発表当時日本でも話題を呼んだ、「SFの気恥ずかしさ」(1976)を含む評論集である。ディッシュ(1940‐2008)が亡くなる3年前に出たものだ。内容は1970年代から90年代にかけての書評や評論を、意味深なテーマ名に分けてまとめたもの。ディッシュについては若島正編の『アジアの岸辺』以外、アニメ化された『いさましいちびのトースター』(1980)を含め新刊では入手できない。7年前も同じことを書いたが、聞いたことすらないという読者がさらに増えたと思う。それでも、本書を含む国書刊行会の2冊を読めば、(詩人ディッシュこそ未紹介ながら)魅力の一端がうかがえるはずだ。
第一部 森
SFは児童文学の1ジャンルであり、小説とSFの関係は、科学とサイエントロジーとの関係に近い(SFの気恥ずかしさ)/SFはアイデア優先なのか。しかし科学のアイデアに対する小説のアイデアは、証明不可能という意味で違うものだ(アイデア――よくある誤解)/神話は文学のどこにでも宿るが、特にSFに顕著である(神話とSF)/SFの人気はこれまでになく高まった(80年代後半)。やはり人気を得ているのは児童文学の1部門と述べたタイプである(壮大なアイデアと行き止まりのスリル――SFのさらなる気恥ずかしさ)
第二部 祖先たち
名声がありながら、ポーほどみじめな人生を送った作家はいない(ポーの呆れた人生)/ポーは神秘主義者でモダニストであるより、ずっとペテン師で遊説家だった(墓場の午餐会――ゴシックの伝統におけるポー)/ハクスリー『すばらしい新世界』は、予言的な未来のヴィジョンというより、奴隷労働者階級が存在しなくなる前の神話的な黄金時代に対する郷愁といえる(『すばらしい新世界』再再訪)/ブラッドベリのホラーはハローウィーンの仮装を思わせる。彼が芸術家だというのは、水道屋ではないという意味しかない(テーブルいっぱいのトゥインキー)/(クラークの評論集を評して)SFの学問の命運が編者のオランダーとグリーンバーグその他にゆだねられているのだと思うと、この分野が学会内部でもゲットー化するのはほとんど免れないと思う(原文ママ、ママ、ママ)/機械についての小説という限定的なカテゴリーでは、『楽園の泉』がトップに立つのは間違いない(天国へのバス旅行)/『2010年宇宙の旅』は行きつく先に衝撃や感動はないとしても、知的に閉じた感じはする。『ファウンデーションの彼方へ』は何の動きもないのと全く同じで、アイデアとして通用するものも何もない(宇宙の停滞期)/我々の未来の本当の建設者は、スポーツ馬鹿(ジョック)ではなくて、アシモフのようなガリ勉(ブレイン)なのだ(アイザック・アシモフ追悼)/ヴォネガットは父と息子の軋轢をドラマ化する作家の中では珍しく、常に世代の賢くも悲しい側に同情を寄せている(世代の溝を越えたジョーク)/ギーガーのイラストが選ばれていないSFアートの本は、オランダ芸術の本にレンブラントが記載されていないようなものだ(時間、空間、想像力の無限性――そしてとびっきりの筋肉)
第三部 説教壇
キングの最も顕著な長所は、日用品として、均一で安定した「製品」を生産できることだ。そこに(独自性や文体を裁定する)批評が介在する余地はない(王(キング)とその手下たち――〈トワイライト・ゾーン〉書評担当者の意見)/『ヴァリス』などイエスを扱う5冊の本を取り上げようとすると、なんとディッシュの目の前にイエスが姿を現した(イエスとの対話)/1980年版のSF傑作選で4割を占めるグループ(当時30代半ば)をLDGと総称する。彼らは芸術を捨て量産できる娯楽路線を選んだ。中ではブライアントがひどい(レイバー・デイ・グループ)/5冊を批評、ディックの短編集は良いものが含まれ、マッキンタイアは将来性を見込むが、オールディスは玉石混交、ファーマーは読み通せず、ハーネスはSFにする意味がない(一九七九年――綿くずと水の泡)/クズの本を編集者と書評家がが焚書するという、この祭りにふさわしい本とは(聖ブラッドベリ祭)
第四部 選ばれし大きな樹
ジョン・クロウリーの『エヂプト』(未訳)は、いつもの景色の中で太陽がより明るく輝き、普段の景色が素晴らしいものに変わったように感じる、稀有な人生の特別な日々のようだ(違った違った世界)/『エンジン・サマー』は、まずなんといっても、芸術作品であり得ている点で並外れたSFだ(クロウリーの詩)/ジーン・ウルフは大人の読者も満足させられるし、奇想天外な要素も質の悪い奇想ではなく詩になりうる芸術作品を作り出した(ウルフの新しい太陽)/サイバーパンクというポストモダンのスプロール現象で、ギブスンはいまでも『ヴァーチャル・ライト』を証拠として、最先端の思想家である(サイバーパンクのチャンピオン-――ウィリアム・ギブスンの二作品について)/最高のSFは必ず仮定の力によって働くが、『ディファレンス・エンジン』ほど効果的にその原動力を作用させたものはめったにない(ヴィクトリア女王のコンピューター)/『太陽クイズ』の序文に寄せた詳細な作家論・作品論(ディックの最初の長篇)/『最後から二番目の真実』には、ディック特有のスキーの滑降的な(矛盾が生じても立ち止まらない)書き方が反映されている(一九六四年にならえ)
第五部 狂った隣人たち
UFO体験を描くホイットニー・ストリーバー『コミュニオン』はノンフィクションを装うでっち上げだが、それを批判するディッシュも宇宙人に拉致されてしまう!(ヴィレッジ・エイリアン)/UFO体験と新興宗教は似ている。何のメリットもない大衆が支持するところを見てもそうだ(UFOとキリスト教の起源)/SFと宗教とはよく似ている。センス・オブ・ワンダーと「崇高」とは同じ、「真理」を守護する正統派がいるところも同じだ(SFという教会)/ブラヴァツキー、グルジェフ、シュタイナーら神智学の導師たちの欺瞞的な行動(まだ見ていない事実の確認)/SFは宇宙を描いてきたし、その結果現在の宇宙計画に大きな影響を与えた。しかし、それが軍事化され政治利用されるとなるとどうか(天国への道――SFと宇宙の軍事化)/共和党の保守派キングリッチに徴用された、パーネルら御用作家たちの行動(月光の下院議長―ニュート・ギングリッチの未来学参謀)/この映画がヒットしたのは、印象的な神の実像を描いて見せたからだ(『未知との遭遇』との遭遇)/『宇宙からの啓示』のホイットニーは幽体離脱してディッシュの夢の中にまで登場する!(最初の茶番)
第六部 未来のあとで
ピーター・アクロイド『原初の光』はどこを読んでも目も当てられない(生ける死者の日)/シンドバットの時代と現代とを交互に描いた『船乗りサムボディ最後の船旅』は、ジョン・バースの真骨頂である(おとぎの国バグダッド)/レムが最新の作品を読まずにアメリカSFを難じるのはいただけない(SF――ゲットーへの案内)/ドリス・レッシング『マーラとダン』(未訳)の世界は使い古しのプロットでできていて、情景はどこを見てものっぺりとしてかすんでいる(川を越えて、森を抜けて)/バロウズが初めての方には『裸のランチ』の方をおすすめする(首吊りの方法)/クリスティーン・ブルックローズ『エクスオアンドア』(未訳)は詩の領域に達した造語小説の傑作(天才キッズの秘密の暗号)/『アメリカポストモダン小説集』(未訳)は文学におけるポストモダンの無意味さを知らしめる(とんちんかん、ちんぷんかん、ちちんぷいぷい)
さて、表題作を含む『解放されたSF』(もともとは講演集)が1984年に翻訳されたとき、「SFの気恥ずかしさ」をSFスノッブ(マニア)に向けた辛辣なジョークとする見方が多かった。多少の本音は入っているとしても、「腹を抱えて笑う」べき冗談とみなされたのだ。しかし、本書を読むとそのトーンは一貫している。つまり、ユーモアを交えているとはいえ、ジョークではないのである。
本書では、SFの読者は少年が夢想するような冒険物語(児童小説)を求めると説く。それは逆境の英雄が活躍する神話伝承ととても近い。ベストセラーとなる小説が、神話のパターンで書かれているのは偶然ではない。(無知蒙昧とまでは言わないまでも)本を読みなれない読者に容易く理解できるからだ。その定型で新鮮さを感じさせるためには「文体」の工夫が重要になる。立場はまったく逆ながら、冲方丁もキャンベル『千の顔を持つ英雄』(本書にも出てくる)を引き合いに同じことを言っている。
総じてディッシュは、パルプ世代の作家や(クラークを除く)第1世代作家、ナショナリスト、疑似科学や宗教類似の詐欺に関わる作家に厳しい。一方、ベンフォード『タイムスケープ』、クロウリー『エヂプト』『エンジン・サマー』、ウルフ《新しい太陽の書》、ギブスン&スターリング『ディファレンス・エンジン』、ジョン・バース『船乗りサムボディ最後の船旅』、そして欠点を挙げながらもディックの諸作品を称える。褒める技術も並大抵ではない。
ところで、レイバー・デイ・グループ(LDG)にはジョージ・R・R・マーチン、ヴォンダ・マッキンタイア、タニス・リー、ジャック・ダン、エド・ブライアント、マイケル・ビショップ、ジョン・ヴァーリイらが含まれる。この中では最近翻訳が出た『時の他に敵なし』のビショップが高評価され、ブライアントが酷評されている。当時のファンは、どちらかといえば若いLDG側に同情的だった(そりゃそうでしょう)。とはいえ、作家として生き残っているのは、神話伝承風の物語「ゲーム・オブ・スローンズ」を当てたマーチンくらいだ。本書の正しさを象徴するかのようである。