死後8年、なおインパクトを残す作家 伊藤計劃

 シミルボン転載コラム、今回は比較的新しい作家を取り上げます。1930年前後生まれを第1世代とすると、伊藤計劃は第5世代になりますね。ただ、残念なことに34歳の若さで亡くなりました。下記の記事は、コラムと『屍者の帝国』レビューを併せたものです。以下本文。

 1974年生。2007年に長編『虐殺器官』でデビュー、2008年には小島秀夫によるゲームのノヴェライズである『メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット』及び『ハーモニー』を出版、翌2009年34歳で亡くなる。プロとしての活動期間はわずか2年あまり、生前に出した単行本は3作のみである。しかし、夭折の作家、闘病生活の傍ら書かれた作品、現代を映し出す特異なデビュー作、没後の星雲賞、日本SF大賞やフィリップ・K・ディック賞特別賞受賞(『ハーモニー』)など、そのインパクトは同世代作家や若手をまきこみ広範囲に及んだ。死後8年が経た今でも、余波は“伊藤計劃以後”と称され残っている。

カバー:水戸部功

 『虐殺器官』はこんな話だ。世界中でテロが蔓延している。第3世界に巻き起こった大量虐殺の連鎖は、とどまるところを知らず拡大を続けている。主人公は米国情報軍の特殊部隊に所属する。彼の任務は、虐殺行為の首謀者/各国の要人を暗殺することだ。しかし、その途上で奇妙な人物が浮かび上がる。要人の傍らには必ず一人の米国人が控えている。無害なポジションにあるように見えて、その男は複数回の襲撃を逃れ、常に紛争国に姿を現すのだ。

 この作品は第7回小松左京賞(受賞作なしで終わった)の最終候補作になった。「9.11をリニアに敷衍した悪夢の近未来社会」であり、小松左京の理念とは異なるという理由から受賞は逃したのだが、本書の完成度は内容や文章ともに初応募作とは思えないほど高かった。圧倒的な火力と情報力で、幼少兵からなる途上国の軍隊を蹂躙して任務を遂行する米兵は、まさに今の対テロ戦争そのもの。その上“虐殺器官”というネタ=表題になっていながら、読者を飽かさずに読ませるリーダビリティ、しかも曖昧な結末ではなく、SFとして納得できる解決が書かれている。

イラスト:redjuice

 『ハーモニー』は『虐殺器官』の未来を描いた続編ともいえる作品。ただし、硬質な文体で暗いテロの前線を描いた前作から一転して、本書の舞台は「福祉社会」である。

 2075年、大災禍と呼ばれる大規模な核テロの時代を経て、世界は高度な生命至上主義社会へと変貌している。国家は複数の「生府」から成り、ナノテク Watch Meにより傷病や不健康なものを一切排除していた。主人公は、未開地域で活動する世界保健機構の査察官である。だが、ある日、世界同時多発の自殺が発生、健康社会の基盤を揺るがす騒乱へとつながっていく。それは、13年前にシステムを出し抜いて自殺を図った少女たちの事件と似ていた。主人公は事件の生き残りなのだった。

 物語の最後は、ある意味グレッグ・イーガンが追及したものと似ている(このアイデア自体は、別の作家も使っている)。〈SFマガジン2009年2月号〉の著者インタビューでは、よりサイエンス寄りのイーガンに比べて、社会的インパクトに対する興味が強かったことが語られている。本書では、誰もが死なない理想社会と、肉体を改変することによる極度な均一社会の矛盾が、明快に描き出されている。もう一つのポイントは、主人公の感情が、そのまま文中にマークアップランゲージとして書き込まれていること。例えば、怒っているなど。これは、物語の結末と密接に関係する重要な伏線である。文体実験を試み、同時に仮想社会の真相をあぶり出した、きわめて野心的な作品といえるだろう。

装丁:川名潤

 伊藤計劃の著作では円城塔との合作『屍者の帝国』があるが、伊藤計劃が書いたのは冒頭のプロローグのみだ。ある種のトリビュート小説といえる。第31回日本SF大賞・特別賞、第44回星雲賞日本長編部門受賞作。

 そのプロローグは、死後〈SFマガジン2009年7月号〉に未完のまま掲載された。ここで出てくる“死者の帝国”という言葉は、前年の〈ユリイカ2008年7月号〉に掲載された、スピルバーグ映画評(『伊藤計劃記録』所収)に現れている。21世紀以降に作られたスピルバーグの映画には、彼岸から我々を支配する“死者の帝国”の存在が見えるのだという。

 19世紀末、大英帝国の医師ワトスンは諜報機関の密命を帯び、第2次アフガン戦争下の中央アジアに派遣される。この世界では、産業革命の担い手は屍者たちである。彼らは死後、無償の労働者/ある種の機械装置として働き、世界を変貌させている。またバベッジの開発した解析機関は、世界を同時通信網で結んでいる。やがてワトスンは、アフガンの奥地にある屍者の帝国の存在を知る。しかしそれは、世界を舞台とする事件の始まりに過ぎなかった。

 出てくるものすべてがフィクションに由来している。もちろん本書は小説だからフィクションなのだが、登場する物/者たちが過去のフィクションに関連しているのである。冒頭の《シャーロック・ホームズ》《007シリーズ》メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』、スチームパンク社会を鮮やかに描き出したスターリング&ギブスン『ディファレンス・エンジン』(あるいは山田正紀『エイダ』)、ドフトエフスキー『カラマーゾフの兄弟』キム・ニューマン『ドラキュラ紀元』など、無数の既作品からの引用に満ちている。伊藤計劃がプロローグで提示した暗号を解くというより、小説のなかで小説について書いた=自己言及(self-reference)したものといえる。つまり、謎をもう一段抽象化した深みへと引きずり込んだのだ。

 本書は3年間をかけて、伊藤計劃の着想を円城塔が長編化したものである。インタビュー記事を読むと、小松左京賞落選の同期で、厳密に言えば友人とまではいえない関係ながら、伊藤の構想を物語の枠組み(制約条件)に置き換え、何度もの中断を経てようやく書き上げられたとある。仕掛け的にはきわめて円城塔らしく、なおかつ波乱万丈のエンタメ小説になっている。完成までの間に伊藤計劃は国内外での評価が高まり、円城塔も芥川賞作家を得て広く名を知られるようになった。その変転も本書の中に反映されている。

カバー:水戸部功

 派生作品集として、同年代作家、若手作家による『伊藤計劃トリビュート』『伊藤計劃トリビュート2』が多彩な顔ぶれで楽しめる。それ以外にも、雑誌、同人誌、ウェブサイトなどから短編やエッセイを集めた『伊藤計劃記録』(2010)『伊藤計劃記録 第弐位相』(2011)がある。これは文庫化にあたり再編集され、短編集『The Indifference Engine』(2012)『伊藤計劃記録I』『同 Ⅱ』(2015)の3分冊になった。また、ホームページなどに載せていた映画関係の、短いながら切れ味の鋭いコメントを集めた『Running Pictures―伊藤計劃映画時評集1』『Cinematrix: 伊藤計劃映画時評集2』(2013)も出ている。

 なお映像関係では、一時製作がストップしていた村瀬修功監督『虐殺器官』が2017年2月にようやく公開された。それに併せ、2015年12月公開のなかむらたかし/マイケル・アリアス監督『ハーモニー』と、2015年10月公開の牧原亮太郎監督『屍者の帝国』が、それぞれ深夜枠でテレビ放映されている。

 この映画公開とコラボする形で、いくつかの書店で『虐殺器官』オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』ジョージ・オーウェル『動物農場』『一九八四年』を並べるディストピア小説フェアが行われたのだが、まるで呼応するかのように世界情勢は不穏さを増してきた。伊藤計劃の夢想した冥い世界は、衰えることなくいまでも拡大を続けているようだ。

(シミルボンに2017年2月9日/11日掲載)

 「伊藤計劃後」の世界はこの後しばらく続きましたが、小川哲『ゲームの王国』の登場により終わったとされます(もともとの提唱者である早川書房塩澤部長の見解ですが)。しかし、その後も世界の状況がますます伊藤計劃的になりつつあるのは、皆さんもご承知のとおりでしょう。

ジリアン・マカリスター『ロング・プレイス、ロング・タイム』小学館

Wrong Place Wrong Time,2022(梅津かおり訳)

カバーイラスト:最上さちこ
カバーデザイン:大野リサ

 著者は1985年生まれの英国作家。本書はリース・ウィザースプーンによるブッククラブに選ばれたことでベストセラーとなった話題の本である。家族を主役にしたファミリー・サスペンスドラマだが、タイムループ的な設定が重要な役割を果たす。表題の「ロング」はlongではなくwrong、運悪く(悪いことに)巻き込まれるの意だが、それと主人公の気まぐれなタイムスリップ現象を掛けているようだ。

 主人公は亡くなった父親の事務所を引き継いだ離婚専門の弁護士、夫は寡黙な自営内装業者で、高校卒業間際の一人息子がいる。ところが、深夜に帰宅した息子は、自宅の前で誰かともみ合いになり相手を刺し殺してしまう。何があったのか。凶器のナイフは息子の持ち物か、殺された男は何者か。主人公にはどちらも全く思い至らない。

 そこから、家族の隠された秘密が明らかになっていく。本のプロモーション文の範囲で書くが、事件の翌日から(一日が終わるたびに)主人公は過去に遡っていく。しかも、最近の映画(2分という極端なものまで)や小説(例えばこれ)に描かれた一定時間のループではなく、その起点が過去に数日、数週間とずれていくのだ。つまり、タイムループというよりタイムスリップなのである。詳細は読んでいただくとして、なるほど時間ものは犯行の原因・動機を探る倒叙型ミステリのプロットと相性が良い。サスペンスを高める効果も十分にある。

 過去に戻ることで、主人公は自身の生き方に疑問を抱くようになる。事務所を切り回すため、あまり家庭を顧みなかったからだ。最愛の家族だと思っていたのだが、息子にどんな友人関係があるのか、そもそも夫が何をしてきたのか(本人が話さないとはいえ)どんな出自なのかも知らない。時を隔て(自身が若かったころの)はるかな過去に隠された真相とは。

 ところで、本書には主人公とは別にもう一人の主役がいる。そのエピソードの時間が、どう本編に関わってくるのかが物語の読みどころだろう。

虚無の先に人間を見た作家 光瀬龍

 今回もシミルボン(#シミルボン)作家紹介コラムから。作家は亡くなってしまうと、一部の例外を除けば、本の入手が難しくなってしまいます。その点光瀬龍は初期作の電子化が進んでいるので、まだ読むことが可能でしょう。以下本文。

 光瀬龍は1928年生、1999年71歳で亡くなった。年齢で言えば、大正生まれの星新一・矢野徹・柴野拓美らと、1931年以降の小松左京・筒井康隆・眉村卓らとの中間になるが、そこまでを含めて日本の現代SF第1世代とされる。第2次大戦を挟んだ時代に青春、子ども時代を生きた経験はほぼ共通するし、同人誌〈宇宙塵〉(1957年創刊)や〈SFマガジン〉(1959年12月創刊)との出会いも同じ時期になる。

装丁・デザイン:中村高之

 大橋博之編『光瀬龍SF作家の曳航』(2009)によると、少年時代の光瀬の記憶は、東京空襲に始まる。東京に生まれ、私立中学に通う光瀬は、突発的な空襲で級友が亡くなって行くという理不尽な体験をする。やがて焼夷弾による大空襲後に岩手県(母親の実家)に疎開。終戦を経て3年後に東京に帰り、大学の入退学を繰り返した後、旧制最後の高校生活を送る。その後、東京教育大学(現筑波大)で生物、哲学を学び、女子高の教師となる。狂騒的な昭和20年代(1946-1955)が終わり、このままの生活に疑問を感じはじめたころ、SFと出会うことになる。

 なぜ光瀬が“東洋的無常観”(王者であれ誰であれ、すべてのものは滅び去る運命を内在している)とする考え方で宇宙ものを書き始めたのか、なぜ『ロン先生の虫眼鏡』(1976)(後に〈少年チャンピオン〉でコミック化もされた)など生物の生態にフォーカスしたエッセイを書いたのか、時代物(後述)に興味を惹かれるのか、そういった背景は光瀬の経歴の中におぼろげではあるが見ることができる。

 デビューは1962年に書いた「晴れの海一九七九年」で、この年代を冠した宇宙ものが《宇宙年代記》と呼ばれる連作になる。『墓碑銘二〇〇七年』(1963)は、著者初の短編集である。表題作の主人公は宇宙探検隊員で、他に生存者がいない任務でも彼だけが生還するため、英雄なのか卑怯者なのかと疑惑を呼ぶ。気を許せるのはペットの砂トカゲのみ。しかし木星への探査の途上で、不可解な事故が発生しカリストへの不時着を余儀なくされる。過酷で逃れようのない運命と、それを受け入れ共存する主人公という構図は《年代記》ものに共通するテーマだ。

 宇宙ものの代表的長編に、初長編でもある『たそがれに還る』(1964)がある。39世紀の太陽系全土が舞台だ。主人公は、シベリア、金星、辺境星区、冥王星と各地域の異変を調査する中で、隠されたメッセージや遺構の存在を知る。やがて、1200万年前に起こった大異変の真相が明らかになる、そんな壮大なお話だ。青の魚座(存在しない星座名)など、独特のタームを駆使して悠久の時を描いたもので、著者の世界観を余すことなく伝えてくれる。

カバー:萩尾望都

 引き続き書かれた『百億の昼と千億の夜』(1967)では、さらにスケールが広がる。プラトンが滅びゆくアトランティスで見た光景に始まり、シッダールタ(仏陀)、ナザレのイエス(キリスト)、阿修羅王という象徴的な主人公たちが、未来のトーキョーや銀河を超えて絶対者と闘うという作品だ。今でも日本SFの代表作に数えられている。宇宙ものの虚無感と、著者の哲学や宗教に対する考え方とが結びついた比類のない傑作といえる。後に萩尾望都がコミック化している。

 宇宙ものを書くのと同時期に、光瀬龍はジュヴナイルSFを書いた。これは、もともと〈中一時代〉などの学年雑誌に掲載されたものが多い。少年が江戸時代にタイムスリップする『夕ばえ作戦』(1967)は、後にNHK少年ドラマシリーズでTVドラマ化され人気を呼んだ。他にも、学園ミステリー『明日への追跡』(1974)など10作あまりがある。

デザイン:岩剛重力+WONDER WORKZ。

 著者の死後にまとめられた『多聞寺討伐』(2009)は、短編集『多聞寺討伐』(1974)『歌麿さま参る』(1976)などから抜粋された時代SF短編の傑作選である。初期の宇宙SFを書いたあと、著者の興味は時代・歴史ものに移る。本書に収録された作品は、後年の本格的な時代小説とは異なり、SF味を色濃く残している点が特徴である。表題作「多聞寺討伐」は多聞寺周辺の村で、死体が自分の首を持って歩くという奇怪な事件が発生する顛末。「歌麿さま参る」は、東京の美術商に希少な刀剣や浮世絵が次々と持ち込まれるが、売り手の正体をさぐるうちに歌麿の正体が見えてくるお話。捕り物帳のSF的解釈というスタイルを創出したのは光瀬龍である。登場人物が生き生きと活躍するさまが印象に残る作品だ。

 SFと歴史をからめた長編には、徳川家光の時代に与力と隠密が暗闘する『寛永無明剣』(1969)、日露戦争を扱った『所は何処、水師営』(1983)や太平洋戦争で日本が優勢になった世界を描く『紐育(ニューヨーク)、宜候』(1984)などがある。どの作品も、歴史改変とタイムパトロールが絡む話になっている。

 この後、著者の興味は本格的な歴史小説に向かい、『平家物語』(1988)『宮本武蔵血戦録』(1992)、遺作となった『異本西遊記』(1999)などを書いている。虚無的な宇宙SFでスタートした関係で、作品に対する先入観を持たれてしまった光瀬だが、一方で人間に対する強い興味が背後にあることを見逃してはいけない。晩年の時代小説は、その雰囲気を良く伝えているといえるだろう。

(シミルボンに2017年3月1日掲載)

 このコラム掲載後に、評伝となる立川ゆかり『夢をのみ 日本SFの金字塔・光瀬龍』が出ています。著者の人となりを知るには好適でしょう。また2018年には初期の宇宙SF短篇を集めた日下三蔵編『日本SF傑作選5 光瀬龍 スペースマン/東キャナル文書』も。

スタニスワフ・レム『捜査・浴槽で発見された手記』国書刊行会

Śledztwo/Pamiętnik znaleziony w wannie,1959/1961(久山宏一/芝田文乃訳)

装訂:水戸部功

 新訳となったレムの2長編である。『捜査』は初訳が1978年(深見弾訳)、『浴槽で発見された手記』は1980年(深見弾訳、邦題『浴槽で発見された日記』)/1983年(村手義治訳)以来なので、ほぼ半世紀を経たことになる。当時も、解釈を巡ってさまざまな議論を巻き起こした。どちらかといえば「なぜレムがこれを書いたのか不明」とする戸惑いが多かったように思う。今回はポーランド語専門家による翻訳(過去はロシア語を主とする翻訳者)で、新たに読み取れるものも多いだろう。

捜査:ロンドン周辺の遺体安置所で奇妙な事件が起こる。一晩のうちに遺体が動いているというのだ。うつ伏せになっていたり、棺から出ていたり、さらに遺体消失が頻発するようになる。しかも、安置所の警備を担当していた巡査が、飛び出し事故で重傷を負うという事件までが発生する。

 主人公の警部補は事件を詳細に追っていく。ある科学者は特定のデータを地図にプロットすることで、統計的に次の事件を予測しようとする。警部補は科学者に疑いをかけ証拠を集めるが、かえって謎は深まる。一方、主任警部は曖昧な状況証拠を並べ、真犯人を決めつける。……あらかじめ書いておくと、この作品はミステリではないので「真犯人」は見つからない。

浴槽で発見された手記:まず「まえがき」がある。ロッキー山脈にあった3000年前の廃墟の浴室で手記が見つかった。大崩壊によりセルロースが失われ、電子化以前の文字はすべて失われたため、奇跡的な記録なのだ。しかし、その中に書かれていたのは……。

 評者は『浴槽で発見された手記』の1983年版に解説を寄せている。何しろ40年前のものなので最新の知見は盛り込まれていないが、当時の読み方を反映するものとして抜粋(一部修正)してみる。

 本書『浴槽で発見された手記』は、1961年に出版されています。レムは、その創作法から考えてとても多作になるとは思えない作家です。あるインタビューで、200ページの本を書くのに、4~5000ページ分のタイプを叩くのだ、といっているぐらいです。何度も推敲し書き直すからでしょう。それなのに、61年には3冊の長篇が出ています。レムの活力の顕れであると同時に、何か共通点があるんじゃないか、とも考えられます。

 その1冊目は、代表作でもある『ソラリスの陽のもとに』、2冊目が『星からの帰還』です。この2長篇は、生きている海を描いていたり、未来の地球を描いていたりするわけですが、 どちらも明白なストーリーを持っている作品です。ストーリー性の稀薄な本書とは、ずいぶん対照的でしょう。ただ、それでも、一連のレム作品の持つ特質が、三者に共通していることも、否めない点があります。

 例えば、謎の追求と解明という一点、『星からの帰還』の冒頭で繰り広げられる、あの異様な描写を思い出して下さい。はるかな未来に帰還した宇宙船の乗員たち。ウラシマ効果で、彼らの知っていた地球とは全く様相が変わっています。我々が現在の都会を見て、あれはビルだあれは自動車だと見分けられるのは、その存在が何かを教えられ認識しているからです。もし、 隔絶した未来に突然投げ出されでもしたら、どんな形のものがあるのか、どう動いているのかさえ理解できないでしょう。そして、市民感情すら昔と違っているとしたら……。帰還した宇宙飛行士たちが捜し出す『謎』とは、人々を駆り立てたはずの情熱、消え去ってしまった宇宙 への夢の追求でもあったのです。一体、自分たちは何のために存在するのか――その問いかけは、本書の中にも窺えます。

 『ソラリス――』に至ると、その謎は海の姿をとってあらわれます。科学的な正体の究明(ソラリス学)と、人間の精神を写し出す鏡としての存在の二点から海の謎は追求されていきます。しかし、無数のアプローチが示されながら、その実、一つの真実も浮かび上がってきませ ん。答えがない、つまり本書と同じ迷路の世界が広がっているのです。

 『浴槽――』には、一貫したストーリーがありません。ところがこの手記が 、紙のあった時代から残された貴重な文献である云々という、奇妙な「まえがき」が付けられています。「まえがき」はそこだけ読むと、以下の本編がまるで風刺SFであるかのように感じさせます。しかし、本文はどう考えても、「まえがき」の雰囲気と乖離した印象を残します。本文では、およそ風刺を超越したグロテスクな世界が描かれています。

 指令書を捜しに出かけた主人公は、総司令官から秘密指令を受けます。ところが、その任務の内容がまず分かりません。主人公は、必死で中味を探ろうとします。探索の途上には、棺の安置された礼拝堂があり、暗号解読室があり、埃にまみれた図書室があります。提督の部屋も、 病棟もあります。しかし、何も解明されません。どこにでもスパイが潜んでいるようです。あらゆる文書が、暗号で書かれているようです。シェークスピアの小説さえ実は暗号だった? これだけ雑多なさまざまなレベルの「謎」を提示したものは、他の多くのレムの作品を通してみても本書しかありません。一冊の本全てが、暗号で書かれているかのようです。

 レムはいわゆる「象徴」や「暗喻」を嫌います。嫌うとまで書くと、断定のしすぎになるのかもしれません。ただ、ロブ=グリエやジョイスらを評価しながらも、それらの手法は、自分とは別の立場にあるものだと述べているのです。アメリカの研究家フェイダーマンが、あるインタビューの中で「完全な真空』(1971)を取り上げ、架空の本の書評集はヌーヴォーロマン的な手法ではないか、と問いかけますがレムは明確に答えません。ファウンデーシ ョン誌のインタビューでも、『砂漠の惑星』(1964)のラスト近くにある、人間の形をした影がサイバネティクスの虫たちの雲に浮かぶシーンを指して、あれは何を象徴するのかという質問に、単なるブロッケン現象で意味はないと素気なく答えたりします。

 つまり、レム自身、そのような批評的な書き方をしていないのです。けれども、 ニュー・フィクションや、ヌーヴォーロマンの手法に対して理解がなかったわけではありませ ん。1970年に出た「SFと未来学」の中に「メタファンタジア――SFの可能性」という小論が収められています。標題から分かるように、この中では、文学のいわゆるメタ視点が言及されます。もちろん、ヌーヴォーロマンもその立場で触れられています。

 ちょっと話が脱線しました。本書には、正しい答えなんてないのだ、全てが暗号なのだ。そんな話の途中でした。なぜ答えがないのか、作者に答えが分からないはずもないだろう――いや、推理小説ではないのです。犯人が何かさえ、誰にも(作者にも)分かりません。 例えば、本書の2年前に出た『捜査』は、作者自身答えを設定せず書き進めていったそうですし、レムの(当時の)書き方としてはそれほどめずらしいものではないのでしょう。(対照的に15年後の『枯草熟』(1976)は答えを持った書かれ方をしています)。

 本書は、一種の実験の上で書かれた雰囲気があります。何の実験か――ユーモアとスラップス ティック、そしてまた風刺のようでも、象徴のようでもある。おそらく、そのどれもが正しくてどこか間違っているのでしょう。小説は決して一通りではなく、 どれも機通りかの読み方ができるものです。それは時代と共に移り変わっていく場合もありますし、人によって違うこともあるでしょう。レムの作品には、そういう無数の視点が可能な、幅広さが内在されています。

 まずレムは本書で無数の実験とバロディ、アイデアの検証をしたように思えます。タイトルがボーの「曇のなかの手記」のパロディですし、「まえがき」は冗談めかしています。ちょっと無理な比較かもしれませんが、筒井康隆『脱走と追跡のサンバ』に相当する作品だという気もするのです。各章にばらまかれたアイデアは、なんともユニークで深みがあります。あらゆるものを、別の方向からひっくり返していく、SFのもっとも基本的な発想が、至るところに見られるはずなのです。そのつもりで読んでみてはどうでしょうか。

 そして、40年目の新訳には新たな指摘がある。訳者は、ヤン・ポトツキ『サラゴサ手稿』(著者はポーランド人だがフランス語で書き、その訳題が『サラゴサで発見された手稿』だった)の表題とまえがき、作品スタイルなどを本書が広く踏襲したとする。さらにカフカはもちろん、ポーランドの亡命作家ゴンブローヴィチ(『フェルディドゥルケ』や『コスモス』で知られる)を意識した不条理スパイ小説仕立てであり、ホロコーストを暗示するなど(人体の一部を展示するホールが登場する)奥が深いというのだ。これまで十分ではなかった、ポーランド文学におけるレム作品の位置づけを再検証する意義を感じさせる。

 レムは当時「答えのない」ものをどう描くか模索していたと思われる。自身の初期SF(『マゼラン雲』や『金星応答なし』)の器ではそれらを書くには十分といえなかった。ミステリ形式の『捜査』である程度の目途を立て、『ソラリス』では異質であるがゆえに理解不能の知性を、『星からの帰還』では現代からは予測不能の未来を、『浴槽で発見された手記』では不条理極まる政治をと、それぞれの形式を吟味しながら「答えのなさ」を書き分けたのだ。

スラプスティックSFから最先端文学へ 筒井康隆

 シミルボン転載コラム、今回は眉村卓と同世代の筒井康隆です。著名人でもあり、経歴を中心とした詳細なものはあるものの、何に重点を置くかで観点は変わってきます。ここでは主に作品の流れについての概要を記しています。以下本文。

 1934年生。中学校時代には学校に行かず、映画やマンガに熱中した。そのあたりは自伝『不良少年の映画史』(1979-81)などに詳しい。同志社大学卒業後、主催した〈NULL〉は〈宇宙塵〉がタイプ印刷だった時代に活版で印刷され、(当初)家族のみで作られた同人誌だと評判になった。そこに載せたショートショートが、江戸川乱歩編集の〈宝石1960年8月号〉に転載されデビューする。

 初短編集『東海道戦争』(1965)、続く『ベトナム観光公社』(1967)『アフリカの爆騨』(1968)、ショートショート集『にぎやかな未来』(1968)など最初期の作品には、シュールさと猥雑さの同居、際限のないエスカレーション、時代風俗や流行の織り込みといった特徴がある。当時の筒井康隆は、若いファンにとってカルトヒーローだった(始まったばかりの星雲賞を、第1回からほぼ毎年受賞していた)。この人気は、1960年代後半から70年代にかけて、著者が多数の作品を一般小説誌に発表していく過程で形成されたものだ。

 初長編『48億の妄想』(1965)は、カメラがすべての有名人に設置された未来、人々がカメラを意識した演技をするため、何が本当で何が嘘なのかわからなくなった社会を描いている。もともとのカメラはTVカメラだが、これを監視カメラやスマホのカメラに置き換えても十分成り立つだろう。嘘が現実を変える今の社会を予見しているのだ。

イラスト:貞本義行

 光瀬龍や眉村卓と同様、筒井康隆はこの時期にジュヴナイルを書いた。ラベンダーの香りで時をさかのぼる、『時をかける少女』(1967)は、TVドラマ・映画・アニメなど8回の映像化がされた代表作だ。これ以外にも『緑魔の町』(1970)『三丁目が戦争です』(1971)、入門書である『SF教室』(1971)などがある。

 『家族八景』(1972)『七瀬ふたたび』(1975)『エディプスの恋人』(1977)はテレパス火田七瀬の登場する3部作である。特に第3部では、超能力をタイポグラフィック(文字の組み方)で表現するなど新しい試みを取り入れている。最初の作品では、家政婦七瀬が家庭内の闇を見てしまい、次作では別の超能力者との出会いから危機が迫り、最終巻では奇妙な能力を持つ少年と遭遇する。著者はこれ以降シリーズものは書いていないが、超能力もののバリエーションとして、夢に潜入できる能力者が登場する『パプリカ』(1993)を書いている。これらはTVドラマやアニメになった。

 1970年代後半より後、筒井康隆の活動の舞台は純文学でのより実験的な作品群へと移っていく。第9回泉鏡花文学賞を獲った『虚人たち』(1981)では、登場人物が虚構(小説)内にいると知って行動する。高度成長がなかったかわりに映画の全盛期が続く、もう一つの昭和を描いたユートピア小説『美藝公』(1981)や、人類史のカリカチュアでもある知的なイタチが住む惑星と、生きている文具とが戦う『虚航船団』(1984)などは、どれも単純な筋書きで成り立つお話ではない。物語構造や設定を含めた仕掛けの精緻さに驚かされる。

 短編集『エロチック街道』(1981)の表題作は、どことも知れぬ田舎町で、裸の美女に導かれるまま温泉に迷い込む作品。映画化もされた「ジャズ大名」は、江戸時代に地方の城主がジャムセッションを開くお話だ。「遠い座敷」では、どこまでも無限に続く畳部屋を通り抜けていく。「遍在」は改行のない高密度の文体で書かれている。『串刺し教授』(1985)は、『虚構船団』の前後に書かれた、短編17編を収録。お互いかみ合わない会話、夢の風景、現実と虚構との混交などを描く作品が中心だ。

 第23回谷崎潤一郎賞受賞作の『夢の木坂分岐点』(1987)では、主人公がやくざの夢を見るシーンから始まる。覚醒すると、彼はプラスチック製造会社の課長である。ただ、この現実は、小説の進行とともに、微細に変質していく。名前が変わり、社名が変わり、地位が変わり、年令が変わる。舞台は、会社でのサイコドラマから、夢の屋敷 (どこまでも長い廊下が延び、閉じられた襖が連なる)に、夢の下町(老いた運転手の操る路面電車が、軒先を掠める)に、夢の木坂へと連なっていく。途中から、この小説には覚醒はなくなる。どこまでも落ちていく、奈落だけがある。ここに描かれるのは、無数に多重化された夢である。

 『薬菜飯店』(1988)神戸のとある路地裏に、薬菜飯店がある。薬菜とは、文字通り薬になる料理のこと。食べればたちまち体の毒素が溢れ、肺、内臓、血液から、とめどなく流れ出す。夢こそが現実、虚構こそが真実という著者のテーマが語られた「法子雲界」、第16回川端康成文学賞を得た「ヨッパ谷への下降」、サラダ記念日の一首一首を精密にパロディ化した「カラダ記念日」、スプラッタ小説「イチゴの日」「偽魔王」、また、正統派SFスタイルで書かれた「秒読み」など、この時期を代表する多様な作品を収めている。

 第12回日本SF大賞受賞作『朝のガスパール』(1992)は朝日新聞の連載小説で、当時普及しつつあったパソコン通信「電脳筒井線」を用いて、リアルタイムに読者の意見を吸収しながら物語を進めるという斬新な試みだった(お話自体でも、コンピュータゲームと現実との壁がなくなる)。ジャズのセッションのように、物語を読者と共作しようとしたものだ。そこで起こるトラブル(誹謗中傷事件など)が、逆に物語を形成する要素となっていた。記録は『電脳筒井線(全3巻)』(1992)にまとめられている。

 筒井康隆は、1993年に表現の自由をめぐり断筆を宣言、以降、和解と出版契約が整う1996年までが空白期間となる。これは今でもたびたび起こる、小説で差別表現がどこまで認められるか、という議論に対する一つの考え方になるだろう。

 第51回読売文学賞受賞作『わたしのグランパ』(1999)中学生の少女のもとに、かつて殺人事件を犯して刑務所に入れられていた祖父が帰ってくる。彼女の周りにはさまざまな波紋が広がる。祖父は飄々としてその全てを解決していき、やがて無くてはならないおじいちゃん(グランパ)となっていく。物語の長さは中篇、ここで思い出すのは「わが良き狼」(1969)である。流れ者の賞金稼ぎがふと帰ってきた故郷の町で、老いた友や敵たちと再会する物語だが、本書はちょうどその逆の位置関係にある。グランパは、還ってきた老ヒーローなのであり、敵は誰もが若い。その若さに対して、グランパは対抗するのではなく、自身の死に場所を求めるように、ただ冷静に相対していくのである。後に、菅原文太主演で映画化されている。

 筒井康隆は、2002年に文化勲章の紫綬褒章を、2010年に菊池寛賞を受賞する。だが、それで執筆を止めたわけではない。72歳で長編『銀齢の果て』(2006)を書く。高齢化社会の究極の解決法として、老人相互処刑制度(シルバー・バトル)が設けられ、70歳以上の老人が各区域1人になるまで、老人だけの殺し合いが行われるお話だ。79歳で書いた『聖痕』(2013)は、著者20年ぶりの朝日新聞連載小説。主人公は5歳の時に、変質者により性器を切除される。この世のものとも思えない美少年だった彼は、性に対する欲望の一切から解放され、やがて味覚の奥義に目覚めていく。81歳では、神自体がテーマである『モナドの領域』(2015)を書き、毎日芸術賞を受賞している。SF第1世代作家の中で、眉村卓とともに80歳を過ぎてなお執筆を続ける稀有な作家といえる。

(シミルボンに2017年3月6日掲載)

 この記事の2年半後に眉村卓さんは亡くなっています。筒井さんは今年になって日本芸術院会員となり、昨年末には最後の短編集とする『カーテンコール』を出すなど、活躍を続けています。

田中空『未来経過観測員』KADOKAWA

装画:Y_Y
ブックデザイン:青柳奈美

 著者は1975年生まれ。少年ジャンプ+で連載した『タテの国』(縦スクロールで読むコミック)で話題を呼ぶ漫画家だが、本書が(私家版を除くと)初の単行本、それも小説である。カクヨムで連載された表題作(昨年私家版でも出した)を加筆訂正し、新たに書下ろし短編1編を加えた作品集だ。

 未来経過観測員:超長期睡眠技術が生まれ、生身の人間による未来の調査にこそ意義があるとされて観測員が生まれた。100年ごとに1か月を過ごして、その時々の社会をレポートする仕事なのだ。それも5万年後までの500回にわたって。目覚めるたびに、未来社会は様相を変えていく。
 ボディーアーマーと夏目漱石:地球温暖化が究極まで進み、人々はボディーアーマーの中で生活している。脱いだら短時間で死ぬ。そのアーマーも部品不足で次第に減っていく。ある日、主人公は廃墟の書店でツタに絡まれ動かない一台を見つけるが。

 未来をめがけて(比喩的に)飛んでいくという設定は、原初の『タイムマシン』以来の普遍的テーマだろう。超長期睡眠でも駒落としで時間経過が生じるのだから、タイムマシンと同様の働きをする。そこには社会的な問題も、宗教的、哲学的な問題も込められるし、目も眩むような超未来の光景を描き出すことも(書きようによっては)可能である。

 本書は300年目(第3章)で様相を変える。孤独な時間旅行者だった主人公に新たな道連れが加わり、受動的な「観測員」ではなくなっていく。時間に加えて(宇宙から電脳までの)空間的な広がりも増す。そういう意味では、人間とは限らない仲間たちによる冒険と救済の物語となるのだ。イーガン風と言うには直感的に過ぎるが、ちょっとありえない驚きのアイデアも登場する。

 一方の「ボディーアーマーと夏目漱石」では意外なところに夏目漱石の作品(全集)が出てくる。人類の終末に本が読まれているのだが、そこに書かかれた社会風俗は読み手の現実とは全く異なっている。本が選ばれた理由も哀しい。燃え上がる世界と残った本との組み合わせは、まるで逆転した『華氏451度』(本が残って人が燃える)と『旱魃世界(燃える世界)』の組み合わせのようだ。

ながい長い宇宙の旅路

 さて、シミルボン転載企画(#シミルボン)、今回は世代宇宙船による恒星間飛行をテーマとした著作紹介です。シンプルに古典とベテランの新作を対比したもの。これも息が長いテーマで、昨年『ブレーキング・デイ』が翻訳されるなど、途切れることがありません。以下本文。

地球外への移住と聞いて、まず思い浮かぶのはお隣の火星かもしれない

 金星も隣人で、むしろ惑星の大きさでは火星より地球に近い。ただ、高熱で硫酸の雲に覆われているため、あまり植民には向いていない。それなら火星移住の話をということなのだが、もはや火星はスペースXのような民間のリアル企業が計画できるくらい、身近で現実的なものとなっている。今回は思い切って、もっと遠くの太陽系外を目指す旅を考えてみたい。

 最新の天文学によると、太陽系外、別の太陽の下には惑星がたくさんあると分かってきた。地球型惑星は小さいので発見が難しい。しかし、火星のように薄い大気の心配をする必要のない、ほんとうの第2の地球があるかもしれない。問題は距離である。太陽から最も近いケンタウリ座アルファ星でも4.3光年、40兆キロ離れている(映画「アバター」の舞台にはなったが、実際にはこの恒星系に地球型惑星はないようだ)。スタートレックなどのワープ航法でもない限り、到達不可能な距離にある。

 こういう途方もない距離を越える手段の一つに世代宇宙船がある。ワープは未知の技術だ。一方、世代宇宙船は国家的予算をかければおそらく可能だろう。文字通り宇宙船を故郷にして何十世代も人が生き死ぬことで、何百年を要する航海を乗り切るのだ。もちろん閉鎖環境では社会的、生物的問題が持ち上がる。何百年も閉じ込められて、当初の技術水準が維持できるだろうか。乗組員の子孫は先祖が勝手に決めた使命を、素直に引き継いでくれるだろうか。

カバー:鶴田一郎

 このテーマの最初の作品は、ロバート・A・ハインライン『宇宙の孤児』(1963)である。宇宙船の目的が過去の反乱で失われ、テクノロジーの継承がされないまま文明が退行する。そこで、船を唯一の世界だと思って育った少年が、外宇宙を知るまでが描かれている。単行本にまとまったのは遅いが、もともと1941年に発表された中篇が元になっている。70年以上前の時点で「世代」に関わる問題点は考えられており、アイデアとして完成の域に達していたことが分かる。

カバーデザイン:坂野公一

 英国SFの重鎮ブラインアン・オールディスが、33歳で書いた最初の長編『寄港地のない船』(1958)は、食用植物が人の背より高く生い茂る〈居住区〉の描写から始まる。数百人規模の人々が、植物を刈り取りながら前進し、見捨てられた部屋を次々移りながら生活している。世界はいくつもの階層に分かれており、〈前部〉には彼らとは異なる超越的な人々が住んでいるらしい。主人公は部族の一員だったが、司祭と共に〈前部〉を目指す旅に出ることになる。世界は船の中にある。船には他所の部族の他、巨人族、ミュータント、紛れ込む超常的な〈よそ者〉などがいる。彼らはいったい何者なのか。この船はどこを目指しているのか、船を操船するものは誰なのかと物語は展開し、最後に一ひねりがある。

 この作品は初期のSFマガジンで紹介され、長い間名前だけ知られる幻の作品の一つだった。昨年(2015年)、翻訳者の努力もあって出版に結びつき大きな話題になった。原著は初版当時から定評を得ており、継続的に読まれ続けるSFの古典である。

カバーイラスト:toi8

 梶尾真治《怨讐星域三部作》(2015)は《クロノス・ジョウンター》などで知られる著者が、ほぼ9年間にわたってSFマガジンに連載し、計31話の連作短編形式とした2000枚に及ぶ長編である。これまで書かれた著作中最長の作品で、世代宇宙船テーマの集大成といえる作品になっている。2016年の星雲賞日本長篇部門を受賞。全3冊それぞれは『怨讐星域I ノアズ・アーク』『怨讐星域II ニューエデン』『怨讐星域III 約束の地』である。

カバーイラスト:toi8

 地球が太陽フレアに焼かれ、滅びる可能性が高まる。しかし、この事実は隠され、移民船による脱出計画が密かに進んでいた。世代間宇宙船ノアズ・アーク号に乗り組み、172光年先にある地球型惑星を目指すのだ。その数3万人。一方、取り残された人々もやがて真相に気が付き、多くは奇跡的な発明「転送」装置により、瞬間移動することを選ぶ。だが転送は成功確率が低く、民族や家族も引き裂かれた、着の身着のままの人々が未開の大地に投げ出される結果となる。彼らを結びつけるのは、後から移民船でたどり着く人々を怨み復讐するという怒りなのだった。

カバーイラスト:toi8

 連作短編と書かれているように、本書は3つの世界、「宇宙船」、「約束の地=異星」、「地球」で起こる小さなエピソードの積み重ねで成り立っている。大統領の娘と恋人の物語:地球、襲いかかる未知の生き物:異星、残された人々の最後の日々:地球、分散していた小集団が迎える再会のとき:異星、記念劇に登場する意外な人物:異星、宇宙船の中での恋人探し:宇宙船、船で起こる重大事故:宇宙船、接近する宇宙船からの信号を受信したとき:異星、宇宙船排斥を叫ぶ過激派の台頭:異星などなどだ。未開の惑星に国家が誕生し、やがて文明化する。宇宙船がトラブルを抱えながら世代交代する。それぞれ数百年(正確な年数は書かれていない)の時間が経過する。著者の意図として、国家や権力のようなパワーゲームはあまり描かれない。限られた世界の中で生きる、人々の生活や淡い恋が点描されるのだ。最終エピソードは他者への信頼に満ちていて、いかにも梶尾真治らしい結末になっている。

(シミルボンに2016年12月13日掲載

最後の『怨讐星域』は『ハヤカワ文庫JA総解説1500』に書いた記事の元になったものです。

セコイア・ナガマツ『闇の中をどこまで高く』東京創元社

How high we go in the Dark,2022(金子浩訳)

装画:最上さちこ
装丁:岩郷重力+W.I

 著者は1982年生まれの日系アメリカ人作家。この長編は、2022年から始まったアーシュラ・K・ル=グィン賞特別賞受賞作(最終候補)である。「希望の根拠を突き詰め、今の生き方に代わる選択肢を見出す」imaginative fictionを対象とする賞という。ル=グィンの名を冠するに相応しいかも考慮されるようだ。ちなみに、この年の正賞はケニアの女性作家カディジャ・アブダラ・バジャベルに贈られた。

 温暖化が進むシベリアで永久凍土が緩み、三万年前の洞窟が露出する。そこでミイラ化した少女が発見される。だが同時に見つかった未知のウィルスの中に、臓器の機能をでたらめにするという恐ろしいパンデミックの源も混じっていた。その病は、やがて北極病と呼ばれるようになり、まず子どもを中心に蔓延する。

 たくさんの断章から物語は構成される。閉塞的なシベリアの発掘調査基地、子どもを安楽死に至らせるパーク「笑いの街」、死の間際でネット空間を漂う少年の意識、治療法を研究する中で知能が目覚めた(ように見える)実験動物の豚、巨大な葬儀会社の死別コーディネータが住むエレジー(哀歌)ホテル、サポートもない古いロボドッグを弔う修理屋、さらにはマイクロ・ブラックホール技術から生まれた亜光速宇宙船USSヤマト(ヤマトは人名に由来)による恒星間移民の物語までスケールアップする。

 調査中の事故で亡くなった娘とその父親、パークで働く男は兄と折り合いが悪く母の介護からも逃れ、科学者は息子の治療を巡って妻と疎遠になる。病を軸とした父と子、母と子や夫婦、兄弟姉妹のさまざまな葛藤が描かれる。多くの登場人物は日系で人種的な軋轢もある。移民のルーツとなる母国日本は、東京のインターネットカフェや新宿スラム、海進で水没した新潟(一時期住んでいた)などが、アジア的な家族の象徴として登場する。その視点は著者の体験に由来するのだろう。どれもが家族の物語である。パンデミックは本書のテーマではない。極限にまで追い込まれた家族が主題なのだ。

 作者の好みなのか、80年代ミュージック、スタートレックやスターウォーズ、セーラームーン、ソニーのAiboなど、クラシックなガジェットがお話しの中に見え隠れする。USSヤマトはその延長線上にあるものだ。ル=グィン的ではないが、超越者の存在まで匂わす大胆さがある。また「紫水晶のペンダント」が冒頭と結末を結ぶなど、人物だけではなく小道具の伏線にも配慮が行き届いた作品といえる。

5年目を迎えたハヤカワSFコンテスト

 今年ハヤカワSFコンテストは、第12回目の公募を迎えています。このシミルボン転載コラムは、(7年前時点で)その意義を捉えなおそうというものです。コンテストの醍醐味として「意表を突く新人登場の瞬間を目撃」というのがありますが、将来どうなるかは簡単には見通せません。以下本文。

 早川書房が主催するSF新人賞は、1961年から始まり多くの作家を輩出してきた伝統ある賞だ。ただこの賞は、時代によって大きく性格を変えている。1961年第1回から63年第3回までの「空想科学小説コンテスト/SFコンテスト」と呼ばれた時代は、田中友幸、円谷英二らが審査員に入り、東宝とのタイアップで映画化を目指すというものだった(ただし、映画化まで進んだ作品はない)。入選または各賞に入った作家には、眉村卓、豊田有恒、小松左京、平井和正、半村良、光瀬龍、筒井康隆らがいる。第1世代作家の多くは、唯一のSF新人賞だったこの賞を目標にしていたのだ。

 この後11年の空白のあと、1974年の第4回「ハヤカワ・SFコンテスト」では、川田武、田中文雄、かんべむさし、山尾悠子らが(この回のみのアート部門では、加藤直之、宮武一貴らが)登場する。5年を空け、小説専門に戻した1979年の第5回から1992年の第18回までは毎年実施される。野阿梓、神林長平、大原まり子、火浦功、水見綾、草上仁、橋元淳一郎、中井紀夫、貴志祐介、藤田雅矢、柾悟郎、金子隆一、北野勇作、森岡浩之、松尾由美、秋山完ら多数が受賞者に名を連ねた。

 しかし後半になると、応募作の減少や入選作のない年が増え、中断を余儀なくされる。以降20年という最長の空白期間が生じる。この間、新人は「小松左京賞」「日本SF新人賞」や、「日本ファンタジーノベル大賞」「日本ホラー小説大賞」、あるいは多数生まれたライトノベルの新人賞など、他ジャンルの賞に移っていった。結果として、2002年から始まった早川書房のSF叢書《Jコレクション》では、新鋭作家のほとんどが別の新人賞を経た作家で占められるようになる。そこで2013年に再スタートした「ハヤカワSFコンテスト」では、

(前略)世界に通用する新たな才能の発掘と、その作品の全世界への発信を目的とした新人賞が「ハヤカワSFコンテスト」です。
中篇から長篇までを対象とし、長さにかかわらずもっとも優れた作品に大賞を与え、受賞作品は、日本国内では小社より単行本及び電子書籍で刊行するとともに、英語、中国語に翻訳し、世界へ向けた電子配信をします。

「募集開始のお知らせ」より

と、新たな目標「世界展開」を掲げ通算回数をいったんリセット、リニューアル感を鮮明にした。六冬和生『みずは無間』は、新生ハヤカワSFコンテストの第1回大賞受賞作である。

カバー:loundraw

 主人公はAIである。人間の意識が転写されたもので、遠宇宙へと飛び続ける無人宇宙機に搭載されている。膨大な時間を経ても機能するように、物資の調達、自己改変をする仕組みを持っている。しかし宇宙は空虚なままで、何ものとも遭遇することはない。やがて、AIは自身をコピーし、銀河に遍く散開させる。刻み込まれた“みずは”の記憶とともに。

 コピーされた人格という概念は、もはやSFのスタンダードである。生命に束縛されないから、何千何万年の時間スケールで宇宙を航行しても何の問題もない。イーガン『白熱光』がそうだった。小松左京『虚無回廊』に登場する“人工実存”はその一種になる。ところが、本書には主人公(AIの人格)の他に、みずはという恋人が現れる。きまぐれで直情的、食べることに対する執着、遠く離れた恋人にまで作用する暗い存在感。その“みずは”との泥沼の人間関係が時空間に拡張されていく異様さが、まさしく本書のポイントとなる。宇宙機のAIが、現代日本人の形而下的な感情に翻弄されるわけだ。読み手に対するインパクトという意味で、21世紀のSFコンテスト、今のSFの立ち位置を再認識できる作品といえる。

 第1回では、この他に坂本壱平『ファースト・サークル』小野寺整『テキスト9』下永聖高『オニキス』(短編集)が、最終候補作から書籍化されている。

 翌年、第2回ハヤカワSFコンテストでは、大賞に柴田勝家『ニルヤの島』が選ばれた。独特のペンネームと、侍のコスプレが話題を呼ぶ。

カバー:syo5

 書名の「ニルヤ」は、沖縄神話の中のニライ・カナイ(理想郷)の別称ニルヤ・カナヤに由来するものだ。主な宗教で死後の世界が否定され、人々は自身の記憶を叙述し記録することが、死を克服する手段になると考えるようになった21世紀末。そんな神のいない世界の中で、島々を長大な橋で結ぶことで成立したミクロネシア経済連合体には、死後を信じる宗教が生きていた。カヌーで死者を送り出す彼らの宗教にどんな意味があるのか。文化人類学者や模倣子行動学者たちは、それぞれの立場からその謎に迫っていく。

 物語は4つのセクションに分かれ、それぞれが平行に進んでいく。「Gift 贈与」は、2069年に文化人類学者が、島に残る伝承の語り手を訪ねるところから始まる。「Transcription 転写」では、島で休暇中の模倣子(ミーム)行動学者が死後を信じる統集派の葬列と出会い、「Accumulation 蓄積」は、橋が完成する前、現地で危険な潜水作業に就く父娘の物語である。チェスや将棋に似たゲームをひたすら続ける「Checkmate 弑殺」の章は、不連続な時間の流れ方となる。人の記憶する時間は断片的で連続しない。それは「叙述」されることで1つの物語になる。叙述という言葉は伝承(語り伝える)文学との関係を意識したと、〈SFマガジン2014年1月号〉の著者インタビューにもある。電脳世界におけるデータ化された人間は、イーガン『順列都市』の強い影響を受けたという。ポリネシア=沖縄神話と、今風のヴァーチャルな世界観を結ぶ野心作といえる。

 第2回では、最終候補作の神々廻楽市(ししば・らいち)『鴉龍天晴』と、倉田タカシ『母になる、石の礫で』が書籍化された。また伏見完はアンソロジイ『伊藤計劃トリビュート』に最初の作品を寄せている。

 第3回ハヤカワSFコンテストの大賞受賞作は、小川哲『ユートロニカのこちら側』である。連作短編形式で書かれている。ユートロニカとは、ユートピア+エレクトロニカ(電子音楽)から作られた造語だ。

カバー:mieze

 サンフランシスコの郊外に、アガスティアリゾートと呼ばれる都市が建設される。そこは見たもの聞いたものなど、全ての個人情報を企業に提供する代わりに、生活が保障されるある種のユートピアだった。個人の行動は事前に推測できるため、犯罪も予め抑えられる。そういった利便性は、プライバシーと引き換えに与えられる。物語は6つの章に分かれ、リゾートにかかわった人々の運命を描いている。

 犯罪者を予防拘束するといえば、映画やTVシリーズにもなったディック「マイノリティ・リポート」があり、Google的なIT企業がプライバシーを失わさせるデイヴ・エガーズ『ザ・サークル』、存在しなくなった都市を電脳空間に再現するトマス・スウェターリッチ『明日と明日』など、アイデア自体には先行する作品がいくつかある。しかし、本書は楽園の暗黒面を、陰謀(秘密組織や国家が黒幕)のようには描かない。その周りに住む(こちら側の)人々を点描することによって、自由意志とは何かを表現しているのだ。

 第3回では、佳作となったつかいまこと『世界の涯ての夏』が書籍化されている。

 第4回ハヤカワSFコンテストでは、優秀賞が2作品、黒石迩守(くろいしにかみ)『ヒュレーの海』、吉田エン『世界の終わりの壁際で』、及び特別賞の草野元々(くさのげんげん)『最後にして最初のアイドル』が選ばれた。審査委員の意見が割れたため、大賞受賞作は出なかった。

カバー:ジェイコブ・ロザルスキ

 未来のいつか。文明は混沌に呑み込まれ崩壊、情報的記録の海が地球を覆う。人類はシリンダ型の塔のような都市に住み、都市は7つの序列を持ち、さらに資本家と労働階級に分かれる。人類はある種の情報生物となって世界に適応している。そんな中、過去の記録にある本物の海を見ようと、下層民の少年少女は旅立つ。

 『ヒュレーの海』のヒュレーとは、アリストテレス哲学でいう、形相(エイドス)と質料(ヒュレー)に由来する。情報生物が主人公なので、ソフト/ファームウェアとハードウェアとでもいえばよいのか。現職プログラマーの経歴を生かした、ITの専門用語をルビで駆使する異形の世界が印象的だ。

カバー:しおん

 未来の東京は山手線の内側に壁を築き、その外部との出入りを遮断している。内側にある〈シティ〉は、大規模な環境変動から逃れるための箱舟なのだ。外側で育った主人公は電脳ゲームの名手だったが、ある日アルビノの少女や奇妙な人工知能と出会ったことで、内側世界の秘密を知ることになる。

 物語では、ゲーム空間でのバトルと、リアル世界である壁内側/外側の争いが並行して描かれている。優秀賞受賞の2人は、ともにオンラインサイト〈小説家になろう〉で活動していることでも話題になった。

 「最後にして最初のアイドル」は120枚ほどの中編小説だが、この題名通りステープルドン『最後にして最初の人類』をベースに、その主体が人類ではなくアイドルだったら、という驚くべき発想で書かれている。電子書籍でベストセラーに上がり、『伊藤計劃トリビュート2』に収録されるなど注目を集めた。

 ハヤカワSFコンテストは2017年で第5回目を迎える。応募総数こそ、ラノベ系やネット系新人賞に比べて少ないが、入選作を見る限り応募作の水準は相当高い。発足の趣旨に沿った世界展開が図られ、新人発掘の場として機能していくことを期待したい。

(シミルボンに2017年2月7日掲載)

 国際化を謳ったハヤカワSFコンテストですが、英訳や中国語訳などの実績はまだないようです。この趣旨は、VG+主催によるかぐやSFコンテストで実現しています。なお、5回から11回までのコンテストについては、このページからリンクを逆にたどることで読むことができます。

松樹凛『射手座の香る夏』東京創元社

装画:hale(はれ)
装幀:アルビレオ

 著者は1990年生まれ。本書は、第12回創元SF短編賞受賞後初の短編集である。著者は他でも第8回星新一賞の優秀賞や、飛ぶ教室第51回作品募集の佳作(雑誌飛ぶ教室62号に掲載)に入選するなどの実績がある。収められた4作品はどれも100枚を超えるボリュームがあるので、中編集といってもいいだろう。

 射手座の香る夏(2021)短編賞受賞作。北海道を思わせる北の超臨界発電施設。現場が地中深くにあるため、作業はオルタナと呼ばれる意識転送制御のロボットが行う。その間、作業員の肉体は地上に保管されている。だが、その肉体が何者かに奪われてしまう。
 十五までは神のうち(2022)息子を〈巻き戻し〉で失ったわたしは、事情を知っているかもしれない当時の教師と話をするため、実家のある離島に帰郷する。島にいた30年前、兄も〈巻き戻し〉を選んだからだった。
 さよなら、スチールヘッド(書下ろし)人工知性たちが暮らす〈アイデス〉、そこには病気もなく本物の獣もいない。しかし、ぼくは夢を見る。その中では世界は滅び、歩く死体=ウォーカーたちが彷徨い歩いているのだ。
 影たちのいたところ(2022)祖母が毎夜語ってくれるお話の一つに、イタリアの島に住む少女の物語がある。少女は海で遭難していた男の子を助けるが、その少年の影はなぜか一つではなかった。

 どの作品にも工夫が施されている。特に表題作では、動物に憑依するズーシフト(意識転送は制御装置を付けた動物に対しても可能)に溺れるわたし(一人称)と、肉体盗難を調査する刑事(三人称)、さらに環境保護派と白い狼=カームウルフの伝承を組み合わせる、という複雑な構造になっている。ふつう人称を混在すると読み手に混乱を与えかねないが、著者は複数要素を巧みにコントロールする。

 「十五までは神のうち」の〈巻き戻し〉は、タイムマシンを使った「親殺しのパラドクス」の逆バージョンだろう。親ではなく子が消えるのだ。直線状の時間(並行宇宙に分岐しない)ならば、過去が書き換わると記憶も変化するが、この作品では意図的にそうはしない。現実にもありえる事件の真相を探る、謎解きのキーになるからである。さらに「さよなら、スチールヘッド」では、メタバース世界よりもリアル世界の方がはるかに非現実的(ゾンビが徘徊する)だし、「影たちのいたところ」では、ファンタジーの背後にディープな現実世界の陰(戦争と難民)が見え隠れする。こういう寓話的なプラスワン(メニー?)で作品の先鋭度を増す手法こそ著者のユニークさ、真骨頂といえる。