スラプスティックSFから最先端文学へ 筒井康隆

 シミルボン転載コラム、今回は眉村卓と同世代の筒井康隆です。著名人でもあり、経歴を中心とした詳細なものはあるものの、何に重点を置くかで観点は変わってきます。ここでは主に作品の流れについての概要を記しています。以下本文。

 1934年生。中学校時代には学校に行かず、映画やマンガに熱中した。そのあたりは自伝『不良少年の映画史』(1979-81)などに詳しい。同志社大学卒業後、主催した〈NULL〉は〈宇宙塵〉がタイプ印刷だった時代に活版で印刷され、(当初)家族のみで作られた同人誌だと評判になった。そこに載せたショートショートが、江戸川乱歩編集の〈宝石1960年8月号〉に転載されデビューする。

 初短編集『東海道戦争』(1965)、続く『ベトナム観光公社』(1967)『アフリカの爆騨』(1968)、ショートショート集『にぎやかな未来』(1968)など最初期の作品には、シュールさと猥雑さの同居、際限のないエスカレーション、時代風俗や流行の織り込みといった特徴がある。当時の筒井康隆は、若いファンにとってカルトヒーローだった(始まったばかりの星雲賞を、第1回からほぼ毎年受賞していた)。この人気は、1960年代後半から70年代にかけて、著者が多数の作品を一般小説誌に発表していく過程で形成されたものだ。

 初長編『48億の妄想』(1965)は、カメラがすべての有名人に設置された未来、人々がカメラを意識した演技をするため、何が本当で何が嘘なのかわからなくなった社会を描いている。もともとのカメラはTVカメラだが、これを監視カメラやスマホのカメラに置き換えても十分成り立つだろう。嘘が現実を変える今の社会を予見しているのだ。

イラスト:貞本義行

 光瀬龍や眉村卓と同様、筒井康隆はこの時期にジュヴナイルを書いた。ラベンダーの香りで時をさかのぼる、『時をかける少女』(1967)は、TVドラマ・映画・アニメなど8回の映像化がされた代表作だ。これ以外にも『緑魔の町』(1970)『三丁目が戦争です』(1971)、入門書である『SF教室』(1971)などがある。

 『家族八景』(1972)『七瀬ふたたび』(1975)『エディプスの恋人』(1977)はテレパス火田七瀬の登場する3部作である。特に第3部では、超能力をタイポグラフィック(文字の組み方)で表現するなど新しい試みを取り入れている。最初の作品では、家政婦七瀬が家庭内の闇を見てしまい、次作では別の超能力者との出会いから危機が迫り、最終巻では奇妙な能力を持つ少年と遭遇する。著者はこれ以降シリーズものは書いていないが、超能力もののバリエーションとして、夢に潜入できる能力者が登場する『パプリカ』(1993)を書いている。これらはTVドラマやアニメになった。

 1970年代後半より後、筒井康隆の活動の舞台は純文学でのより実験的な作品群へと移っていく。第9回泉鏡花文学賞を獲った『虚人たち』(1981)では、登場人物が虚構(小説)内にいると知って行動する。高度成長がなかったかわりに映画の全盛期が続く、もう一つの昭和を描いたユートピア小説『美藝公』(1981)や、人類史のカリカチュアでもある知的なイタチが住む惑星と、生きている文具とが戦う『虚航船団』(1984)などは、どれも単純な筋書きで成り立つお話ではない。物語構造や設定を含めた仕掛けの精緻さに驚かされる。

 短編集『エロチック街道』(1981)の表題作は、どことも知れぬ田舎町で、裸の美女に導かれるまま温泉に迷い込む作品。映画化もされた「ジャズ大名」は、江戸時代に地方の城主がジャムセッションを開くお話だ。「遠い座敷」では、どこまでも無限に続く畳部屋を通り抜けていく。「遍在」は改行のない高密度の文体で書かれている。『串刺し教授』(1985)は、『虚構船団』の前後に書かれた、短編17編を収録。お互いかみ合わない会話、夢の風景、現実と虚構との混交などを描く作品が中心だ。

 第23回谷崎潤一郎賞受賞作の『夢の木坂分岐点』(1987)では、主人公がやくざの夢を見るシーンから始まる。覚醒すると、彼はプラスチック製造会社の課長である。ただ、この現実は、小説の進行とともに、微細に変質していく。名前が変わり、社名が変わり、地位が変わり、年令が変わる。舞台は、会社でのサイコドラマから、夢の屋敷 (どこまでも長い廊下が延び、閉じられた襖が連なる)に、夢の下町(老いた運転手の操る路面電車が、軒先を掠める)に、夢の木坂へと連なっていく。途中から、この小説には覚醒はなくなる。どこまでも落ちていく、奈落だけがある。ここに描かれるのは、無数に多重化された夢である。

 『薬菜飯店』(1988)神戸のとある路地裏に、薬菜飯店がある。薬菜とは、文字通り薬になる料理のこと。食べればたちまち体の毒素が溢れ、肺、内臓、血液から、とめどなく流れ出す。夢こそが現実、虚構こそが真実という著者のテーマが語られた「法子雲界」、第16回川端康成文学賞を得た「ヨッパ谷への下降」、サラダ記念日の一首一首を精密にパロディ化した「カラダ記念日」、スプラッタ小説「イチゴの日」「偽魔王」、また、正統派SFスタイルで書かれた「秒読み」など、この時期を代表する多様な作品を収めている。

 第12回日本SF大賞受賞作『朝のガスパール』(1992)は朝日新聞の連載小説で、当時普及しつつあったパソコン通信「電脳筒井線」を用いて、リアルタイムに読者の意見を吸収しながら物語を進めるという斬新な試みだった(お話自体でも、コンピュータゲームと現実との壁がなくなる)。ジャズのセッションのように、物語を読者と共作しようとしたものだ。そこで起こるトラブル(誹謗中傷事件など)が、逆に物語を形成する要素となっていた。記録は『電脳筒井線(全3巻)』(1992)にまとめられている。

 筒井康隆は、1993年に表現の自由をめぐり断筆を宣言、以降、和解と出版契約が整う1996年までが空白期間となる。これは今でもたびたび起こる、小説で差別表現がどこまで認められるか、という議論に対する一つの考え方になるだろう。

 第51回読売文学賞受賞作『わたしのグランパ』(1999)中学生の少女のもとに、かつて殺人事件を犯して刑務所に入れられていた祖父が帰ってくる。彼女の周りにはさまざまな波紋が広がる。祖父は飄々としてその全てを解決していき、やがて無くてはならないおじいちゃん(グランパ)となっていく。物語の長さは中篇、ここで思い出すのは「わが良き狼」(1969)である。流れ者の賞金稼ぎがふと帰ってきた故郷の町で、老いた友や敵たちと再会する物語だが、本書はちょうどその逆の位置関係にある。グランパは、還ってきた老ヒーローなのであり、敵は誰もが若い。その若さに対して、グランパは対抗するのではなく、自身の死に場所を求めるように、ただ冷静に相対していくのである。後に、菅原文太主演で映画化されている。

 筒井康隆は、2002年に文化勲章の紫綬褒章を、2010年に菊池寛賞を受賞する。だが、それで執筆を止めたわけではない。72歳で長編『銀齢の果て』(2006)を書く。高齢化社会の究極の解決法として、老人相互処刑制度(シルバー・バトル)が設けられ、70歳以上の老人が各区域1人になるまで、老人だけの殺し合いが行われるお話だ。79歳で書いた『聖痕』(2013)は、著者20年ぶりの朝日新聞連載小説。主人公は5歳の時に、変質者により性器を切除される。この世のものとも思えない美少年だった彼は、性に対する欲望の一切から解放され、やがて味覚の奥義に目覚めていく。81歳では、神自体がテーマである『モナドの領域』(2015)を書き、毎日芸術賞を受賞している。SF第1世代作家の中で、眉村卓とともに80歳を過ぎてなお執筆を続ける稀有な作家といえる。

(シミルボンに2017年3月6日掲載)

 この記事の2年半後に眉村卓さんは亡くなっています。筒井さんは今年になって日本芸術院会員となり、昨年末には最後の短編集とする『カーテンコール』を出すなど、活躍を続けています。

ながい長い宇宙の旅路

 さて、シミルボン転載企画(#シミルボン)、今回は世代宇宙船による恒星間飛行をテーマとした著作紹介です。シンプルに古典とベテランの新作を対比したもの。これも息が長いテーマで、昨年『ブレーキング・デイ』が翻訳されるなど、途切れることがありません。以下本文。

地球外への移住と聞いて、まず思い浮かぶのはお隣の火星かもしれない

 金星も隣人で、むしろ惑星の大きさでは火星より地球に近い。ただ、高熱で硫酸の雲に覆われているため、あまり植民には向いていない。それなら火星移住の話をということなのだが、もはや火星はスペースXのような民間のリアル企業が計画できるくらい、身近で現実的なものとなっている。今回は思い切って、もっと遠くの太陽系外を目指す旅を考えてみたい。

 最新の天文学によると、太陽系外、別の太陽の下には惑星がたくさんあると分かってきた。地球型惑星は小さいので発見が難しい。しかし、火星のように薄い大気の心配をする必要のない、ほんとうの第2の地球があるかもしれない。問題は距離である。太陽から最も近いケンタウリ座アルファ星でも4.3光年、40兆キロ離れている(映画「アバター」の舞台にはなったが、実際にはこの恒星系に地球型惑星はないようだ)。スタートレックなどのワープ航法でもない限り、到達不可能な距離にある。

 こういう途方もない距離を越える手段の一つに世代宇宙船がある。ワープは未知の技術だ。一方、世代宇宙船は国家的予算をかければおそらく可能だろう。文字通り宇宙船を故郷にして何十世代も人が生き死ぬことで、何百年を要する航海を乗り切るのだ。もちろん閉鎖環境では社会的、生物的問題が持ち上がる。何百年も閉じ込められて、当初の技術水準が維持できるだろうか。乗組員の子孫は先祖が勝手に決めた使命を、素直に引き継いでくれるだろうか。

カバー:鶴田一郎

 このテーマの最初の作品は、ロバート・A・ハインライン『宇宙の孤児』(1963)である。宇宙船の目的が過去の反乱で失われ、テクノロジーの継承がされないまま文明が退行する。そこで、船を唯一の世界だと思って育った少年が、外宇宙を知るまでが描かれている。単行本にまとまったのは遅いが、もともと1941年に発表された中篇が元になっている。70年以上前の時点で「世代」に関わる問題点は考えられており、アイデアとして完成の域に達していたことが分かる。

カバーデザイン:坂野公一

 英国SFの重鎮ブラインアン・オールディスが、33歳で書いた最初の長編『寄港地のない船』(1958)は、食用植物が人の背より高く生い茂る〈居住区〉の描写から始まる。数百人規模の人々が、植物を刈り取りながら前進し、見捨てられた部屋を次々移りながら生活している。世界はいくつもの階層に分かれており、〈前部〉には彼らとは異なる超越的な人々が住んでいるらしい。主人公は部族の一員だったが、司祭と共に〈前部〉を目指す旅に出ることになる。世界は船の中にある。船には他所の部族の他、巨人族、ミュータント、紛れ込む超常的な〈よそ者〉などがいる。彼らはいったい何者なのか。この船はどこを目指しているのか、船を操船するものは誰なのかと物語は展開し、最後に一ひねりがある。

 この作品は初期のSFマガジンで紹介され、長い間名前だけ知られる幻の作品の一つだった。昨年(2015年)、翻訳者の努力もあって出版に結びつき大きな話題になった。原著は初版当時から定評を得ており、継続的に読まれ続けるSFの古典である。

カバーイラスト:toi8

 梶尾真治《怨讐星域三部作》(2015)は《クロノス・ジョウンター》などで知られる著者が、ほぼ9年間にわたってSFマガジンに連載し、計31話の連作短編形式とした2000枚に及ぶ長編である。これまで書かれた著作中最長の作品で、世代宇宙船テーマの集大成といえる作品になっている。2016年の星雲賞日本長篇部門を受賞。全3冊それぞれは『怨讐星域I ノアズ・アーク』『怨讐星域II ニューエデン』『怨讐星域III 約束の地』である。

カバーイラスト:toi8

 地球が太陽フレアに焼かれ、滅びる可能性が高まる。しかし、この事実は隠され、移民船による脱出計画が密かに進んでいた。世代間宇宙船ノアズ・アーク号に乗り組み、172光年先にある地球型惑星を目指すのだ。その数3万人。一方、取り残された人々もやがて真相に気が付き、多くは奇跡的な発明「転送」装置により、瞬間移動することを選ぶ。だが転送は成功確率が低く、民族や家族も引き裂かれた、着の身着のままの人々が未開の大地に投げ出される結果となる。彼らを結びつけるのは、後から移民船でたどり着く人々を怨み復讐するという怒りなのだった。

カバーイラスト:toi8

 連作短編と書かれているように、本書は3つの世界、「宇宙船」、「約束の地=異星」、「地球」で起こる小さなエピソードの積み重ねで成り立っている。大統領の娘と恋人の物語:地球、襲いかかる未知の生き物:異星、残された人々の最後の日々:地球、分散していた小集団が迎える再会のとき:異星、記念劇に登場する意外な人物:異星、宇宙船の中での恋人探し:宇宙船、船で起こる重大事故:宇宙船、接近する宇宙船からの信号を受信したとき:異星、宇宙船排斥を叫ぶ過激派の台頭:異星などなどだ。未開の惑星に国家が誕生し、やがて文明化する。宇宙船がトラブルを抱えながら世代交代する。それぞれ数百年(正確な年数は書かれていない)の時間が経過する。著者の意図として、国家や権力のようなパワーゲームはあまり描かれない。限られた世界の中で生きる、人々の生活や淡い恋が点描されるのだ。最終エピソードは他者への信頼に満ちていて、いかにも梶尾真治らしい結末になっている。

(シミルボンに2016年12月13日掲載

最後の『怨讐星域』は『ハヤカワ文庫JA総解説1500』に書いた記事の元になったものです。

5年目を迎えたハヤカワSFコンテスト

 今年ハヤカワSFコンテストは、第12回目の公募を迎えています。このシミルボン転載コラムは、(7年前時点で)その意義を捉えなおそうというものです。コンテストの醍醐味として「意表を突く新人登場の瞬間を目撃」というのがありますが、将来どうなるかは簡単には見通せません。以下本文。

 早川書房が主催するSF新人賞は、1961年から始まり多くの作家を輩出してきた伝統ある賞だ。ただこの賞は、時代によって大きく性格を変えている。1961年第1回から63年第3回までの「空想科学小説コンテスト/SFコンテスト」と呼ばれた時代は、田中友幸、円谷英二らが審査員に入り、東宝とのタイアップで映画化を目指すというものだった(ただし、映画化まで進んだ作品はない)。入選または各賞に入った作家には、眉村卓、豊田有恒、小松左京、平井和正、半村良、光瀬龍、筒井康隆らがいる。第1世代作家の多くは、唯一のSF新人賞だったこの賞を目標にしていたのだ。

 この後11年の空白のあと、1974年の第4回「ハヤカワ・SFコンテスト」では、川田武、田中文雄、かんべむさし、山尾悠子らが(この回のみのアート部門では、加藤直之、宮武一貴らが)登場する。5年を空け、小説専門に戻した1979年の第5回から1992年の第18回までは毎年実施される。野阿梓、神林長平、大原まり子、火浦功、水見綾、草上仁、橋元淳一郎、中井紀夫、貴志祐介、藤田雅矢、柾悟郎、金子隆一、北野勇作、森岡浩之、松尾由美、秋山完ら多数が受賞者に名を連ねた。

 しかし後半になると、応募作の減少や入選作のない年が増え、中断を余儀なくされる。以降20年という最長の空白期間が生じる。この間、新人は「小松左京賞」「日本SF新人賞」や、「日本ファンタジーノベル大賞」「日本ホラー小説大賞」、あるいは多数生まれたライトノベルの新人賞など、他ジャンルの賞に移っていった。結果として、2002年から始まった早川書房のSF叢書《Jコレクション》では、新鋭作家のほとんどが別の新人賞を経た作家で占められるようになる。そこで2013年に再スタートした「ハヤカワSFコンテスト」では、

(前略)世界に通用する新たな才能の発掘と、その作品の全世界への発信を目的とした新人賞が「ハヤカワSFコンテスト」です。
中篇から長篇までを対象とし、長さにかかわらずもっとも優れた作品に大賞を与え、受賞作品は、日本国内では小社より単行本及び電子書籍で刊行するとともに、英語、中国語に翻訳し、世界へ向けた電子配信をします。

「募集開始のお知らせ」より

と、新たな目標「世界展開」を掲げ通算回数をいったんリセット、リニューアル感を鮮明にした。六冬和生『みずは無間』は、新生ハヤカワSFコンテストの第1回大賞受賞作である。

カバー:loundraw

 主人公はAIである。人間の意識が転写されたもので、遠宇宙へと飛び続ける無人宇宙機に搭載されている。膨大な時間を経ても機能するように、物資の調達、自己改変をする仕組みを持っている。しかし宇宙は空虚なままで、何ものとも遭遇することはない。やがて、AIは自身をコピーし、銀河に遍く散開させる。刻み込まれた“みずは”の記憶とともに。

 コピーされた人格という概念は、もはやSFのスタンダードである。生命に束縛されないから、何千何万年の時間スケールで宇宙を航行しても何の問題もない。イーガン『白熱光』がそうだった。小松左京『虚無回廊』に登場する“人工実存”はその一種になる。ところが、本書には主人公(AIの人格)の他に、みずはという恋人が現れる。きまぐれで直情的、食べることに対する執着、遠く離れた恋人にまで作用する暗い存在感。その“みずは”との泥沼の人間関係が時空間に拡張されていく異様さが、まさしく本書のポイントとなる。宇宙機のAIが、現代日本人の形而下的な感情に翻弄されるわけだ。読み手に対するインパクトという意味で、21世紀のSFコンテスト、今のSFの立ち位置を再認識できる作品といえる。

 第1回では、この他に坂本壱平『ファースト・サークル』小野寺整『テキスト9』下永聖高『オニキス』(短編集)が、最終候補作から書籍化されている。

 翌年、第2回ハヤカワSFコンテストでは、大賞に柴田勝家『ニルヤの島』が選ばれた。独特のペンネームと、侍のコスプレが話題を呼ぶ。

カバー:syo5

 書名の「ニルヤ」は、沖縄神話の中のニライ・カナイ(理想郷)の別称ニルヤ・カナヤに由来するものだ。主な宗教で死後の世界が否定され、人々は自身の記憶を叙述し記録することが、死を克服する手段になると考えるようになった21世紀末。そんな神のいない世界の中で、島々を長大な橋で結ぶことで成立したミクロネシア経済連合体には、死後を信じる宗教が生きていた。カヌーで死者を送り出す彼らの宗教にどんな意味があるのか。文化人類学者や模倣子行動学者たちは、それぞれの立場からその謎に迫っていく。

 物語は4つのセクションに分かれ、それぞれが平行に進んでいく。「Gift 贈与」は、2069年に文化人類学者が、島に残る伝承の語り手を訪ねるところから始まる。「Transcription 転写」では、島で休暇中の模倣子(ミーム)行動学者が死後を信じる統集派の葬列と出会い、「Accumulation 蓄積」は、橋が完成する前、現地で危険な潜水作業に就く父娘の物語である。チェスや将棋に似たゲームをひたすら続ける「Checkmate 弑殺」の章は、不連続な時間の流れ方となる。人の記憶する時間は断片的で連続しない。それは「叙述」されることで1つの物語になる。叙述という言葉は伝承(語り伝える)文学との関係を意識したと、〈SFマガジン2014年1月号〉の著者インタビューにもある。電脳世界におけるデータ化された人間は、イーガン『順列都市』の強い影響を受けたという。ポリネシア=沖縄神話と、今風のヴァーチャルな世界観を結ぶ野心作といえる。

 第2回では、最終候補作の神々廻楽市(ししば・らいち)『鴉龍天晴』と、倉田タカシ『母になる、石の礫で』が書籍化された。また伏見完はアンソロジイ『伊藤計劃トリビュート』に最初の作品を寄せている。

 第3回ハヤカワSFコンテストの大賞受賞作は、小川哲『ユートロニカのこちら側』である。連作短編形式で書かれている。ユートロニカとは、ユートピア+エレクトロニカ(電子音楽)から作られた造語だ。

カバー:mieze

 サンフランシスコの郊外に、アガスティアリゾートと呼ばれる都市が建設される。そこは見たもの聞いたものなど、全ての個人情報を企業に提供する代わりに、生活が保障されるある種のユートピアだった。個人の行動は事前に推測できるため、犯罪も予め抑えられる。そういった利便性は、プライバシーと引き換えに与えられる。物語は6つの章に分かれ、リゾートにかかわった人々の運命を描いている。

 犯罪者を予防拘束するといえば、映画やTVシリーズにもなったディック「マイノリティ・リポート」があり、Google的なIT企業がプライバシーを失わさせるデイヴ・エガーズ『ザ・サークル』、存在しなくなった都市を電脳空間に再現するトマス・スウェターリッチ『明日と明日』など、アイデア自体には先行する作品がいくつかある。しかし、本書は楽園の暗黒面を、陰謀(秘密組織や国家が黒幕)のようには描かない。その周りに住む(こちら側の)人々を点描することによって、自由意志とは何かを表現しているのだ。

 第3回では、佳作となったつかいまこと『世界の涯ての夏』が書籍化されている。

 第4回ハヤカワSFコンテストでは、優秀賞が2作品、黒石迩守(くろいしにかみ)『ヒュレーの海』、吉田エン『世界の終わりの壁際で』、及び特別賞の草野元々(くさのげんげん)『最後にして最初のアイドル』が選ばれた。審査委員の意見が割れたため、大賞受賞作は出なかった。

カバー:ジェイコブ・ロザルスキ

 未来のいつか。文明は混沌に呑み込まれ崩壊、情報的記録の海が地球を覆う。人類はシリンダ型の塔のような都市に住み、都市は7つの序列を持ち、さらに資本家と労働階級に分かれる。人類はある種の情報生物となって世界に適応している。そんな中、過去の記録にある本物の海を見ようと、下層民の少年少女は旅立つ。

 『ヒュレーの海』のヒュレーとは、アリストテレス哲学でいう、形相(エイドス)と質料(ヒュレー)に由来する。情報生物が主人公なので、ソフト/ファームウェアとハードウェアとでもいえばよいのか。現職プログラマーの経歴を生かした、ITの専門用語をルビで駆使する異形の世界が印象的だ。

カバー:しおん

 未来の東京は山手線の内側に壁を築き、その外部との出入りを遮断している。内側にある〈シティ〉は、大規模な環境変動から逃れるための箱舟なのだ。外側で育った主人公は電脳ゲームの名手だったが、ある日アルビノの少女や奇妙な人工知能と出会ったことで、内側世界の秘密を知ることになる。

 物語では、ゲーム空間でのバトルと、リアル世界である壁内側/外側の争いが並行して描かれている。優秀賞受賞の2人は、ともにオンラインサイト〈小説家になろう〉で活動していることでも話題になった。

 「最後にして最初のアイドル」は120枚ほどの中編小説だが、この題名通りステープルドン『最後にして最初の人類』をベースに、その主体が人類ではなくアイドルだったら、という驚くべき発想で書かれている。電子書籍でベストセラーに上がり、『伊藤計劃トリビュート2』に収録されるなど注目を集めた。

 ハヤカワSFコンテストは2017年で第5回目を迎える。応募総数こそ、ラノベ系やネット系新人賞に比べて少ないが、入選作を見る限り応募作の水準は相当高い。発足の趣旨に沿った世界展開が図られ、新人発掘の場として機能していくことを期待したい。

(シミルボンに2017年2月7日掲載)

 国際化を謳ったハヤカワSFコンテストですが、英訳や中国語訳などの実績はまだないようです。この趣旨は、VG+主催によるかぐやSFコンテストで実現しています。なお、5回から11回までのコンテストについては、このページからリンクを逆にたどることで読むことができます。

幻視者の見た9つの世界『神樂坂隧道』

 シミルボン(#シミルボン)のコラムの中では、ちょっと異色の作家を紹介しましょう。西秋生、この名前ご存じでしょうか。《異形コレクション》など、アンソロジーや専門誌で見かけた覚えがあるかもしれません。小説の単行本がなかったこともあり知る人ぞ知る作家ですが、独特の忘れがたい印象がありました。以下本文。

装幀:戸田勝久

 西秋生という作家がいた。1970年初め頃から同人誌等で活動をはじめ、1984年から91年まで〈SFアドベンチャー〉や《ショートショートの広場》にて主に短篇、ショートショートを掲載、2000年代に入ってからは井上雅彦監修《異形コレクション》にも寄稿していた。著作には、神戸新聞夕刊の連載をまとめた『ハイカラ神戸幻視行 コスモポリタンと美少女の都へ』がある。この本は地元神戸と縁の深い、稲垣足穂や江戸川乱歩、谷崎潤一郎ら画家や作家が描く戦前の神戸を幻視するエッセイ集だ。

 そんな西秋生だったが、2015年9月に急逝する。70作近い作品があるのに、小説をまとめた著作集がないままだった。そこで、有志によって編まれたのが『神樂坂隧道』である。この本には9つの短篇が収録されている。

  • 『夢幻小説傑作選』について(1985):夢で編む小説集についての同人誌でのエッセイだが、本書の巻頭言として違和感なく置かれている。
  • 1001の光の物語(2011):『異形コレクション 物語のルミナリエ』所収。わずか12段落の文章で綴られた、タルホ風超掌編小説。
  • マネキン(1977):『ネオ・ヌルの時代 PART2』所収。マネキンとなった兄に語りかける弟。筒井康隆から「完璧な小品」と評された作品。
  • 走る(1977):同所収。文明が滅びた世界を、バイクで走り抜ける男を描いた疾走感あふれる作品。
  • いたい(1980):『ショートショートの広場1』所収。主人公を追ってきた姉は、毎夜幻の痛みに苦しめられる。
  • 星の飛ぶ村(1992):作家が訪れた村では、UFOらしきものが現われるが誰も存在を気にしない。
  • チャップリンの幽霊(2007):『異形コレクション ひとにぎりの異形』所収。神戸新開地の工事現場に、その地で亡くなったチャップリンの幽霊が出るらしい。
  • 神樂坂隧道(2000):第5回日本ホラー小説大賞最終候補作の改稿版。戦前の東京、神楽坂の下には得体のしれないトンネルがあった。乱歩をイメージする旧仮名遣いで書かれたホラー小説。
  • 翳の そしてまぼろしの黄泉(1984):〈SFアドベンチャー〉1984年12月号掲載。3人の同人誌仲間がスナック「オクトーバー・カントリー」に集い、お互いの作品を講評し合う。中井英夫のオマージュ作品でもある。
  • 5:46(1998):著者が実際に体験した阪神淡路大震災の瞬間をモチーフとし、神戸のさまざまな風景を封じ込めた幻想小説。

 本書の作品には、おおまかに3つの時代が含まれる。1つは完璧と言われたアマチュア時代のショートショート「走る」や「いたい」が書かれる1970年代、もう1つは「翳の…」を含む〈SFアドベンチャー〉にホラー短篇を寄稿していた1980年代、そして「神樂坂隧道」「1001の光の物語」など、乱歩やタルホを別の視点から描き出す夢幻小説群を書く1990年代以降である。

 考えてみれば、初期の段階で筒井康隆が認めるほど「完璧」な作品が書けたのだ。そのまま書き進めても良かったように思うが、おそらく著者が20代に抱えていた創作の動機(兄や姉への情感、滅びゆく世界に対する焦燥感と、反面突き放したような虚無感)は維持できる性質ではなかったのだろう。やがて、モダン・ホラーに趣向が変わり多数の作品を発表するものの、本書ではこの時期の短篇は1作しか採られていない。著者の迷いが、作品自体を歪めたせいかもしれない。

 その後、地元神戸や探偵小説に由来する幻想を語りはじめ高評価を得るようになる。1995年の大震災を契機に、神戸に対する志向性はより強まった。それらは、冒頭の「夢幻小説」を体現する独特の作品群となった。

 本書の後半に収録された追悼文も読みでがある。眉村卓はラジオ番組に投稿していた時代から振り返り、ネオ・ヌル時代から創作仲間だった高井信、大学の先輩で分析的な作品論に踏み込むかんべむさし、星新一ショートショートコンテストで繋がる江坂遊、異形コレクションで関係する井上雅彦、神戸での一夜の出会いを語る森下一仁、特に最近の諸作を高く評価する堀晃、神戸新聞編集者の大町聡は『ハイカラ神戸幻視行』連載当時を語っている。

装幀:戸田勝久

 『神樂坂隧道』は一部の書店で入手可能だが数が限られる。見当たらない場合は、ここからオンデマンド版を直接購入することができる。版型はB6判(四六判)並製(ソフトカバー)224頁。カバーや帯の付かないペーパーバックである。なお、前掲書の続編(新聞連載の後半)として『ハイカラ神戸幻視行 紀行篇 夢の名残り』も、戸田勝久の装幀で出版された。こちらも、一般書店での入手は限られる。

(シミルボンに2016年9月14日掲載)

 紹介した本のうち『ハイカラ神戸幻視行』は、どちらも新刊入手はできないようですが、『神樂坂隧道』については現在でもオンデマンドで購入可能です。

異世界への旅人 眉村卓

 シミルボン(#シミルボン)のコラムでは作家の紹介記事も書いていました。話題の作家だけでなく、ベテランでも全体像が分かりにくかったり、新刊入手が難しい作家を含んでいます。以下本文。

 眉村卓は1934年大阪市に生まれ、国民学校(小学校)の時代に戦災や疎開を経験した。その頃のエピソードは、ありえたかもしれないもう一つの少年時代を描いた「エイやん」(2002)の中にも描かれている。新制中学、高校を経て大阪大学を卒業。1960年に〈宇宙塵〉に入会、翌年第1回日本SFコンテスト(ハヤカワSFコンテストの前身)に入選しデビューする。

 デビューの後、ヒーローものともいえる初長編『燃える傾斜』(1963)を出版、作家専業となる年に出した短編集『準B級市民』(1965)には、後の宇宙もの、異世界ものに成長する作品が既に多く収録されていた。同時期に書かれた作品のうち、イミジェックスという情報装置により消費がコントロールされるディストピア小説『幻影の構成』(1966)は、今こそ読み直す価値があるだろう。

 この頃、光瀬龍らとともにジュヴナイルを書きはじめる。転校してきた美少年を巡る不可思議な事件『なぞの転校生』(1967)、見知らぬ女の子から届いた手紙『まぼろしのペンフレンド』(1970)、田舎町の因習が超常現象となって現れる『ねじれた町』(1974)、中学の生徒会長に選ばれた少女が着々と支配力を強めていく『ねらわれた学園』(1976)など、累計30作余りにものぼる。特に『ねらわれた学園』はTVドラマ・映画・アニメなど7回、『なぞの転校生』も同じく3回と、筒井康隆『時をかける少女』に並ぶ息の長い人気作品となった。他にも映画化、ドラマ化された作品は多く、著者を代表するジャンルといえる。

装画:加藤直之

 シリーズものでは、宇宙を舞台とする《司政官》が重要だ。司政官とは地球連邦から派遣された惑星統治の専門家のこと。しかし、任地でその権威が認められるとは限らない。『司政官 全短編』(2008) は、1974年と80年に出た中短編集を、年代記順に再編集した決定版である。「長い暁」多島海からなる惑星。軍政下で接触の機会が少なかった原住者との出会いが、予想外の危機を呼ぶ。「照り返しの丘」異星人の生み出したロボットが支配する惑星。その秘密を得るための手がかりとは。「炎と花びら」知性ある植物の惑星。彼らは成長すると知恵を失い、花びらを開き、季節風に乗って旅立つ。「遺跡の風」遺跡だけが残され、遠い昔に文明が滅びた惑星。植民者の間には幽霊が出没するという。「限界のヤヌス」急速に植民者が増えつつある惑星。司政官に反抗するリーダーはかつての同僚だった、など7作を収める。

 連邦制度をとる未来社会(特に官僚機構)、異星の描写、主人公の心理描写など、何れもが細密に描き込まれている。ロボット官僚たちに囲まれ、ただ一人の人間である司政官が統治するという設定が面白い。官僚機構は、ローマ時代から本質的な変化がない普遍的なものだ。こういった部分に焦点を当てたSF作品は他にないため、古びて見えず新鮮な印象を受ける。《司政官》は長編を含めてもわずか9作しかないが、ばらばらでは独特の世界を理解するのが難しい。一挙に読んでこそ面白さが分かる内容といえる。

装画:加藤直之

 長編には、第10回星雲賞、第7回泉鏡花文学賞を受賞した、太陽活動の異変で居住が困難となった惑星に赴任する司政官を描く『消滅の光輪』(1979)と、司政官制度が力を失った衰退の時代、苦闘する主人公の物語『引き潮のとき(全5巻)』(1988-95)がある。第17回星雲賞を受賞した後者は、〈SFマガジン〉に12年間にわたって連載された大長編であるが、残念なことに電子書籍版がない。手軽に読める『消滅の光輪』からまずお試しいただきたい。眉村卓には、《司政官》以外の宇宙ものとして『不定期エスパー(全8巻)』(1988-90)もある。超能力者でありながらその力を制御できない主人公が、貴族の勢力争いの中で地位を固めていくドラマだ。

 ジュヴナイル、宇宙ものと並んで、眉村卓の作品では異世界が多く描かれる。異世界とは、現実と違った(現実とよく似ている、あるいはよく似た人物がいる)別の世界のことだが、シームレスにつながっていて簡単に迷い込んでしまう。それは、『ぬばたまの…』(1978)のようなうす暗い幻想世界だったり、『傾いた地平線』(1981)の過去の自分と複雑に入れかわる世界だったりする。第7回日本文芸大賞を受賞した『夕焼けの回転木馬』(1986)では、著者の分身のような2人の登場人物が絡み合いながら、過去から続く無数の可能性に呑み込まれていく。

 『虹の裏側』(1994)は主に初期(1965-79)に書かれた、異世界ものを集成した傑作選である。「仕事ください」「ピーや」「サルがいる」など、登場人物の内面を映し出すホラー的な作品も含まれている。このうち高校生がタイムスリップする「名残の雪」は、ドラマや映画になった「幕末高校生」の原作である。

『妻に捧げた1778話』(2004)は、癌で闘病する妻(2002年に死去)に毎日1話のショートショートをささげた実話で、映画化もされベストセラーにもなった。本書には、一連のショートショート群からの抜粋の他、著者の自伝的な記述も含まれている。夫人とは高校時代に知りあいデビュー前からお互いを支え合ってきた。著者の作品と、夫婦の生きざまとは深いつながりがある。ショートショートを書いた前後およそ10年間は、それ以外の執筆が空白となるくらい重い時間だった。ショートショートの一部は『日がわり一話』『日がわり一話(第2集)』(1998)にまとめられている。

イラスト:ケッソクヒデキ

 しかし、この後も眉村卓は作品の発表を続けている。72歳で発表したセルフパロディのような長編『いいかげんワールド』(2006) 、77歳での短編集『沈みゆく人』(2011)、82歳で出した短編集『終幕のゆくえ』(2016)などは、異世界ものの新境地だろう。あとがきで著者は、異世界は現実に対置するものではなく、それ自体存在するものだと述べている。物語の主人公(多くは老人)は、さまざまな奇妙で不気味な異世界に踏み込んでいく。これはわれわれの今、あるいは、明日の姿を暗示するものだろう。

(シミルボンに2017年3月3日掲載)

 この2年後の2019年11月、眉村卓さんは亡くなっています。病床で書かれた遺作長編『その果てを知らず』(2020)は一般でも話題に。また、有志によるビブリオ付きの追悼文集『眉村卓の異世界通信』(2021)は、出版社を介しない私家版でありながら、AmazonのSFカテゴリ10位になるなど好評を博しました。ゆかりの作家による続編『眉村卓の異世界物語』(2022)も出ています。

SFと神さまのはざま

 著者がシミルボンに寄稿したコラム(#シミルボン)は、読書案内を意図したものが多め。この記事もSFの代表的テーマを作品に則して紹介したものです。(なるべく)電子書籍で入手可能なものが良い、という当時の編集部方針に配慮した内容になっています。以下本文。

 万物を創造した神さまは実在するのか。そんなことを真剣に悩む人は現代にはいない……とお考えだろうか。けれど、一方で神さまのために殉教する人がいるし、神さまの存在を疑わず、政治や倫理の基準だと考える人もたくさんいる。世界からとどくニュースには、神さまの影響力が顔をのぞかせているわけだ。科学不信があるとはいえ、おそらく物理的に存在しえない神さまが、なぜこんなに支持されているのだろう。

装幀:岩郷重力+T.K

 SFでは神さまのような存在がよく描かれる。アーサー・C・クラークの古典『幼年期の終わり(別題:地球幼年期の終わり)』(1953)では、人類を導く異星人が登場する。圧倒的なテクノロジーを持ち、進化の制御までできるのだから神とみなせる存在だろう。山田正紀『神狩り』(1974)に登場する神は、人類には理解不能の言語を持つ超越者だが、歴史に干渉する悪しき存在でもある。秘密を知った主人公は、神と対決する決意を秘める。そういう神々は人を越えたものでありながら、ある種の不完全さを残している。人間でもいつか同じレベルに手が届くかもしれない。だからこそ、対決を考える余地が生まれるのだ。

カバー装画:松尾たいこ

 人間が神さまになるお話もある。マッドサイエンティストが人工の宇宙を造るエドモンド・ハミルトンの古典「フェッセンデンの宇宙」(1937)(同題の短篇集に収録)や、機本伸司『神様のパズル』(2002)などだ。これらは箱庭のような閉じられた実験室内で、宇宙を物理的に製造する。ここまでのスケールはないが、ロバート・F・ヤング「特別急行がおくれた日」(1977)(短篇集『たんぽぽ娘』に収録)などもよく似た発想で書かれている。人間を神にスケールアップはできないので、逆に創造物を人間よりもはるかに(比喩的にも物理的にも)小さくするという考え方だ。しかし想像するまでもなく、しょせん人間が神なのだから崇高な創造者とはならない。心の弱さや残虐さをむき出しにした結果、宇宙もろとも破滅してしまう。

カバー:小阪淳

 グレッグ・イーガンの「祈りの海」(1998)(短篇集『祈りの海』の表題作)は、必ず奇蹟が体験できる異星の海を描き出す。住民たちは海の中での体験を経て、神の存在を確信する。しかし、科学者の研究により真相が明らかになる。我々が感じとる神というのは、高度な啓示によるものではなく、単なる生理的「現象」に過ぎないのかもしれない。ただ例えそうだとしても、当事者にとって神の実在が感じとれ、神を前提とした生活があるのなら簡単に逃れられはしないだろう。

カバー:岩郷重力 +WONDER WORKZ。

 テッド・チャンに「地獄とは神の不在なり」(2001)(短篇集『あなたの人生の物語』に収録)という作品がある。描かれているのは、キリスト教の天使がほんとうに降臨する世界である。天使の降臨は地上にさまざまな天変地異を引き起こし、罪もない人々が何人も亡くなる。逆に奇蹟が起こり、不治の病が治癒することもある。神は無慈悲な存在で、人の都合にはなんの配慮も払わない。畏怖すべき絶対的な神が存在するのに、人は祈りによって救われるとは限らない。まさに、今現在の現実をデフォルメした世界観だ。

 山本弘は長編『神は沈黙せず』(2003)でこんな物語を語る。主人公は幼いころ両親を災害で失う。それ以来、神の存在や神の意思について強い猜疑心を抱きながら成長する。やがて、フリーライターとなって、神に憑かれた人々の取材をはじめる。さまざまなカルト団体が奉じる神は、何の事実にも基づかない詐欺まがいの存在でしかなかった。しかし、合理的な説明のできない、奇妙な現象が主人公を襲う。やがて、神の実在を印象付ける、驚くべき事件が世界を揺るがす。本書では、UFO・UMA・超能力・超常現象の目撃例=あるがままの事件が膨大に提示される。超常的な現象と神の存在とには、何らかの共通点があるのかもしれない。物語は大ネタの解明で終わるのだが、神に人生を翻弄された人々はある種の諦観にたどり着く。神の定めた運命と、感情を持つ一個人との葛藤の結果ともいえる。

カバー:岩郷重力 +WONDER WORKZ。

 神林長平の長編『膚の下』(2004)では、視点が人類とは異なる。大戦争の結果、荒れ果て修復の目処も立たない地球では、全ての人類を火星に移して冬眠させ、地球再生を試みる計画が進んでいる。計画を推進するために、人造人間=アンドロイドであるアートルーパーが作られる。驚異的な生命力を持ち、知能は人類と同等の彼らは、荒廃した地上の管理者である。やがて、独特の自意識が芽生え、新たな救世主を育むものとなる。この物語は、多様性など顧みられずたった一つの目的で作られたアートルーパーの成長小説である。しかし「膚の下」に流れる血が人類と同じ人造人間は、全ての生物を救う存在となる。ここでは救世主=神を求める精神は、人間でなくても宿ると述べられている。

 後半の4つの物語の中では、神は人の思いと無関係なものとして描かれる。無関係ということは、存在しないに等しい。しかし、人はそれを自分に受け入れやすい形へと解釈し直す。悲しみや怒りを鎮め、自身の不遇さや人を亡くした苦しみを軽減する手立てにする。神さまの実在は問題ではない。単なる錯覚であっても、非科学的で人間に無関心な神であっても構わないのだ。実際、世界の人々が信じる神は、そういった心の中の存在なのである。

(シミルボンに2016年12月15日掲載)

これが原点!『最後にして最初のアイドル』の元ネタをふりかえる

 シミルボン転載コラム(#シミルボン)で今回取り上げるのはステープルドンの『最初にして最後の人類』です。もう7年前になりますが、草野原々のSFコンテストデビューに絡めて書いたもの。以下本文。

この本の目的は単に芸術として言祝ぐべき絵空事を創造しようというのではない。成し遂げなくてはならないのは、ただの歴史でもなければ絵空事でもない。 神話なのである……

著者による「はしがき」より
装丁:妹尾浩也

 2017年第4回ハヤカワSFコンテスト特別賞と、同年の星雲賞日本短編部門をダブル受賞した草野原々「最後にして最初のアイドル」には(少なくとも標題に関して)元ネタがあります。それが、今回紹介するオラフ・ステープルドンによる特異な作品『最後にして最初の人類』です。

 残念ながら本書に限らず、ステープルドンは新刊では入手できません。しかし、姉妹編となる『スターメイカー』(1937)が復刊するとの朗報もあり、評判によっては本書を含めて見直される可能性はあります。内容をお話しするのも無駄ではないでしょう。

 『最後にして最初の人類』(1930)は並みの小説ではありません。哲学者としても知られるオラフ・ステープルドンが、人類の長大な未来史を描きだした長編です。著者初めての小説で、後の『シリウス』(1942)などよりも読みやすさでこそ劣りますが、堂々としたクラシックの風格があり、読み始めるとその果てしがないスケールに驚かされます。小説とは言えないのかもしれません。「登場人物」がおらず、たかだか数十万年のいわゆる人類史とは異なる、20億年の神話が物語られているからです。

 この本は「最後の人類」が「最初の人類」の口(頭脳)を借りて、人類の神話=本書を物語るという形式で書かれています。神話は近未来から始まります。(1930年当時の世界情勢がベースですが)連鎖的な覇権争いが起こり、英・仏、露・独、欧州対米国のそれぞれの戦争の後、疲弊したヨーロッパを離れ、遂に中国と米国の世界戦争を経て、アメリカ経済による世界国家の時代が訪れます。

 第1次世界国家は2000年にわたり繁栄します。しかし、エネルギーの浪費によって崩壊、資源が枯渇した反動で、以後10万年にもわたる長い暗黒時代が続くことになります。その後、南米に興ったパタゴニア文明は、500年にわたって緩やかに世界に浸透し、遂に核エネルギーの秘密に到達しますが、ある偶然から核の連鎖反応を起こし、環境は完全に破壊されてしまいます。こうして、第1期人類は滅亡し、1000万年に及ぶ暗黒時代が到来します。

縦軸は物語に合わせ、対数スケールで作られています。

 大陸は形を変え、生き残った数名の人類は、独特の進化を経て200歳の寿命を持つ巨人に姿を変えます。第2期人類です。彼らは高度な共感能力を持ち、35万年の間に消長を重ねながら、資源の乏しい中でようやく世界国家を築くことができました。ところが、ここで火星生命の侵攻が生じます。火星の知性は、大気や水が不足する中でウィルスのような微小な生命の集合体に進化し、1つの精神として機能しているのです。彼らは、地球の水を奪取するために、太陽風に乗って侵略してきました。戦争は断続的に5万年にわたって続けられ、末期には双方を滅ぼす生物兵器により、火星側が全滅し終結します。しかし、人類の文明も失われ、原始の状態に停滞したまま3000万年が流れすぎます。

 第3期人類は、小柄で寿命も50年ほど。6本の指を持ち、生命の改良に執着していました。そして数十万年にわたる文明は、ついに人工の生命、頭脳だけの人間の創造に至ります。巨大な脳と、脳を維持する装置/組織だけで成り立つ人類、第4期人類が誕生するのです。彼らは仲間を増やし遂に第3期人類を滅亡させますが、究極の真理を得るためには理想の肉体が不可欠であると結論し、第5期人類を創造します。彼らは火星由来の精神感応能力を有し、3000年の寿命を持ち、巨大脳人類が滅びた後、地球中を100億の人口で満たしました。繁栄は数千万年に及び、最後には寿命も5万年に延びます。けれど、月の接近による破滅は防げず、金星への移住を強いられるのです。

 金星のテラフォーミングを進める中で、第5期人類は固有生命を絶滅させ、ようやく根付きます。文明は原始に還り、知能を第1期並に復活させた第6期人類が蘇るまで2億年が過ぎていました。彼らから生まれた第7期人類は、蝙蝠のように空を飛ぶ小柄な人々でした。およそ1億年の歳月が、進歩の止まったまま続きます。第8期人類はまた地上に戻り、金星を工学的に作り変えていきました。しかし、太陽が白色矮星に変わる異変を察知し、遠く海王星への移住を決意します。

 ここまでで、10億年の歳月が流れすぎています。海王星に移住した人類は、大気が安定する頃には原始生物まで退化し、第10期人類と呼べるまで進化するのに3億年をかけていました。さらに3億年後、第16期人類は惑星軌道を変更する能力を持ち、やがて太陽の超新星化を待つ、寿命25万年という第18期人類を創造するのです。

 以上で分かるように、本書の人類というのは、厳密な意味での「人間」ではありません。ちょうど我々が、遠い昔の原始哺乳類の子孫であるように、人類の子孫は激変で何度も何度も退化し、再度知性を得て新しい「人類」となります。その過程が、20億年にわたって書き綴られているわけです。そしてまた各時代の「人類」たちが、何を求めて世界を営んできたかを、さまざまな観点で書き記したところに本書のキーポイントがあります。

カバーデザイン:山田英春

 本書や、宇宙規模で書かれた『スターメイカー』は、アーサー・C・クラークらへの影響(最初期の『銀河帝国の崩壊』『幼年期の終わり』、後の『2001年宇宙の旅』)など、一部に痕跡は認められますが、直系の子孫といえる作品は存在しないと思います。人類が異形のものへと変容していくさま、章を経るごとに100倍に拡大される時間スケールの壮大さは、SFやファンタジイを含め唯一ともいえる奇跡的な創造物でしょう。

 数千万年後の未来といえば、人類は滅亡していると考えるのが科学的にはまっとうかも知れません。ドゥーガル・ディクソンの『アフターマン』(1981)は5000年後の人類滅亡後、5000万年未来の地球の生物層を創造しています。そこでは、齧歯類が大型化して栄えているのです。その続編ともいえる『フューチャー・イズ・ワイルド』(2003)は、500万年後から2億年後の生物をCGで描き出したもの。最近でも『驚異の未来生物: 人類が消えた1000万年後の世界』(2015)などが出ています。ただし、これらは生物学的な進化がテーマなので、ステープルドンのような思索性は希薄です。

イラスト:TNSK

 受賞作と同題の『最後にして最初のアイドル』は草野原々の初作品集。人類ならぬアイドルが異形のものへと変容する表題作は、最初に単独の電子書籍、伊藤計劃トリビュートアンソロジイ収録、紙書籍化と3回出版された人気作です。さて、草野原々が誰も成しえなかったステープルドンの子孫となるか、異形進化となるのかは、これからの活躍しだいだと思います。

(シミルボンに2018年3月8日掲載)

 『スターメイカー』は1990年に初翻訳、その後2004年に新版、文中にある文庫版は2021年になってようやく出ました。ドゥーガル・ディクソンの諸作は、恐竜ものの変種として読み継がれた『新恐竜』を除けば、新版も含めて新刊入手はできないようです。

シン・ゴジラを見ました

 シミルボン転載コラム(#シミルボン)第3回目「ゴジラ-1.0」がアカデミー賞(視覚効果部門)候補になったという話題もあって、一つ前の「シン・ゴジラ」のコラムを選びました。「見ました」というタイトルで分かる通り、視聴直後の感想エッセイです。もう8年前になりますね。

要約すると、円城塔的な暗号文の解読を行なうSF大会スタッフのような組織が、無敵の怪獣ゴジラを伊藤アキラ的ガジェットの攻撃で停止させてしまう、というものです。

公式サイトより引用

 この映画は、エンドロール中至るところに庵野秀明の名前を見ることができます(音楽や美術関係など)。総監督以外でエンドロールに名前が出るのは、最終可否の判断だけではなく、実作業にも多く関わったという意味なのでしょう。

 アニメが本業で特撮が趣味なのか、その逆なのかは分かりませんが、庵野秀明にはDAICON FILM時代の自主製作映画「帰ってきたウルトラマン」(1983)から「巨神兵東京に現る」(2012)まで、精密に造られたミニチュアや怪物の造形=特撮が生み出した文化への独特のこだわりがありました。本作品では予算が潤沢にあるためか、特撮に隙がありません。庵野流の遊びが至るところに込められているようです。

 まず、ゴジラのような災害級のバケモノを、今の日本に現出させようとすると、社会的リアリティが重要になります。まだ誰もが憶えている、3.11を援用するというこの映画の方法は合理的でしょう。政府や役人の対応は、3.11に準じた、あるいは参考にしたシステムとなっています。同様に、大災害に対峙できる組織は軍隊以外にありません。自衛隊が主役となるのは物理的理由で、政治思想や有事立法とはあまり関係がないと思われます。ただし、特撮怪獣もののお約束は忠実に守られています。たとえ最新兵器であっても、人間の武器で怪獣を抹殺することはできないのです。したがって、自衛隊や米軍は敗退します。

 次に、ゴジラのリアリティは、社会的パートだけでは足りません。特殊であるにせよ、ゴジラにクリーチャー=生き物としての根拠を与えなければなりません。それを解明するのが、巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)という官庁横断型プロジェクトです。タテ割行政が主体の日本で、こんな組織がまともに機能するかどうかは分かりませんが、そこはSF映画なのでOKです。

カバーイラスト:開田裕治

 たとえば、山本弘が書いた『MM9』では、気象庁特異生物対策部=気特対という組織が登場します。なぜ気象庁なのかといえば、怪獣が自然災害(地震災害、台風災害)そのものだからです。怪獣出現の科学的根拠に多重人間原理(多元宇宙+人間原理)を設け、神話宇宙(物理的に成り立たない非科学的な怪獣が存在する世界)とビッグバン宇宙(我々の住む通常の物理法則が成り立つ世界)とのせめぎ合いを置き、怪獣を自然災害として出現させるという説明は、いかにもSFファン的な理屈で面白いでしょう。

 巨災対は不眠不休で働き、服も着がえず風呂にも入らず、現場に寝泊まりする組織です。ブラックなSEとか、事務局に寝泊まりするSF大会スタッフに近いのです(SF大会と限るわけではありませんが、イベントを主催するポランティアは、金銭的見返りがないのに妙にハイテンションになります。コンベンションハイですね)。ブラックな職場のモチベーションが高いはずはないので、ここは期日と目標が明白なSF大会スタッフのようなもの、と考えましょう。

 この映画は、過去のゴジラに一切準拠しません(設定上も、ゴジラの存在を知らない日本)。ただ、過去のゴジラ映画への明示的(伊福部昭の音楽など)、暗示的な言及は存在します。冒頭写真だけで登場する科学者は、原初の映画でゴジラの弱点を解き明かすマッド・サイエンティストを象徴していて、円城塔が書きそうな謎の図表で巨災対を挑発します。ゴジラ対策の答えは、その中にすでにあるのです。何十年かかってもおかしくない謎の究明を、わずか2週間で終わらせるための伏線がそういう形で置かれているわけです。

イラスト:中川 貴雄

 かくして、映画の終盤で謎は解明され、対ゴジラ最終作戦が発動されます。政府研究所内部ではなく、機密のないオープンソースで進めるのは今どきのグローバルIT開発風です。作戦に使われる機材は軍隊のものではありません。個々の具体的な名称は重要ではありませんが、ここでは伊藤アキラ(唄「はたらくくるま」に出てくるような)機材と呼んでおきましょう。ゴジラという巨大な虚構に対抗するためには、ありきたりな現実では不可能なので、荒唐無稽な組み合わせを用意したのではないでしょうか。間違って見に来たお子さま、ないしは準じる人向けサービスアイテムを兼ねているのかもしれません。

 ゴジラは完全生物であると劇中では語られます。無敵の怪物だったエイリアンも、最初の映画の中でそう呼ばれていました。人類は人類以外に負けたことはありません。人を越える絶対的な強者、殺すことができないものは、人より完全な存在と感じられます。映画でも、人間は勝ったように見えますが、エイリアンもゴジラもほんとうに殺すことはできないのです。彼らは「完全」なのだから、不完全な人とは比べものになりません。巨災対の勝利はもしかしたら幻なのかも、そういう畏怖感が残ったところがいいでしょう。

 さて、「シン・ゴジラ」は想定を超えたヒットとなっています。海外ではどうか。最近のハリウッド式映像は、動体視力を無視する超高速CGがあたり前です。セリフはそもそも最小限しかありません(アメリカの脚本の教科書には、セリフで表現するのは演劇で、映画は映像に語らせろと書いてあります)。ところが、この作品ではCGはむしろゆったりと動き、登場人物の倍速のセリフ回しによって物語が作られています。アニメでお馴染み、庵野流超早口ですね。そこをユニークと見るか、退屈と端折られるのか、どちらにしても直訳を字幕で読んでいては追い付けないスピードでしょう。

(シミルボンに2016年8月14日掲載)

 「シン」は海外であまりヒットしませんでした。上記のことよりも、登場人物が何者かが分かりにくかったからでしょう(異国の政治家や官僚がヒーローでは、いかにも共感がし難い)。その点「-1.0」の主人公は特攻帰りの目的を失った退役兵で、加えてアメリカンな紋切り型マッチョでないところが、ゴジラとの組み合わせにより新鮮と感じられたのだと思います。この見解はSF専門誌LOCUSでも書かれていました。戦争や核兵器の残虐さを象徴するゴジラの機微を理解しない(能天気な)アメリカ人はもうゴジラものを撮るべきではない」とも。

大図解!「ディレイ・エフェクト」に潜むボルヘス的時間

 シミルボン転載コラム(#シミルボン)の第2回目です。前回に引き続き「時間」がテーマです。宮内悠介「ディレイ・エフェクト」の内容に踏み込んでいますので、未読の方は読んでからどうぞ。以下本文。

時間はわたしを作り上げている実体である。時間はわたしを押し流す川である。しかし、わたしはその川である。それはわたしを引き裂く虎である。しかし、わたしはその虎である。それはわたしを焼き尽くす火である。しかし、わたしはその火である……

J・L・ボルヘス/木村榮一訳「時間に関する新たな反駁」より
装丁:城井文平

 「ディレイ・エフェクト」は、2017年10月に文芸ムック「たべるのがおそいvol.4」で発表された当初から話題を呼び、第158回芥川龍之介賞(2017年下半期)の候補作となったことで、さらに多くの読者の注目を集めた中編小説です。残念ながら受賞はなりませんでしたが、そこに描かれた重なり合う時間のありさまは、一般読者にも強烈なインパクトを与えるものでした。

 ディレイ・エフェクトとは、エフェクターなどを使って、音をわざと遅延させ現在の音に重ねる音楽の技法です。今現在という時間の一瞬は、過去の積み重ねによって出来上っています。しかし、われわれ個人に限れば、生まれる前の歴史的な過去を記憶しているわけではありません。単に伝承や記録、書物によって知るだけです。遠い過去は間接的にわれわれの今に影響を与えますが、実際の体験のように直接的なものではありません。そこに、76年前の歴史的な過去が実体験で加わるとどうなるのでしょう。

 5月のある朝、主人公は祖母がコメをつつく音で目覚めます。一升瓶に玄米をつめ、棒でつついて精米しているのです。祖母は少女の姿です。それは76年も前の出来事なのに、主人公の目の前に見えているわけです。

 2020年と1944年の東京がシンクロし、重なって見える現象が起こります。物理的にぶつかり合うことはなく、コンピュータで作られた拡張現実(AR)のように2つの世界が重なり合います。しかし、2020年から戦中の東京は見えても、逆はありません。影響は一方通行なのです。録画や録音ができないことから、物理的な実体はなく、意識の中だけにある存在だと示唆されます。

 目の前で生きる曾祖父夫婦や、一人娘である祖母の生活はリアルで、戦時下の日常が続いていきます。やがてくる翌年3月10日の東京大空襲により、自宅が全焼する日が迫ってきます。8歳になる自分の娘に歴史的な真実を見せるべきか、それとも疎開させるべきなのか。夫婦間の意見対立は、いつしか出口のない口論へと発展します。

 隔てられているといっても、2つの時間2020年と1944年は実在しています。仮想現実ではありません。本作で描かれるのは、一方的に影響を被る2020年です。主人公の生活や家族は、現在にないものに翻弄されます。1944年の時間は確定されていて、決まった運命に導かれます。過ぎ去った時間がディレイするだけなら、どこまでいっても決定された時間です。一方の2020年は、1944年の影響(エフェクト)を受けながらも、未来を選ぶことができます。

 2つの時間が重畳する先行作品はいくつかあります。小松左京「影が重なる時」では、ある日自分の影(自分そっくりの静止した像)が出現します。星新一「午後の恐竜」では、過去の地球の光景(恐竜が闊歩する姿)が現在につぎつぎと映し出されます。両作ともに、ある種の運命論のようです。現在が確定した未来に従属しているわけです。破滅につながる運命であって抗いようがありません。対する「ディレイ・エフェクト」のユニークさは、現在が能動的に変化していくところにあります。未来は確定していません。

 では、ディレイ・エフェクトとは何でしょうか。本書の中には、いくつかのキーワードがちりばめられています。主人公が子どもに話す「エネルギー保存則」、公安の調査官に語る「永劫回帰」「熱力学第2法則」などです。

 永劫回帰は、哲学者ニーチェの中枢をなす思想です。過去現在未来を含めて、全く同じ時間が何度も繰り返されるとするものです。全てが同じなので、輪廻転生とは違います。あとでも述べますが、エネルギー保存則はニーチェと関係します。熱力学第2法則は、一般的にはエントロピーの増大で知られるものです。例えばコーヒーにミルクを注ぐと、時間が経つにつれて完全に混じり合う。これは、より無秩序な状態、エントロピーが高い状態へと移行するからです。逆の現象(コーヒーとミルクが2つに分離する)は確率的に起こりません。現象が一方向にしか進まないため、これが「時間の矢(時間の向き)」を決めていると考えられています。

 キーワードを見る限り、作品の前半では「世界は決定的で、過去は寸分たがわず繰り返され」「時間は必ず過去から未来へと一方向に進む」と主張されているように読めます。ところが、東京大空襲3月10日が始まった深夜、突如時間は逆転を始めます。時間の逆転は、熱力学第2法則からはありえない。もちろん永劫回帰にもないものです。主人公はこれをリバース・エフェクトと名付けますが、設定すべてを否定する大きなどんでん返しといえます。


 ここで、作品構造を図解してみましょう。物語の始まりは5月。6月に公安調査庁の担当者が訪れ、現象に対する見解を求められます。主人公は信号処理の技術者で、会社のキーマンなのです。あとで分かりますが、主人公の経歴にも訪問の理由がありました。時期は不明確ですが、梅雨明け前の夏の初め(おそらく7月)頃に、妻と仲たがいし別居状態となります。以降、技術リーダーを管理職昇格という名目で解かれ、食べさせる相手もいないのに戦時食を作ってみるなど、さまざまなストレスに苦しみながら翌年の3月を迎えます。

 しかし、3月10日が過ぎ、リバース・エフェクトに入ると事態は一変します。秋になった10月ごろ、妻からの手紙を受け取るのです。そこには、妻の曾祖父が何を仕事にしていたかが書かれていました。主人公は、かつて反核運動に参加したことがありました。妻とはその際に知り合ったのです。けれど、曾祖父は戦時中に核開発に従事しており、空襲時もすぐに帰宅できず曾祖母を助けられなかった。妻はその事実に負い目を感じていたのです。

 図から分かるように、ディレイ・エフェクト期に妻が出ていった時期と、リバース・エフェクト期に手紙を受け取る時期は、3月10日を挟んで時間対称をなしています。手紙には、家族で起こった不和の原因が書かれていました。叙述上、原因(曾祖父の仕事)と結果(不和から別居)の逆転が起こるのですが、それが一般的な小説の技法としてだけでなく、ディレイとリバースという物語の設定と重なり合い、シンメトリーをより鮮やかに見せているのです。エントロピーの増大=緊張の高まり、エントロピーの減少=緊張の緩和・融和という関係もシンメトリーをなしています。

 アルゼンチンの作家ボルヘスは、ニーチェの永劫回帰を認めませんでした(「循環説」参照)。ニーチェはエネルギー保存則を根拠に、宇宙・時間には一定の大きさがあり、長大な時間を経ればいつか繰り返しが起こる、過去はそのまま回帰するとします。けれども、ボルヘスは宇宙・時間が無限に変化しており、繰り返しはないと考えます。現在が過去から未来へ移っていく瞬間ごとに、われわれは別のものに変化していく。同じものが成長進化するのではなく、常に変わっていくのです。冒頭の引用は、そのボルヘスの考え方をよく表したものです。

 この物語では、時間を物理ではなく、意識の問題だと解釈しています。だからこそ、時間はディレイしリバースする。その一つ一つが主人公たちの行動に影響を与え、主人公を別の存在、新たな存在へと変えていきます。主人公は過去の直接の影響下で考え方を変え、生き方を変えます。過去は繰り返されるだけの、固定的で動かしがたいものではなく、流動し反転もします。まさに、ボルヘス的な時間体験を描いているのではないでしょうか。

 ボルヘスは作家として、われわれの時間体験が運命論的なものであるという考え方は好みませんでした。本書の著者宮内悠介も、シンメトリーをなすユニークな時間の在り方を描きだしていますが、その背後に運命論に囚われない個人の意思があることに注目すべきでしょう。

 「影が重なる時」は自選ホラー短編集『霧が晴れた時』(1993)で入手できます。2003年にはTVドラマ化もされました。「午後の恐竜」は同題のロングセラー『午後の恐竜』(1977)に収められています。2010年に短編アニメーション化されています。またボルヘスの「循環説」はエッセイ集『永遠の歴史』に、「時間に関する新たな反駁」は『ボルヘス・エッセイ集』、または岩波版『続審問』でも読めます。

 ガジェットとしての「ディレイ・エフェクト」は、ボブ・ショウの「スローガラス」と同じ考え方です。スローガラスとは、光が通り抜けるのに数年がかかる(つまりディレイする)特殊なガラスのこと。人々はそこに、実在した過去を見ます。ボブ・ショウの場合、あくまで「窓」(空間ではなく平面)だというのが特長で、その制約が物語に生かされていています。これは旧サンリオ文庫の『去りにし日々、今ひとたびの幻』 (1981)にまとめられています。

(シミルボンに2018年5月29日掲載)

SFにおける「時間」の非実在性について

 今週からしばらく、過去にシミルボンに掲載したコラムを抜粋し、不定期ですが転載していこうと思います(カテゴリは「評論・ノンフィクション」、検索キーは「#シミルボン」です)。シミルボンは2016年8月から2023年10月1日まで開設されていたブックリスタ主催の読書系(メディア作品も含みます)ホームページです。プロアマを問わずたくさんのレビューやコラムが楽しめ、筆者も50余編を寄稿してきました(そこそこ書いてます)。2016年から19年の4年間のものになります。転載にあたって元の文章を修正した箇所もありますが、基本は変えていません。以下本文。

カバーデザイン:蟹江征治

 名のみ高かったマクタガートの原著論文『時間の非実在性』(1908)は、つい最近完訳された。時間関係の哲学書では、多くがこの論文について言及している。訳者永井均による詳細な注釈・論評も併録されている(論文自体のボリュームは、本の5分の1ほどしかない)。

時間の探求は、古くから哲学における重要なテーマだった

 それに伴って、文化や宗教、思想に至るまで、時間に対する解釈がたくさん生まれている。SFでは、さまざまな時間のありさまが小説という形で描かれてきた。並行に存在し別々に流れる時間、凍結して動かない時間、逆回りする時間、遅延する時間、不均一に流れる時間、ループする時間などなどだ。ここでは、その中でももっとも特異な時間を紹介しよう。

「昨日は月曜日だった」

 シオドア・スタージョン「昨日は月曜日だった」(1941)で、自動車修理工の主人公ハリー・ライトは、いつものように目覚める。だが、昨日が月曜日だったのに今日は水曜になっていることに気が付く。しかもあたりの様子がおかしい。何もかもが新しく、作り立てのように見えるのだ。仕事場に出ようとすると、見慣れぬ作業員たちが街路を古く見せようと懸命に働いている。こいつらは何ものなのか。そもそも自分の火曜日はどこに行ったのか。

「時間」と聞いて何をイメージするだろう

 通り過ぎた過去があり、今現在があって、これから未来がくる。多くの人は、川のような流れ(変化するもの)を思い浮かべるだろう。幼い頃の自分(過去)、今の自分、将来の自分(未来)というふうに、時間は一方向に流れていく。ところが、スタージョンが描くのは、とても奇妙な時間の姿である。ハリー・ライトが目覚めた世界は今日しかない。確かに昨日は既になく、明日はまだないのだから、今しかないという見方もできる。しかし、文字通り曜日単位に別々の世界が造られているのなら、昨日・今日・明日は連続しておらず、分断されることになる。ここに時間の流れなどない。つまり、われわれが知っている「時間」は実在しない。

「時間」がないとは、いったいどういう意味だろう

 「時間の非実在性」をとなえた、イギリスの哲学者ジョン・エリス・マクタガートの考えが参考になるかもしれない。マクタガートは、時間に関わる順序には、過去・現在・未来というA系列(たとえば、20世紀は過去、21世紀は現在、22世紀は未来)と、より前・より後というB系列(たとえば、20世紀は21世紀より前、22世紀は21世紀より後)の2つの系列があると説明する。A系列は変化する。未来もいつか過去になるからだ。23世紀から見ると、20-22世紀まですべてが過去になる。一方B系列では、たとえ23世紀になっても、20世紀は21世紀より前という関係は変わらない。変化しないB系列よりも、変化を伴うA系列こそ時間の本質なのだという。

過去・現在・未来は、お互いが矛盾する

 ところが、マクタガートは論文の中で、過去・現在・未来は、お互いが矛盾すると断じる。本質である過去・現在・未来が矛盾するのだから、時間(時の流れ)は人間の主観的な幻想にすぎないとする。この証明の要約は難しい。詳細は論文を見ていただくとして、解釈はさまざまにできる。証明自体が正しいか否かでも大きな議論を呼んだ。ただ、証明の是非はともかく、マクタガートの考えに従うなら、物事に並びはあっても時間的な順序はないことになる。奇想と思われるスタージョンの短編は(物語の基本アイデアに関して)マクタガートの考えに近いのかもしれない。未来はない、過去もない、実在するのはばらばらの現在だけなのだ。

「スロー・チューズデー・ナイト」

 もう1作、R・A・ラファティ「スロー・チューズデー・ナイト」(1965)を紹介しよう。脳から阻害要因を取り去った結果、人間の時間に対する感覚は大きく変貌する。1日は3つに分けられ、時間帯ごとに別々の集団が暮らしている。深夜族に属する男は、長い火曜の夜の8時間に一生分を働く。夜の始まりで乞食姿だった男は、わずか1時間半後には大金持ちになり、何度も結婚と離婚、倒産と成功を繰り返したあげく、夜が明けるころには元の乞食に落ちぶれる。

SFの産み出す奇妙な時間体験

 ラファティの主人公は、たった8時間で、生涯の体験を猛スピードで終えてしまう。一生と一晩では絶対時間が異なるはずだが、ここでは同等に描かれる。つまり、時間の長さという概念が壊れている。人の生理作用(脳内の反応速度)が加速されたとも、時間のありさまが変化したとも解釈できる。ゆっくりと流れる火曜の夜の世界では、一生のイベントは、マクタガートのいうB系列のようにただ並べられている。順番だけがあって長さがないのだ。これは、われわれが知っている(と思っている)時間とは違う。体験した記憶=過去だけなら、ビデオの早回しのような再生ができるかもしれない。しかし、未来を含めた全生涯の早回しはどうだろう。火曜の夜が終わったあと、主人公は次の日も同じになるとうそぶくが、毎晩一生が過ぎていく世界での時間体験は、われわれの日常とは全く違ったものになるだろう。

 SFにはこういう無秩序な時間が数多く含まれている。過去・現在・未来がでたらめに並んでいたり、未来が過去につながったりする。SFの産み出す奇妙な時間体験には、ノーマルな時間を否定する願望が内在されているのかもしれない。

 スタージョンの作品は時間テーマのアンソロジイ、大森望編『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』(2010)に収録されている。よく似た作品に(かなり即物的に描かれてはいるが)スティーヴン・キング「ランゴリアーズ」(1990)などがある。ラファティの作品は、第1短編集『九百人のお祖母さん』(1970)に収録されている(現在なら『ファニーフィンガーズ ラファティ・ベスト・コレクションズ2』が入手しやすい)

(シミルボンに2017年5月10日掲載)