牧眞司「現実が抱える諸問題を剔抉(てっけつ)する筆さばき」『夏の丘 ロケットの空』解説

『夏の丘 ロケットの空』はPOD版3月22日先行販売/kindle版3月28日で発売

 本書は、2019年に上梓された『機械の精神分析医』、2020年の『二〇三八年から来た兵士』『猫の王』、2021年の『千の夢』『豚の絶滅と復活について』につづく、岡本俊弥の第六短篇集である。

 この一連の短篇集で岡本俊弥を知った読者もいるだろうが、ある程度の期間にわたってそれなりの濃度でSFとつきあってきたファンならば、SF雑誌の書評や記事あるいはSF関連のガイドブックなどでこのひとの文章にふれているはずだ。SF全般についての知識と広い視野、豊富な読書量に裏打ちされたバランスの取れた文章、安定度抜群の書き手である。私が大森望と共編で『サンリオSF文庫総解説』(本の雑誌社)をつくったときも、メインライターのひとりとして多くの項目を担当してもらった。

 私が岡本俊弥の名前をはじめて意識したのは、筒井康隆主宰のSF同人誌〈NULL〉(1974~7年)の編集者としてだった。さらに77年1月に創刊された月刊SF情報誌〈ノヴァ・エクスプレス〉(海外SF研究会発行)では、二代目編集者(4号~)を務めている。いまのようにインターネットを用いて手軽に情報を集められる時代ではなく、高校生だった私にとって同誌はなによりの楽しみだった。いま、こうしてSFの解説や書評をなりわいにしているのも、同誌(および寄稿者のみなさん)のおかげである。

 ところで、そのときはまったく知るよしもなかったのだが、私はそれよりずっと前に岡本俊弥の小説を読んでいたのだ。しかも商業媒体で。72年に刊行された眉村卓編のアンソロジー『チャチャ・ヤング・ショート・ショート』(講談社)に収録された、寺方民倶「あたしのいえ」である。変わったペンネームだが、「テラフォーミング」とルビがふられている。いまでは一般的になった用語だが、当時はSFファンでなければこんな言葉は知らなかった。同書巻末に作者自己紹介があり、「年齢十八歳。本棚を見回してみるとSFばかり。別に偏向しているつもりでもないのに、自然とそうなっている」と明かされている。

 というわけで、書評家、編集者、小説家とみっつの顔を持つ才能、岡本俊弥のうち、私が最初に出会ったのは小説家としてだった。そのときの私は中学一年生。星新一に夢中で、ショートショートと名のつくものにかたっぱしから手を出していたのである。「あたしのいえ」はひとりの少女による作文の体裁で、自分の家にはどんなものがあって、パパとママはこんなことを言って……と書き連ねていく。幼い文章がはからずも文明批判になっているという展開だ。こんかい読み返してみて、岡本俊弥らしい視点の作品だと思った。ちょっとフレドリック・ブラウンふうでもある。

 昔話はこれくらいにして、本書収録の各篇について順番にコメントしていこう。

「子どもの時間」
 幼いころの不思議な記憶。町中を走り回るのが好きだったぼくは、迷子になり、見知らぬ町並みへ入りこむ。そして、ふいに自分の家の前に出てきたのだ。しかし、ぼくが知っている家と様子が違っていた。
 日常的なシチュエーションのなかで過去と現在を往還する物語は、アン・フィリッパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』や広瀬正『マイナス・ゼロ』をはじめ、これまでいくつも書かれてきた。時代の設定や人物の配置を工夫することでノスタルジックな情感を織りこめ、時間テーマのSFのなかでも人気が高いサブジャンルだ。「子どもの時間」では、成長したぼくが時間の本質に考えを巡らせながら、自分の謎めいた体験を振りかえる。ジョン・マクタガートが『時間の非実在性』で論じた理路がうまく物語に取りいれられている。

「銀色の魚」
 ある日突然、すべての人類が文字理解の能力を喪失する。音声でのコミュニケーションならば支障はないが、記された文字――それどころか時計の針も含めた記号表現一般――がまったく認識できない。このままでは、報道や文化はもとより、経済、政治、産業、インフラ……あらゆる社会システムが瓦解してしまう。
 作品の冒頭では、打ち捨てられた建造物のなかに本の塔がうっそりと佇立している様子が描かれる。そこから場面が切り替わって、夜空を横切る流星の煌びやかな情景となり、亮輔を視点人物とした物語がはじまる。このコントラストがみごと。イメージの配置がさりげなく結末の「銀色の輝き」を引きたたせるのだ。ところで、流星が原因で人間の感覚が影響をこうむる展開は、ジョン・ウィンダム『トリフィド時代』にもあった。もっとも、『トリフィド時代』では流星の光が直接に視覚を損なうのに対し、「銀色の魚」では認知機能(脳内の情報処理)が擾乱されるところが独特だ。

「空襲」
 平和だった夏の日、C市は予期せぬ空襲にみまわれた。ミサイルを積んだ爆撃機には日の丸がついている。なぜ、日本の軍用機が日本の都市を攻撃するのか? この物語では異常な事態のなかで多くの命が犠牲になるが、過度に感情的な描写はなく、むしろ淡々と叙述される。だからいっそう不条理が際立つのだ。
 現代日本SFは戦後文学として出発したとよく言われる。第一世代の作家たちは、SFのかたちを用いて直接・間接に敗戦の意味を問うたのだ。岡本俊弥は年齢的に、またSFのキャリアにおいても第二世代もしくは第三世代に相当するが、もちろん第一世代が抱えていた意識を受けついでいる。

「ネームレス」
 さまざまなSFの集まりで撮影された集合写真。いちばん古いもので1956年、新しいもので86年。そのどれにも、ひっそりとまぎれるようにひとりの女性が映っている。名前も素性もわからない。三十年の期間にわたっているが、年齢を取っているようには見えない。座敷童の現代版とも言える設定だが、どこか不安を掻きたてるのはその女性が無表情だというところだ。
 ファン活動にまつわる哀愁が通奏低音のように響いている点が、この作品の読みどころ。ちなみに作中で言及のある86年の日本SF大会とは、大阪で開催されたDAICON5。岡本俊弥はこの大会で主要スタッフを務めた。

「パラドクス」
 未来から現在への干渉。SFでは繰り返し扱われてきたアイデアであり、どのような結果に至るか、そこで働く時間や因果のロジックを含めてさまざまなヴァリエーションが生みだされてきた。この作品では時間を遡ることができるのは情報だけであり、送った情報が現実に影響を与えるためにその時代のテクノロジーでデコードされる必要がある。そのテクノロジーとなるのが、ヴァーチャル家族システムなのだ。
 時間SFならではの理詰めと、人間的なテーマとしての家族のありかたを、ひとつのプロットとして巧みに結びつけた作品。

「ソーシャルネットワーク」
 フェイクニュースによる情報操作がおこなわれ、誹謗中傷や冷笑、雑な自己顕示が入り乱れるSNSを題材にした、スラップスティック調のパロディSF。新しいかたちの侵略テーマでもある。語り手の饒舌なしゃべり言葉が物語に独特の調子をもたらしており、かんべむさしの初期作品に通じるものがある。

「インターセクション」
 爆撃に怯えるクレハ、虚栄の社会に疲弊するクサト、貧困と暴力に苦しむクトニ、疫病が日常化した毎日を生きるクニカ。四人は公園に集まり、それぞれの境涯を語りあう。タイトルの「インターセクション」は、交叉地点という意味だ。クレハ、クサト、クトニ、クニカは別々の人生を生きているが、その名が示すとおり分身のような存在だ。このシチュエーションは、ジョアンナ・ラス『フィメール・マン』を髣髴とさせる。

「さまよえる都」
 その辺境地は、王によって統括されていた。初代の王は中央政府からの辞令でその役目についたのだが、王の地位が世襲で受けつがれつづけてすでに五百年。いまとなっては中央政府がどこにあるのかを知る者もおらず、もともとの辞令の内容すら理解できなくなっている。ここしばらく領地内で良くないできごとがつづいており、王は打開策を求め、拠点の視察をはじめる。まずは東からだ。
 どことなくカフカを思わせる導入で、物語は寓話的に進むのかと思いきや、途中からギアチェンジをして知性をテーマにしたSFへ発展していく。「言語=ファームウェア」という考えかたが現代的。

「スクライブ」
 岡本俊弥にしては珍しい言語実験小説。数人による会話がえんえんとつづくが、それぞれの発話内容が単語レベルでシャッフルされ、ナンセンスな世界が現出する。シュルレアリスムの「手術台の上のミシンとこうもり傘の偶然の出会い」効果、あるいはウイリアム・S・バロウズのカット・アップ技法に通じる趣向だ。もっとも、この作品の場合は、ただしく並べ直せば普通に意味のある文章が出てきそうで、それが独特の味わいにもなっている。

「夏の丘、ロケットの空」
 宇宙に憧れるひとりの少女。彼女は宇宙港を眺めるために通っていた丘で、宇宙飛行士の男と出会う。宇宙へいきたいと願う少女に、男は言う。「いけるよ、きみがおとなになったら」。しかし、移民の子として生まれ、格差の激しい社会の下層にいる彼女にとって、宇宙に近い仕事は宇宙港での過酷な労働くらいしかなかった。月日は流れ、少女は宇宙飛行士と再会する。
 ブラッドベリを思わせるナイーヴな宇宙への思いからはじまった物語が、徐々に描きだされる抑圧的な状況を背景として、憂鬱な調子を帯びていく。それでも少女は宇宙への憧憬を手放すことはない。ビターな青春SFだ。

 以上、アイデアもテーマもさまざまな十篇。どの作品もアイデアやテーマがはっきりとあり、それを支えるロジックと相まって効果的に仕上がっている。コンパクトに構成されたストーリーのなかに、私たちの現実が抱える諸問題を剔抉(てっけつ)する筆さばきも見逃せない。

樋口恭介編『異常論文』早川書房

写真:三野新+山本浩貴
カバーデザイン:山本浩貴+h(いぬのせなか座)

異常論文とは一つのフィクション・ジャンルであり、正常論文に類似、あるいは擬態して書かれる異常言説を指している。そこで論じられる内容の多くは架空であるが、それは異常論文であって異常論文でしかなく、架空論文とは呼ばれえない。それは論文の模倣であることを求めない。そしてそれは、フィクションでありながら、架空の言説であることをも求めない。それは実在する一つの言説空間そのものであって、現実の言説空間に亀裂を入れる。

編者による巻頭言より

 本書の編者である(本業は会社員だが、副業にアナキストを営むとうそぶく)樋口恭介の説明によると、異常論文とはあくまでフィクションであるようだ。本書の解説で、神林長平も同様の見解を述べていて、しかし、論文と小説では想像力を向ける方向性がまったく逆であるとも書いている。どういうことなのか。

 決定論的自由意志利用改変攻撃について 円城塔:いつか誰かBが、いつか誰かCを思い浮かべることで、全く別の時間における誰かAその人自身でありうることが可能である。数式を含む論考。
 空間把握能力の欠如による次元拡張レウム語の再解釈 およびその完全な言語的対称性 青島もうじき:放散虫チャートに書かれた文字を三次元的に動かして成立する、視覚的言語レウム語について。
 インディアン・ロープ・トリックとヴァジュラナーガ* 陸秋槎:魔術師が空中に投げたロープが直立し、助手がそれをのぼって消えるマジック「インディアン・ロープ・トリック」に隠された真相とは。
 掃除と掃除用具の人類史 松崎有理:有史以前から続く人類と掃除を巡る歴史は、やがてシンギュラリティを迎え、宇宙をも巻き込む存在を生み出す。
 世界の真理を表す五枚のスライドとその解説、および注釈 草野原々:空洞地球や多重凍結世界の存在を説明しながら、われわれが知る世界とは異質の別の世界を注釈を交えて明らかにする。
 INTERNET2* 木澤佐登志:地球表面上を毛細血管のように覆い尽くしたニューロンの網は、INTERNET2と名付けられる。ここはとても素晴らしい、ここはとても美しい。
 裏アカシック・レコード* 柞刈湯葉:世界のすべての真実が収録されたアカシック・レコードの対極に、すべての嘘が収められた裏アカシック・レコードが存在する。しかしこれを巧妙に使うことで、真実を知ることもできる。
 フランス革命最初期における大恐怖と緑の人々問題について 高野史緒:フランス革命のころ現われた、緑色に光る人々の存在を記した文献があるらしい。その存在を探す研究者は不可解な事件を知る。
 『多元宇宙的絶滅主義』と絶滅の遅延──静寂機械・遺伝子地雷・多元宇宙モビリティ* 難波優輝:『多元宇宙的絶滅主義』とは絶滅こそが宇宙を救う手段であるとする。それは人類だけを対象にするのではなく、宇宙のすべてに拡張されていく。
 『アブデエル記』断片 久我宗綱:神の啓示を受けたアブデエルと呼ばれる人物がいる。どのような人物だったのか明らかではない。残された断片的な文章を解釈する。
 火星環境下における宗教性原虫の適応と分布* 柴田勝家:宗教性原虫とは人類と共生関係を築いてきた生き物で、根絶は難しい。火星環境でも独特の適応を見せている。「異常論文」という呼称は、編者が柴田勝家の諸作を評して付けたものである。
 SF作家の倒し方* 小川 哲:作者の周辺にいる複数SF作家について、弱点と優位点をひたすら並列に並べ立てた異常というより異質な文献。
 第一四五九五期〈異常SF創作講座〉最終課題講評 飛 浩隆:不穏な〈事態〉の下で、創作講座の最終課題選考会に挑む選好委員による、各作品の特徴や問題点についての懇切丁寧な指摘。
 樋口一葉の多声的エクリチュール──その方法と起源* 倉数 茂:人称表現が未分化だった明治期、樋口一葉はその中でも独特の話法で作品を書く。多声的と分析する文章の秘密を解き明かす。
 ベケット講解 保坂和志:ベケットが書いたことではないと断りながら、文中ではサミュエル・ベケット『モロイ』や、アビラのテレサからの引用らしき文と著者の個人的感想が繰り返される。
 ザムザの羽* 大滝瓶太:無名の数学者アルフレッド・ザムザは、ある二つの命題を提唱するが無視される。論文風にスタートした文章はやがて自伝の様相を呈する。
 虫→…… 麦原 遼:虫はさまざまな文に付着する。文章は危険になった。論文の査読者にも危害が及ぶようになる。虫が来る前にはたくさんの論文があったがいまはない。
 オルガンのこと* 青山 新:肛門からロッドを挿入し、微生物叢を腸内に移植すると「学習」することができる。荘子の漢詩や曲亭馬琴からバタイユまでを取り混ぜながら、意識変容の過程が詳述される。
 四海文書(注4)注解抄 酉島伝法:古書市で入手した手書きのノートには、でたらめな断片が記録されている。多層的な注釈によりその内容に迫ろうとする。
 場所(Spaces) 笠井康平・樋口恭介:Googleドキュメントを使いながら共著者は異常論文をまとめようとする。あるとき発見された壊れた.md ファイルの存在により事態は流動する。実話に基づく異常「私」論文。
 無断と土* 鈴木一平+山本浩貴(いぬのせなか座):開発者不明のホラーゲームWPSにまつわる、20世紀初頭の日本における怪談、詩篇、近代日本における天皇制などが論じられる。最後に、含意に満ちた質疑応答が置かれている。
 解説──最後のレナディアン語通訳 伴名 練:ある作家が架空言語レナディアン語を発明する。これはその言語で綴られた文章を集める対訳アンソロジイの解説文であるが、言語成立を巡る異様な事件をも明らかにする。
 *:SFマガジン2021年6月号収録作

 全部で19編を収める。もともとtwitter上で企画が立てられ、最初SFマガジンの特集記事として10編が書き下ろされた(それでも120ページに及ぶ)。この特集の好評を得て、ボリュームをほぼ倍増させたものが本書である。おおまかに分類すると、著者の3分の2強がジャンルを問わない作家、あとはSFプロトタイピングなどで編者が関係する評論家やアカデミズム関係の執筆者だ(フィクションを発表するのは初めてという作者もいる)。論文と言っても理系(仮説と証明、実験やシミュレーション)と文系(文献解釈中心)では形式が異なるが、本書ではフィクションとの親和性もあってか後者のスタイルが多い。

 レムは執筆期の後半になって、『完全な真空』などの架空書評を書くようになった。フィクションの枠に収めきれない内容を、書評の余白(読者の想像力)で表現しようとしたのだ。その趣旨にもっとも近いのが「裏アカシック・レコード」や、架空選評「第一四五九五期〈異常SF創作講座〉最終課題講評」、架空解説「解説──最後のレナディアン語通訳」になる。しかしこれらは少数派である。何しろ本書は「架空論文とは呼ばれえない」ものを目指すものだからだ。

 文学には実験小説という(文章構成どころかフォントや本の形までを自由に変形させ)難解さを愉しむ一連の作品があり、そういう意味では異常論文も実験小説の範疇に含まれるのだろう。だが、編者はおそらくそうは考えていない。神林長平による解説に戻ると、論文と小説との違いを「誤読」に求めている。小説は誤読を最大限誘うものであり想像力に繋がる。一方論文は誤読を最小限にする。書かれたこと以上があるのなら、それは不正確さになるからだ。では異常論文はどうなのか。樋口恭介は「過剰な読解」が必要と説く。

 今回の19編はバリエーションに富んだ面白い作品集である。しかし、「(書かれている内容による)誤読が最小限」で「(読み手側の混乱を契機とした)過剰な読解」が可能な「論文に値する」作品となると多くはないだろう。中では「無断と土」がその基準に達していると思われる。

浅羽通明『星新一の思想 予見・冷笑・賢慮の人』筑摩書房

真鍋博《星新一『ひとにぎりの未来』新潮社 表紙原画》1969 愛媛県美術館蔵

 今年はレム生誕100年、小松左京生誕90年であると同時に、星新一生誕95年の年でもある。

 浅羽通明は(もともと時事・思想関係の著作が多いが)『時間ループ物語論』(2012)なども書く幅広い著述家。また、星新一の読書会「星読ゼミナール」を主催してきた。読書会自体は最近だが、きっかけが雑誌「幻想文学」のインタビューで星新一と対面してからだというから古い(1985年1月)。本書はそういう著者による大部の星新一論だ。しかし一風変わった作品論でもある。作家論が書かれる日本のSF作家は多くはない。小松左京でさえ、複数人による雑多なエッセイ集があるぐらいで一貫した論考はまだない。星新一には、本人に肉薄した最相葉月の評伝『星新一 一〇〇一話をつくった人』(2007)があるものの、人間星新一に密着しすぎていて作品論が不十分だと著者は考える。

 プロローグ:星新一は半世紀も前に「流行の病気」でコロナ禍を、『声の網』で監視されるネット社会を、「おーいでてこーい」では環境問題だけでなく秘密の消去という社会的な事件を予見した。そのキーワードとは。
 第1章 これはディストピアではない:星の描くディストピアは一般的な作品とは異なる。反逆者目線がなく、その社会をネガティブに描く(残虐な)シーンは最小限しか見られない(「生活維持省」「白い服の男」「コビト」ほか)。
 第2章 “秘密”でときめく人生:星の作品には秘密が隠されている。だが、それらは大義名分のない私的なものばかり。何が目的なのだろうか(「眼鏡について」「雄大な計画」「おみそれ社会」ほか)。
 第3章 アスペルガーにはアバターを:星作品では、異星人どころか隣人でさえお互いわかりあえない。自身もアスペルガー症候群(ASD)で、他者の気持ちが読めなかったと思われる。対人恐怖の象徴としてアバター的な小道具が描かれる(「地球から来た男」「肩の上の秘書」「火星航路」ほか)。
 第4章 退嬰ユートピアと幸せな終末:星作品ではディストピアであっても人々は幸せに見える。悲惨な結末さえもハッピーエンドのようだ(「妖精配給会社」「最後の地球人」「古風な愛」ほか)。
 第5章「小説ではない」といわれる理由:星作品では人物や背景などの描写がほとんどない。感情移入を阻み、疑似体験もできないので「小説ではない」と断言されてしまうこともある(「霧の星で」『人民は弱し 官吏は強し』「城のなかの人」ほか)。
 第6章 SFから民話、そして神話へ:作品を時系列に分類すると、宇宙ブームと共にオチのあるショートショートを量産した前期(~1966)、宇宙や未来テーマから解き放たれた中期(~70初)、オープンエンドで民話風のの異色作を生み出す後期(~1975)1001編達成期である最後期(80以降~)がある(「マイ国家」「門のある家」「風の神話」ほか)。
 第7章 商人としての小説家:星は創作のコツを「まず他人に読んでもらえ」とした。他人に面白がってもらえる作品を求めてきた(「SFの短編の書き方」「とんでもないやつ」「第一回奇想天外SF新人賞選好座談会」ほか)。
 第8章 寓話の哲学をもう一度:小説家でないのなら、星新一は哲学者なのか(イソップのような)寓話作家なのか。その単語だけで思考停止せず中味を検証する(「老荘の思想」「SFと寓話」「いわんとすること」ほか)。
 エピローグ:星はSFの自由さを象徴するものとして、錬金術師との比較をしたことがある。その真意とは(「錬金術師とSF作家」「小松左京論」「科学の僻地にて」ほか)。

 著者は、作品そのものと星新一が書いたエッセイに準拠しながら論をすすめる(他作家や評論家による既存の見解は随時取り上げるが、どちらかといえば批判的な見方だ)。関係者へのインタビューを多用する最相葉月とは対照的な方法である。

 秘密結社、ASD、幸福なディストピア、ふつうの小説とは大きく異なる文体、さらにはニューウェーヴ(SFの枠組みを壊した作品)、時代小説(礼儀作法が最優先される特殊社会)、ハリ治療(西洋合理主義とは異なるもの)の影響、文学的な価値より商業的な価値を重視した姿勢など、これまでなかったユニークな説が展開される。最相葉月による、晩年の星新一は「抜け殻」という物語化された説に異を唱え、旧来の星と変わらなかったとする見方が印象的だ。

 ややまとまりを欠くものの、星新一の文章を根拠に述べられた内容なので説得力を感じる。補論として、短い論考を多く掲げている点も多角的で注目される。ただし、小松左京、筒井康隆、眉村卓ら同時代作家との比較は、対象作品が限られていたり推測が多いように思われる。

 星新一直系の作家というと江坂遊らの他に、最近では田丸雅智がいる。田丸はショートショートを誰でも書けるものにするため、フォーマットによる定型化、単純化を試みた結果、文章が単調すぎて味気ないと批判されることがある。星が「小説ではない」と見做された経緯と同様である。しかし、田丸の目指すものが「文学的な価値」でないのなら、その批判もおそらく的はずれなのだろう。

アーシュラ・K・ル=グウィン『文体の舵をとれ』フイルムアート社

Steering the Craft A 21st Century Guide to Sailing the Sea of Story,1998/2015(大久保ゆう訳)

装画:モノ・ホーミー

 副題が「ル=グウィンの小説教室」とあり、自らが主催したワークショップ(創作講座)の内容をまとめた1998年版を、21世紀の現状に合わせて改めたアップデート版である。経験ゼロの純粋な初心者向けではなく、すでにプロアマを問わず作品を書いている作家のための手引き書だ。もともと英語の技法について書かれているので、日本の読者には合わないのではないかと思われるが、発売(7月30日)1ヶ月で3刷と好評である。ファンの多いル=グウィンの本であること、翻訳者にも参考になること、豊富な練習問題が読者のチャレンジ精神をくすぐるという面もある。ただし、問題に「模範解答」はないので、答え合わせは自分で行う必要がある。

 作品を声に出して朗読することによって文のひびきを知ることができる、どこに句読点を打つかで印象はまったく変わる、一つの文の長さをどれぐらいにすべきか、繰り返し表現は冗長ではなく効果的に使える、いかに形容詞と副詞をなくして文章を成立させられるか、人称と時制をごたまぜにすると読み手が混乱する、どのような視点(ポイント・オヴ・ビュー)を選ぶかで語りの声(ヴォイス)は違ってくる、視点の切り替えは自覚的にすべきだ、説明文で直接言わず事物によって物語らせる、文章に的確なものだけを残す詰め込み(クラウディング)と不要なものを削除する跳躍(リープ)が必要である(以上は評者による要約)。

 「言葉のひびきこそ、そのすべての出発点だ」文章を声に出して(小声ではだめで、大きな声で)読み上げる。コンマ=読点は日本語でもあるが、コンマ(休止)とセミコロン(短い休止)を使い分け息づかいを調整する技などは、読み上げを重視する著者だからこそ。形容詞と副詞をなくすのは難しい。その難しさを克服することで文章が磨かれる。ル=グウィンはまた文法を重視する。最近はアメリカでも実践重視で、文法(グラマー)はあまり教えなくなったらしい。しかし、文法に則った文書を分かっていないと、それを壊した新たな文体を生み出すことはできない。単にでたらめになるだけである。人称に伴う視点と時制(日本語では明確ではない)も厳密にコントロールしないと混乱した文章になる。

 英語向けではあるが、これらは日本語を書いたり読んだりする上でも意味がある。ジェーン・オースティンからヴァージニア・ウルフなど、古典作家による豊富な実例も載っている。エンタメ小説だからといって、単に筋書きとアクションシーンだけでは成り立たない。本書で述べられた各種の技巧(クラフト)を駆使することで、彩りやリズムが生まれ深い印象を与えられるのだ。付録には合評会(リモートも含む)の具体的な運営方法が載っている。仲間の意見は貴重だが、誰かの一人舞台になったり、けなし合いや褒め合いに陥りがちだ。同様のことを進める際の参考になるだろう。

津田文夫「サタイアや不気味な風景を感じさせることは短編SFの得意とするところなのである」『豚の絶滅と復活について』解説

 以下は『豚の絶滅と復活について』巻末に収録した、津田文夫解説を全文掲載したものです。

 本書『豚の絶滅と復活について』は著者岡本俊弥のSF短編集として五冊目にあたる。収録作品はすべて大野万紀主催THATTA ONLINE初出。ただし改稿改題されているものがある。

 最初の短編集『機械の精神分析医』が出たのが、二〇一九年七月(奥付)なので、二年と二ヶ月で第五短編集発刊の運びとなったわけである。ということは、このペースで行けば五年足らずで一〇冊、一〇年後には二〇冊もの短編集が出ているという計算になる。そんなわけないだろ、とツッコまれるかも知れないが、いやこの著者なら可能性は充分と思わせるところが、岡本俊弥という作家の恐るべきところなのである。それは、先に出た著者の第四短編集『千の夢』の解説で、水鏡子が述べているように

六〇代という人生の折り返し点で培ってきた個人的及び俯瞰的な世界と制度と将来への知見、そうした公的私的な景観を、品質管理を施した基本四〇枚前後のSF小説の枠組みに落とし込んでいく

ことができる作家だから。とはいえ今後のことは、著者/神のみぞ知る、なのだけど。

 さて、著者の作風については、第三短編集『猫の王』の大野万紀氏の解説に

作品の特色は、その静かでほの暗い色調と、工学部出身で大手電機メーカーに勤めていた経験を生かした、科学的・技術的、あるいは職業的にリアルで確かな描写、そしてそれが突然、あり得ないような異界へと転調していくところにあるだろう

とあり、すでに本書収録の作品群を読んだ方にはとても納得しやすいのではないかと思うのだけれど、もちろんそれだけが岡本作品の特徴ではない。もっとも水鏡子解説のように

意外であったのは、SFの最先端や周辺文学を読み込んでいるはずの著者であるのに、落とし込む先の小説形態がノスタルジックなまでに第一世代のころのSFの骨組みに近しい印象があること。はっきり言ってしまうと、眉村さんの初期作品群を彷彿とさせる

といわれると、大野解説との落差があまりにも大きく、ちょっとあたまのなかに「?」が浮かんでくるが、これは水鏡子先生お得意の超絶SF論ワザなのであまり気にしない方がいいでしょう。

 ここで三番目に登場した解説者(筆者のこと)は、作家岡本俊弥の作風をどう受け止めているかを書く前に、著者との関わりを書いておこう。

 第三及び第四短編集の解説者は、それぞれ著者の出身大学のSF研究会の先輩方で、著者とはそれ以来ほぼ半世紀近いあいだ定期的に集まってさまざまな話をしてきた人たちである。

 一方、筆者が京都の私立大学に入ったのは一九七五年で、当然のごとくSF研に入りその夏初めて第一四回日本SF大会(筒井康隆/ネオ・ヌル主催のSHINCON)にSF研の仲間とともに参加した。このSF大会で水鏡子、大野万紀、著者の三氏は筒井康隆が発行していたファンジン『ネオ・ヌル』関係者(著者は編集長)でもあり大会スタッフとして参加していたのだが、当時はまったく三氏とは面識がなかった。しかしわがSF研メンバーとして筆者は珍しくペイパーバックでSFを読むタイプだったことで、熱心に英米SFを読んでいる人たちが毎週日曜日に集まる大阪の喫茶店へ、先輩が連れて行ってくれたのである。そこで初めて著者や大野万紀や水鏡子と知り合ったのだった。当時この集まりには多いときで十数人が参加していた。これが後に関西海外SF研究会(KSFA)となる。新参の筆者は当然集まりの中で若年だったが、最年長者でも三〇歳そこそこだったことを思うとまだSFファン層自体が若かった時代といえる。まあ筆者は最若年とはいえ浪人していたので、水鏡子、大野万紀、著者、筆者はそれぞれが一歳違いである。

 大学を終えて田舎に帰ったあとも、KSFAの活動やイベントに参加していたこともあり、また二一世紀に入ってからは大野万紀主催のTHATTA ONLINEにも読書感想文もどきを定期的に投稿することで、やはり四半世紀近くの付き合いが続いている。ただし、家族が増えて以来は年一、二回集まりに顔を出せればいいような具合である。すなわち、前二作の解説者たちとちがって筆者には著者に関する個人的な情報があまりなく、作家としての著者に関しては一読者に近い立場にあるということなる。

 ここで著者の作風の話にもどると、本書をふくめ五冊の短編集に収録された四二編とその四二編の原型を含め六〇編以上の作品を読んできて、まず感じるのは著者の文体の冷静さであろう。著者の作品は基本的に科学技術にかかわってストーリーが構成されるいわゆるSFの最たるものであるが、その叙述法は科学技術/SF的アイデアの核はさまざまなものがありながら、ストーリーの語り口に一定の冷静さが常にある。それは最終的に物語の話者が狂気に侵されるような作品でも変わらない。大野万紀解説いうところの「ほの暗い色調」である。それはまた水鏡子解説にある「この数年の毎月生産される短編のその静かで五年前も最近作も変わらぬ安定感」をもたらすというのと同じかもしれない。

 そして短編SFとしてその結末がもたらす印象は、サタイア/風刺的なものと不気味なもの/ホラーへの傾斜であろう。もちろんそれだけでは語れない作品も多数あるが、サタイアや不気味な風景を感じさせることは短編SFの得意とするところなのである。著者の短編としてはおそらく一番多いと思われるこのタイプの作品が、冷静な語り口と相まって、水鏡子解説いうところの「岡本地獄」の印象を引きだすのだろう。

 しかしなんと云っても岡本SF作品の最大の特徴は工学部出身者で長年電機メーカーの研究所に籍を置いたその経歴からうかがえるとおり、バリバリの理工学系SFになっていることだ。これは根っからの文系SF読みである筆者がもっとも強く感じる岡本SFのトレードマークなのである。そのことは本書収録作の印象を並べてみて考えてみよう。

 冒頭の「倫理委員会 Ethics Committee」は、最初に出てくるカタカナで呼ばれる四人の登場人物がネットメディアのフェイク度を議論する場面から「倫理委員会」の意味は了解され、その登場人物が分野別に特化したAIであること、というところまではなんの違和感もなく読めてしまうが、人間である語り手がAIの議事録を書いているというところからこの作品のSF性が生じる。AIたちの議論を書き残せるとはどういうことかに思いを巡らせば、そこに著者が半世紀近く前の大学時代からコンピュータを操っていた経験から、人間とAIの違い/落差を読み手に納得させる小説のアイデアが立ち上がる。人間とAIの線引きの鮮やかさに著者の理工学系的思考が見える。

 続く「ミシン Sewing Machine」は、「ミシンが頭に被さり、針を打つ」というホラータッチの一文から始まるけれど、あとの文章を読めば、これは最先端技術による極小の針と糸を使った手術のようだと分かる。物語は「コロナ禍」のソーシャル・ディスタンス/テレワーク化が極限まで進んだ社会で生じる「事故」の激増とその解決法が主人公によってもたらされるまでの経緯が語られる。ここでは他人に認知されない特性を持つ主人公が駆使する最先端脳科学テクノロジーによってある種の解決がもたらされる。この作品の語り口がいわゆる「ほの暗い色調」であり「岡本地獄」であり、筆者が岡本作品の特徴と思っている「遅延性ホラー」の典型だと思われる。頭に無数の針が刺さったイメージはやっぱりホラーだし、「ミシン」というと家庭用ミシンしか思い浮かばない筆者のような読者には不気味なものに感じられる。

「うそつき Fibber」もまたAIが出てくるが、ここでは一般家庭でもAIが日常化した社会の陥穽(最近見ませんね、こんな文字)を描いたサタイアでありホラーである。開発コストを意識しながら、AI技術開発を人間側の心地よさに合わせて進めることに対する著者の視点が実体験からもたらされているかのように見える。

「フィラー Filler」は、デジタル技術でよみがえらせた物故俳優ばかりを使ったドラマが作られるようになった時代だが、役を演じるという行為はAI(作中では機械)だけではどうしてもうまくいかない。修正には膨大なコストかかるので、その修正を請け負うのが機械エンジニア出身の語り手だ。もうこの設定だけで理工学系SFになっている。しかし、語り手の物語は役を演じる行為のオリジナリティという意外な視点で進んでいく。ここでも人間と機械の線引きの鮮やかさに理工学系的思考を感じる。

「自称作家 Call Yourself a Writer」は、文学部出身ではないが作家志望というか実際に会社勤めをしながら何十年も文芸作品を書いている主人公が、作品を広く読者にアピールできるという電子出版サービスからのメールを受け取るところから始まる。実際契約してみると、主人公の作品が売れ始めるのだが……。ネットメディアによく話題になる人為的な売れ筋の話を著者ならではの着実な技術的背景とともに進めていく。これは悲哀の色が強いサタイアでホラー色はない……でもないか。

「円環 Wheel」は、著者としてはめずらしいアイデア一本勝負な作品。ヒトは老いとともに赤子に返って行く、というのはよくある話で、わが老親を見ていると実感が湧いてくるのだけれど、著者は表現に工夫を加えなおかつ表題のとおり実現してみせる。最後の一行がまた著者にはめずらしく叙情/感傷を湛えている。

「豚の絶滅と復活について On the Extinction and Resurrection of pigs」は本書表題作。このタイトルからオールドSFファンなら誰でも五〇年代アメリカSF短編のレックス・ジャトコ作「豚の飼育と交配について」を思い浮かべる。これは、ある惑星で変異ウィルスのため人口が激減、男は二人しか残っていない、という設定のSFで、男の片方が養豚場の経営者ということで、男たちの立場は……、というもの。この設定はスタンダードになっていて最近では筒井康隆が短編集『世界はゴ冗談』収録の「不在」で部分的に使っている。と、ここまで引っ張ってきてなんなんだといわれそうだけど、この表題作と「豚の飼育と交配について」が似ているのはタイトルだけで、こちらでは本当に変異ウィルスでリアルに豚が絶滅して復活する話である。研究所の男女研究員のユーモラスな会話のなかで立ち上がるこの「リアル」というところに理工学系の話づくりの確かさが感じられる。しかもこれは著者の作品としては思わずニヤリとさせてくれる珍しいコメディタッチが成功している一品。でもやっぱり結末はサタイアでホラーだと思う。

「チャーム Charm」は、「いじめ」を受けている子供が話から始まるが、その途中でいじめっ子たちは気まずそうに立ち去る、チャームが発現したからだ……。このプロローグが主人公の体験であり、主人公のチャームへのこだわりは、彼を脳科学に向かわせ国立の研究所で「感情の脳内マップ」を研究するまでになった……。まさに理工学系作家岡本俊弥の典型的な設定といえる作品で、これがSFなのは表題となっている「チャーム」がいかにもありそうな仮説に見えて、その上で物語の結末を支えるアイデアにもなっているからだ。われわれが若い頃の本格SFの定義に「SF的設定を抜くと物語が成立しないような作品」というのがあったけれど、これは岡本作品の多くに見られる。それにしてもこの結末がまた不気味な風景で作者の持ち味がよく出ている。

「見知らぬ顔 An Unknown Face」は、入国審査が高速の自動化ゲートだけになってしまった時代に、ある国の男が観光目的で入国しようとして機械ゲートに虚偽判定されたエピソードから始まる。筆者は著者が「機械」と名付けているものがAIに思えるのだけれど、常に「機械」と呼んでいるところに長年の理工学系技術研究を実践してきた著者のこだわりがあるのだろう。この物語は「ぼく」が機械ゲートの判定は何を意味していたかを依頼人の弁護士に報告する形になっている。すなわちこれは「機械の精神分析医」シリーズの一編なのだ。ということで岡本作品中最も多く書かれているシリーズの雰囲気がここでも味わえる。多分、「機械の精神分析医」である「ぼく」が著者にとっていちばん自分を仮構しやすい人物なのだろう。

「ブリーダー Breeder」は、二度目の定年を迎えた主人公がこれといった趣味もないのでよくある自宅のDIYを始めるが、それに飽きたころ「ブリーダー募集」のチラシに興味を持つ。この募集元が「株式会社 次世代知能技術研究所 NTL」というところが、やっぱり著者のSFたるところ。主人公が任された「ブリーダー」の相手は「会話するアプリ」で、主人公は画面中の猫アバターを選択し結構熱中するのだが……。ここでもまるでAIのディープ・ラーニングみたいなものを思わせておいて、著者は近未来テクノロジーのSF的ヴィジョンを披露する。これはサタイアでもホラーでもない一作。

 トリは本短編集の中でいちばん長い「秘密都市 The Secret City」。視点人物は会社を早期退職し、家族と別れヤモメ同然の生活をしていたが、ある日、以前ライターをしていたころ世話をした若者がいまはネット投稿記事サイトの編集者として取材仕事を依頼してきた。取材先の近くにいるので経費が安く済むと考えたらしい。あまり乗り気ではなかったが引き受けた。そして物語は主人公が書いた取材レポートとして展開する……。これはいわゆる陰謀論/トンデモ系のウラ歴史物で、ソ連崩壊時に多くの核技術者が各国へ離散したという事実を踏まえて、著者の作品としてはかなり異例の大がかりな仕掛けを用いている。さすがに話が大きすぎるのではと思うけれど、著者は最初からウラ事情系ネット投稿サイトの取材記事として予防線を張っている。著者の作品の中でも異色な部類に入ると思う。

 最後に、著者の刊行予告を見たら本短編集のテーマは「お仕事」とのことだった。うーむ、それにふさわしい作品紹介になっているか心許ないが、ここらで〆とさせていただく。

 POD/Kindle版解説ではこの後に「おまけ」が続きます。ここでは割愛しています。

 津田文夫さんは、全国的に有名な某ミュージアムや文化施設の幹部を務めた近代史の専門家です。今回は学生時代からの「一読者に近い立場」から執筆していただきました。

山本弘『料理を作るように小説を書こう』東京創元社・他

カバーイラスト:竹田嘉文
カバーデザイン:日高祐也

 創作についての本は従来からたくさん出ているが、今年の4月に山本弘と冲方丁『生き残る作家、生き残れない作家』(早川書房)が、さらに3月には、ミステリ作家でベストセラーの常連でもある松岡圭祐による『小説家になって億を稼ごう』(新潮社)が出版され話題になった。3冊をまとめて買った人も多いようだ。今週はこれらを取り上げてみたい。

 まず『料理を作るように小説を書こう』は、隔月刊の「ミステリーズ!」で2016年8月から1年間連載された創作講座を加筆訂正したものである。受講者と著者のQ&Aのスタイルで書かれており、アイデアを食材、プロットを調理法になぞらえ、小説を料理に見立てて説明している。主に1950-60年代SFを中心に著者に影響を与えた作品が、自作のアイデアやプロットにどう応用されているのかを、引用文を多用することで説明している。

 冲方丁『生き残る作家、生き残れない作家』はセンセーショナルな表題が付いているが、内容は著者独自の分析に基づく創作術といえる。この本のベースには、西武池袋コミュニティカレッジで行われた「冲方丁・創作講座」がある。著者には『冲方丁のライトノベル書き方講座』という本が既にあり、ノウハウ的な内容はそちらに書かれている。本書は講座のエッセンスを16のポイントに分割し、コンパクト(250枚ほど)にまとめ直したものだ。例文などもあり具体的だが、初心者向けというより作家としての持続性に重きを置いた内容といえる。

 松岡圭祐『小説家になって億を稼ごう』も煽った題名ではあるものの、内容はむしろ堅実な生き方を勧めている。最初から長編を書くべきだ、その手法はお話をすべて頭の中で組み立て切ってから、三幕構成で書けとある(自身のノウハウなのだろう)。そこまでは創作の方法だが、本書が類書と違うのは、デビュー後の対応について詳細に記載してあることだ。業界の内情を含めて、新人作家がどう振る舞うべきか、何をしてはいけないかが明確に書かれている。

 作家がなぜ創作の方法を人に教えるのか。この3冊には、それぞれが考える理由が書かれている。まず第一に、人に教えることで、自身の創作に対する考え方を総括することができる。それが新たな創作の糧になるかもしれない。また、蓄えたノウハウを、失わせることなく次世代に継承することができる。次の作家が生まれなければ、ジャンルどころか小説そのものすら滅びてしまう。

 もう一つの特徴、作家が自分を語る自叙伝的な要素も注目に値する。著者の経験(どうやってデビューしたのか、何が助けとなり何が妨げとなったのか)が、そのまま半生の生きざまになっているのだ。作者に興味がある読み手にとって、こういう部分は見逃せないだろう。

 山本弘はキャリア40年。冲方丁は25年、年収6千万で12億を稼ぐ。松岡圭祐は24年、ピーク年収1億越えで累計額は冲方丁を上回るだろう。ただ、それぞれの収入の多寡、仕事内容に差異はあっても、多数の著作を世に出したエンタメ分野の成功者である点に違いはない。3人で共通するのは、創作を志す動機を「書くのが楽しいから」としたことだ。金儲けや著名文学賞の獲得に目標を置いただけでは、達成した後/挫折した後に行き詰まる。好きであるからこそ、浮き沈みがあっても乗り越えられるのだ。

水鏡子「なにぶん「岡本地獄」であるので」『千の夢』解説

以下は『千の夢』巻末に収録した、水鏡子解説を全文掲載したものです。

 著者の第四短編集。「会社」に焦点をあてた十二篇を集めている

 社会人としての経歴は、大学のシステム工学科を卒業後、大手電機メーカーに就職、半導体その他の研究開発にも携わり、三八年間勤続し、二〇一三年度末に六〇歳で定年退職した。二一世紀に入ってからは会社の方もごたごたがあり、現在は海外資本の傘下にある。直接聞いたわけではないが、したくもない得難い体験をいろいろ経てきたのではないか大変だったのではないかなど本書に漂う鬱屈を味わいながら思ったりする。今の日本は国の要請で定年退職後一年ごとの継続で六五歳までの五年間、再雇用の可能な仕組みになっているのだが、二年未満で再雇用を打ち切り、創作の道に踏み入る。

 六〇の手すさびというわけである。

筆者も同類ですが、最近は本業をリタイアした自称作家が急増しているそうです。新人賞応募などがあると、自伝まがいのフォーミュラ・フィクション(ある種の願望充足小説)を書く老年応募者が殺到して、増えすぎたシカやイノシシなみの害獣扱いになっているとか。駆除されないまでも、有力な若い作家がたくさん出てくる中、受賞できる確率はとても低いでしょう。将来性がない、というか、そもそも活動可能な賞味期間・作家余命が短かすぎるからです

自身による『機械の精神分析医』のプロモーション

 たんたんと無表情で毒を吐くのは昔からである。別に年を食って偏屈狷介になったわけではない。

 とはいえこの手すさびが尋常ではない。長年ひとつのジャンルに親しんだ人であるなら四、五篇の短編作品を捻り出すのは、それなりにできなくはない。「小説家になろう」にあるように、だらだらひとつらなりの話を書き綴るのはたぶんそれよりもっと楽。ほどほどに語り続ける才があれば、設定や構想の不備は後付けで輔弼していくことが可能であるから。

 しかしながら安定した商業出版レベルのクォリティで数十篇の短篇を書き続けるとなるとプロの作家であってもどれくらいの人間に可能であることか。大野万紀主宰のWEBマガジンTHATTA ONLINE誌上においてほぼ毎号、年十作のペースで作品の発表を継続し、現在までの総数は六〇篇に及んでいる。

 二〇一九年七月に第一短篇集『機械の精神分析医』を刊行したのを皮切りに、半年単位でテーマごとにまとめ、作品集を刊行している。現在までの収録作品総数が四〇篇。今後も年十篇の発表が続くものと仮定して、残り四冊の刊行が待ち構えている。

 六〇の手すさびと言ったが、元々が創作系の人間で、ファン活動の始まりは高校時代のショートショートの投稿である。

 MBSラジオで深夜の一時半から五時まで二年余り放送されていた「チャチャヤング」という番組で、故眉村卓氏が木曜日のパーソナリティを務め、その中でリスナーからの投稿を受け付け朗読されていたもので、「四当五落(五時間寝ると受験で受かれない)」といった言葉が普通に使われ、深夜ラジオ放送が共有文化だった時代である。はっきり言ってラジオを聞きかじっている時間はまるで勉強は身につかなかった。当時の関西の受験世代のSFファンは必死になって眉村氏を聴いていた。かくいうぼくもそのひとりであり、投稿もじつは何度かしている。この番組でしか流されなかった「スラリコ・スラリリ」という曲のメロディはいまだに耳にこびりついている。

 番組の終了に合わせて、七二年九月に優秀作を集めた『チャチャ・ヤング=ショート・ショート』が講談社から刊行されている。メンバーは、その後も眉村氏も囲んで(何年かの空白期間はあるものの)現在に至るまで親交を絶やさずそれぞれに創作中心の活動を続けている。

 ただ、著者については、進学したうちの大学サークルが海外SF指向で翻訳やレビューを中心に、活動を商業誌まで拡大していくなかで中心的な役割を担っていった関係もあり、創作活動は余技的にとどまり、活動はもっぱらレビュー中心にシフトしていった。

 レビューの対象作品は、五〇年代SFとかハードSFとか冒険SFとか会員各自で大まかに棲み分けがなされ、そうしたなかで著者の守備域は〈新しい波〉や主流文学系が中心となり、商業誌での「SFチェックリスト」の分担系レビュー(その月、刊行されたすべてのSF作品を数名の人間が分担してレビューする)においてもそうした方向性が引き継がれていった。

 読むことや書くことは、読みながら書きながら、煮詰まったりときほぐれていったりするものだというのが、僕自身が読んだ作家や書いた自分から導き出した実感なのだが、著者の文筆活動には、そんな陥穽を避け、持続していくことをなにより重視していると思える一面がある。なにか決まった製造工程に則って、きちんとした品質管理のもと、均質な生産物を送り出し続ける。均一ではなく均質である。そんな印象があるのだ。この数年の毎月生産される短篇の五年前も最近作も変わらぬ安定感から生まれた印象であるのだけれど、そんな持続と品質維持への意思は、翻るに過去半世紀に及ぶレビュー活動の中から生じたものであるかもしれない。

 創作活動に軸足を残しながら、SF及び周辺作品二千冊あまりの内容を言葉にしてきて半世紀、その中で蓄えられたSF知識、小説作法、SFファン活動や社会人生活のなかでの体験とその渦中での様々な思い、それらを積み重ね六〇代という人生の折り返し点で培ってきた個人的及び俯瞰的な世界と制度と将来への知見、そうした公的私的な景観を、品質管理を施した基本四〇枚前後のSF小説の枠組みに落とし込んでいくというのが現在行い続けている著者の作業であるのだと思う。

 意外であったのは、SFの最先端や周辺文学を読み込んでいるはずの著者であるのに、落とし込む先の小説形態がノスタルジックなまでに第一世代のころのSFの骨組みに近しい印象があること。はっきり言ってしまうと、眉村さんの初期作品群を彷彿させる。

 私的な心情や思いついたアイデアを小説に落とし込む手つきがすごく似通っている。テーマが重なるということもある。眉村氏との長い親交が影響を与えているのは間違いないのかもしれない。けれどもそれなら中期後期の氏の作品であってもいい。

 多感な高校生時代、なりたてのSFファンであった少年が最初に出会い、親身になってもらった作家の当時の作品群が、強烈に、小説作法として著者の心中に刻印されているのでないか。

 「インサイダー文学論」という眉村氏の提唱がある。サラリーマン、というより会社や社会制度の有り方をを知らずに文学は書けない。組織の一部となりながら、埋没せず、自分であることを捨てない生き方。そうしたものを組織や体制に組み込まれている人々に届ける努力をしなければ世の中に訴える力を持つことはできない。そんな趣旨の発言で、当時仲間のSF作家たちから反発を受けていた。社会学科卒業のぼくからするとすごくまともな意見であると思うのだが。

 主張の実践意図をもって書き上られた長編にはあまり感心しなかった。むしろ中間管理職的な立場に置かれてしまった主人公が投げ出さず、悲哀と諦観を交えながら事案を処理する「クイズマン」のような作品こそが作者の主張に沿っていると思っている。

 著者の第一短編集『機械の精神分析医』の前半は、AIの不調の原因を解決していく主人公による連作だが、その読後感は、アシモフの『われはロボット』のようなパズル性より、クライアントの病理を浮き彫りにする方向に話をまとめる。AIと人間が共存する社会制度のもとでその場その場の調整しかできない橋渡し的職業の悲哀と諦観を描いていく。

 そこに「クイズマン」の印象が重なり、さらには眉村氏初期の多彩な短篇群と、第二、第三短編集『二〇三八年から来た兵士』『猫の王』から共通する手つき、手触りが感じて、ぼくにとって「岡本俊弥作品は眉村卓初期短篇群の多大な影響下にある」という結論になった。

 ただし、それは手つき手触り、様々なアイデア、事象を小説の枠に落とし込む作法が共通しているだけで、展開される世界は天国と地獄くらいに隔たっている。当然眉村天国、岡本地獄である。

 人情味にあふれた眉村氏と異なり、著者は「まるでアンドロイドみたい」と形容される人格容貌だった。高度成長のきざはしにさしかかった六年間のサラリーマン生活、日本の未来が開けていたのが眉村氏の「インサイダー」なら、三八年間働いて、団塊の世代の後塵を拝し、不況下のグローバリズムに翻弄され、老後の展望はというと、ここでも団塊の世代に食い散らされ、さらには国の借金財政、少子高齢化が暗澹たる未来を予見させる現状である。著者の性格からすれば、嬉々として地獄八景を繰り広げるに値する素材が積もりに積もっている。

 「機械と人」「異世界」「獣性」と過去の短篇集もそれぞれテーマ設定がなされていたが、「機械と人」をテーマとした第一短篇集こそ同じ主人公による連作もあって、それなりのまとまりがあったが、第二、第三短篇集はテーマがあいまいすぎてテーマ短篇「集」としてはまとまりに欠けるきらいがあった。

 ところが本書はどうだろう。研究開発だったり、テレワークだったり、セキュリティ、あるいはグローバリズムだったり、内容は多岐に渡り、作品間のつながりもない、発表時期もばらばらである。にもかかわらず異様なまでに「集」として収束し、まとまりがある。著者の「会社」に対するいろいろな思いのたけが重くのしかかってくるようで、個人的には四冊の中でいちばん高く評価している。

 のしかかられてつらくなる人もいるかもしれないが。なにぶん「岡本地獄」であるので。

大野万紀「デジタルな時代のランドスケープ」『猫の王』解説

  以下は『猫の王』巻末に収録した、大野万紀解説を全文掲載したものです。

 本書は岡本俊弥の、Amazon(オンデマンド)、kindleで出版される3冊目の短編集である。1998年からインターネットで公開している大野万紀のオンライン・ファンジン「THATTA ONLINE」に掲載された作品の中から、2016年から2019年の9編が収録されている。

 ぼく、大野万紀と岡本俊弥のつき合いはもう半世紀近くになる。同じ大学のSF研に、彼は一年後輩として入って来たのだ。
 当初から彼は目立っていた。眼光鋭く、歯に衣を着せぬ物言いをし、実は「寺方民倶」のペンネーム(というかラジオネーム?)でMBSの深夜放送、眉村卓さんがパーソナリティをやっていた〈チャチャヤング〉にショートショートを投稿していたとカミングアウトする。みんな素人ばかりのSF研で、おお、プロだ(プロじゃないけど)と注目を浴びることになる。
 どちらかといえば翻訳や評論が主流だったSF研の中で、本格的な創作に軸足のある彼は異色であり、貴重な才能だったのだ。
 その年の大学祭でうちのSF研も何かやろうということになり、みんなで古本を売ったりしたのだが、彼は一人でタロット占いを始めた。聞くところによるとその占いは情け容赦なく、占ってもらった女子大生がみんな動揺しながら半泣きになって出てきたという。
 SF研で作る会誌は、まだ謄写版印刷の時代で、版下は手書きだった。会員が分担してガリ切りをやっていたのだが、彼の担当部分は正直いってかなりのくせ字であり、読むのに苦労した。タイプオフセット印刷の時代になって、彼が評価の高い多くのファンジンを作り出していったのはそれへの反動だったのかも知れない。
 筒井康隆さんの「ネオNULL」創刊に関わり、その編集をまかされたり、SF大会のスタッフをしたり、そしてSF雑誌に書評を執筆したりするようになったりと、その後の彼の活躍についてはインターネットに公開されているので、そちらを参照されたい

 彼の作品の特色は、その静かでほの暗い色調と、工学部出身で大手電機メーカーの研究所に勤めていた経験を生かした、科学的・技術的、あるいは職業的にリアルで確かな描写、そしてそれが突然、あり得ないような異界へと転調していくところにあるだろう。そしてちょうどグレッグ・イーガンやテッド・チャンなど、現代の最先端の作家の作品に見られるように、現実と仮想、人間の意識とその見る世界とが、相互にずれ合い、重なり合い、干渉し合う、そんなデジタルな時代のランドスケープを描いていくところにあるといえるだろう。

 第1短篇集『機械の精神分析医』はそんな作風が良く現れた作品集だった。たとえシンギュラリティは起こらなくても、人工知能(AI)はわれわれの生活の隅々にまで入り込んでくる。そんな近未来社会の「日常」はどんな姿をしているのだろうか。リアルに構築されたハードSF的な未来像から、ふいに幻想的ともいえるぞっとするような情景が浮かび上がってくる。

 第2短篇集『二〇三八年から来た兵士』は「異世界」がテーマの作品集であり、過去のSF作品を思わせるタイトルが示すように、作者のSFファンとしてのキャリアが前面に出ている。そこでは並行世界や改変歴史、破滅後の世界など、SFでおなじみのテーマが扱われているが、そんな世界に放り込まれた登場人物たちの運命はやはり重く、暗いものとなる。

 本書『猫の王』ではそれらに加え、人間の内部に潜む「獣性」にも焦点が当てられている。それはデジタルで論理的な「意識」の背後にある、生き物としてのベースラインであり、言語化されない叫び声なのである。

 収録作について。

「猫の王」THATTA ONLINE 2016年7月号
 猫の集会を見たことがあるだろうか。ぼくは会社からの帰宅途中、何度か見たことがある。猫たちは何をするでもなく、ただ集まってじっと佇んでいる。主人公は公園で拾った猫の子を飼うことになるのだが、その子こそ「猫の王」だったのだろうか……。
 日常の中の「少し不思議」を描きつつ、遙か遠い過去から連なる人間と猫の関係性を幻視するシーンが美しい。

「円周率」THATTA ONLINE 2017年8月号
 ハードディスクがSSDになり、さらにDNAメモリに置き換わっていく未来。主人公は臨床試験に応募し、DNAメモリのチップを体内に注入される。それにはデータとして円周率が記録されているという話だったのだが……。
 アイデアこそSFでありがちなものだが、この作品のリアリティには作者の専門分野での知識や経験が反映されているのではないだろうか。

「狩り」THATTA ONLINE 2016年11月号
 小学四年生の主人公は彼が心を惹かれる同級生の女の子に白い尻尾があるのを知る。彼にしか見えない尻尾だ。そして中学生のときも、高校生のときも、彼は尻尾のある女性(たち?)に出会い、心を惑わされ、翻弄される。だがそれはどこまでが現実だったのか……。
 人の中にある獣。人の意識が見る世界が現実とは限らないのであれば、その中にいる獣の見る世界はどうなのだろう。

「血の味」THATTA ONLINE 2017年6月号
 遺伝子操作により作られた植物性の人工肉。人口増加により食糧問題が重要になった世界で、その普及は何をもたらすのか……。
 味覚、とりわけ肉の旨みなどというものは、言語的ではなくまさに獣の感性によって判断されるものなのだろう。最新のバイオ技術によりそれが再現されるとき、パラメータからはみ出した部分に何があるのか。作者は仕事でインドに行っていたこともあり、そこでの現実もこの作品には取り込まれているようである。またこれは静かな「復讐」の物語でもある。

「匣」THATTA ONLINE 2017年5月号
 古い住宅地に建つ窓の無い匣のような建物。そこは年老いたコレクターが数え切れないほどの本を集めた書庫だった。役所から来た二人はその迷宮にさ迷い込んでいく……。
 ホラーめいているが、この建物は実在する(ただし現実には地下階はなく、作品はあくまでフィクションだが)。そしてこのコレクターもまた……。それを見てみたいという奇特な方は、こちらを参照のこと。

「決定論」THATTA ONLINE 2018年3月号
 過去から未来へ流れる時間線は一本だけで、その中で起こる全ての事象はあらかじめ決定している。そんな決定論の世界で、人間の自意識は脳内へ〈宇宙線――天の声〉が届くことによって生じるという実験が行われた。主人公はその実験の被験者となるが……。
 あたかもテッド・チャンを思い起こすような作品だが、主人公にとって自由意志の問題は最初の方であっさりと決着しており、むしろこの時間線がどのようにして確定しているのかを知ることが重要となる。もちろん現実の物理学とは異なるが、その思考実験は大変面白い。

「罠」THATTA ONLINE 2018年8月号(「トラップ」を改題)
 家を出ていつもの駅に向かう途中、彼女は見えない壁に阻まれる。彼女以外の誰にも存在しない壁。だがどうしても通り抜けることができない。彼女は自宅から半径一キロの範囲に閉じ込められてしまったのだ。罠。だがその壁に一つの扉があった。その向こうで彼女が知ったのは……。
 アイデアよりもストーリーを重視したという作品である。ごく普通の日常生活が異質なものによって変容する。後半はカート・ヴォネガット作品へのオマージュとなっているが、より現代SF的な味付けがされている。

「時の養成所」THATTA ONLINE 2019年12月号
 遥か遠い未来。〈養成所〉では正しい時間線の乱れを正すための官吏が養成されている。教官に指導され、過去へと向かった一人の官吏は、自分の行っている行為に疑問をいだく……。
 眉村卓「養成所教官」へのオマージュ作品である。SFのテーマとしてはタイムパトロールものといえるが、だが彼らが守ろうとしている時間線とは……。養成所の荒涼とした風景が象徴するように、物語には苦い味わいがある。

「死の遊戯」THATTA ONLINE 2019年5月号・6月号(「闘技場」を改題)
 仮想空間で、機械を操り、互いに破壊し合う戦争ゲーム。そのプレイヤーとしてスカウトされたプロのゲームアスリートだった男は、ゲーム内であり得ないものを見る……。
 原稿用紙にして百枚以上、本書で一番長い作品であり、また非常に複雑な構成をもった作品である。仮想世界の中に構築された仮想世界、その仮想世界の時間軸が交錯し、さらにAIのバグが互いの整合性を破壊する。そしてこの作品はまた、《機械の精神分析医》の一編となっているのだ。

大森望『21世紀SF1000 PART2 』早川書房

カバーデザイン:早川書房デザイン室

 本書は、本の雑誌に毎月連載されている「新刊めったくたガイド」の本文(2011年2月号~2020年2月号)と、年ごとの概要及び「SFが読みたい!」掲載のベスト投票結果を合わせたものである。別途出た『2010年代SF傑作選』をデータ面で補完する内容になっている。無印(PART1)が出たのは2011年12月なので、8年2か月ぶりの続刊。

 2011年は東日本大震災、小松左京が亡くなった年になる。バチガルピ『ねじまき少女』、「五色の舟」を含む津原泰水『11 eleven』が出た。2012年は円城塔が『道化師の蝶』で芥川賞を受賞、『屍者の帝国』も刊行。ハヤカワSFシリーズも復活して、SFの夏(東京新聞記事)となる。2013年は酉島伝法『皆勤の徒』が出る。この年は日本SF作家クラブ50周年となり、関連行事が開かれたり記念書籍も出た。2014年はSFマガジンの700号と特集が設けられたが、ミステリ・マガジンとともに翌年以降の隔月刊化が決定。2015年はケン・リュウ『紙の動物園』がブームを呼び、伊藤計劃作品のアニメ化がらみで特集、書籍も出た。2016年はアルファ碁が人間に勝った年、ピーター・トライアス《ユナイテッド・ステーツ・オブ・ジャパン》が話題になった。2017年はSF大賞、山本周五郎賞などを得た小川哲『ゲームの王国』が登場、ついに「伊藤計劃以後」の時代は終わったとされる。2018年は円城塔『文字渦』山尾悠子『飛ぶ孔雀』飛浩隆『零號琴』が出て、ハーラン・エリスンやル・ヴィンの死が報じられた。2019年は夏に出た劉慈欣『三体』が空前のブーム、中国SFに関心が集まり、小川一水《天冥の標》が完結した。その一方、眉村卓、横田順彌らの訃報を聞くことになる。

 10年代は小松、眉村といった第1世代作家の物故、SFマガジンが隔月化したという後退はあったものの、創元SF短編賞、ハヤカワSFコンテスト、星新一賞など公募型新人賞が開始され、歴史ある文学賞を受賞するような大型新人が数多くデビューした。文学とSFとの差異が無くなってきたのだ。また中国SFなど、英米に偏る翻訳出版にも変化が見えてきた。そういう俯瞰的な流れが本書を読むことで分かる。

 さて、本書をデータ面で見るとどうなるか。大森望の「新刊めったくたガイド」は採点があるのが特徴である。星5つを満点として10段階で評価するのだが、星1.5未満は記載がないので実質8段階とみなせる。自著(編著、訳書を含む)や評論書は採点に含めない原則があり、全715冊が対象になっている。円グラフはその内訳を表している。著者の意図的には星5~4.5が必読(19%)、星4が推奨(30%)、星3.5は読む価値あり(31%)、星3以下では水準作~それ未満(20%)という分類だろう。全SF網羅といってもまったくダメな作品は選ばれないだろうから、採点の分布は上位側に偏っており正規分布にはならない(下図参照) 。

 棒グラフは年別の評価のばらつきを表している。年によって対象となる本は62(2016年)~93冊(2013年)とばらつくが、標準偏差を取ると各採点とも年ごとにおおよそ2割程度のばらつき範囲に収まる。つまり、変動が2割以内であれば特異ではないことになる。その尺度で見る限り、10年代のどの年にも大きな差異はないだろう。ただ星5と4.5、星4と3.5の間には逆相関があり、例えば2018年のように4が多い年は3.5が少なく、19年は逆になっている。これを作品の揺らぎとみなすか、評価の揺らぎとみなすかは微妙なところだろう。