ハードにしてソフト、人の本質を突く作家 グレッグ・イーガン

 今回のシミルボン転載コラムはイーガンです。海外のSF作家、それも英米圏ならテッド・チャンとグレッグ・イーガンは日本での人気の双璧といえます。多くの翻訳作品がありますが、ほとんどは現行本か電子書籍で読めるというロングセラー作家でもあります。以下本文。

 1961年生。オーストラリアの作家。ポートレートを一切公開せず、イベントやサイン会にも参加しない覆面作家として知られる。理論的なバックグラウンドを備えた本格的なハードSFを書く作家で、英米よりも日本での評価が高いのが特徴だ。母国オーストラリアのディトマー賞で辞退騒ぎがあった2000年以降(ノミネート自体を拒否している)は、日本の星雲賞(長編部門で2回、短編部門で4回)での受賞回数が際立っている。

カバー:小阪淳

 『祈りの海』(2000)は編訳者山岸真による、日本オリジナルの短編集である。この本が出る前は、長編『宇宙消失』(1992)や、仮想環境下でシミュレートされる生命を描いた『順列都市』(1994)で注目されてはいたが、まだコアなSFファン内部にとどまっていた。イーガンの魅力を存分に伝えた本書が、一般読者を含む幅広い人気を生み出すきっかけになったのだ。

 1日ごとに違う自分だったら。可愛いが人とは認められない赤ん坊がいたら。不死を約束する意識のコピーを持てたら。あるいは、未来から送られてくる日記があったら。誘拐されたのが自分の感性だとしたら。人類の祖先はアダムなのかイヴなのかが分かったら。そして、神々と逢える海(ヒューゴー賞、ローカス賞、星雲賞を受賞した「祈りの海」)の正体を知った主人公はどう行動したのか。人間の根源である意識や思考は、単なる物理・化学変化が生み出す錯覚にすぎないのかもしれない。こういったアイデアの数々は、読者に衝撃を与えた。

カバー:Rey.Hori

 短編集『しあわせの理由』(2003)では、星雲賞をとった表題作で、不治の病に冒され死につつある少年が描かれる。不幸なはずの少年は幸せだった。何もかもが肯定的、あらゆるものが楽天的に感じられるからだ。彼の脳内で育ちつつある癌が、ある種のエンドルフィンを分泌する。それが人に究極の幸福感を与えてくれる。本書のどの作品もシニカルだ。派手な盛り上げはない。たんたんと物語が流れていく。デジタル化され、化学物質で感情が左右されると、逆に人間の本質があらわになる。最愛の夫を宿せと言われた妻を描く「適切な愛」や、この「しあわせの理由」で顕著に現れるのが、肉体や感情のコントロールこそ、純化された人間そのものというメッセージだ。電脳やナノテクは非人間的という、一般的なパターンをはるかに超越した考え方だろう。

カバー:L.O.S.164

 『万物理論』(1995)は、2005年の星雲賞受賞長編である。21世紀半ば、遺伝子情報は大企業が寡占している。さまざまな遺伝子操作の可能性は奇怪な事件や人物を生み出していた。そんな生命を弄ぶ取材に疲れた主人公は、物理学会で画期的な理論の発表がされることを知る。「万物理論」は宇宙創造を説明し、物理の根本を説明できるという。

 本書のキモは、やはり「驚くべき結末」を構成する奇想アイデアであり、いかにも本当らしい理論的説明にある。誤解を避けるため、反科学の立場は本書で否定的に描かれているが、アイデア自体は疑似科学を思わせる。それをトンデモ説ではなく、客観的な立脚点で描ききったところがSF作家イーガンの際立つ才能といえる。

カバー:小阪淳

 2006年の星雲賞受賞作『ディアスポラ』(1997)は本格宇宙SFである。30世紀、人類は少数の肉体で生きる人々を除いて、大多数がソフトウェアによる電脳者だけになり、彼らは情報を集積する唯一のハードウェアであるポリスで生活している。ある日、文明を支えていた予測理論では予見できない宇宙的異変が起こり、地球環境が破壊されてしまう。このままでは、彼ら自身のポリスの未来も不確かなままだ。真理(新しい法則/理論)を求めるべく、1千もの宇宙船が宇宙に散開(Diasporaの意味)する。しかし、そこで彼らの目にしたものは、ありうるべき理論をはるかに超える未知の存在だった。

 本書のように、文字通り次元を超えた大変移は、既存のどんな作品でも書かれたことがない。宇宙SFというより宇宙論SFなので、イーガン流の重厚な世界を正面から楽しむつもりで読むべき作品だ。もちろん「宇宙物理SF」を読むのに宇宙物理の素養は必要ない。

 ハードSFはやっぱり苦手という人には、同じ山岸真編のTAP』(2008)という作品集もある。ちょっと不思議系作品が選ばれている。本書の中では、実験室で人知れず実験動物を使って培養されるもの「悪魔の移住」や、偶然大金を手にした夫婦が、生まれてくる子供に最高の遺伝子を持たせようとする「ユージーン」の結末が、いかにもイーガン風の皮肉で面白い。

カバー:小阪淳

 長編『ゼンデギ』(2010)は宇宙ではなく、近過去(2012)と近未来(2027)のイランを舞台にした作品。そこで流行しているVRゲーム(ゼンデギ)をからめて、イーガン得意の人間意識の電子化を描く異色作だ。

 『ゼンデギ』(2010)の次に書いたのが、《直交3部作》(2011-2013)である。しかし、これに手をつける前に、『白熱光』(2008)をまず読んでみることをお勧めする。

 ハブと呼ばれる中心を巡る軌道の上に、その世界〈スプリンター〉はある。異星人である主人公は、理論家の老人と知り合い、さまざまな実験と観測の結果、ついに世界の秘密を説く鍵を見つけ出す。一方、150万年後の未来、銀河ネットワークに広がった人類の子孫は、銀河中心(バルジ)から届いた1つのメッセージを頼りに、別種の文明が支配するその領域に踏み込もうとしていた。

 物語は、時間軸の異なる2つの系統から作られている。六本脚の異星人が孤立した星の中で、独自に物理法則を発見していく物語と、生物由来/電子由来の区別がなくなった超未来の人類が、銀河中心に旅する物語である。後者は、最終的に前者との結びつきを発見することになる。種明かしにも関係するが、本書の舞台はブラックホール/中性子星という、超重力の近傍世界だ(それ自体ではない)。

 何しろ、理論物理学の教科書を読まないとわからないことが、数式なしで書かれている。シミュレーションすることで初めて見えるような物理現象が、ビジュアルに書かれている(つまり、明確な根拠を持っている)。著者自身その詳細を、数式で解説している。そもそも書かれた世界ではニュートン力学ではなく、相対論的効果の下での力学が働いているのだ(われわれも厳密にいえば相対論的効果の下にあるが、その効果を日常で感じることはない)。翻訳版では解説に謎の答えのヒントがあるし、物理的な背景も(なんとなく)分かるので、比較的読みやすいだろう。

カバー:Rey.Hori

 次に『クロックワーク・ロケット』を始めとする《直交三部作》(2011-2013)がある。ここでいう直交 Orthogonal とは、本書の場合、主人公たちの宇宙と直角に交叉する直交星群を指す。原著が3年かかって出たのに対し、翻訳は1年以内に3部作を刊行しようとしている。これまでイーガンを一手に引き受けていた山岸真に加え、中村融を共訳者に据えた強力な布陣(前半後半を分担し、全体調整は山岸真)が注目される。

 別の物理法則が支配する宇宙、主人公は旧態依然の田舎から逃げ出し都会で学者の道を選ぶ。やがて、夜空に走る星の光跡から回転物理学を発表、世界的な権威となる。一方、大気と衝突する疾走星がしだいに数を増し、破滅の危機が叫ばれるようになる。主人公らは、巨大な山自体をロケットとして打ち上げ、そのロケットの産み出す時間により世界を救うことができるのではないかと考える。ロケットを時間軸に対して垂直になるまで加速すると、母星の時間は止まり、無限の時間的余裕が生まれるのだ。

 主人公は人間ではない。前後2つづつの目を持ち、手足は自在に変形できる。腹部に記号や図形を描き出し、それが重要なコミュニケーション手段となる。性は男女あるが、女は男女2組の子供を産む(この男女が双と呼ばれ、通常なら生殖のペアとなる)。主人公は単独に生まれた女で、出産を抑制する薬を飲む。人類とかけ離れた生態ながら、主人公らは人間的に感情移入しやすく描かれる。人という接点がなければ、小説として成立しなくなるからだ。

 『白熱光』は特殊な環境の星を舞台にしていたが、そうはいっても同じ相対論宇宙での出来事だった。本書は違う。根本的な物理法則が異なっており、相対性理論は回転物理学と呼ばれている。なぜなら、時間経過を示す方程式で、時間の二乗が距離割る光速の二乗で「引かれる」のではなく「足される」からである。そのあたりの理論的解説は、例によって著者のHPで詳細に書かれている(が、それを読んで直ちに理解できる人は少ないと思う)。巻末にある板倉充洋による解説の方が分かりやすい。

 本書は、ありえない世界の一端を物理現象として見せてくれる。物理法則は世界の在り方を記述する。しかし、そこを書き換えた結果、何が起こるのかをすべて予測するのは難しい。著者自身述べているように、全く異なる世界をシミュレーションするには、無限大の知見が必要になるからだ。その隙間こそ、小説が埋めるべきものだろう。前例がないわけではない。レムは架空書評集の形で書いたし、小松左京は「こういう宇宙」でその雰囲気を描いて見せた。

 ところで、なぜクロックワーク・ロケットなのか。この宇宙では原理的に電子制御ができず、ロケットは機械仕掛けのみで動くこと。もう一つ、時間と空間が完全に等価であり、光速による制限がない=光速を越えられる=タイムトラベルが自在=時を動かす装置、等の連想もできるだろう。

カバー:Rey.Hori

『エターナル・フレイム』(2012)は、《直交3部作》の2作目にあたる作品である。母星から直交方向に飛ぶ巨大な宇宙船〈孤絶〉内部では、すでに数世代の時が流れている。故郷を救う方法は未だ得られず、帰還に要するエネルギーも不足する。しかし、接近する直交星群の1つ〈物体〉を探査した結果、意外な事実が判明する。一方、乏しい食料と人口抑制の切り札として、彼らの生理作用を変える実験も続けられていた。

 前作では直交宇宙における相対性理論=回転物理学と、その理論を解明する主人公たちが描かれていた。今回は量子論である。解説で書かれているように、20世紀から21世紀にかけての量子力学の成果が、形を変えて直交宇宙で再演されている。光が波なのか粒子なのか、といったおなじみの議論もなされるが、当然我々の宇宙と同じにはならない。物理学上の大発見と並行して起こるのが、ジェンダーの差による宿命を揺るがす生物実験だ。それは、宇宙船内を巻き込む大事件へと広がっていく。物理学の再発見という静的な物語の中で、これだけは感情に左右される問題だろう。ある意味、とてもイーガン的なアイデアなので、インパクトを与えるものとなっている。

カバー:Rey.Hori

 さらに『アロウズ・オブ・タイム』(2013)は3部作の完結編である。アロウズ・オブ・タイムとは“時の矢”のこと。時間には流れる方向があり、それは矢が飛ぶ様子になぞらえられる。放たれた矢は一方向に飛び、逆転してもどってくることはない。しかし、時間と空間が完全に等価なこの宇宙ではありうる。たとえば、未来からのメッセージを過去の時点で受け取ることが可能なのだ。片道に6世代を費やしてまで母星の危機を解決しようとした〈孤絶〉内部では、帰還への旅の過程で、メッセージの受け取りと意思決定を巡って深刻な対立が巻き起こる。

 この3部作は、相対性理論・量子力学・時間遡行までを扱う究極のハードSFなのだが、意外にも軽快に読めてしまう。設定は重厚でも、お話は変にひねっていないので読みやすいのだ。別の宇宙の物理を組み立て(著者のホームページにはさらに詳しい設定資料があるが、物理が平気な人以外にはお勧めできない)、ノーベル賞級の発見(相当)をこれだけコンパクトにまとめた、イーガンの手腕には改めて驚かされる。

(シミルボンに2016年8月31日、及び2017年2月24日掲載したものを編集)

 この記事の後も、イーガンは長編『シルトの梯子』(2001)や、星雲賞を受賞した「不気味の谷」を含む作品集『ビット・プレイヤー』(2019)などが翻訳され、2020年には文藝夏季号で特集が組まれるなど、ジャンルを超えた幅広い人気を維持しています。

近未来を見すえる確かな視点 藤井太洋

 今回のシミルボン転載コラムは藤井太洋です。コンテストでもファンダムや同人誌などの人脈でもなく、そもそも紙媒体とは異なる独自の電子書籍で登場した、まさに時代の申し子といえる作家の5年間を紹介しています。以下本文。

 1971年生。プロデビュー作は2013年の『Gene Mapper』だが、紙書籍までの経緯は少し変わっている。まず原型となる電子書籍版(-core-と記載されている私家版)が2012年7月に先行発売され、Amazon kindleストアでベストセラーとなる。これにはさまざまな媒体も注目した。そこを契機に書籍化の話が生まれ、増補改訂決定版(-full build-)の同書が生まれたのだ。当時としては珍しく、紙書籍と電子書籍がタイムラグなく同時に刊行された。震災後の2011年、情動主体で科学的な説明を蔑ろにした報道に憤りを感じたのが、同書執筆の動機になったという。

カバー:Taiyo Fujii & Rey.Hori

 主人公はフリーの Gene Mapper=遺伝子デザイナーである。著名な種苗メーカの依頼を受け、稲の新種の実験農場で、企業名のロゴを稲自身で描くという仕事を引き受ける。しかし、社運を賭けたその農場で異変が発生する。正体不明の病害で稲が変異しているというのだ。遺伝子に欠陥があるのか、自分の仕事に瑕疵があったのか。原因を探るため、彼は企業の代理人とともに、調査に協力するハッカーが住むベトナム、農場のあるカンボジアへと飛ぶ。

 徐々に拡大しつつあるものの、日本の電子書籍は、まだ紙を凌駕する規模にはない。ベストセラーでも、紙版と比べれば1ケタ販売部数が少ない。その中で本書は万に近い部数を売った。私家版でこの数字は非常に大きい。著者の公式サイトにあるインタビューを聞くと、メディアでの紹介効果が一番大きく、Googleのアドワーズ(広告ツール)を用いた独自のプロモーション効果もあったという。アドワーズでは(たとえ採算は取れないくても)効果を数値的に把握できる。著者は、もともとプログラミングが仕事で、グラフィックデザインなどのDTPもよく分かっている。電子書籍業界の実情を理解したうえで作品を作っているのだ。最初の私家版では、Kindleを含め8種類の電子書籍フォーマットで同時刊行できたのだが、これには自作スクリプトによる自動変換を用いている。

 『Gene Mapper』は、発端>近未来の世界観>登場人物の謎の過去>異変の真の原因、と進む展開がスリリングで、その設定の確からしさが印象的だ。文章に無駄がなく、冗長な表現が少ない。何より技術者らしく、データに基づいたロジカルな説明が良い。執筆スピードも速く、最初の電子書籍版を6か月(iPhoneのフリック入力で執筆)、紙版を+1か月あまりで書き上げたという(前掲インタビュー)。

 第2作の『オービタル・クラウド』(2014)では、世界を舞台にした近未来サスペンスという著者の持ち味が明確になる。

 第35回日本SF大賞、第46回星雲賞日本長編部門受賞作。デビュー作『Gene Mapper』が比較的地味な設定で書かれたお話だったのに対し、本書は舞台が一気に世界全域(東京、テヘラン、セーシェル、シアトル、デンバー、宇宙)にスケールアップされたことが特徴だ。テクノスリラーという惹句にある通り、物語のスコープは直近のロケット工学と、現在考えられうるIT技術の範囲に収まる。また、表題「軌道をめぐる雲」には、複数の意味が込められているようだ。

 2020年末、民間宇宙船による初の有人宇宙旅行が行われている裏で、奇妙な現象が報告される。それはイランが打ち上げ、軌道を周回するロケットの“2段目”が、自律的に軌道を変えるというありえない現象だ。流星の情報を流すウェブ・ニュース主催者、天才的プログラマ、サンタ追跡作戦中のNORADの軍曹、CIAの捜査官、情報が隔絶された中で苦闘するイランのロケット工学者……世界に散在する彼らは、やがて1つの事件に巻き込まれていく。そして、ネットを自在に操る事件の首謀者が浮かび上がってくる。

 直近の未来なので、国際政治の情勢は今現在と大きく変わらない。イラン、北朝鮮と悪役の顔ぶれも同じだ。ただし、本書は国家と国家の争いを描いているわけではない。民間宇宙船のベンチャー起業家と娘、直観力に優れた小さなネットニュースのオーナー、廉価なラズベリー(組み込みプロセッサを載せた小型ボード)で並列システムを組む女性ハッカー、宇宙に憧れるインドネシア人ら米軍関係者、現象を発見するアマチュアの資産家、中韓国語を自在に操る凄腕のJAXA職員、巧妙にITを駆使する工作員などなど、ほぼ全員が極めて個人的動機で行動を決めている。そういった個性/個人が、衝突/合従し合うドラマなのだ。宇宙人とのコンタクトの夢は、まだまだ叶いそうにないが、ここでは巨大システム=国家抜きで、目の前の“近い宇宙”に挑もうとする実現可能な夢が描かれている。

 『アンダーグラウンド・マーケット』(2015)は、アングラ=裏社会に流通する仮想通貨を巡る物語である。小説トリッパー2012年12月掲載作を大幅に書き直し、前日譚を書き加え単行本化したものだ。

 東京オリンピックを2年後に控えた2018年の東京、不足する労働力を補うために大規模な移民政策が実施され、アジア各地からの移民が多数暮らすようになった。一方、高額な税が課せられる表社会を避けて、政府が制御できない仮想通貨とその流通を保証する決済システムが構築される。主人公たちは、収入も仕事も仮想通貨に関わる、アンダーグラウンドのITエンジニアなのだ。そこには、システムを利用しようとするさまざまな人々が登場する。

 アジア移民が溢れる日本の近未来社会で、仮想通貨による裏の経済システムが息づく様が描かれる。わずか数年後にそこまで変わるかという疑問はあるものの、ITだけで成り立つ仕組みなら考えられるだろう。そもそも現代は、1年後すら見通せない不透明な時代なのだ。雑誌掲載版と比べると、いくつかの前提を設けながら登場人物や移民社会の背景が丁寧に加筆されており、物語の説得力が増している。藤井太洋は(近未来をテーマとする関係もあり)社会情勢の変化に応じて作品をダイナミックに書き換えることもいとわない。アングラ=犯罪/悪とネガティブに捉えるのではなく、新しい可能性として描いた点が面白い。

カバー:粟津潔

 しかし、その才能はITやテクノスリラーだけではない。例えばテーマアンソロジイ『NOVA+屍者たちの帝国』(2015)で、「従卒トム」という作品を寄せているが、南北戦争で活躍した奴隷上がりの黒人兵トムが、ゾンビを操る屍兵遣いとして幕末日本の江戸攻め傭兵となる……という、思わず読みたくなる巧みな設定で書いている。さまざまなテーマに対応できる柔軟な書き手なのだ。

 2015年から日本SF作家クラブ会長に就任、英会話が堪能で、積極的に海外のSF大会(アメリカや中国)に参加し、作家同士の交流や、自作を含む日本のSF作品をアピールするなど世界視点で活動している。

(シミルボンに2017年2月13日掲載)

 その後も藤井太洋は『公正的戦闘規範』(2017)『ハロー・ワールド』(2018)『東京の子』(2019)『ワン・モア・ヌーク』(2020)など、矢継ぎ早に話題作を発表しています。最近でも、奄美大島のIRを舞台にした『第二開国』(2022)や、高校生たちがVRを駆って世界に挑む『オーグメンテッド・スカイ』(2023)など、時代を反映する作品が目を惹きます。

阿呆の血のしからしむるところ 森見登美彦

 今回のシミルボン転載コラムは森見登美彦です。著者のペンネーム「登美彦」は、神武東征軍の奈良盆地侵攻を阻んだとされる古代の豪族「登美長髄彦」(とみのながすねひこ)から採られていますが、著者が育った新興住宅街の地名にもなっています。そういう時間的空間的なギャップは、著者の作品のルーツでもあるようで面白いですね。以下本文。

 1979年生。2003年京都大学在学中に書いた『太陽の塔』で第15回日本ファンタジーノベル大賞を受賞しデビュー。以降、自身が体験した京都での学生生活をベースに、誰も見たことのない魔術的京都を描き出す諸作品を発表する。2007年に『夜は短し歩けよ乙女』で第20回山本周五郎賞、2010年には『ペンギン・ハイウェイ』で第31回日本SF大賞を受賞する。

『太陽の塔』の主人公は京都大学の5回生で、振られた後輩の女子大生を“研究”している。彼女の行動を観察するため、執拗に追跡するのである。主人公は、万博公園にある太陽の塔の驚異に魅せられていた。しかし、その秘密を教えた途端、彼女は主人公への関心を失う。クリスマスを迎え、底冷えの中に震える主人公の周りには、京都の裏小路を走り抜ける叡山電鉄の幻影や、四条河原町で巻き起こる“ええじゃないか”の狂乱とともに、遥か彼方に太陽の塔が浮かび上がる。

 本書の舞台は現実の京都の街並みであり、学生向けの古びた下宿である。主人公は犯罪者めいたストーカーなのであるが、エキセントリックというより憎めない間抜けな人物として描かれている。日常描写が非現実のファンタジイに見えてしまうという意味で、魔術的なリアリズム、マジックリアリズム小説の域にあると称賛された。この後も、著者の作品の多くは、キャラクタや設定を微妙に変えながら、同じ路線で書かれることになる。

 アニメにもなった『四畳半神話体系』(2005)は、学生の四畳半での下宿生活にSF的飛躍を加えた作品となっている。今どき部屋貸しの下宿生活をする学生は少ないと思うが、京都では最近までそういう生活があたり前だった。

 主人公を巡る人々は、卒業の見込みもなく浴衣で棲息する先輩、隠された趣味を持つ先輩のライバル、サークルの権力闘争で暗躍する後輩、飲むと態度を一変させる美人歯科技工士、変人の彼らをものともしない工学部の女子大生らである。彼らを結びつけるのは、『海底二万海哩』、熊のぬいぐるみ、大量発生した蛾の群れ、猫の出汁をとるというラーメン屋、占い師の老婆……なのである。一見脈絡がなく、舞台装置がひどく古臭いのに、いかにもありそうに感じさせるのは、舞台がディープな京都だからかもしれない。最終章は一転、ハインライン「歪んだ家」筒井康隆「遠い座敷」を思わせるSFになる。

 『きつねのはなし』(2006)は短編集である。表題作「きつねのはなし」は『太陽の塔』と同時期に書かれた作品で、鷺森神社近くの得体の知れない顧客と、一乗寺の古道具屋である芳蓮堂との奇妙な関係を描いている。著者の作品は、ほぼ同じ舞台(京都市左京区の北辺や木屋町、先斗町界隈)と同じ設定(共通の登場人物)を中心にして回っている。しかし、最初の『太陽の塔』がほとんどファンタジイの領域で書かれていたのに対して、続く『四畳半神話体系』は一歩現実に接近しSF的な展開を見せ、本書に至るとホラーの様相を見せる。同じものを書きながら、ファンタジイ・SF・ホラーという非現実の3つの位相を描き分けているわけだ。本書でも最初の短編で現れた怪異が、後に続く3つの物語で拡大され、ついに現実を覆い隠してしまう。

 『夜は短し歩けよ乙女』は、2007年の山本周五郎賞受賞作。2017年4月には、先輩星野源、黒髪の乙女花澤香菜というキャストで劇場版アニメが公開された。発売以来のロングセラーで、この本が出てから森見登美彦ファンになる女性が急増したという、伝説の恋愛というか変愛(へんあい)小説である。デビュー作『太陽の塔』をリメークしたような作品にもなっている。

 5月、先斗町で開かれた結婚パーティーの後、黒髪の乙女は大酒呑みの美人歯科技工士と、浴衣姿の正体不明の男と出会い、伝説の老人と偽電気ブランの飲み比べをする。8月、下鴨神社、糺の森で開催される納涼古本市では、老人が主催する我慢大会が密かに開かれる。そこでは、乙女の探す古本をかけて過酷な闘いが繰り広げられる。11月、大学祭で繰り広げられる神出鬼没のゲリラ演劇「偏屈王」と、取り締まる事務局との争いのさなか、乙女は緋鯉のぬいぐるみを背負って歩きまわり、パンツを履き替えないパンツ総番長やリアルに造られた象の尻と出会う。12月、クリスマスの声を聞く頃、京都は悪質な風邪の病に蹂躙されるが、その根源は糺の森に潜んでいた。

 さて、本書は上記4つのエピソードからなるオムニバス形式の長編である。主人公は先輩、新入生で酒豪かつ天真爛漫な黒髪の乙女にほれ込むが、姑息なナカメ作戦(なるべく彼女の目にとまる作戦)でしか近づく手立てを思いつかない。『太陽の塔』では単なるストーカーだった主人公が、本書ではよりナンセンスの度合いを深めている。ファンタジイ=純愛を成就する男として、存在感を増しているのである。そして本書の前に書かれた『四畳半神話大系』や『きつねのはなし』でお馴染みのメンバーが多数登場する。実在の地名と実在の行事、喫茶店まで実名で出てくるのに、とても現代の京都が舞台とは思えない。京都の風景が偽物のように見えてしまう。竜巻に巻き上げられる錦鯉とか、ばらまかれる達磨、深夜の先斗町に忽然と出現する3階建ての叡山電車(もちろん3階建ての電車などない)、という謎めいたイメージの奔流にも驚かされる。

 こちらもアニメになった『有頂天家族』(2007)では、妖怪めいたキャラクタが活躍する。京都では、古来より狸と天狗たちが、人間と入り混じりながら生きていた。彼らは巧みに姿を変幻させるため、人と見分けがつかないのである。そんな狸一族の名門下鴨家は、総領の父親が狸鍋で食われてしまってから、どこか抜けたところのある4兄弟たちが助け合ってきた。彼らは叔父の率いる夷川家と狸界の覇権を賭けて対立しているのだが、何せ狸のことであるから、阿呆な事件が次から次へと巻き起こっていく。

 神通力を失い安下宿に逼塞した天狗、元は人間だが天狗の魔力を持つ妖艶な女性、年末に狸鍋を囲む怪しげな金曜倶楽部の面々。京都の街並みは変わらないけれど、前作までの京大生たちとちょっと違う魅力的なキャラクタが豊富に登場する。本書の中では「阿呆の血のしからしむるところ」というフレーズが各所に出てくる。ヴォネガットの有名なフレーズ「そういうものだ」は運命に逆らえない諦観から来るものだったが、根が陽気な狸たちは、何事も「阿呆なこと」として片付けてしまうのである。恐ろしい狸鍋でさえ、彼らにとっては阿呆な運命の一つに過ぎないのだ。

 日本SF大賞を受賞した『ペンギン・ハイウェイ』(2010)は、舞台が京都から離れ、主人公も小学生になった作品だ。著者が育った奈良県生駒市の新興住宅地(大阪のベッドタウンが多い)をイメージし、そこにスタニスワフ・レム『ソラリス』へのオマージュを込めた、思い入れのある作品だという。

 都心から離れた郊外の新興住宅街。主人公は小学校四年生で、常にノートを携行し、物事の観察に勤しむ論理的な少年だった。どんな疑問も書きとめ、読み返して意味を考える。最近のテーマは、住宅街を流れる川の源流はどこかを含む、町の詳細な地図作りだった。しかし、春が深まった5月、空き地に現れたペンギンの群れを見たときから、小さな世界はまったく別の様相を見せ始める。

 主人公はえらい科学者を夢見ていて、感情的にならず冷静に物事を見ようとする。大人がみせる鼻持ちならない高慢さからは、まだ無縁だ。といっても子供なので、喫茶店のお姉さんに憧れる気持ちが、実はどういう意味なのか分かっていない。お姉さんは謎の存在なのである。ペンギンはどこから生まれてくるのか、森の中で徘徊する生き物は一体何か、野原に出現した「海」はどういう理屈で存在できるのか。それらと、お姉さんとは関係があるのか。夏休みの中で、謎が無数に渦巻きながら、彼らを飲み込んでいく。本書の場合は、主人公が「科学者」であるところがポイントだろう。巨大な(しかし、人類を揺るがすわけではない)謎に挑む小学生の科学者なのだ。

 その後、森見登美彦は体調を崩ししばらく休筆していたが、朝日新聞連載を全面改稿した『聖なる怠け者の冒険』(2013)や、『有頂天家族二代目の帰朝』(2015)、直木賞候補ともなった『夜行』(2016)を出版して復活する。過去の作品を集大成したこれらを併せて、作家生活十周年記念作品(実際は13年だが)としている。特に最後の作品は、京都から離れた主人公が京都にもどってくる(しかし元通りにはならない)物語で、作者の心境を象徴している。

(シミルボンに2017年2月15日掲載)

 このあとも森見登美彦は『熱帯』(2018)、初期のオールスターが競演する『四畳半タイムマシン・ブルース』(2020)、ややペースを落としながらも、今年になってから大部の『シャーロックホームズの凱旋』を出すなど筆力は衰えていません。

言葉の綾とり師 円城塔

 今回のシミルボン転載記事は円城塔を紹介したコラムです。2007年デビュー、5年後に芥川賞を受賞、その一方毎年のように年刊SF傑作選(大森望選)に選ばれるなど、どちらから見てもエッジに立つという特徴を持つ作家です。これは、その初期作を紹介したもの。以下本文。

 1972年生。デビュー作『Self-Reference ENGINE』は、締切の関係で第7回小松左京賞に応募、最終候補となるも伊藤計劃『虐殺器官』とともに落選する。結局、早川書房のSF叢書《Jコレクション》から2007年に出るのだが、出版にいたる合間に書かれた短編「オブ・ザ・ベースボール」で第104回文學界新人賞を受賞。また2010年「烏有比譚」で第32回野間文芸新人賞を受賞、2012年「道化師の蝶」で第146回芥川賞、2014年『屍者の帝国』では第33回日本SF大賞・特別賞を受賞する。純文学の賞とSFとが混淆する。しかし、どれもポテンシャルなしで受賞できるほど甘い賞ではない。それくらい、円城塔の作風は文学とSFの境界にあるということなのだ。

カバー:名久井直子

 『Self-Reference ENGINE』は、プロローグとエピローグに挟まれた18の短編から構成されている。未来から撃たれた女の子、蔵の奥に潜むからくり箱、世界有数の数学者26人が同時に発見した2項定理、あらゆるものが複製される世界、究極の演算速度を得た巨大知性体、謎に満ちた鯰文書の消失、無限の過去改変が可能な世界での戦争、祖母の家に埋められた20体のフロイト、宇宙を正そうとする巨大知性体たちの戦争、巨大知性体を遥かにしのぐ超越知性体の出現、過去改変は妄想だと主張する精神医、誰にも解明できない謎の日本語、知性体を飛躍させるために考えられた喜劇知性体、知性体を崩壊させた理論の存在、祖父との時空的問答を楽しむ孫娘、巨大知性体が滅びた顛末、海辺に佇む金属体エコー、超越知性体を動かし巨大知性体を滅ぼした要因。

 本書はSelf-Reference ENGINE(自己参照機械)=ある種の人工知能によって語られた物語ということになっている。フレデリック・ポール『マン・プラス』(1976)もそうだが、直接思い出すのはやはりレム「GOLEM XIV」(1981)になるだろう。ただし、法螺話風の語り口はカルヴィーノ『レ・コスミコミケ』(1965)を思わせるし、幻想の質はボルヘスかもしれない。そういった各種要素がハイブリッドされた内容は、この後の円城塔の活動を象徴するものともいえる。

 芥川賞を受賞した「道化師の蝶」を紹介しよう。この作品は、選考委員の石原慎太郎から「言葉の綾とりみたいな」わけの分からない作品だと強く反対されたが、川上弘美、島田雅彦らの熱心な支持を受けて受賞した(ちなみに石原慎太郎は、この回を最後に選考委員を辞する)。本作は物語の流れを自在に操るアクロバットのような作品で、筋を追うだけの読み方では、行方を見失う読者も出てくるだろう。こんな話だ。

 東京シアトル間を飛ぶ航空機の中で、永遠に旅を続けるエイブラムス氏と出会う。エイブラムス氏に、旅の間しか読めない本の話をすると、氏は蝶の姿を持つ“着想”を捕まえる網を見せてくれる。それは、この世のものではない道化師の模様を持つ蝶だ。この後5章にわたって、物語は順次視点を変えて描かれる。ある章は友幸友幸という作家が、無活用ラテン語で書いた小説だったとされ、友幸友幸は二十の語族の言語で小説を書いた人物とあり、その翻訳者は、故人となったエイブラムス氏の財団から依頼を受けて友幸友幸を追跡している。しかし、レポートを受け取る財団の網/手芸品の解読者こそが、もしかすると友幸友幸かもしれず、解読者が作った網こそ、最初にエイブラムス氏が見せてくれたものかもしれない。最後に物語の時間順序は逆転し、冒頭のシーンにつながっている。

 二転三転する性別、時間軸も一直線ではなく、事実と嘘との境界も曖昧だ。10人中2人が絶賛し、3人は分からないと怒り、5人は寝てしまう難解な小説と言われた。これは公式な選評ではなく冗談なのだが、選考委員黒井千次も、最後まで読み切れなかったと告白している。そのため、発表当時から作品の解釈や、ナボコフとの関連性を論じた解説記事などがよく読まれた。ただし、著者自身がそういった詳細な読み解きを奨めるわけではない。

カバー:朝倉めぐみ

 「道化師の蝶」が収められた同題の短編集には、もう一編「松の枝の記」が収録されている。お互いの小説を翻案しあった異国の2人の作家が、10年目に邂逅を果たすお話だ。自分の小説を翻訳してからまた自国語に訳し直すという、まさにナボコフを思わせる迷宮感がある。純然たるフィクションと思っていたのだが、作中作が円城塔訳チャールズ・ユウ『SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと』(2010)として2014年に出版されると、まるで著者の書くフィクションによって現実が侵食されたような不条理感を覚える。

 最後に『プロローグ』を紹介する。〈文學界〉に連載された長編で、2015年11月に単行本が出たもの。同時並行して〈SFマガジン〉に連載され、10月に書籍化された『エピローグ』と対を成す作品である。同じ話を純文学とSFで書いたが、『プロローグ』は期せずして『エピローグ』をメイキングする私小説(リアルな著者が訪れた地名と関係する描写がある)となったのだという。この発言を含む、本書をテーマとした大森望との対談は『プロローグ』刊行記念対談 円城塔×大森望「文学とSFの狭間で」として電子書籍化されている。ワンペアの両作を読み解く鍵にもなるだろう。

カバー:シライシユウコ

 まず言葉を同定する、日本語だ。次に文字セットの漢字を「千字文」から決め、スクリプトをRubyに、人物の姓名を「新撰姓氏録」から決める。次に設定を決め十三氏族が登場する。21ある勅撰和歌集を分解し、舞台を河南と設定し、小説の分散管理を構想する。次に和歌集を素材に語句のベクトルを統計分析し、世界が許容する人の容量を決める。最後には、全ての章に使用された漢字と語句の統計分析を行う。

 版元の紹介文とはだいぶ異なるが、使用されるツールを並べていくと上記のようになる(これで全てではない)。小説を機械で自動生成するという試みは、過去から現在までいくつもある。残念ながら成果は途上で、文学のシミュラクラ(本物そっくり)レベルにはまだ届かない。その一方、小説を統計的に読み解いて、新しい解釈を加える論考も存在する。本書は計算機の書いた小説ではない。逆に、さまざまなツールを駆使して、ある程度自動的に小説を書こうとする試みだ。ツールの吐き出す定量的なデータの中には、とても興味深いものがある。あいまいさがない分、本質的な何かが分かったような気になれる。ただし、それが何かかは定かではないが。

カバー:シライシユウコ

 文藝評論家のレビューでは、ツールの面白さがほとんど触れられていない。データ解析をするための道具=ソフトを使って「創作する」行為自体が、実感し難いのだろう。実際にソフトを書く=コーディングしているのがポイントで、実践を伴うことでリアリティが増すのである。論文ではないから考察がない。考察の代わりに物語が置かれている。確かに、実在する自動出力装置を使った私小説といえる。石原慎太郎は「言葉の綾とり」を批判的な文脈で用いたが、実際、円城塔は言葉の綾とりを試みているのかもしれない。そこには、誰一人見たことのない新しい形象が姿を現しているのだ。

(シミルボンに2017年2月12日掲載)

 このあと、円城塔はますます言葉に拘泥していきます。その代表作が『文字渦』(2018)で第39回日本SF大賞、第43回川端康成文学賞を受賞、さらにはラフカディオ・ハーン『怪談』を翻訳文体で新訳するなど(平井呈一らの既訳は日本の民話風に寄せている)その行方が見えません。一方『ゴジラS.P』(脚本+ノベライズ)なども手がけています。これも(アニメも小説も)、庵野秀明でもやらない言葉の洪水が印象的でした。

ウルトラ世界を別視点から描き直す

 シミルボン転載コラムは、先週との関連になりますが、ウルトラ世界について書いた2016年のコラムを紹介します。こちらでは山本弘さんだけではなく、4年前亡くなった小林泰三作品を紹介しています。以下本文。

 2013年のデル・トロ版怪獣映画《パシフィック・リム》や2014年のギャレス版ゴジラから、怪獣ものは大人向けエンタテインメントとして再び注目を集めるようになった。それらが、「シン・ゴジラ」を生み出す原動力になったことは確かだろう。怪獣といえば、映画のゴジラに対し、もう一つTVでの原点となるのが円谷プロによる《ウルトラシリーズ》である。

カバー:開田裕治、後藤正行

 『多々良島ふたたび』は、2015年7月に出たアンソロジイで、円谷プロと早川書房(SFマガジン)とのコラボから生まれたものだ。収録作と著者解説は、すべて2015年に出たSFマガジンに掲載されたもの。2015年は怪獣アンソロジイが多数出た(たとえば『怪獣文藝の逆襲』)。それらの多くは、「ウルトラQ」「ウルトラマン」など《ウルトラシリーズ》に対するオマージュに基づく。本書は、その中でもオフィシャルなコラボということで、具体的な怪獣名なども含め、明確に元ネタを明らかにしている点が特長だろう。

 山本弘「多々良島ふたたび」レッドキングとウルトラマンが死闘を演じた島に観測員たちが再上陸する。北野勇作「宇宙からの贈りものたち」防災委員に任命された青年は火星のバラを荒らすナメクジの話を聞く。小林泰三「マウンテンピーナッツ」過激な環境保護団体が、ウルトラマンの怪獣退治を妨害する。三津田信三「影が来る」いつのまにか自分の分身が現われ、勝手に行動するようになる。藤崎慎吾「変身障害」ウルトラセブンが精神を病み、危機に陥っても変身できなくなる。田中啓文「怪獣ルクスビグラの足型を取った男」怪獣の足形を取る特殊な職務は、時代に合わず廃れつつあった。酉島伝法「痕の祀り」倒された怪獣を解体する任務に就く、特殊清掃会社の社員たち。

 ウルトラマン(多々良島)、ウルトラQ(ナメゴン、バルンガ)、ウルトラマンネクサス/ギンガ、ウルトラセブンなどなど、元ネタがあるといっても、大半は2次創作やパスティーシュとは少し違うものだろう。表題作「多々良島…」のみは原典の続編といっても良いが、頽廃感が漂う「宇宙からの…」、正義の立場を逆説的に問う「マウンテンピーナッツ」、ウルトラQ的な不条理感がある「影が来る」、現代の病理に犯されるセブン「変身障害」、滅びゆく職業への哀惜が感じられる「怪獣ルクスブグラ…」、独特の奇怪な会社を描く「痕の祀り」と、各作家の世界観にウルトラ怪獣(の固有名詞)をはめ込んだらどうなるかを試しているかのようだ。

カバー: 後藤正行

 なお、このうち「多々良島ふたたび」「怪獣ルクスビグラの足型を取った男」は2016年の星雲賞(国内短篇部門)を同時受賞している。

 引き続きコラボ企画の第2弾は、三島浩司『ウルトラマンデュアル』である。同書はウルトラマンの大枠を生かしながらも、設定や怪獣名などは独自のものだ。いわば別世界のウルトラマンだった。それに対し、第3弾小林泰三『ウルトラマンF』は、登場人物(早田=ハヤタ、嵐=アラシ、井出=イデ、そして富士明子=フジ・アキコ)や怪獣の名前(ゴモラ、ブルトン、ゼットン、ケムール人、メフィラス星人)も含め、オリジナルの設定をできるだけ取り入れているのが特長だ。その範囲は、《ウルトラQ》から《平成ウルトラマン》までを含む非常に広範囲なものになっている。

カバー:後藤正行

 《初代ウルトラマン》終了直後の時代、ウルトラマンは地球を去ったが、怪獣の脅威は収まることがなかった。科学特捜隊は、ウルトラマンの技術を応用したアーマーで対抗する。某国では人間の巨大化開発を進め、別の某国でも密かに兵器化を模索していた。しかし、強力な怪獣を倒すためには、不完全な兵器では力不足だ。かつて、メフィラス星人により巨大化した実績のある富士隊員の力が必要だった。

 ウルトラマンに限らず、ヒーローものや怪獣ものを小説にすると、物語に矛盾があったり科学的といえない設定が出てきたりする。しかし、50周年を迎えるウルトラマンともなると歴史的な重みがある。安易な改変をしてしまうと、いらぬ批判を招くことになる。原典はあくまで変えず、別の理屈で説明/解釈するしかない。こういう「解釈改変」は、山本弘の《MM9》などでも見られ、特撮とハードSF両者に拘るマニアックな著者らしい手法といえる。

 本書はそういう《ウルトラシリーズ》全体に対するオマージュであると同時に、初代ウルトラマン唯一の女性隊員フジ・アキコの物語となっている。コラボという背景がなければ、きわめて良くできた2次創作と言うしかない。それだけ著者のこだわりが際立っている。とはいえ、ライトなファンであっても十分に楽しめる作品に昇華できている。

(シミルボンに2016年8月27日掲載)

 小林泰三さんはこの4年後の2020年に亡くなっています。「シン・ウルトラマン」公開は2022年のこと。『ウルトラマンF』との類似性も指摘されていますが、マニアは同じように考えるという結果なのでしょう。映画についてはこちらをご参照ください

自然災害としての怪獣たち、《モンスター・マグニチュード9》 山本弘

 シミルボン転載コラムは、訃報が報じられた山本弘さんを取り上げます。評者が初めて山本作品と出合ったのは、デビュー前の1975年のこと。「シルフィラ症候群」という短編で、第1回問題小説新人賞の最終候補作でした。受賞はしなかったものの(同賞の選考委員だった)筒井康隆さんの推しを受け、同人誌NULL No.6(1976)に掲載されました(後に『ネオ・ヌルの時代 Part3』に収録)。一読、未成年(当時)とは思えない著者のストーリーテリングに驚嘆した憶えがあります。コラムでは代表作《MM9》を取り上げています。以下本文。

 《ウルトラ・シリーズ》の歴史は半世紀を越えており、現在50代後半から60代、中年から老年世代の原点といえば、やはりこれら特撮シリーズになるだろう。《ゴジラ》《ガメラ》などの映画は年に数作だったが、誰もが家庭で見られ、週1回放映されるTVのインパクトは大きかった。

装画:開田裕治

 『MM9』は連作短編集である。ウルトラマンの科学特捜隊=科特隊ならぬ、気象庁特異生物対策部=気特対が主人公。どうして「気象庁」なのかといえば、怪獣が自然災害(地震や台風など)であるからだ。

 潜水艦を破壊した巨大な海中生物の正体、岐阜山中に出現した身長10メートルの少女、遠く地球の裏側から日本を目指して飛んでくる怪獣の目的、気特対に密着取材するテレビクルーから見た活動のありさま、瀬戸内海の孤島で目覚めようとする巨龍には9つの頭が!など5編を収録している。

 本書には、さまざまな怪獣や、マイナーなSFに対するオマージュとパロディがちりばめられている。「危険! 少女逃亡中」が、大昔に翻訳されたコットレルのSF短編のパロディだなんて、おそらく誰も気がつかないだろう。登場人物名にも、伴野英世=天本英世とか、稲本明彦=平田明彦など、特撮映画の常連俳優に対する思い入れが感じられる。極めつけは、怪獣出現の「科学的根拠」として多重人間原理(多元宇宙+人間原理から創った造語)を提唱したことだ。神話宇宙(怪獣の存在が許される)と、ビッグバン宇宙(我々の物理法則が成り立つ)とのせめぎ合いが、怪獣を自然災害として出現させるという説明で、怪獣ものの弱点だった物理的な非科学性がうまく回避されているのだ。

装画:開田裕治

 『MM9』には続編があり、長編『MM9 invasion』(2011)と、『MM9 destruction』(2013)として出版されている。2つの作品は、エピソードとしては独立しているが、物語が一連の時間軸上にあるので、この順番に読むほうが良い。

 巨大な少女の姿をした怪獣を移送するヘリが青い火球と衝突、それ以降少女には宇宙人の精神寄生体が棲みつき、少年と精神交感できるようになる。そこで少年は、異星の神話宇宙の宇宙人たちが、怪獣を連れて侵略を試みていることを知る。まず東京スカイツリーを目指し首都圏を蹂躙(invasion)、続いて怪獣の神を伴って再び襲来する(destruction)。追い詰められた少女は、かつての仲間の巫女や日本土着の怪獣たちとともに、異星の怪獣に立ち向かう。

装画:開田裕治

 ウルトラマンへのオマージュと、怪獣大決戦が描きたかった、という著者の願望そのものが長編になっている。ガメラ風、ゴジラ風、モスラ風(そのものではない)怪獣対宇宙怪獣も、夏休み・冬休み東宝・大映特撮の定番だったものだ。怪獣ものが全盛だった頃に小中学生だった世代にとっては、特に説明不要なサービス満載の作品となっている。頼りない少年と、少女の姿をした怪獣、恋人を自称する同級生、超常能力を持つ巫女など、コミック風の三角関係ネタが新味だが、(怪獣ブームから時代は下る)高橋留美子へのオマージュなのかもしれない。

(シミルボンに2017年4月13日掲載)

 このコラムは『創元SF文庫総解説』に寄せた原稿の元記事にもなっています。著者には同じ設定で書かれた『トワイライト・テールズ』もありますのでご参考に。

死後8年、なおインパクトを残す作家 伊藤計劃

 シミルボン転載コラム、今回は比較的新しい作家を取り上げます。1930年前後生まれを第1世代とすると、伊藤計劃は第5世代になりますね。ただ、残念なことに34歳の若さで亡くなりました。下記の記事は、コラムと『屍者の帝国』レビューを併せたものです。以下本文。

 1974年生。2007年に長編『虐殺器官』でデビュー、2008年には小島秀夫によるゲームのノヴェライズである『メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット』及び『ハーモニー』を出版、翌2009年34歳で亡くなる。プロとしての活動期間はわずか2年あまり、生前に出した単行本は3作のみである。しかし、夭折の作家、闘病生活の傍ら書かれた作品、現代を映し出す特異なデビュー作、没後の星雲賞、日本SF大賞やフィリップ・K・ディック賞特別賞受賞(『ハーモニー』)など、そのインパクトは同世代作家や若手をまきこみ広範囲に及んだ。死後8年が経た今でも、余波は“伊藤計劃以後”と称され残っている。

カバー:水戸部功

 『虐殺器官』はこんな話だ。世界中でテロが蔓延している。第3世界に巻き起こった大量虐殺の連鎖は、とどまるところを知らず拡大を続けている。主人公は米国情報軍の特殊部隊に所属する。彼の任務は、虐殺行為の首謀者/各国の要人を暗殺することだ。しかし、その途上で奇妙な人物が浮かび上がる。要人の傍らには必ず一人の米国人が控えている。無害なポジションにあるように見えて、その男は複数回の襲撃を逃れ、常に紛争国に姿を現すのだ。

 この作品は第7回小松左京賞(受賞作なしで終わった)の最終候補作になった。「9.11をリニアに敷衍した悪夢の近未来社会」であり、小松左京の理念とは異なるという理由から受賞は逃したのだが、本書の完成度は内容や文章ともに初応募作とは思えないほど高かった。圧倒的な火力と情報力で、幼少兵からなる途上国の軍隊を蹂躙して任務を遂行する米兵は、まさに今の対テロ戦争そのもの。その上“虐殺器官”というネタ=表題になっていながら、読者を飽かさずに読ませるリーダビリティ、しかも曖昧な結末ではなく、SFとして納得できる解決が書かれている。

イラスト:redjuice

 『ハーモニー』は『虐殺器官』の未来を描いた続編ともいえる作品。ただし、硬質な文体で暗いテロの前線を描いた前作から一転して、本書の舞台は「福祉社会」である。

 2075年、大災禍と呼ばれる大規模な核テロの時代を経て、世界は高度な生命至上主義社会へと変貌している。国家は複数の「生府」から成り、ナノテク Watch Meにより傷病や不健康なものを一切排除していた。主人公は、未開地域で活動する世界保健機構の査察官である。だが、ある日、世界同時多発の自殺が発生、健康社会の基盤を揺るがす騒乱へとつながっていく。それは、13年前にシステムを出し抜いて自殺を図った少女たちの事件と似ていた。主人公は事件の生き残りなのだった。

 物語の最後は、ある意味グレッグ・イーガンが追及したものと似ている(このアイデア自体は、別の作家も使っている)。〈SFマガジン2009年2月号〉の著者インタビューでは、よりサイエンス寄りのイーガンに比べて、社会的インパクトに対する興味が強かったことが語られている。本書では、誰もが死なない理想社会と、肉体を改変することによる極度な均一社会の矛盾が、明快に描き出されている。もう一つのポイントは、主人公の感情が、そのまま文中にマークアップランゲージとして書き込まれていること。例えば、怒っているなど。これは、物語の結末と密接に関係する重要な伏線である。文体実験を試み、同時に仮想社会の真相をあぶり出した、きわめて野心的な作品といえるだろう。

装丁:川名潤

 伊藤計劃の著作では円城塔との合作『屍者の帝国』があるが、伊藤計劃が書いたのは冒頭のプロローグのみだ。ある種のトリビュート小説といえる。第31回日本SF大賞・特別賞、第44回星雲賞日本長編部門受賞作。

 そのプロローグは、死後〈SFマガジン2009年7月号〉に未完のまま掲載された。ここで出てくる“死者の帝国”という言葉は、前年の〈ユリイカ2008年7月号〉に掲載された、スピルバーグ映画評(『伊藤計劃記録』所収)に現れている。21世紀以降に作られたスピルバーグの映画には、彼岸から我々を支配する“死者の帝国”の存在が見えるのだという。

 19世紀末、大英帝国の医師ワトスンは諜報機関の密命を帯び、第2次アフガン戦争下の中央アジアに派遣される。この世界では、産業革命の担い手は屍者たちである。彼らは死後、無償の労働者/ある種の機械装置として働き、世界を変貌させている。またバベッジの開発した解析機関は、世界を同時通信網で結んでいる。やがてワトスンは、アフガンの奥地にある屍者の帝国の存在を知る。しかしそれは、世界を舞台とする事件の始まりに過ぎなかった。

 出てくるものすべてがフィクションに由来している。もちろん本書は小説だからフィクションなのだが、登場する物/者たちが過去のフィクションに関連しているのである。冒頭の《シャーロック・ホームズ》《007シリーズ》メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』、スチームパンク社会を鮮やかに描き出したスターリング&ギブスン『ディファレンス・エンジン』(あるいは山田正紀『エイダ』)、ドフトエフスキー『カラマーゾフの兄弟』キム・ニューマン『ドラキュラ紀元』など、無数の既作品からの引用に満ちている。伊藤計劃がプロローグで提示した暗号を解くというより、小説のなかで小説について書いた=自己言及(self-reference)したものといえる。つまり、謎をもう一段抽象化した深みへと引きずり込んだのだ。

 本書は3年間をかけて、伊藤計劃の着想を円城塔が長編化したものである。インタビュー記事を読むと、小松左京賞落選の同期で、厳密に言えば友人とまではいえない関係ながら、伊藤の構想を物語の枠組み(制約条件)に置き換え、何度もの中断を経てようやく書き上げられたとある。仕掛け的にはきわめて円城塔らしく、なおかつ波乱万丈のエンタメ小説になっている。完成までの間に伊藤計劃は国内外での評価が高まり、円城塔も芥川賞作家を得て広く名を知られるようになった。その変転も本書の中に反映されている。

カバー:水戸部功

 派生作品集として、同年代作家、若手作家による『伊藤計劃トリビュート』『伊藤計劃トリビュート2』が多彩な顔ぶれで楽しめる。それ以外にも、雑誌、同人誌、ウェブサイトなどから短編やエッセイを集めた『伊藤計劃記録』(2010)『伊藤計劃記録 第弐位相』(2011)がある。これは文庫化にあたり再編集され、短編集『The Indifference Engine』(2012)『伊藤計劃記録I』『同 Ⅱ』(2015)の3分冊になった。また、ホームページなどに載せていた映画関係の、短いながら切れ味の鋭いコメントを集めた『Running Pictures―伊藤計劃映画時評集1』『Cinematrix: 伊藤計劃映画時評集2』(2013)も出ている。

 なお映像関係では、一時製作がストップしていた村瀬修功監督『虐殺器官』が2017年2月にようやく公開された。それに併せ、2015年12月公開のなかむらたかし/マイケル・アリアス監督『ハーモニー』と、2015年10月公開の牧原亮太郎監督『屍者の帝国』が、それぞれ深夜枠でテレビ放映されている。

 この映画公開とコラボする形で、いくつかの書店で『虐殺器官』オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』ジョージ・オーウェル『動物農場』『一九八四年』を並べるディストピア小説フェアが行われたのだが、まるで呼応するかのように世界情勢は不穏さを増してきた。伊藤計劃の夢想した冥い世界は、衰えることなくいまでも拡大を続けているようだ。

(シミルボンに2017年2月9日/11日掲載)

 「伊藤計劃後」の世界はこの後しばらく続きましたが、小川哲『ゲームの王国』の登場により終わったとされます(もともとの提唱者である早川書房塩澤部長の見解ですが)。しかし、その後も世界の状況がますます伊藤計劃的になりつつあるのは、皆さんもご承知のとおりでしょう。

虚無の先に人間を見た作家 光瀬龍

 今回もシミルボン(#シミルボン)作家紹介コラムから。作家は亡くなってしまうと、一部の例外を除けば、本の入手が難しくなってしまいます。その点光瀬龍は初期作の電子化が進んでいるので、まだ読むことが可能でしょう。以下本文。

 光瀬龍は1928年生、1999年71歳で亡くなった。年齢で言えば、大正生まれの星新一・矢野徹・柴野拓美らと、1931年以降の小松左京・筒井康隆・眉村卓らとの中間になるが、そこまでを含めて日本の現代SF第1世代とされる。第2次大戦を挟んだ時代に青春、子ども時代を生きた経験はほぼ共通するし、同人誌〈宇宙塵〉(1957年創刊)や〈SFマガジン〉(1959年12月創刊)との出会いも同じ時期になる。

装丁・デザイン:中村高之

 大橋博之編『光瀬龍SF作家の曳航』(2009)によると、少年時代の光瀬の記憶は、東京空襲に始まる。東京に生まれ、私立中学に通う光瀬は、突発的な空襲で級友が亡くなって行くという理不尽な体験をする。やがて焼夷弾による大空襲後に岩手県(母親の実家)に疎開。終戦を経て3年後に東京に帰り、大学の入退学を繰り返した後、旧制最後の高校生活を送る。その後、東京教育大学(現筑波大)で生物、哲学を学び、女子高の教師となる。狂騒的な昭和20年代(1946-1955)が終わり、このままの生活に疑問を感じはじめたころ、SFと出会うことになる。

 なぜ光瀬が“東洋的無常観”(王者であれ誰であれ、すべてのものは滅び去る運命を内在している)とする考え方で宇宙ものを書き始めたのか、なぜ『ロン先生の虫眼鏡』(1976)(後に〈少年チャンピオン〉でコミック化もされた)など生物の生態にフォーカスしたエッセイを書いたのか、時代物(後述)に興味を惹かれるのか、そういった背景は光瀬の経歴の中におぼろげではあるが見ることができる。

 デビューは1962年に書いた「晴れの海一九七九年」で、この年代を冠した宇宙ものが《宇宙年代記》と呼ばれる連作になる。『墓碑銘二〇〇七年』(1963)は、著者初の短編集である。表題作の主人公は宇宙探検隊員で、他に生存者がいない任務でも彼だけが生還するため、英雄なのか卑怯者なのかと疑惑を呼ぶ。気を許せるのはペットの砂トカゲのみ。しかし木星への探査の途上で、不可解な事故が発生しカリストへの不時着を余儀なくされる。過酷で逃れようのない運命と、それを受け入れ共存する主人公という構図は《年代記》ものに共通するテーマだ。

 宇宙ものの代表的長編に、初長編でもある『たそがれに還る』(1964)がある。39世紀の太陽系全土が舞台だ。主人公は、シベリア、金星、辺境星区、冥王星と各地域の異変を調査する中で、隠されたメッセージや遺構の存在を知る。やがて、1200万年前に起こった大異変の真相が明らかになる、そんな壮大なお話だ。青の魚座(存在しない星座名)など、独特のタームを駆使して悠久の時を描いたもので、著者の世界観を余すことなく伝えてくれる。

カバー:萩尾望都

 引き続き書かれた『百億の昼と千億の夜』(1967)では、さらにスケールが広がる。プラトンが滅びゆくアトランティスで見た光景に始まり、シッダールタ(仏陀)、ナザレのイエス(キリスト)、阿修羅王という象徴的な主人公たちが、未来のトーキョーや銀河を超えて絶対者と闘うという作品だ。今でも日本SFの代表作に数えられている。宇宙ものの虚無感と、著者の哲学や宗教に対する考え方とが結びついた比類のない傑作といえる。後に萩尾望都がコミック化している。

 宇宙ものを書くのと同時期に、光瀬龍はジュヴナイルSFを書いた。これは、もともと〈中一時代〉などの学年雑誌に掲載されたものが多い。少年が江戸時代にタイムスリップする『夕ばえ作戦』(1967)は、後にNHK少年ドラマシリーズでTVドラマ化され人気を呼んだ。他にも、学園ミステリー『明日への追跡』(1974)など10作あまりがある。

デザイン:岩剛重力+WONDER WORKZ。

 著者の死後にまとめられた『多聞寺討伐』(2009)は、短編集『多聞寺討伐』(1974)『歌麿さま参る』(1976)などから抜粋された時代SF短編の傑作選である。初期の宇宙SFを書いたあと、著者の興味は時代・歴史ものに移る。本書に収録された作品は、後年の本格的な時代小説とは異なり、SF味を色濃く残している点が特徴である。表題作「多聞寺討伐」は多聞寺周辺の村で、死体が自分の首を持って歩くという奇怪な事件が発生する顛末。「歌麿さま参る」は、東京の美術商に希少な刀剣や浮世絵が次々と持ち込まれるが、売り手の正体をさぐるうちに歌麿の正体が見えてくるお話。捕り物帳のSF的解釈というスタイルを創出したのは光瀬龍である。登場人物が生き生きと活躍するさまが印象に残る作品だ。

 SFと歴史をからめた長編には、徳川家光の時代に与力と隠密が暗闘する『寛永無明剣』(1969)、日露戦争を扱った『所は何処、水師営』(1983)や太平洋戦争で日本が優勢になった世界を描く『紐育(ニューヨーク)、宜候』(1984)などがある。どの作品も、歴史改変とタイムパトロールが絡む話になっている。

 この後、著者の興味は本格的な歴史小説に向かい、『平家物語』(1988)『宮本武蔵血戦録』(1992)、遺作となった『異本西遊記』(1999)などを書いている。虚無的な宇宙SFでスタートした関係で、作品に対する先入観を持たれてしまった光瀬だが、一方で人間に対する強い興味が背後にあることを見逃してはいけない。晩年の時代小説は、その雰囲気を良く伝えているといえるだろう。

(シミルボンに2017年3月1日掲載)

 このコラム掲載後に、評伝となる立川ゆかり『夢をのみ 日本SFの金字塔・光瀬龍』が出ています。著者の人となりを知るには好適でしょう。また2018年には初期の宇宙SF短篇を集めた日下三蔵編『日本SF傑作選5 光瀬龍 スペースマン/東キャナル文書』も。

スラプスティックSFから最先端文学へ 筒井康隆

 シミルボン転載コラム、今回は眉村卓と同世代の筒井康隆です。著名人でもあり、経歴を中心とした詳細なものはあるものの、何に重点を置くかで観点は変わってきます。ここでは主に作品の流れについての概要を記しています。以下本文。

 1934年生。中学校時代には学校に行かず、映画やマンガに熱中した。そのあたりは自伝『不良少年の映画史』(1979-81)などに詳しい。同志社大学卒業後、主催した〈NULL〉は〈宇宙塵〉がタイプ印刷だった時代に活版で印刷され、(当初)家族のみで作られた同人誌だと評判になった。そこに載せたショートショートが、江戸川乱歩編集の〈宝石1960年8月号〉に転載されデビューする。

 初短編集『東海道戦争』(1965)、続く『ベトナム観光公社』(1967)『アフリカの爆騨』(1968)、ショートショート集『にぎやかな未来』(1968)など最初期の作品には、シュールさと猥雑さの同居、際限のないエスカレーション、時代風俗や流行の織り込みといった特徴がある。当時の筒井康隆は、若いファンにとってカルトヒーローだった(始まったばかりの星雲賞を、第1回からほぼ毎年受賞していた)。この人気は、1960年代後半から70年代にかけて、著者が多数の作品を一般小説誌に発表していく過程で形成されたものだ。

 初長編『48億の妄想』(1965)は、カメラがすべての有名人に設置された未来、人々がカメラを意識した演技をするため、何が本当で何が嘘なのかわからなくなった社会を描いている。もともとのカメラはTVカメラだが、これを監視カメラやスマホのカメラに置き換えても十分成り立つだろう。嘘が現実を変える今の社会を予見しているのだ。

イラスト:貞本義行

 光瀬龍や眉村卓と同様、筒井康隆はこの時期にジュヴナイルを書いた。ラベンダーの香りで時をさかのぼる、『時をかける少女』(1967)は、TVドラマ・映画・アニメなど8回の映像化がされた代表作だ。これ以外にも『緑魔の町』(1970)『三丁目が戦争です』(1971)、入門書である『SF教室』(1971)などがある。

 『家族八景』(1972)『七瀬ふたたび』(1975)『エディプスの恋人』(1977)はテレパス火田七瀬の登場する3部作である。特に第3部では、超能力をタイポグラフィック(文字の組み方)で表現するなど新しい試みを取り入れている。最初の作品では、家政婦七瀬が家庭内の闇を見てしまい、次作では別の超能力者との出会いから危機が迫り、最終巻では奇妙な能力を持つ少年と遭遇する。著者はこれ以降シリーズものは書いていないが、超能力もののバリエーションとして、夢に潜入できる能力者が登場する『パプリカ』(1993)を書いている。これらはTVドラマやアニメになった。

 1970年代後半より後、筒井康隆の活動の舞台は純文学でのより実験的な作品群へと移っていく。第9回泉鏡花文学賞を獲った『虚人たち』(1981)では、登場人物が虚構(小説)内にいると知って行動する。高度成長がなかったかわりに映画の全盛期が続く、もう一つの昭和を描いたユートピア小説『美藝公』(1981)や、人類史のカリカチュアでもある知的なイタチが住む惑星と、生きている文具とが戦う『虚航船団』(1984)などは、どれも単純な筋書きで成り立つお話ではない。物語構造や設定を含めた仕掛けの精緻さに驚かされる。

 短編集『エロチック街道』(1981)の表題作は、どことも知れぬ田舎町で、裸の美女に導かれるまま温泉に迷い込む作品。映画化もされた「ジャズ大名」は、江戸時代に地方の城主がジャムセッションを開くお話だ。「遠い座敷」では、どこまでも無限に続く畳部屋を通り抜けていく。「遍在」は改行のない高密度の文体で書かれている。『串刺し教授』(1985)は、『虚構船団』の前後に書かれた、短編17編を収録。お互いかみ合わない会話、夢の風景、現実と虚構との混交などを描く作品が中心だ。

 第23回谷崎潤一郎賞受賞作の『夢の木坂分岐点』(1987)では、主人公がやくざの夢を見るシーンから始まる。覚醒すると、彼はプラスチック製造会社の課長である。ただ、この現実は、小説の進行とともに、微細に変質していく。名前が変わり、社名が変わり、地位が変わり、年令が変わる。舞台は、会社でのサイコドラマから、夢の屋敷 (どこまでも長い廊下が延び、閉じられた襖が連なる)に、夢の下町(老いた運転手の操る路面電車が、軒先を掠める)に、夢の木坂へと連なっていく。途中から、この小説には覚醒はなくなる。どこまでも落ちていく、奈落だけがある。ここに描かれるのは、無数に多重化された夢である。

 『薬菜飯店』(1988)神戸のとある路地裏に、薬菜飯店がある。薬菜とは、文字通り薬になる料理のこと。食べればたちまち体の毒素が溢れ、肺、内臓、血液から、とめどなく流れ出す。夢こそが現実、虚構こそが真実という著者のテーマが語られた「法子雲界」、第16回川端康成文学賞を得た「ヨッパ谷への下降」、サラダ記念日の一首一首を精密にパロディ化した「カラダ記念日」、スプラッタ小説「イチゴの日」「偽魔王」、また、正統派SFスタイルで書かれた「秒読み」など、この時期を代表する多様な作品を収めている。

 第12回日本SF大賞受賞作『朝のガスパール』(1992)は朝日新聞の連載小説で、当時普及しつつあったパソコン通信「電脳筒井線」を用いて、リアルタイムに読者の意見を吸収しながら物語を進めるという斬新な試みだった(お話自体でも、コンピュータゲームと現実との壁がなくなる)。ジャズのセッションのように、物語を読者と共作しようとしたものだ。そこで起こるトラブル(誹謗中傷事件など)が、逆に物語を形成する要素となっていた。記録は『電脳筒井線(全3巻)』(1992)にまとめられている。

 筒井康隆は、1993年に表現の自由をめぐり断筆を宣言、以降、和解と出版契約が整う1996年までが空白期間となる。これは今でもたびたび起こる、小説で差別表現がどこまで認められるか、という議論に対する一つの考え方になるだろう。

 第51回読売文学賞受賞作『わたしのグランパ』(1999)中学生の少女のもとに、かつて殺人事件を犯して刑務所に入れられていた祖父が帰ってくる。彼女の周りにはさまざまな波紋が広がる。祖父は飄々としてその全てを解決していき、やがて無くてはならないおじいちゃん(グランパ)となっていく。物語の長さは中篇、ここで思い出すのは「わが良き狼」(1969)である。流れ者の賞金稼ぎがふと帰ってきた故郷の町で、老いた友や敵たちと再会する物語だが、本書はちょうどその逆の位置関係にある。グランパは、還ってきた老ヒーローなのであり、敵は誰もが若い。その若さに対して、グランパは対抗するのではなく、自身の死に場所を求めるように、ただ冷静に相対していくのである。後に、菅原文太主演で映画化されている。

 筒井康隆は、2002年に文化勲章の紫綬褒章を、2010年に菊池寛賞を受賞する。だが、それで執筆を止めたわけではない。72歳で長編『銀齢の果て』(2006)を書く。高齢化社会の究極の解決法として、老人相互処刑制度(シルバー・バトル)が設けられ、70歳以上の老人が各区域1人になるまで、老人だけの殺し合いが行われるお話だ。79歳で書いた『聖痕』(2013)は、著者20年ぶりの朝日新聞連載小説。主人公は5歳の時に、変質者により性器を切除される。この世のものとも思えない美少年だった彼は、性に対する欲望の一切から解放され、やがて味覚の奥義に目覚めていく。81歳では、神自体がテーマである『モナドの領域』(2015)を書き、毎日芸術賞を受賞している。SF第1世代作家の中で、眉村卓とともに80歳を過ぎてなお執筆を続ける稀有な作家といえる。

(シミルボンに2017年3月6日掲載)

 この記事の2年半後に眉村卓さんは亡くなっています。筒井さんは今年になって日本芸術院会員となり、昨年末には最後の短編集とする『カーテンコール』を出すなど、活躍を続けています。

ながい長い宇宙の旅路

 さて、シミルボン転載企画(#シミルボン)、今回は世代宇宙船による恒星間飛行をテーマとした著作紹介です。シンプルに古典とベテランの新作を対比したもの。これも息が長いテーマで、昨年『ブレーキング・デイ』が翻訳されるなど、途切れることがありません。以下本文。

地球外への移住と聞いて、まず思い浮かぶのはお隣の火星かもしれない

 金星も隣人で、むしろ惑星の大きさでは火星より地球に近い。ただ、高熱で硫酸の雲に覆われているため、あまり植民には向いていない。それなら火星移住の話をということなのだが、もはや火星はスペースXのような民間のリアル企業が計画できるくらい、身近で現実的なものとなっている。今回は思い切って、もっと遠くの太陽系外を目指す旅を考えてみたい。

 最新の天文学によると、太陽系外、別の太陽の下には惑星がたくさんあると分かってきた。地球型惑星は小さいので発見が難しい。しかし、火星のように薄い大気の心配をする必要のない、ほんとうの第2の地球があるかもしれない。問題は距離である。太陽から最も近いケンタウリ座アルファ星でも4.3光年、40兆キロ離れている(映画「アバター」の舞台にはなったが、実際にはこの恒星系に地球型惑星はないようだ)。スタートレックなどのワープ航法でもない限り、到達不可能な距離にある。

 こういう途方もない距離を越える手段の一つに世代宇宙船がある。ワープは未知の技術だ。一方、世代宇宙船は国家的予算をかければおそらく可能だろう。文字通り宇宙船を故郷にして何十世代も人が生き死ぬことで、何百年を要する航海を乗り切るのだ。もちろん閉鎖環境では社会的、生物的問題が持ち上がる。何百年も閉じ込められて、当初の技術水準が維持できるだろうか。乗組員の子孫は先祖が勝手に決めた使命を、素直に引き継いでくれるだろうか。

カバー:鶴田一郎

 このテーマの最初の作品は、ロバート・A・ハインライン『宇宙の孤児』(1963)である。宇宙船の目的が過去の反乱で失われ、テクノロジーの継承がされないまま文明が退行する。そこで、船を唯一の世界だと思って育った少年が、外宇宙を知るまでが描かれている。単行本にまとまったのは遅いが、もともと1941年に発表された中篇が元になっている。70年以上前の時点で「世代」に関わる問題点は考えられており、アイデアとして完成の域に達していたことが分かる。

カバーデザイン:坂野公一

 英国SFの重鎮ブラインアン・オールディスが、33歳で書いた最初の長編『寄港地のない船』(1958)は、食用植物が人の背より高く生い茂る〈居住区〉の描写から始まる。数百人規模の人々が、植物を刈り取りながら前進し、見捨てられた部屋を次々移りながら生活している。世界はいくつもの階層に分かれており、〈前部〉には彼らとは異なる超越的な人々が住んでいるらしい。主人公は部族の一員だったが、司祭と共に〈前部〉を目指す旅に出ることになる。世界は船の中にある。船には他所の部族の他、巨人族、ミュータント、紛れ込む超常的な〈よそ者〉などがいる。彼らはいったい何者なのか。この船はどこを目指しているのか、船を操船するものは誰なのかと物語は展開し、最後に一ひねりがある。

 この作品は初期のSFマガジンで紹介され、長い間名前だけ知られる幻の作品の一つだった。昨年(2015年)、翻訳者の努力もあって出版に結びつき大きな話題になった。原著は初版当時から定評を得ており、継続的に読まれ続けるSFの古典である。

カバーイラスト:toi8

 梶尾真治《怨讐星域三部作》(2015)は《クロノス・ジョウンター》などで知られる著者が、ほぼ9年間にわたってSFマガジンに連載し、計31話の連作短編形式とした2000枚に及ぶ長編である。これまで書かれた著作中最長の作品で、世代宇宙船テーマの集大成といえる作品になっている。2016年の星雲賞日本長篇部門を受賞。全3冊それぞれは『怨讐星域I ノアズ・アーク』『怨讐星域II ニューエデン』『怨讐星域III 約束の地』である。

カバーイラスト:toi8

 地球が太陽フレアに焼かれ、滅びる可能性が高まる。しかし、この事実は隠され、移民船による脱出計画が密かに進んでいた。世代間宇宙船ノアズ・アーク号に乗り組み、172光年先にある地球型惑星を目指すのだ。その数3万人。一方、取り残された人々もやがて真相に気が付き、多くは奇跡的な発明「転送」装置により、瞬間移動することを選ぶ。だが転送は成功確率が低く、民族や家族も引き裂かれた、着の身着のままの人々が未開の大地に投げ出される結果となる。彼らを結びつけるのは、後から移民船でたどり着く人々を怨み復讐するという怒りなのだった。

カバーイラスト:toi8

 連作短編と書かれているように、本書は3つの世界、「宇宙船」、「約束の地=異星」、「地球」で起こる小さなエピソードの積み重ねで成り立っている。大統領の娘と恋人の物語:地球、襲いかかる未知の生き物:異星、残された人々の最後の日々:地球、分散していた小集団が迎える再会のとき:異星、記念劇に登場する意外な人物:異星、宇宙船の中での恋人探し:宇宙船、船で起こる重大事故:宇宙船、接近する宇宙船からの信号を受信したとき:異星、宇宙船排斥を叫ぶ過激派の台頭:異星などなどだ。未開の惑星に国家が誕生し、やがて文明化する。宇宙船がトラブルを抱えながら世代交代する。それぞれ数百年(正確な年数は書かれていない)の時間が経過する。著者の意図として、国家や権力のようなパワーゲームはあまり描かれない。限られた世界の中で生きる、人々の生活や淡い恋が点描されるのだ。最終エピソードは他者への信頼に満ちていて、いかにも梶尾真治らしい結末になっている。

(シミルボンに2016年12月13日掲載

最後の『怨讐星域』は『ハヤカワ文庫JA総解説1500』に書いた記事の元になったものです。