異世界への旅人 眉村卓

 シミルボン(#シミルボン)のコラムでは作家の紹介記事も書いていました。話題の作家だけでなく、ベテランでも全体像が分かりにくかったり、新刊入手が難しい作家を含んでいます。以下本文。

 眉村卓は1934年大阪市に生まれ、国民学校(小学校)の時代に戦災や疎開を経験した。その頃のエピソードは、ありえたかもしれないもう一つの少年時代を描いた「エイやん」(2002)の中にも描かれている。新制中学、高校を経て大阪大学を卒業。1960年に〈宇宙塵〉に入会、翌年第1回日本SFコンテスト(ハヤカワSFコンテストの前身)に入選しデビューする。

 デビューの後、ヒーローものともいえる初長編『燃える傾斜』(1963)を出版、作家専業となる年に出した短編集『準B級市民』(1965)には、後の宇宙もの、異世界ものに成長する作品が既に多く収録されていた。同時期に書かれた作品のうち、イミジェックスという情報装置により消費がコントロールされるディストピア小説『幻影の構成』(1966)は、今こそ読み直す価値があるだろう。

 この頃、光瀬龍らとともにジュヴナイルを書きはじめる。転校してきた美少年を巡る不可思議な事件『なぞの転校生』(1967)、見知らぬ女の子から届いた手紙『まぼろしのペンフレンド』(1970)、田舎町の因習が超常現象となって現れる『ねじれた町』(1974)、中学の生徒会長に選ばれた少女が着々と支配力を強めていく『ねらわれた学園』(1976)など、累計30作余りにものぼる。特に『ねらわれた学園』はTVドラマ・映画・アニメなど7回、『なぞの転校生』も同じく3回と、筒井康隆『時をかける少女』に並ぶ息の長い人気作品となった。他にも映画化、ドラマ化された作品は多く、著者を代表するジャンルといえる。

装画:加藤直之

 シリーズものでは、宇宙を舞台とする《司政官》が重要だ。司政官とは地球連邦から派遣された惑星統治の専門家のこと。しかし、任地でその権威が認められるとは限らない。『司政官 全短編』(2008) は、1974年と80年に出た中短編集を、年代記順に再編集した決定版である。「長い暁」多島海からなる惑星。軍政下で接触の機会が少なかった原住者との出会いが、予想外の危機を呼ぶ。「照り返しの丘」異星人の生み出したロボットが支配する惑星。その秘密を得るための手がかりとは。「炎と花びら」知性ある植物の惑星。彼らは成長すると知恵を失い、花びらを開き、季節風に乗って旅立つ。「遺跡の風」遺跡だけが残され、遠い昔に文明が滅びた惑星。植民者の間には幽霊が出没するという。「限界のヤヌス」急速に植民者が増えつつある惑星。司政官に反抗するリーダーはかつての同僚だった、など7作を収める。

 連邦制度をとる未来社会(特に官僚機構)、異星の描写、主人公の心理描写など、何れもが細密に描き込まれている。ロボット官僚たちに囲まれ、ただ一人の人間である司政官が統治するという設定が面白い。官僚機構は、ローマ時代から本質的な変化がない普遍的なものだ。こういった部分に焦点を当てたSF作品は他にないため、古びて見えず新鮮な印象を受ける。《司政官》は長編を含めてもわずか9作しかないが、ばらばらでは独特の世界を理解するのが難しい。一挙に読んでこそ面白さが分かる内容といえる。

装画:加藤直之

 長編には、第10回星雲賞、第7回泉鏡花文学賞を受賞した、太陽活動の異変で居住が困難となった惑星に赴任する司政官を描く『消滅の光輪』(1979)と、司政官制度が力を失った衰退の時代、苦闘する主人公の物語『引き潮のとき(全5巻)』(1988-95)がある。第17回星雲賞を受賞した後者は、〈SFマガジン〉に12年間にわたって連載された大長編であるが、残念なことに電子書籍版がない。手軽に読める『消滅の光輪』からまずお試しいただきたい。眉村卓には、《司政官》以外の宇宙ものとして『不定期エスパー(全8巻)』(1988-90)もある。超能力者でありながらその力を制御できない主人公が、貴族の勢力争いの中で地位を固めていくドラマだ。

 ジュヴナイル、宇宙ものと並んで、眉村卓の作品では異世界が多く描かれる。異世界とは、現実と違った(現実とよく似ている、あるいはよく似た人物がいる)別の世界のことだが、シームレスにつながっていて簡単に迷い込んでしまう。それは、『ぬばたまの…』(1978)のようなうす暗い幻想世界だったり、『傾いた地平線』(1981)の過去の自分と複雑に入れかわる世界だったりする。第7回日本文芸大賞を受賞した『夕焼けの回転木馬』(1986)では、著者の分身のような2人の登場人物が絡み合いながら、過去から続く無数の可能性に呑み込まれていく。

 『虹の裏側』(1994)は主に初期(1965-79)に書かれた、異世界ものを集成した傑作選である。「仕事ください」「ピーや」「サルがいる」など、登場人物の内面を映し出すホラー的な作品も含まれている。このうち高校生がタイムスリップする「名残の雪」は、ドラマや映画になった「幕末高校生」の原作である。

『妻に捧げた1778話』(2004)は、癌で闘病する妻(2002年に死去)に毎日1話のショートショートをささげた実話で、映画化もされベストセラーにもなった。本書には、一連のショートショート群からの抜粋の他、著者の自伝的な記述も含まれている。夫人とは高校時代に知りあいデビュー前からお互いを支え合ってきた。著者の作品と、夫婦の生きざまとは深いつながりがある。ショートショートを書いた前後およそ10年間は、それ以外の執筆が空白となるくらい重い時間だった。ショートショートの一部は『日がわり一話』『日がわり一話(第2集)』(1998)にまとめられている。

イラスト:ケッソクヒデキ

 しかし、この後も眉村卓は作品の発表を続けている。72歳で発表したセルフパロディのような長編『いいかげんワールド』(2006) 、77歳での短編集『沈みゆく人』(2011)、82歳で出した短編集『終幕のゆくえ』(2016)などは、異世界ものの新境地だろう。あとがきで著者は、異世界は現実に対置するものではなく、それ自体存在するものだと述べている。物語の主人公(多くは老人)は、さまざまな奇妙で不気味な異世界に踏み込んでいく。これはわれわれの今、あるいは、明日の姿を暗示するものだろう。

(シミルボンに2017年3月3日掲載)

 この2年後の2019年11月、眉村卓さんは亡くなっています。病床で書かれた遺作長編『その果てを知らず』(2020)は一般でも話題に。また、有志によるビブリオ付きの追悼文集『眉村卓の異世界通信』(2021)は、出版社を介しない私家版でありながら、AmazonのSFカテゴリ10位になるなど好評を博しました。ゆかりの作家による続編『眉村卓の異世界物語』(2022)も出ています。

森見登美彦『シャーロック・ホームズの凱旋』中央公論新社

装画:森優
装幀:岡本歌織(next door design)

 前作『四畳半タイムマシン・ブルース』から4年ぶりの長編である。中央公論新社の小説BOC(現在は文芸Webサイトとなっている)で、2016年から18年にかけて不定期に連載された作品を全面改稿したもの。一見シャーロック・ホームズもののパスティーシュのようで(もちろんそういう面もあるが)、本書のテーマは「スランプ」である。

僕の小説は「京都を書いている」のではなく、「京都というお皿に、自分の妄想を載せている」ということかもしれませんね。自分の妄想を「京都」に載せると、なんか様(さま)になる、と気づいただけであって、実際の京都とは距離があるんです。微妙なところですが、読者の皆さんにもぜひわかっていただきたい

2050MAGAZINEによるインタビュー記事より

 ホームズは深刻なスランプに陥っていた。あれほど完ぺきだった推理力がすっかり衰え、簡単な事件の解決もままならない。「ストランド・マガジン」に連載していたワトソンのホームズ譚も休止となった。スランプの原因を探るうちに同じ下宿の住人、物理学者のモリアーティ教授を尾行することになるが。

 舞台はヴィクトリア朝京都である。ホームズの下宿は寺町通221Bにあり、ワトソンは下鴨神社の近くにメアリと住んでいる。地名も神社仏閣も実在の京都と同じなのに、そこにロンドンを舞台としたフィクションが重なり合う。アイリーン・アドラーやハドソン夫人ら《シャーロック・ホームズ》の登場人物たちが、京都で生活しているのだ。まるでミエヴィルの『都市と都市』である。

 しかし、昔の翻案(原典のプロットだけを生かし、主人公や舞台を日本に改変した2次創作のような翻訳)などとは違って、本書に京都人(日本人)は出てこない。著者の言う「京都というお皿」(入れ物、背景)に、異国の料理(虚構)を盛ったのである。これによってホームズの世界(19世紀ロンドン)が、森見登美彦の世界(近世の京都)に違和感なく融合している。

 作家にスランプはつきものだ。著者も過去に大スランプに墜ち込み、すべての連載を投げ出し沈黙したことがある。スランプに苦しむ本書のホームズには、その体験が(脚色されながらも)反映されているのだろう。上記リンク先の『熱帯』(2018)は本書(の原型)と同時期に書かれたもので、第6回高校生直木賞を受賞した作品。これにもスランプが描かれていたが、中高生読者の共感を得た

 物語は後半、洛西にあるマスグレーヴ家で起こる心霊現象のような変異を起点に大きく動いていく。謎解きはホームズものほど明快ではないが、テーマに則した結末といえるだろう。『熱帯』の複雑な構造を語り直した、より虚構のモデルが分かりやすいバージョンともみなせる。コナン・ドイルと同じ登場人物を配しても「ぐーたらなホームズ」たちには独特の暖かみがある。本書はやはり森見流の京都(お皿)小説なのだ。

 なお、本書のホームズ(固有名詞の表記など)は、東京創元社から出ている深町眞理子訳の新訳版に依っている。

饗庭淵『対怪異アンドロイド開発研究室』KADOKAWA

装幀:大原由衣
装画:與田

 第8回カクヨムWeb小説コンテスト〈ホラー部門〉特別賞受賞作。ホラーだが、アンドロイドが主人公という変格派。同賞はカクヨム掲載作を対象とし、応募が1万作を越え最終候補でも1651作とある(既存文学賞とは比較にならない多さだが、特別賞まで含めれば入選者も多い)。それを、40レーベルに細分化されたKADOKAWA編集部が分担選考する(これも多いという印象)。8つある部門の中で、ホラーからは受賞作1編、特別賞2編が出ている(特別賞が10編以上の部門もある)。著者の饗庭淵(あえばふち)は1988年生まれのゲームクリエイター、イラストも手掛ける。過去に自身によるゲームのノヴェライズが出版されたこともある。

 物語は7つのエピソードから成る。「不明廃村」記録にはないが衛星写真で検出される山奥の廃村、「回葬列車」終電を過ぎた時刻に走り続ける無人の電車、「共死蠱惑」浮気調査で浮かび上がった正体不明の女、「餐街雑居」廃ビルの奥にある中華料理店をはじめとする各階の怪異、「異界案内」帰着した大学は煌々と灯を点けているのに誰もいない、「非訪問者」深夜のアパートに来るはずのない知人が訪ねてくる、「幽冥寒村」教授が育った村の記憶はどこか矛盾があった。

 主人公はアンドロイドのアリサ、近城大学・白川研究室で開発された人と見分けが付かない精巧なAIロボットだ。この研究室の目的は、怪奇現象に恐怖心を感じないアンドロイドを使って、怪異を科学的に検出し調査すること。しかし、研究室の教授にはどうやら別の意図もあるらしい。各エピソードは、存在しない村とか電車とか、顔の写らない女、廃ビル、無人の大学、深夜の訪問者など、いかにもな怪奇現象である。そこに深層学習された怪異検知AIが踏み込むのだ。

 ホラーで「怖がらないキャラを主人公にしたらどうなる?」という発想からアンドロイドにたどり着いたという。また、先行作品として宮澤伊織『裏世界ピクニック』(雰囲気が似ている)、AIの扱いについて山本弘『アイの物語』ホーガン『未来の二つの顔』などを挙げている。応募にSF部門はないのでホラーに寄せたわけだが、科学の対極にある怪異現象にについて(タネ明かしまではしないにしても)、それなりの理屈を通したところは一貫性が感じられてよい。なお、この作品はカクヨムで読むこともできる(書籍になる前の原型版)。

九段理江『東京都同情塔』新潮社

カバー写真:安藤瑠美「TOKYO NUDE」

 第170回芥川賞受賞作川上弘美が選考委員になって早や17年、円城塔が受賞して12年が過ぎ、高山羽根子からも3年半が過ぎているのだからSF的作品という意味では珍しくはない。むしろ並行世界の日本を舞台とし、生成AIを小道具に使った今風さが注目を集めた作品である。新潮2023年12月号に掲載された400枚を切る短い長編。

 その高層ビルは正式にはシンパシータワートーキョーと呼ばれる。しかし建築家の主人公は、言葉の意味を希釈するカタカナの羅列が気に入らない。やがて「東京都同情塔」と称するようになる。新宿御苑に建つタワーは、従来「犯罪者」と呼ばれ差別を受けてきた属性の人:ホモ・ミゼラビリスを収容する施設なのだった。

 この世界の東京には、ザハ・ハディドが設計した優美で巨大な国立競技場がある。オリンピックは予定通り実施され、結果として疫病の蔓延を招いたらしい(具体的には書かれていない)。建築家はコンペで、ザハ・ハディドの競技場のある風景と一体化する案を出し採択される。東京のど真ん中に刑務所を立てることには、傲然と反対運動が巻き起こる。それでも、犯罪者への同情を説く幸福学者の主張が容れられる。何しろこれにより、日本は世界の倫理基準を超えるのだ。

 中年に差し掛かった有能な女性建築家は、たまたま入った高級ブランドショップで15歳年下の美青年スタッフに声をかける。二人は付き合い始めるのだが、青年は他人を傷つけることに異様に気を遣う。いまどきの若者はみんなそうなのか、それとも彼だけなのか。かみ合うようでかみ合わない二人を巡ってお話は進む。

 本文中にはAIとの会話が頻繁に出てくる。とはいえ、そこでChatGPTが使われたとしても、小説をAIに書かせたとまではいえないだろう(NHKとのインタビューによると、応答の1行目だけを生かしたらしい)。想像ではなく本物のAIを使うことで、丁寧ながら事実を淡々と語るAIの無感情さ、冷徹さが際立つ。AIは独特の自己検閲機能を持っている。これは、感情を表に出さず、誰も傷つけないというこの社会(われわれの社会でもある)の風潮を反映する。

 本書には、情報過多が読者を選ぶのではないかとの指摘がある。しかし、特異なシチュエーションは、過剰なほどの説明がないとむしろ一般読者に受け入れられない。これはSFで設定・状況を説明する際によく使われる手法なのだ。リアルさを担保する上で意味がある。「とてもエンターテインメント性が高い」という印象もそこからくるのだろう。対する純文系作品では、説明が少なく謎めいているほど評価が高まる傾向がある(たとえば、結末を明瞭に語らず断ち切る、とか)。

 本音をカタカナで覆い隠してしまう社会、心の中に検閲者を抱えた人々、きっと同情も本性ではない。物語は近い将来の波乱を匂わせて終わる。

大図解!「ディレイ・エフェクト」に潜むボルヘス的時間

 シミルボン転載コラム(#シミルボン)の第2回目です。前回に引き続き「時間」がテーマです。宮内悠介「ディレイ・エフェクト」の内容に踏み込んでいますので、未読の方は読んでからどうぞ。以下本文。

時間はわたしを作り上げている実体である。時間はわたしを押し流す川である。しかし、わたしはその川である。それはわたしを引き裂く虎である。しかし、わたしはその虎である。それはわたしを焼き尽くす火である。しかし、わたしはその火である……

J・L・ボルヘス/木村榮一訳「時間に関する新たな反駁」より
装丁:城井文平

 「ディレイ・エフェクト」は、2017年10月に文芸ムック「たべるのがおそいvol.4」で発表された当初から話題を呼び、第158回芥川龍之介賞(2017年下半期)の候補作となったことで、さらに多くの読者の注目を集めた中編小説です。残念ながら受賞はなりませんでしたが、そこに描かれた重なり合う時間のありさまは、一般読者にも強烈なインパクトを与えるものでした。

 ディレイ・エフェクトとは、エフェクターなどを使って、音をわざと遅延させ現在の音に重ねる音楽の技法です。今現在という時間の一瞬は、過去の積み重ねによって出来上っています。しかし、われわれ個人に限れば、生まれる前の歴史的な過去を記憶しているわけではありません。単に伝承や記録、書物によって知るだけです。遠い過去は間接的にわれわれの今に影響を与えますが、実際の体験のように直接的なものではありません。そこに、76年前の歴史的な過去が実体験で加わるとどうなるのでしょう。

 5月のある朝、主人公は祖母がコメをつつく音で目覚めます。一升瓶に玄米をつめ、棒でつついて精米しているのです。祖母は少女の姿です。それは76年も前の出来事なのに、主人公の目の前に見えているわけです。

 2020年と1944年の東京がシンクロし、重なって見える現象が起こります。物理的にぶつかり合うことはなく、コンピュータで作られた拡張現実(AR)のように2つの世界が重なり合います。しかし、2020年から戦中の東京は見えても、逆はありません。影響は一方通行なのです。録画や録音ができないことから、物理的な実体はなく、意識の中だけにある存在だと示唆されます。

 目の前で生きる曾祖父夫婦や、一人娘である祖母の生活はリアルで、戦時下の日常が続いていきます。やがてくる翌年3月10日の東京大空襲により、自宅が全焼する日が迫ってきます。8歳になる自分の娘に歴史的な真実を見せるべきか、それとも疎開させるべきなのか。夫婦間の意見対立は、いつしか出口のない口論へと発展します。

 隔てられているといっても、2つの時間2020年と1944年は実在しています。仮想現実ではありません。本作で描かれるのは、一方的に影響を被る2020年です。主人公の生活や家族は、現在にないものに翻弄されます。1944年の時間は確定されていて、決まった運命に導かれます。過ぎ去った時間がディレイするだけなら、どこまでいっても決定された時間です。一方の2020年は、1944年の影響(エフェクト)を受けながらも、未来を選ぶことができます。

 2つの時間が重畳する先行作品はいくつかあります。小松左京「影が重なる時」では、ある日自分の影(自分そっくりの静止した像)が出現します。星新一「午後の恐竜」では、過去の地球の光景(恐竜が闊歩する姿)が現在につぎつぎと映し出されます。両作ともに、ある種の運命論のようです。現在が確定した未来に従属しているわけです。破滅につながる運命であって抗いようがありません。対する「ディレイ・エフェクト」のユニークさは、現在が能動的に変化していくところにあります。未来は確定していません。

 では、ディレイ・エフェクトとは何でしょうか。本書の中には、いくつかのキーワードがちりばめられています。主人公が子どもに話す「エネルギー保存則」、公安の調査官に語る「永劫回帰」「熱力学第2法則」などです。

 永劫回帰は、哲学者ニーチェの中枢をなす思想です。過去現在未来を含めて、全く同じ時間が何度も繰り返されるとするものです。全てが同じなので、輪廻転生とは違います。あとでも述べますが、エネルギー保存則はニーチェと関係します。熱力学第2法則は、一般的にはエントロピーの増大で知られるものです。例えばコーヒーにミルクを注ぐと、時間が経つにつれて完全に混じり合う。これは、より無秩序な状態、エントロピーが高い状態へと移行するからです。逆の現象(コーヒーとミルクが2つに分離する)は確率的に起こりません。現象が一方向にしか進まないため、これが「時間の矢(時間の向き)」を決めていると考えられています。

 キーワードを見る限り、作品の前半では「世界は決定的で、過去は寸分たがわず繰り返され」「時間は必ず過去から未来へと一方向に進む」と主張されているように読めます。ところが、東京大空襲3月10日が始まった深夜、突如時間は逆転を始めます。時間の逆転は、熱力学第2法則からはありえない。もちろん永劫回帰にもないものです。主人公はこれをリバース・エフェクトと名付けますが、設定すべてを否定する大きなどんでん返しといえます。


 ここで、作品構造を図解してみましょう。物語の始まりは5月。6月に公安調査庁の担当者が訪れ、現象に対する見解を求められます。主人公は信号処理の技術者で、会社のキーマンなのです。あとで分かりますが、主人公の経歴にも訪問の理由がありました。時期は不明確ですが、梅雨明け前の夏の初め(おそらく7月)頃に、妻と仲たがいし別居状態となります。以降、技術リーダーを管理職昇格という名目で解かれ、食べさせる相手もいないのに戦時食を作ってみるなど、さまざまなストレスに苦しみながら翌年の3月を迎えます。

 しかし、3月10日が過ぎ、リバース・エフェクトに入ると事態は一変します。秋になった10月ごろ、妻からの手紙を受け取るのです。そこには、妻の曾祖父が何を仕事にしていたかが書かれていました。主人公は、かつて反核運動に参加したことがありました。妻とはその際に知り合ったのです。けれど、曾祖父は戦時中に核開発に従事しており、空襲時もすぐに帰宅できず曾祖母を助けられなかった。妻はその事実に負い目を感じていたのです。

 図から分かるように、ディレイ・エフェクト期に妻が出ていった時期と、リバース・エフェクト期に手紙を受け取る時期は、3月10日を挟んで時間対称をなしています。手紙には、家族で起こった不和の原因が書かれていました。叙述上、原因(曾祖父の仕事)と結果(不和から別居)の逆転が起こるのですが、それが一般的な小説の技法としてだけでなく、ディレイとリバースという物語の設定と重なり合い、シンメトリーをより鮮やかに見せているのです。エントロピーの増大=緊張の高まり、エントロピーの減少=緊張の緩和・融和という関係もシンメトリーをなしています。

 アルゼンチンの作家ボルヘスは、ニーチェの永劫回帰を認めませんでした(「循環説」参照)。ニーチェはエネルギー保存則を根拠に、宇宙・時間には一定の大きさがあり、長大な時間を経ればいつか繰り返しが起こる、過去はそのまま回帰するとします。けれども、ボルヘスは宇宙・時間が無限に変化しており、繰り返しはないと考えます。現在が過去から未来へ移っていく瞬間ごとに、われわれは別のものに変化していく。同じものが成長進化するのではなく、常に変わっていくのです。冒頭の引用は、そのボルヘスの考え方をよく表したものです。

 この物語では、時間を物理ではなく、意識の問題だと解釈しています。だからこそ、時間はディレイしリバースする。その一つ一つが主人公たちの行動に影響を与え、主人公を別の存在、新たな存在へと変えていきます。主人公は過去の直接の影響下で考え方を変え、生き方を変えます。過去は繰り返されるだけの、固定的で動かしがたいものではなく、流動し反転もします。まさに、ボルヘス的な時間体験を描いているのではないでしょうか。

 ボルヘスは作家として、われわれの時間体験が運命論的なものであるという考え方は好みませんでした。本書の著者宮内悠介も、シンメトリーをなすユニークな時間の在り方を描きだしていますが、その背後に運命論に囚われない個人の意思があることに注目すべきでしょう。

 「影が重なる時」は自選ホラー短編集『霧が晴れた時』(1993)で入手できます。2003年にはTVドラマ化もされました。「午後の恐竜」は同題のロングセラー『午後の恐竜』(1977)に収められています。2010年に短編アニメーション化されています。またボルヘスの「循環説」はエッセイ集『永遠の歴史』に、「時間に関する新たな反駁」は『ボルヘス・エッセイ集』、または岩波版『続審問』でも読めます。

 ガジェットとしての「ディレイ・エフェクト」は、ボブ・ショウの「スローガラス」と同じ考え方です。スローガラスとは、光が通り抜けるのに数年がかかる(つまりディレイする)特殊なガラスのこと。人々はそこに、実在した過去を見ます。ボブ・ショウの場合、あくまで「窓」(空間ではなく平面)だというのが特長で、その制約が物語に生かされていています。これは旧サンリオ文庫の『去りにし日々、今ひとたびの幻』 (1981)にまとめられています。

(シミルボンに2018年5月29日掲載)

酉島伝法『奏で手のヌフレツン』河出書房新社

装幀:川名潤

 アンソロジイ『NOVA+ バベル』(2014)に書き下ろされた同題の中編を、1000枚弱ある大部の長編としたものが本書。舞台設定や異形の登場人物などは引き継がれ、内容はさらに豊かに膨らんでいる。2部構成で親子4代に渡る(主にはジラァンゼとその子ヌフレツンの)家族の物語が語られる。

 ジラァンゼの親であるリナニツェは、聖人式を経て太陽の足身聖(そくしんひじり)となった。一家はもともと太陽を失った霜(そう)から叙(じょ)の聚楽(じゅらく)への移住者だった。不吉な存在と忌避されたが、聖人ともなれば逆に敬われる。ジラァンゼは親の仕事である煩悩蟹の解き手となった。ヌフレツンはジラァンゼの2人目の子である。同じく解き手になることを期待されていながら、本人は奏で手を夢見ていた。

著者のX(twitter)から引用(『NOVA+』掲載時の直筆挿絵)。

 この世界は球地(たまつち)と呼ばれる地上と球宙の空から成っている。球地は文字通り球の内側であり、空の中心には毬森(まりもり)と呼ばれる無重力の森が浮かぶ。なにより奇妙なのは太陽で、地面の黄道に沿って、4つの太陽が足身聖108人の「人力」で動くのだ。主人公たちも人類(ヒューマノイド)ではなく、成長は早く単性で子をはらみ、子どもは器官を再生させることさえできる。

 エイリアンやポストヒューマンなどを描いた作品でよく問題になるのは、その存在の擬人化の程度にある。どんなに奇怪な外見でも、中の人が見えてしまっては興ざめだ。かといって、共感が不可能なほど非人間化を進めると今度は物語が維持できない(読み続けることができなくなる)。酉島伝法は漢字を駆使した造語の氾濫で、その問題を克服している。暗い過去を持つ頑固おやじと跡継ぎの息子、家業を捨て自らの道を探す孫と(山田洋次風の)結構ベタな人間ドラマなのに、造語で形成された異世界のインパクトに幻惑されるのか、それほど違和感なく共感できるのだ。

僕の小説における造語は、映画でいう美術や特殊メイクみたいなものだと思います。(中略)ぴたっとはまったとたんに世界が広がったり、物語が転がりだしたりする

奇怪な幻想世界を支えるSF的思考 酉島伝法さん「奏で手のヌフレツン」インタビュー

と述べているが、その言葉の威力は小説の成り立ちをも左右している。物語の第1部はイメージ(上記挿絵参照)に圧倒される聖人式に始まり、二転三転するもう一つの聖人式に終わる。第2部は衰えゆく太陽を救うための(『指輪物語』を思わせる)旅が描かれる。また、本書は『零號琴』のような音楽SFでもある。前後編となる第1部・第2部で、それぞれ見せ場があって読者を飽きさせない。

 ところで、上記インタビューによると本書には最初から骨格となるSF設定があった。それは巻末の「起」の章を読めばわかるだろう。

矢野アロウ『ホライズン・ゲート 事象の狩人』/間宮改衣「ここはすべての夜明けまえ」早川書房

装画:たけもとあかる
装幀:坂野公一(welle design)

 第11回ハヤカワSFコンテストの大賞と特別賞受賞作である。著者の矢野アロウは1973年生まれ、間宮改衣(まみや・かい)は1992年生まれ。どちらも例年と比べれば短い作品になった。大賞作『ホライズン・ゲート』が360枚で短い長編、こちらは同じ宇宙SFの第7回優秀賞の『オーラリメイカー』300枚より少し長いくらい。特別賞作「ここはすべての夜明けまえ」は180枚、歴代の大賞/優秀賞/特別賞の中では、もっとも短い作品と思われる。これだけでは単行本にならないので、SFマガジン2024年2月号の巻頭に一挙掲載されている(書籍化は24年3月を予定)。

ホライズン・ゲート
 主人公は砂漠の狩猟の民ヒルギス人で、生来の銃の才能を見込まれホライズン・スケープの狙撃手となった。そこは、何ものかによって人工的に作られた巨大なブラックホール「ダーク・エイジ」を探査するための前哨基地だった。パメラ人のパートナーとペアになってそこに潜るのだ。だが、ダイブには危険が伴う。ネズミと呼ばれる未知の存在が干渉してくる。

 左右の脳を分離した狩猟民ヒルギス(祖神が宿る脳が独立している)や、前後に脳を分離し未来予知が可能な民パメラが登場する(テッド・チャン「あなたの人生の物語」の異星人のようでもある)。ただ意識のデジタル化とか脳内に別の人格が宿るとかの類型パターンには陥らず、あるいは(一部見られるものの)時間が混淆する映画「インターステラー」(ブラックホールの権威キップ・ソーンが監修)的な展開にもならない。むしろ宇宙のネズミを狩る猫「鼠と竜のゲーム」や、恋人との時間差が著しく開く「星の海に魂の帆をかけた女」といった、コードウェイナー・スミスの詩情(ロマン)を感じさせる。

ブラックホール周辺での特異な暮らしの様相がうまく描かれている。おぼろげに現れる謎の影の正体を解き明かし、人類の来歴との結びつきまで匂わせる匙加減がうまい。

小川一水

まず文章の、描写部分に詩的な表現があって、そこに惹かれた。(中略)文体や表現力など総合点で、大賞授与に異存はない。

神林長平

ラブロマンスで、ハードSFで、脳科学で、と、私の好きなものがたくさん入っていました。(中略)甘いだけではなく、最後まで主人公がちゃんと自立している点も素晴らしかった。

菅浩江

小林泰三「海を見る人」のスペースオペラ版ともいえるアイデアの豊富さと、後半の意外な展開の連打が素晴らしかった。

塩澤快浩(編集部)

 一方、昨年のような異論もあり、

超技術によるポストヒューマンな設定とあまりにも人間的な物語がバランスを欠いているように見えて、筆者は評価できなかった。

東浩紀

ここはすべての夜明けまえ
 22世紀、九州の田舎に住む主人公が自分の家族について語る。4人の兄弟だったが、最後は父親と自分だけが家に残る。その中で自身が融合手術を受ける理由が明らかになり、家族がばらばらになっていく過程が、甥との関係の顛末が、そしてまたこの世界がどうなっているのかが徐々に明らかになっていく。

 物語はひらがなを多用するモノローグ(語りではなく、ひらがなを多用した手書きの体裁をとる)に始まり、一人称ながらふつうの小説になる章を挟んで、再びモノローグに戻る。最初の章では家族の罪、2章目では社会の罪、最後は自身の罪が語られていると読める。ここで描かれるのは現在の風俗(ボーカロイドとかYouTubeとか将棋AIとか)、(肉体的精神的)DV、倫理感を欠いた自死の風潮、生身を棄てる融合手術、地球環境汚染といくつもあるが、あくまで個人の視点に絞られる点が今風だろう。

筆者が最高点をつけたのは、本作がジェンダーや性暴力の問題に向かい合った作品であり、今回の候補作のなかでもっとも心に響いたからである。

東浩紀

この人は科学についてあまり関心がない。(中略)その辺りの吞み込めなさを感じさせつつも、ひたすら主人公の語りで話を引きずっていく力がある。

小川一水

内容と表現方法が見事に一致している作品として高く評価する。(中略)旧態依然としたSF界を刷新していく作品になればいいと思い、推した。期待の度合いは大賞と遜色ない。

神林長平

文芸としての端正さと真摯さに圧倒された。ただ、なぜか漂う「物足りなさ」がSFとしての弱さなのか、私の読み手としての感性の鈍さなのか、最後まで判断がつかなかった。

塩澤快浩(編集部)

こちらも異論がある。

他の選考委員の方々と、一番評価が異なる作品でした。一人称饒舌体ともいえる文章で、しかも時系列が混乱していて、読むのが苦しかったです。

菅浩江

 図らずも、恋人が老化していくのに自分は変化しない(その裏返し)、という設定で2作品は共通する。しかし、似ていると思う人は少ないだろう。『ホライズン・ゲート』の舞台が日常から隔絶した遠い宇宙、もう一方の「ここはすべての夜明けまえ」はデフォルメされた現在の日本だからである。主人公も対照的で、前者は故郷を失った少数民族でありながら未来志向を忘れず、後者は内省的で自己の闇に沈み込んでいく(菅浩江は「自分の中に似たようなものがあるゆえに、新味が感じられない」とするが、例えば「夜陰譚」などを読むと分かる)。そこに共感を抱けるかが評価の分かれ目となる。とはいえ、両作とも簡潔さは良いとしても、語りつくされたと言えず短かすぎる。それぞれの世界をもう少し読みたいものだ。

小田雅久仁、粕谷知世、西崎憲,、日野俊太郎、南條竹則、冴崎伸、北野勇作、石野晶、大塚已愛、久保寺健彦、森青花、斉藤直子、三國青葉、柿村将彦、藤田雅矢、堀川アサコ、勝山海百合、関俊介『万象3』惑星と口笛ブックス

表紙デザイン:井村恭一

 『万象』(2018)、『万象ふたたび』(2021)に続く、日本ファンタジーノベル大賞受賞者によるオリジナル・アンソロジー第3弾。どの巻も1000枚前後のボリュームを誇る。今回は1200枚弱と、歴代最高を謳う。まとめ人(編者)あとがきを読むと「猫」「記憶」「怪獣」「3」「登下校」「世界」「字数」など、緩やかな縛りをお題・テーマとしているようだ。また、作品の題字と著者名は、各著者による自筆または自作(グラフィック)になっている。

 小田雅久仁「旅路」目が覚めると豪華なホテルの部屋で、見知らぬ女が横に寝ている。そして手首にはボタンが付いた黒い機械が巻き付いていた。
 粕谷知世「いき・かえり」田舎に住む小学1年生の女の子は、毎日集団登下校で農道を往復する。その途中で、いじめっ子が嫌がらせをするのだが。
 西崎憲「影機」死のうとした私を救ったのは、詩人でもあるロボットの成功者だった。人と同じ権利を持っているのだ。
 日野俊太郎「鬼街」いくさが続くと決まって鬼街が現れる。鬼の遊女がいて、戦いに疲れた男たちをもてなすのだ。そこに醜い男と身なりのいい若者がやってくる。
 南條竹則「温泉叙景」宿が一つしかない秘湯、微温湯温泉を知ったのは大学院生の頃だった。そこには二匹の猫がいて、懐いた一匹にマタタビを与えたことがある。
 冴崎伸「空想の現実~ミャンマーの沼/ぼくと博士の楽しい日常〔裏の目薬〕の巻」ミャンマーでのリアルな求人の旅/怪しい館に住む美麗な科学者による驚異の発明品。
 北野勇作「『クラゲ怪獣クゲラ対未亡人セクシーくノ一 昼下がりの密室』未使用テイク集」 奥様はくノ一、テトラポットではなくテトラポッド、クラゲならぬ怪獣クゲラ。
 石野晶「死人花」死者が埋葬された後、死人花がひそかに咲く。それには死者の幸福な記憶が凝集されているのだ。
 大塚已愛「せみごゑ」浜辺で倒れていた男は、自分の名前だけしか思い出せない。しかも、出会った少女は謎めいた言葉を告げて立ち去ってしまう。
 久保寺健彦「立ち入り禁止」登校班の同じ小学生たちは、よく刑事と泥棒ゲームで遊んだ。ただ、年長の女の子だけはいつも捕まらない。
 森青花「ちゃとらのチャトラン」「ねこのいい」チャトランはいつもぽーっとしている。近所にいるいろいろな猫たちといつも仲良くしたいと思っている。
 斉藤直子「大地は沸かした牛乳に」リモートワークが続く日常で、ネットを監視する主人公は先輩社員と掛け合いをしながらトラブルと対峙する。
 三國青葉「ばっくれ大悟婆難剣 冬虹」代筆屋でかろうじて生活する浪人の主人公は、雪の降る日に仇討ちを企てる少年を止める。家族にまつわる理由があるようだった。
 柿村将彦「反省文」読もうともしない教師宛の反省文で、登校時に遭遇した波乱万丈の事件を字数制限に合わせて綴る。
 藤田雅矢「ブランコ」公園で猫に餌をやった帰り、くねくねした路地の奥で郵便ボックスを改造した植木置きを見つける。そこに並ぶ鉢には何か意味があるようだった。
 堀川アサコ「3つの生け簀」古いアパートに越してきた主人公は、そこが「生け簀」であるという匿名の警告文を受け取る。どういう意味なのだろう。
 勝山海百合「紫には灰を」地球外の荷物が届いたと知らせが入る。それは異星に赴任した小学校の同級生からの紫草なのだった。
 関俊介「サナギ世界」主人公は幼体でまだ成体のように飛べなかった。それでも数えきれない仲間とともに跳躍しながら群れを追うのだ。彼らは黒いバッタだった。

 登下校ものでは「いき・かえり」「ぼくと博士の楽しい日常〔裏の目薬〕の巻」「立ち入り禁止」「反省文」「紫には灰を」などがある。記憶の「旅路」「死人花」「せみごゑ」、猫だと「温泉叙景」「ちゃとらのチャトラン」「ブランコ」、世界となると「旅路」「大地は沸かした牛乳に」(ネット世界)「サナギ世界」などか。怪獣(的なものを含め)は「鬼街」「『クラゲ怪獣クゲラ対未亡人セクシーくノ一 昼下がりの密室』未使用テイク集」。3は「3つの生贄」「ばっくれ大悟婆難剣 冬虹」(霜月三日の事件)だが、「サナギ世界」(主人公は第三齢)や、猫と字数を含む「反省文」のようにお題を複合的に組み合わせたものもある。同じお題の場合、よく似たテイストになっている。

 悪い意味ではないが、プロ作家の集まりであるのに同人誌的な雰囲気を感じる。同じ賞の出身者であるという仲間意識と、同じ自由な幻視者である(対象となるファンタジイの範囲が広い)という誇りがそう見せるのかもしれない。

 関俊介「サナギ世界」は短い長編(350枚、ノヴェラ相当)クラスの作品で、第24回優秀賞だった『絶対服従者 ワーカー』を思わせる。同作は昆虫(アリやハチ)たちが擬人化された物語だった。今回その昆虫は、未来の人類が昆虫に似せて派生・変態した姿なのだと説明される(なので、擬人化は間違ってはいない)。彼らは大群を作って飛蝗となるバッタの性質を残している。ただ、バッタはサナギにはならない(不完全変態)。なぜこの世界がサナギと呼ばれるのかが物語の主題となる。

なかむらあゆみ編『巣 徳島SFアンソロジー』あゆみ書房

装画:津田周平
デザイン:アドレナリンデザイン

 Kaguya Books(VGプラス)の一環として出版されたアンソロジー。同叢書は出版社を問わず、横断的に本(主にはアンソロジーやコレクションなどの作品集)を企画する形態をとるようだ。本書の編者なかむらあゆみ第4回阿波しらさぎ文学賞を受賞、賞金であゆみ書房を立ち上げて女性作家による文藝同人誌『巣』などを出している。今回はKaguya Books側からの働きかけを受け、徳島に所縁のある作家(男女を問わず)を集めたものという。徳島県内を除けば書店での取扱いは限られるが、通販(上記書影のリンクを参照)での入手が可能だ。

 前川朋子「新たなる旋回」(前後編から成る、徳島のどこかを切り取った5枚の写真)。田丸まひる「まるまる」(詩)幼稚園児が集めた隕石のダンゴムシがどんどん増えていく。小山田浩子「なかみ」部屋の整理に明け暮れるトモちゃんは、僕には見覚えのない鹿模様のポーチを見つけ出す。久保訓子「川面」手でつまめる小さな夫と共に、スーパーのチラシに惹かれて車で外出する。田中槐「三月のP」三階の窓を叩く光は宇宙人のような存在で、わたしの考えていることを理解している。高田友季子「飾り房」寺の総代と称する見知らぬ人からお参りを促された主人公は、猛暑の日に荒れ果てた墓にたどり着く。竹内紘子「セントローレンスの涙」ホームレスのネコと共に山でキャンプする男は、人形を連れたもう一人の男と出会う。なかむらあゆみ「ぼくはラジオリポーター」休業中だったかつての人気リポーターが、少年と共にふわふわおばさんの謎を追う。吉村萬壱「アウァの泥沼」全身から気力が抜けてしまう症状に苦しむ男と父親は、孤島にある泥沼に効能があると聞く。

 グラビア風に配された前川朋子による写真、寄稿作家による座談会や、田中槐によるお酒の写真と由来の説明もあるなど、雑誌風の構成になっていて読みやすい(判型もA5サイズ)。阿波しらさぎ文学賞の審査委員でもある小山田浩子(段落を一切設けない流れるような文体)、吉村萬壱(主人公のシチュエーションが異様で、その解決もまた異様)が目に留まるが、他の作家もそれぞれに実績を積んだ書き手で読み応えがある。

 テーマは徳島SFだが、そのSFを「S=そっと/F=ふみはずす」と定義している。「S=少し/F=不思議」と似ているが、そう思う/感じるだけでなく、実際に踏み外すという「行動」に含めるところがユニークだ。そっとふみはずした結果はとてもゆるやかに顕れるが、そこは現実から離れたもうひとつの徳島なのだろう。

筒井康隆『カーテンコール』新潮社

装画:とり・みき
装幀:新潮社装幀室

 最後の小説集とされる。著者はインタビューのなかで「「信じません!」と言っているのは、担当者だけ(笑)みんな、そろそろ死ぬんじゃないか?と思っている。売れているのは、それもあると思いますよ」とうそぶく。2年前に出た『ジャックポット』が実験的な小説集だったのに対して、本書は「エンタメでまとめてみた」ものという(といっても、発表媒体は、ほとんどがエンタメ系の小説誌ではない)。2020年から23年に書かれた、全部で25編の掌編小説を収める。なお、今後もエッセイや文学賞の選考委員は続けるとのこと。

 深夜便:酔った主人公と知人との会話の果て、花魁櫛(『ジャックポット』所収)、白蛇姫:白い蛇を友とする少女と父親の碌でもない替え歌、川のほとり(『ジャックポット』所収)、官邸前:総理と番記者のやけくその会話、本質:常務は女性部長の会議要約に頼り切る、:人里に下りてきた熊の撃退法、お時さん:森の中にあるはずのない赤提灯が見える、楽屋控:映画出演する作家に助監督が執拗な嫌がらせをする、夢工房:老人ホームの老人たちが語りだす夢、美食禍:旧石器時代の古代人に美食を教えた結果、夜は更けゆく:兄と妹との会話の微妙な間合い、お咲の人生:幼いころからぼくを守ってくれた女中のお咲、宵興行:新宿お玉が20年ぶりに舞台に立つ、離婚熱:家庭裁判所で離婚調停委員に理由を申し立てる、武装市民:何かの襲来に備え町の入り口でライフルを構える男たち、手を振る娘:窓を開くたびに手を振ってくれる娘、夜来香:敗戦直前の上海娼館での最後の夜、コロナ追分:コロナにまつわる事件の数々を洒落のめす、塩昆布まだか:老夫婦のまったくかみ合わない会話、横恋慕:変わった疑似餌でなんと人魚が釣れる、文士と夜警:結末に苦しむ作家が通う小料理屋、プレイバック:入院中の作家と見舞客たち、カーテンコール:作家や俳優が一言ずつ語り作者が感想を差しはさむ、附・山号寺号:4文字から17文字まで増殖する「さん」と「じ」から成る一文。

 どれも数ページの掌編にも拘わらず、このままで過不足がなく完結している。言語遊戯的な要素はあるものの、複雑な構造とか前衛的な描写はない。しかし、書かれたよりも遥かに長い(ちょっと古風な)物語を読んだような気分になる。といっても、長編や短編の一部を切り出した形ではなく、もちろんあらすじでもない。バラード流のコンデンスト・ノヴェルとは違うが、著者のテクニックを詰め込んだ高度に濃縮された小説といえる。

 中では「プレイバック」が終幕をイメージした作品だ。入院する著者の前に「時かけ」の少女や唯野教授など物語の登場人物が次々訪れ、あげく現在視点での批評や批判に対して言及する。最後には亡くなったSF作家たちまで登場する。淀川長治に終わる「カーテンコール」は、著者が青春時代に見た映画に対するオマージュに満ちている。

 ところで「プレイバック」に出てくる小松左京は「おれの『日本沈没』のたった三十枚のパロディで儲けやがって」と言うのだが、これを評者は現場で聞いたことがある(他でも言ったのかもしれないが)。京都で開かれた日本SF大会で『日本沈没』が星雲賞の長編部門を、「日本以外全部沈没」が短編部門を受賞した挨拶のときのことだった。「9年かかった長編の、たった30枚のパロディで(同じ)賞を貰いやがって」。当時の星雲賞は、出版界での権威も作家間での名誉もまだないファンの人気投票に過ぎなかった。小松の発言は軽い冗談なのである。だが、この一言は著者の記憶に強く残ったのだ。