「拡張」という意味)として第五部(2015)まで書き継がれている(その後小説版は2021年に長編9冊まで続き、映像のAmazonオリジナル版は2022年にシーズン6で完結)。他にも複数の派生作品があるなど人気が高い。

 土星から小惑星帯へ氷を運搬するタンカーが、救難信号に偽装された何者かの罠に捕えられ、船ごと爆破される。生き残った副長はこの犯罪を暴くべく証拠をネットに流すが、その結果、微妙なバランスを保っていた内惑星系と小惑星帯との関係が崩れていく。戦争の気配が忍び寄る中、背後では恐るべき犯罪が進行しようとしていた。

 正義感溢れる副長は、しかし、十分な証拠もないまま戦争の火種を公表してしまう。もう一人の主人公である小惑星人の刑事は、行方不明の女性を調査するうちに精神を病み、その女性の幻影を見るようになる。彼は女性のアドバイスに従って、犯罪の真相に迫ることになる。

 およそ200年後の未来、人類は地球、火星、小惑星帯、最遠の天王星までに広がっている。広大な外惑星帯には億を超える人類が住んでいるが、圧倒的な格差のある内惑星と戦っても得るものはない。ただ、政治的にはどちらの陣営も一枚岩ではない。さまざまな勢力や、コントロールできないテロリストを抱えているからだ。人口100万を超える小惑星を巻き込む事件は、そんな背景で生じるのである。近未来の太陽系が、その距離間と経済的背景/必然的に生じる政治的駆け引きなどにより、リアルに描き出されている。そこに、いささか問題のある登場人物を配して、物語に起伏を与えているのだ。

(シミルボンに2016年11月7日掲載)

さまざまな意味で古典、2001年宇宙の旅
 この作品が初めて翻訳されたのは1968年10月、原題に準拠した『宇宙のオデッセイ2001』という邦題だった。映画『2001年宇宙の旅』が同年4月に日本公開され、難しすぎる結末の解釈について、大論争が巻き起こっていたころだ。見世物的な特撮映画と思って見にきた一般観客は、あ然とするか、寝るか怒るかだった。

 300万年前、地球に忽然と現れたモノリスがもたらした知恵により、豹に怯える弱々しい猿だった人類は道具の存在を知り、やがて地球の覇者へと登りつめる。20世紀末、月面のクラビウス基地では、地下に埋もれたモノリスが発見される。地上に姿を現したモノリスは、月の夜明けの光を受けた瞬間、指向性を持つ電波を宇宙に向かって放射する。電波の先には木星があった。そして2001年、孤独な宇宙空間を飛行する宇宙船ディスカバリー号では、支援コンピュータのHALがなぜか人間の乗組員を裏切る。たった1人生き残った宇宙飛行士は、木星(小説版では土星)のスター・ゲートをくぐったあとに何を見たのか。

 クラークとキューブリックがどういうやりとりをして映画を作ったのかは、クラークが映画の4年後に出した『失われた宇宙の旅2001』(1972)に詳しい(この本は絶版だが、その後出たノンフィクション『2001:キューブリック、クラーク』は現在でも入手可能)。2人が検討した結果、使われなかった原案の数々について書かれている。映画の落穂拾いかというとそんなことはなく、お話になっている部分が大半を占める。もちろん、部分であって完結した長編ではないが、もともとの『2001年宇宙の旅』自体のあらすじを知っていれば、さほど違和感はない。

 その中で、スター・ゲートを抜けた後のエイリアンとの出会いを描いたシーンがある。映画では完全にカットされた部分だ。キューブリックとしては、神に相当する存在を描くのに、形があるものではリアリティが出ないと考えたのだろう。CG全盛の今でも、人類より間抜けなもの、異質なもの、邪悪なものならいくらでもいるが、高等と感じられる超越的エイリアンを表現した映画は(ほぼ)見ることができない。結果的に、この選択(異星人は姿を見せない)が間違っていたとはいえないわけだ。

 『宇宙のオデッセイ2001』はその後1977年に文庫化される際に、映画邦題に合わせた『2001年宇宙の旅』となり、1993年には現在の改訳決定版となる。映画はディスクやネットでいつでも見ることができるが、本書も発表からほぼ半世紀を経て読み継がれる、映画とは独立したクラーク代表作のひとつになった。人類の進化、近未来の惑星間航行、人工知能の開発、宇宙人とのファーストコンタクトなど、さまざまなテーマが込められているが、そのどれにおいても本書は古典といえる。

(シミルボンに2017年2月17日掲載)

ベストSFをふりかえる(2010~2012)

 シミルボン転載コラム、今回はベストSFの2回目です。前回と同様3年分を選んでいます。このうち1つは3部作なのですが、残念ながら現行本/電子版はありません。ただ、古書の入手性は比較的良いようです。以下本文。

 2010年:ジョー・ウォルトン《ファージング三部作》東京創元社
 ファシズム政権下に置かれた英国を描く、の歴史改変小説3部作(Small Changeシリーズと称する)である。ネビュラ賞やサイドワイズ賞(改変歴史小説が対象)などの最終候補になり、第2作『暗殺のハムレット』は2008年の英国プロメテウス賞を受賞している。著者は英国生まれ、現在はカナダのケベック州に在住。9.11(2001年)に衝撃を受け、イラク進攻(2003年)をきっかけに『英雄たちの朝』を書き上げたという。大衆を煽るデマゴーグに怒りを感じたからだ。

『英雄たちの朝』:1949年、ドイツとの戦争が講和で終わってから8年が経過していた。ロンドン近郊のハンプシャーにファージングという地所があり、英国保守党の派閥の領袖たちが集うパーティが催されていた。そこで、次期首相とも目される有力議員が殺される。スコットランドヤードの警部補は容疑者を絞り込むが、貴族院議員、爵位を持つ上流階級のはざまで真相は歪められていく。

『暗殺のハムレット』:殺人事件から1か月後、ロンドン郊外で爆発事件が起こる。しかし、死亡したベテラン女優と爆発物がなぜ結びつくのか。折しもロンドンではヒトラーを迎え、独英首脳会談が開催されようとしている。厳戒体制の下、貴族出身の主人公は男女逆転の新趣向であるハムレットのヒロインに抜擢される。

『バッキンガムの光芒』:1960年、英国がファシズム国家になって10年が過ぎた。警部補は英国版ゲシュタポの隊長となり、逮捕状なしで市民を拘束する密告・恐怖政治の先頭に立つ一方、裏でユダヤ人の国外脱出に手を貸していた。そんな混乱の中、彼が後見人となっている亡くなった部下の娘が、社交界デビューを果たそうとしていた。

 英米文化といっても、日本人の多くは単純なハリウッド映画に映る文化を知っているだけだろう。英国のような、多くの矛盾を抱えた階級社会の深層は分かっていない。本書は、改変歴史ものであると同時に、差別の色濃い旧い英国社会を描き出している。

 1巻目はユダヤ人と結婚した貴族の娘、2巻目は名家(実在した、ミットフォード姉妹がモデル)からスピンアウトした女優、3巻目は、エリザベス女王謁見まで果たした庶民階級の娘が、それぞれの視点で社会について語っている。

 ここでのポイントは、階級やユダヤ蔑視を公然と口にする登場人物が、日常生活では普通の人間という違和感だろう。ヒトラーでさえ怪物ではない。その当たり前の人間がファシズムを肯定し、強制収容所を作るのである。物語はI巻、II巻と緊密度を上げて、ただIII巻目は予定調和的に終わる。少しバランスの悪さを感じさせる結末かもしれない。

 ところで、本書の原題は英国コインの名称になっている。英国独特の12進数(ダース)単位の通貨だったファージング硬貨(4分の1ペニー、1960年廃止)、ハーフペニー硬貨(1970年にいったん廃止、同じ名称で再流通後84年で鍛造終了)、ハーフクラウン硬貨(1970年廃止)に対応する。それぞれ、地名(本書では派閥の名称でもある)、ハムレットが上演される劇場の一番安い座席、王室などバッキンガムの象徴と、2重の意味を持たせている点が面白い。

 2011年:アヴラム・デイヴィッドスン『エステルハージ博士の事件簿』河出書房新社
 翻訳されたデイヴィッドスンの短編集としては3作目となる。本書は主に1975年に発表された《架空の19世紀を描くエステルハージもの》8作品を集めたもので、1976年に世界幻想文学大賞(短編集部門)を受賞した著者の代表作でもある。2013年に亡くなった、ミステリ作家殊能将之が偏愛する作品でもあった。

「眠れる童女、ポリー・チャームズ」30年間眠り続け、見世物となっていた女の運命。「エルサレムの宝冠または、告げ口頭」帝国の権威の象徴、エルサレムの宝冠の行方を捜す博士の見たもの。「熊と暮らす老女」老女が匿う“熊”の正体と、その秘められた顛末とは。「神聖伏魔殿」複数の宗教が混在する三重帝国で、集会の許可を求めてきた“神聖伏魔殿”とは何者たちか。「イギリス人魔術師ジョージ・ペンバートン・スミス卿」霊との交信を可能とする力を持つというイギリスの魔術師。「真珠の擬母」安物故に取引が途絶えたある種の貝が、なぜ注目されるようになったのか。「人類の夢不老不死」不良品の指輪を売りつける男、しかしその材料は本物より高純度の金だった。「夢幻泡影その面差しは王に似て」ある日博士は、老王に似た男を貧民街でたびたび目撃する。

 主人公エステルハージ博士(名前自体は中欧に実在する。たとえばハンガリーの貴族エステルハージ家)は、7つの学位を有し、スキタイ=パンノニア=トランスバルカニア三重帝国の由緒ある伯爵家に産まれながら、在野の学者として名を知られている。

 19世紀末、蒸気自動車(当初、ヨーロッパではガソリン車より蒸気自動車が優勢だった)が普及しようとしてはいたが、帝国の随所には中世やイスラム時代の文化が色濃く残っている。そこで巻き起こる事件は、神秘的/怪奇的というより、(現在の我々から見れば)異質の事件といって良い。まさに「異文化」との遭遇に近い体験だ。

 本書はそういう意味で、いわゆるミステリでもなく、多くのファンタジイとも違う。トールキンでも、その物語の中に現実とのアナロジイは残していたのだが、本書に中欧オーストリア・ハンガリー二重帝国との類似点があるかといえば、おそらくほとんどないだろう。ストレンジ・フィクションとか、奇想コレクションとかの名称は、まさにデイヴィッドスンにこそ相応しい。

 2012年:小田雅久仁『本にだって雄と雌があります』新潮社
 この年は円城塔が芥川賞を獲り、伊藤計劃との合作『屍者の帝国』を出した。野尻泡介の短篇集が売れ、高野史緒の江戸川乱歩賞も話題になった。第33回日本SF大賞の宮内悠介『盤上の夜』も出ている。そんな中で、本書は2009年に第21回日本ファンタジーノベル大賞を受賞した小田雅久仁による長編第2作となる。前作のやや重いトーンから一転して、本書は非常に軽快な小説だ。祖父から語り手である孫、さらにその子までの4代にわたる奇妙な伝記を、わずか700枚余りで描き上げている。

 語り手の祖父は、博識ではあるが軽薄で饒舌、大衆からも人気がありマスコミ受けする学者だった。しかし祖父には旧家に溢れる22万冊の蔵書があり、しかも詰め込まれた本たちは自ら増殖し、それらは羽を生やして、どこかに逃げ去ろうとするのだ。空飛ぶ本の正体は一体何なのか。彼らの目指す目的地はどこなのか。

 本書で書かれた真相とは少し違うが、ジョン・スラデックの短編、読まれなくなった本が飛び去ってしまう「教育用書籍の渡りに関する報告書」を思い起こさせる。大量に蓄積された本は、単なる紙束ではなくなり、独特の生命/目的を得るようになるのだ。

 そんな奇想をベースに、本書では祖父を取り巻くユニークな人物たち、売れない探偵小説家だった曾祖父、祖母は識字に難のある天才画家、祖父のライバルコレクター資産家の御曹司、冴えない政治家の伯父、放浪のシンガーである叔父等々が続々と登場する。これだけ多彩な登場人物が詰め込まれた割に、この分量でも物足りなさは感じさせないのは、優れた文章力の賜物だろう。

 さて、本書には重大な結論が書かれている。
 ――人は死んだら本になる、いや、そもそも、人の一生は「本」なのである。

(シミルボンに2016年8月13日~15日掲載)

 小田雅久仁はこの次に長編『残月記』を書き、第43回吉川英治文学新人賞、第43回日本SF大賞を受賞。『本にだって雄と雌があります』に連なる作品としては、高野史緒「本の泉 泉の本」があり、評者も「匣」を書きました。ご参考に。

言葉の綾とり師 円城塔

 今回のシミルボン転載記事は円城塔を紹介したコラムです。2007年デビュー、5年後に芥川賞を受賞、その一方毎年のように年刊SF傑作選(大森望選)に選ばれるなど、どちらから見てもエッジに立つという特徴を持つ作家です。これは、その初期作を紹介したもの。以下本文。

 1972年生。デビュー作『Self-Reference ENGINE』は、締切の関係で第7回小松左京賞に応募、最終候補となるも伊藤計劃『虐殺器官』とともに落選する。結局、早川書房のSF叢書《Jコレクション》から2007年に出るのだが、出版にいたる合間に書かれた短編「オブ・ザ・ベースボール」で第104回文學界新人賞を受賞。また2010年「烏有比譚」で第32回野間文芸新人賞を受賞、2012年「道化師の蝶」で第146回芥川賞、2014年『屍者の帝国』では第33回日本SF大賞・特別賞を受賞する。純文学の賞とSFとが混淆する。しかし、どれもポテンシャルなしで受賞できるほど甘い賞ではない。それくらい、円城塔の作風は文学とSFの境界にあるということなのだ。

カバー:名久井直子

 『Self-Reference ENGINE』は、プロローグとエピローグに挟まれた18の短編から構成されている。未来から撃たれた女の子、蔵の奥に潜むからくり箱、世界有数の数学者26人が同時に発見した2項定理、あらゆるものが複製される世界、究極の演算速度を得た巨大知性体、謎に満ちた鯰文書の消失、無限の過去改変が可能な世界での戦争、祖母の家に埋められた20体のフロイト、宇宙を正そうとする巨大知性体たちの戦争、巨大知性体を遥かにしのぐ超越知性体の出現、過去改変は妄想だと主張する精神医、誰にも解明できない謎の日本語、知性体を飛躍させるために考えられた喜劇知性体、知性体を崩壊させた理論の存在、祖父との時空的問答を楽しむ孫娘、巨大知性体が滅びた顛末、海辺に佇む金属体エコー、超越知性体を動かし巨大知性体を滅ぼした要因。

 本書はSelf-Reference ENGINE(自己参照機械)=ある種の人工知能によって語られた物語ということになっている。フレデリック・ポール『マン・プラス』(1976)もそうだが、直接思い出すのはやはりレム「GOLEM XIV」(1981)になるだろう。ただし、法螺話風の語り口はカルヴィーノ『レ・コスミコミケ』(1965)を思わせるし、幻想の質はボルヘスかもしれない。そういった各種要素がハイブリッドされた内容は、この後の円城塔の活動を象徴するものともいえる。

 芥川賞を受賞した「道化師の蝶」を紹介しよう。この作品は、選考委員の石原慎太郎から「言葉の綾とりみたいな」わけの分からない作品だと強く反対されたが、川上弘美、島田雅彦らの熱心な支持を受けて受賞した(ちなみに石原慎太郎は、この回を最後に選考委員を辞する)。本作は物語の流れを自在に操るアクロバットのような作品で、筋を追うだけの読み方では、行方を見失う読者も出てくるだろう。こんな話だ。

 東京シアトル間を飛ぶ航空機の中で、永遠に旅を続けるエイブラムス氏と出会う。エイブラムス氏に、旅の間しか読めない本の話をすると、氏は蝶の姿を持つ“着想”を捕まえる網を見せてくれる。それは、この世のものではない道化師の模様を持つ蝶だ。この後5章にわたって、物語は順次視点を変えて描かれる。ある章は友幸友幸という作家が、無活用ラテン語で書いた小説だったとされ、友幸友幸は二十の語族の言語で小説を書いた人物とあり、その翻訳者は、故人となったエイブラムス氏の財団から依頼を受けて友幸友幸を追跡している。しかし、レポートを受け取る財団の網/手芸品の解読者こそが、もしかすると友幸友幸かもしれず、解読者が作った網こそ、最初にエイブラムス氏が見せてくれたものかもしれない。最後に物語の時間順序は逆転し、冒頭のシーンにつながっている。

 二転三転する性別、時間軸も一直線ではなく、事実と嘘との境界も曖昧だ。10人中2人が絶賛し、3人は分からないと怒り、5人は寝てしまう難解な小説と言われた。これは公式な選評ではなく冗談なのだが、選考委員黒井千次も、最後まで読み切れなかったと告白している。そのため、発表当時から作品の解釈や、ナボコフとの関連性を論じた解説記事などがよく読まれた。ただし、著者自身がそういった詳細な読み解きを奨めるわけではない。

カバー:朝倉めぐみ

 「道化師の蝶」が収められた同題の短編集には、もう一編「松の枝の記」が収録されている。お互いの小説を翻案しあった異国の2人の作家が、10年目に邂逅を果たすお話だ。自分の小説を翻訳してからまた自国語に訳し直すという、まさにナボコフを思わせる迷宮感がある。純然たるフィクションと思っていたのだが、作中作が円城塔訳チャールズ・ユウ『SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと』(2010)として2014年に出版されると、まるで著者の書くフィクションによって現実が侵食されたような不条理感を覚える。

 最後に『プロローグ』を紹介する。〈文學界〉に連載された長編で、2015年11月に単行本が出たもの。同時並行して〈SFマガジン〉に連載され、10月に書籍化された『エピローグ』と対を成す作品である。同じ話を純文学とSFで書いたが、『プロローグ』は期せずして『エピローグ』をメイキングする私小説(リアルな著者が訪れた地名と関係する描写がある)となったのだという。この発言を含む、本書をテーマとした大森望との対談は『プロローグ』刊行記念対談 円城塔×大森望「文学とSFの狭間で」として電子書籍化されている。ワンペアの両作を読み解く鍵にもなるだろう。

カバー:シライシユウコ

 まず言葉を同定する、日本語だ。次に文字セットの漢字を「千字文」から決め、スクリプトをRubyに、人物の姓名を「新撰姓氏録」から決める。次に設定を決め十三氏族が登場する。21ある勅撰和歌集を分解し、舞台を河南と設定し、小説の分散管理を構想する。次に和歌集を素材に語句のベクトルを統計分析し、世界が許容する人の容量を決める。最後には、全ての章に使用された漢字と語句の統計分析を行う。

 版元の紹介文とはだいぶ異なるが、使用されるツールを並べていくと上記のようになる(これで全てではない)。小説を機械で自動生成するという試みは、過去から現在までいくつもある。残念ながら成果は途上で、文学のシミュラクラ(本物そっくり)レベルにはまだ届かない。その一方、小説を統計的に読み解いて、新しい解釈を加える論考も存在する。本書は計算機の書いた小説ではない。逆に、さまざまなツールを駆使して、ある程度自動的に小説を書こうとする試みだ。ツールの吐き出す定量的なデータの中には、とても興味深いものがある。あいまいさがない分、本質的な何かが分かったような気になれる。ただし、それが何かかは定かではないが。

カバー:シライシユウコ

 文藝評論家のレビューでは、ツールの面白さがほとんど触れられていない。データ解析をするための道具=ソフトを使って「創作する」行為自体が、実感し難いのだろう。実際にソフトを書く=コーディングしているのがポイントで、実践を伴うことでリアリティが増すのである。論文ではないから考察がない。考察の代わりに物語が置かれている。確かに、実在する自動出力装置を使った私小説といえる。石原慎太郎は「言葉の綾とり」を批判的な文脈で用いたが、実際、円城塔は言葉の綾とりを試みているのかもしれない。そこには、誰一人見たことのない新しい形象が姿を現しているのだ。

(シミルボンに2017年2月12日掲載)

 このあと、円城塔はますます言葉に拘泥していきます。その代表作が『文字渦』(2018)で第39回日本SF大賞、第43回川端康成文学賞を受賞、さらにはラフカディオ・ハーン『怪談』を翻訳文体で新訳するなど(平井呈一らの既訳は日本の民話風に寄せている)その行方が見えません。一方『ゴジラS.P』(脚本+ノベライズ)なども手がけています。これも(アニメも小説も)、庵野秀明でもやらない言葉の洪水が印象的でした。

死後8年、なおインパクトを残す作家 伊藤計劃

 シミルボン転載コラム、今回は比較的新しい作家を取り上げます。1930年前後生まれを第1世代とすると、伊藤計劃は第5世代になりますね。ただ、残念なことに34歳の若さで亡くなりました。下記の記事は、コラムと『屍者の帝国』レビューを併せたものです。以下本文。

 1974年生。2007年に長編『虐殺器官』でデビュー、2008年には小島秀夫によるゲームのノヴェライズである『メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット』及び『ハーモニー』を出版、翌2009年34歳で亡くなる。プロとしての活動期間はわずか2年あまり、生前に出した単行本は3作のみである。しかし、夭折の作家、闘病生活の傍ら書かれた作品、現代を映し出す特異なデビュー作、没後の星雲賞、日本SF大賞やフィリップ・K・ディック賞特別賞受賞(『ハーモニー』)など、そのインパクトは同世代作家や若手をまきこみ広範囲に及んだ。死後8年が経た今でも、余波は“伊藤計劃以後”と称され残っている。

カバー:水戸部功

 『虐殺器官』はこんな話だ。世界中でテロが蔓延している。第3世界に巻き起こった大量虐殺の連鎖は、とどまるところを知らず拡大を続けている。主人公は米国情報軍の特殊部隊に所属する。彼の任務は、虐殺行為の首謀者/各国の要人を暗殺することだ。しかし、その途上で奇妙な人物が浮かび上がる。要人の傍らには必ず一人の米国人が控えている。無害なポジションにあるように見えて、その男は複数回の襲撃を逃れ、常に紛争国に姿を現すのだ。

 この作品は第7回小松左京賞(受賞作なしで終わった)の最終候補作になった。「9.11をリニアに敷衍した悪夢の近未来社会」であり、小松左京の理念とは異なるという理由から受賞は逃したのだが、本書の完成度は内容や文章ともに初応募作とは思えないほど高かった。圧倒的な火力と情報力で、幼少兵からなる途上国の軍隊を蹂躙して任務を遂行する米兵は、まさに今の対テロ戦争そのもの。その上“虐殺器官”というネタ=表題になっていながら、読者を飽かさずに読ませるリーダビリティ、しかも曖昧な結末ではなく、SFとして納得できる解決が書かれている。

イラスト:redjuice

 『ハーモニー』は『虐殺器官』の未来を描いた続編ともいえる作品。ただし、硬質な文体で暗いテロの前線を描いた前作から一転して、本書の舞台は「福祉社会」である。

 2075年、大災禍と呼ばれる大規模な核テロの時代を経て、世界は高度な生命至上主義社会へと変貌している。国家は複数の「生府」から成り、ナノテク Watch Meにより傷病や不健康なものを一切排除していた。主人公は、未開地域で活動する世界保健機構の査察官である。だが、ある日、世界同時多発の自殺が発生、健康社会の基盤を揺るがす騒乱へとつながっていく。それは、13年前にシステムを出し抜いて自殺を図った少女たちの事件と似ていた。主人公は事件の生き残りなのだった。

 物語の最後は、ある意味グレッグ・イーガンが追及したものと似ている(このアイデア自体は、別の作家も使っている)。〈SFマガジン2009年2月号〉の著者インタビューでは、よりサイエンス寄りのイーガンに比べて、社会的インパクトに対する興味が強かったことが語られている。本書では、誰もが死なない理想社会と、肉体を改変することによる極度な均一社会の矛盾が、明快に描き出されている。もう一つのポイントは、主人公の感情が、そのまま文中にマークアップランゲージとして書き込まれていること。例えば、怒っているなど。これは、物語の結末と密接に関係する重要な伏線である。文体実験を試み、同時に仮想社会の真相をあぶり出した、きわめて野心的な作品といえるだろう。

装丁:川名潤

 伊藤計劃の著作では円城塔との合作『屍者の帝国』があるが、伊藤計劃が書いたのは冒頭のプロローグのみだ。ある種のトリビュート小説といえる。第31回日本SF大賞・特別賞、第44回星雲賞日本長編部門受賞作。

 そのプロローグは、死後〈SFマガジン2009年7月号〉に未完のまま掲載された。ここで出てくる“死者の帝国”という言葉は、前年の〈ユリイカ2008年7月号〉に掲載された、スピルバーグ映画評(『伊藤計劃記録』所収)に現れている。21世紀以降に作られたスピルバーグの映画には、彼岸から我々を支配する“死者の帝国”の存在が見えるのだという。

 19世紀末、大英帝国の医師ワトスンは諜報機関の密命を帯び、第2次アフガン戦争下の中央アジアに派遣される。この世界では、産業革命の担い手は屍者たちである。彼らは死後、無償の労働者/ある種の機械装置として働き、世界を変貌させている。またバベッジの開発した解析機関は、世界を同時通信網で結んでいる。やがてワトスンは、アフガンの奥地にある屍者の帝国の存在を知る。しかしそれは、世界を舞台とする事件の始まりに過ぎなかった。

 出てくるものすべてがフィクションに由来している。もちろん本書は小説だからフィクションなのだが、登場する物/者たちが過去のフィクションに関連しているのである。冒頭の《シャーロック・ホームズ》《007シリーズ》メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』、スチームパンク社会を鮮やかに描き出したスターリング&ギブスン『ディファレンス・エンジン』(あるいは山田正紀『エイダ』)、ドフトエフスキー『カラマーゾフの兄弟』キム・ニューマン『ドラキュラ紀元』など、無数の既作品からの引用に満ちている。伊藤計劃がプロローグで提示した暗号を解くというより、小説のなかで小説について書いた=自己言及(self-reference)したものといえる。つまり、謎をもう一段抽象化した深みへと引きずり込んだのだ。

 本書は3年間をかけて、伊藤計劃の着想を円城塔が長編化したものである。インタビュー記事を読むと、小松左京賞落選の同期で、厳密に言えば友人とまではいえない関係ながら、伊藤の構想を物語の枠組み(制約条件)に置き換え、何度もの中断を経てようやく書き上げられたとある。仕掛け的にはきわめて円城塔らしく、なおかつ波乱万丈のエンタメ小説になっている。完成までの間に伊藤計劃は国内外での評価が高まり、円城塔も芥川賞作家を得て広く名を知られるようになった。その変転も本書の中に反映されている。

カバー:水戸部功

 派生作品集として、同年代作家、若手作家による『伊藤計劃トリビュート』『伊藤計劃トリビュート2』が多彩な顔ぶれで楽しめる。それ以外にも、雑誌、同人誌、ウェブサイトなどから短編やエッセイを集めた『伊藤計劃記録』(2010)『伊藤計劃記録 第弐位相』(2011)がある。これは文庫化にあたり再編集され、短編集『The Indifference Engine』(2012)『伊藤計劃記録I』『同 Ⅱ』(2015)の3分冊になった。また、ホームページなどに載せていた映画関係の、短いながら切れ味の鋭いコメントを集めた『Running Pictures―伊藤計劃映画時評集1』『Cinematrix: 伊藤計劃映画時評集2』(2013)も出ている。

 なお映像関係では、一時製作がストップしていた村瀬修功監督『虐殺器官』が2017年2月にようやく公開された。それに併せ、2015年12月公開のなかむらたかし/マイケル・アリアス監督『ハーモニー』と、2015年10月公開の牧原亮太郎監督『屍者の帝国』が、それぞれ深夜枠でテレビ放映されている。

 この映画公開とコラボする形で、いくつかの書店で『虐殺器官』オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』ジョージ・オーウェル『動物農場』『一九八四年』を並べるディストピア小説フェアが行われたのだが、まるで呼応するかのように世界情勢は不穏さを増してきた。伊藤計劃の夢想した冥い世界は、衰えることなくいまでも拡大を続けているようだ。

(シミルボンに2017年2月9日/11日掲載)

 「伊藤計劃後」の世界はこの後しばらく続きましたが、小川哲『ゲームの王国』の登場により終わったとされます(もともとの提唱者である早川書房塩澤部長の見解ですが)。しかし、その後も世界の状況がますます伊藤計劃的になりつつあるのは、皆さんもご承知のとおりでしょう。

スラプスティックSFから最先端文学へ 筒井康隆

 シミルボン転載コラム、今回は眉村卓と同世代の筒井康隆です。著名人でもあり、経歴を中心とした詳細なものはあるものの、何に重点を置くかで観点は変わってきます。ここでは主に作品の流れについての概要を記しています。以下本文。

 1934年生。中学校時代には学校に行かず、映画やマンガに熱中した。そのあたりは自伝『不良少年の映画史』(1979-81)などに詳しい。同志社大学卒業後、主催した〈NULL〉は〈宇宙塵〉がタイプ印刷だった時代に活版で印刷され、(当初)家族のみで作られた同人誌だと評判になった。そこに載せたショートショートが、江戸川乱歩編集の〈宝石1960年8月号〉に転載されデビューする。

 初短編集『東海道戦争』(1965)、続く『ベトナム観光公社』(1967)『アフリカの爆騨』(1968)、ショートショート集『にぎやかな未来』(1968)など最初期の作品には、シュールさと猥雑さの同居、際限のないエスカレーション、時代風俗や流行の織り込みといった特徴がある。当時の筒井康隆は、若いファンにとってカルトヒーローだった(始まったばかりの星雲賞を、第1回からほぼ毎年受賞していた)。この人気は、1960年代後半から70年代にかけて、著者が多数の作品を一般小説誌に発表していく過程で形成されたものだ。

 初長編『48億の妄想』(1965)は、カメラがすべての有名人に設置された未来、人々がカメラを意識した演技をするため、何が本当で何が嘘なのかわからなくなった社会を描いている。もともとのカメラはTVカメラだが、これを監視カメラやスマホのカメラに置き換えても十分成り立つだろう。嘘が現実を変える今の社会を予見しているのだ。

イラスト:貞本義行

 光瀬龍や眉村卓と同様、筒井康隆はこの時期にジュヴナイルを書いた。ラベンダーの香りで時をさかのぼる、『時をかける少女』(1967)は、TVドラマ・映画・アニメなど8回の映像化がされた代表作だ。これ以外にも『緑魔の町』(1970)『三丁目が戦争です』(1971)、入門書である『SF教室』(1971)などがある。

 『家族八景』(1972)『七瀬ふたたび』(1975)『エディプスの恋人』(1977)はテレパス火田七瀬の登場する3部作である。特に第3部では、超能力をタイポグラフィック(文字の組み方)で表現するなど新しい試みを取り入れている。最初の作品では、家政婦七瀬が家庭内の闇を見てしまい、次作では別の超能力者との出会いから危機が迫り、最終巻では奇妙な能力を持つ少年と遭遇する。著者はこれ以降シリーズものは書いていないが、超能力もののバリエーションとして、夢に潜入できる能力者が登場する『パプリカ』(1993)を書いている。これらはTVドラマやアニメになった。

 1970年代後半より後、筒井康隆の活動の舞台は純文学でのより実験的な作品群へと移っていく。第9回泉鏡花文学賞を獲った『虚人たち』(1981)では、登場人物が虚構(小説)内にいると知って行動する。高度成長がなかったかわりに映画の全盛期が続く、もう一つの昭和を描いたユートピア小説『美藝公』(1981)や、人類史のカリカチュアでもある知的なイタチが住む惑星と、生きている文具とが戦う『虚航船団』(1984)などは、どれも単純な筋書きで成り立つお話ではない。物語構造や設定を含めた仕掛けの精緻さに驚かされる。

 短編集『エロチック街道』(1981)の表題作は、どことも知れぬ田舎町で、裸の美女に導かれるまま温泉に迷い込む作品。映画化もされた「ジャズ大名」は、江戸時代に地方の城主がジャムセッションを開くお話だ。「遠い座敷」では、どこまでも無限に続く畳部屋を通り抜けていく。「遍在」は改行のない高密度の文体で書かれている。『串刺し教授』(1985)は、『虚構船団』の前後に書かれた、短編17編を収録。お互いかみ合わない会話、夢の風景、現実と虚構との混交などを描く作品が中心だ。

 第23回谷崎潤一郎賞受賞作の『夢の木坂分岐点』(1987)では、主人公がやくざの夢を見るシーンから始まる。覚醒すると、彼はプラスチック製造会社の課長である。ただ、この現実は、小説の進行とともに、微細に変質していく。名前が変わり、社名が変わり、地位が変わり、年令が変わる。舞台は、会社でのサイコドラマから、夢の屋敷 (どこまでも長い廊下が延び、閉じられた襖が連なる)に、夢の下町(老いた運転手の操る路面電車が、軒先を掠める)に、夢の木坂へと連なっていく。途中から、この小説には覚醒はなくなる。どこまでも落ちていく、奈落だけがある。ここに描かれるのは、無数に多重化された夢である。

 『薬菜飯店』(1988)神戸のとある路地裏に、薬菜飯店がある。薬菜とは、文字通り薬になる料理のこと。食べればたちまち体の毒素が溢れ、肺、内臓、血液から、とめどなく流れ出す。夢こそが現実、虚構こそが真実という著者のテーマが語られた「法子雲界」、第16回川端康成文学賞を得た「ヨッパ谷への下降」、サラダ記念日の一首一首を精密にパロディ化した「カラダ記念日」、スプラッタ小説「イチゴの日」「偽魔王」、また、正統派SFスタイルで書かれた「秒読み」など、この時期を代表する多様な作品を収めている。

 第12回日本SF大賞受賞作『朝のガスパール』(1992)は朝日新聞の連載小説で、当時普及しつつあったパソコン通信「電脳筒井線」を用いて、リアルタイムに読者の意見を吸収しながら物語を進めるという斬新な試みだった(お話自体でも、コンピュータゲームと現実との壁がなくなる)。ジャズのセッションのように、物語を読者と共作しようとしたものだ。そこで起こるトラブル(誹謗中傷事件など)が、逆に物語を形成する要素となっていた。記録は『電脳筒井線(全3巻)』(1992)にまとめられている。

 筒井康隆は、1993年に表現の自由をめぐり断筆を宣言、以降、和解と出版契約が整う1996年までが空白期間となる。これは今でもたびたび起こる、小説で差別表現がどこまで認められるか、という議論に対する一つの考え方になるだろう。

 第51回読売文学賞受賞作『わたしのグランパ』(1999)中学生の少女のもとに、かつて殺人事件を犯して刑務所に入れられていた祖父が帰ってくる。彼女の周りにはさまざまな波紋が広がる。祖父は飄々としてその全てを解決していき、やがて無くてはならないおじいちゃん(グランパ)となっていく。物語の長さは中篇、ここで思い出すのは「わが良き狼」(1969)である。流れ者の賞金稼ぎがふと帰ってきた故郷の町で、老いた友や敵たちと再会する物語だが、本書はちょうどその逆の位置関係にある。グランパは、還ってきた老ヒーローなのであり、敵は誰もが若い。その若さに対して、グランパは対抗するのではなく、自身の死に場所を求めるように、ただ冷静に相対していくのである。後に、菅原文太主演で映画化されている。

 筒井康隆は、2002年に文化勲章の紫綬褒章を、2010年に菊池寛賞を受賞する。だが、それで執筆を止めたわけではない。72歳で長編『銀齢の果て』(2006)を書く。高齢化社会の究極の解決法として、老人相互処刑制度(シルバー・バトル)が設けられ、70歳以上の老人が各区域1人になるまで、老人だけの殺し合いが行われるお話だ。79歳で書いた『聖痕』(2013)は、著者20年ぶりの朝日新聞連載小説。主人公は5歳の時に、変質者により性器を切除される。この世のものとも思えない美少年だった彼は、性に対する欲望の一切から解放され、やがて味覚の奥義に目覚めていく。81歳では、神自体がテーマである『モナドの領域』(2015)を書き、毎日芸術賞を受賞している。SF第1世代作家の中で、眉村卓とともに80歳を過ぎてなお執筆を続ける稀有な作家といえる。

(シミルボンに2017年3月6日掲載)

 この記事の2年半後に眉村卓さんは亡くなっています。筒井さんは今年になって日本芸術院会員となり、昨年末には最後の短編集とする『カーテンコール』を出すなど、活躍を続けています。