マット・ラフ『ラヴクラフト・カントリー』東京創元社

Lovecraft Country,2016(茂木健訳)

装幀:山田英春
図版:GeoImages/PIXTA

 著者は1965年生まれのアメリカ作家、過去に『バッド・モンキーズ』(2007)が翻訳されている。毎回テーマを変える作風で、黒人作家でも女性でもないものの、ジェンダーやレイシズムを背景にした作品も書いている。本書は創元推理文庫のFマーク(ファンタジイ扱い)だが、SFやコミックの要素が組み合わされたものだ。クトゥルーものとはいえず、どちらかといえばニール・ゲイマンのファンタジイ/ホラーと雰囲気が似ている(著者はXファイル黒人版をイメージしたようだ)。ケーブルTVのHBOで、2020年にドラマ化された同題シリーズ《ラヴクラフト・カントリー》(現時点ではAmazonで視聴可)の原作でもある。

 1954年、朝鮮戦争から帰還したばかりの主人公は、父親からの連絡を受けてシカゴに帰省する。しかし、父は正体不明の白人と共に旅立ち、行方が知れなくなったという。残された手掛かりから、目的地がアーカムならぬアーダムと分かるのだが、そこは閉ざされた僻地だった。彼らは伯父や幼なじみを伴って後を追う。

 主な登場人物は黒人である。舞台は1950年代のアメリカ。キング牧師による公民権運動のさらに10年前でもあり、差別はあからさまに残されている。黒人は旅行の自由が(建前はともかく)制限され、立ち入る場所を間違えると命に係わる事態となる。居住地域も(建前はともかく)厳然と分離されている。伯父は黒人旅行者のために、安全な宿やレストランを紹介する旅行ガイドを出版している(モデルとなったグリーンブックは実在のもの)。

 物語はSF(バローズなどのパルプ・フィクション)やラヴクラフトを偏愛する主人公によるアーダムでの波乱後、その幼なじみによる幽霊屋敷購入騒動、伯父と異父弟にアーダムの継承者を交えた「名付けの本」をめぐる争奪戦、伯母が異世界に迷い込む話と続き、さらには幼なじみの姉が白人に変身したり、父が魔法のノート探しの依頼を受けたり、伯父の幼い息子(コミック作家を目指している)は悪魔人形に追いかけられるなど、視点が次々と移り変わって読者を飽きさせない。

 ラヴクラフトが、いわゆるレイシスト(人種差別主義者)であったことはよく知られている。ただ、黒人やイタリア人(貧困層が多かった)などを臆面なく差別したという点では、ある意味19世紀的な世俗観(当時の大衆の風潮)を体現していただけともいえる。本書はその世界観が、50年代(そして現代ですら)生々しく残っているという現実を、魔術や超常現象に準えて映し出した点がユニークだろう。ラヴクラフト・カントリーとは、今われわれが住む世界の暗黒面なのだ。

アーシュラ・K・ル=グウィン『私と言葉たち』河出書房新社

Words Are My Matter,2016(谷垣暁美訳)

装丁:山田英春
カバー写真:(c) Bettmann/Getty Images

 1年前に翻訳が出たエッセイ集『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』(2017)に続く、講演・評論・書評(書評のみ抜粋)を集めたエッセイ集。前著と併せて、2年連続でヒューゴー賞関連書籍部門を受賞したものだ。昨年は、未訳作品を抜粋した『現想と幻実』(底本は2016)なども出ており、亡くなって5年を経ても人気は衰えていない。

 まず詩と前書きがあり、講演とエッセイ21編が収められている。ル=グウィンはノンフィクションであっても物語のように読むという。数学や論理学のような抽象性は苦手、しかし統語論のような言語の論理なら受け付ける。そんな著者ならではのエッセイが、生家シュナイダー・ハウスについて書かれた「芸術作品の中に住む」(2008)である。

 この家は建築家バーナード・メイベックが設計したものだった。大建築を得意としたフランク・ロイド・ライトなどと違って、メイベックはサンフランシスコ・ベイエリアに一般向けの住宅を多く作った。レッドウッド(セコイア)の無垢材で造られ、さまざまな様式が組み合わされた家で、広々とした「虚空」(何もない空間)が配されていたという。影と光に満ちたその家での生活が、まさに物語のように鮮やかに語られる。

 一方、全米図書協会から米文学功労勲章を受章した際の講演「自由」(2014)では、利益追求に走るあまり芸術の実践をないがしろにする(Amazonなど巨大企業の)風潮を批判する。これも、若手が言えないことを代弁する著者らしい主張だろう。

 続いて書籍の序文や解説が14編。文書の性質上批判的なものはないが、作家論作品論として読みごたえがある。まず冒頭のディックでは、長年評価が低かったその境遇と『高い城の男』が書かれた背景や文体と視点の意味を解き明かす。

 SF関係は以下の通り。文明のたどり着く末路を警告したハクスリー『すばらしい新世界』、ここに描かれたビジョン自体が妄想かもしれないレム『ソラリス』、ジェンダーについての重要な視点を見落とされてきたマッキンタイア『夢の蛇』、(科学者とかのエリートではなく)普通の人々がより進んだ異星人の遺物に群がるストルガツキー『ストーカー』、言葉の持つ意味と音の双方を重視したヴァンス、後年の思索的な著作より30代までの初期SF作品が歴史に残ったウェルズ、などなど。

 他では、デイヴィスやマクニコルズら、西部を舞台とし大自然やそこでの人々の生きざまを描く(いわゆる西部劇ではない)小説への共感が印象的である。作品論においては、各作家の女性に対する姿勢を冷静に問うところがSF分野での先駆者らしい。

 最後に書評15編(32編から邦訳があるものを抜粋)。こちらもSF関係では、本人はSFと呼ばれることを望んでいないがSFの為すべきひとつを体現するアトウッド『洪水の年』、科学や時空を相手に言葉遊びをするカルヴィーノ『レ・コスミコミケ』、ボルヘスにも匹敵する実力がありながらマイナーなキャロル・エムシュウィラー(『すべての終わりの始まり』)、完璧な隠喩がすべてのレベルで働くミエヴィル『言語都市』と想像力の活力が驚くばかりの『爆発の三つの欠片』、小説の心臓部に死を秘めたミッチェル『ボーン・クロックス』、夢中になって読める本だが魔法の扱いはそれ以上といえるウォルトン『図書室の魔法』などがある。

 2000年から2016年まで、何れも70代から80代後半の最晩年期に書かれものである。そして、一番最後に日記「ウサギを待ちながら」が置かれている。シアトルの北にある女性だけの作家村に、一週間滞在したル=グウィンの記録だ。そこでは、創作活動に専念できる環境が提供されている。自然の中のコッテージで、小動物と美しい光景、流れすぎる気象の変化だけがある。これもある種の物語になっている。

伊藤典夫編『吸血鬼は夜恋をする』東京創元社

She Only Goes Out at Night and Other Stories,1975/2022(伊藤典夫編訳)

カバーイラスト:後藤啓介
カバーデザイン:岩郷重力+T.K

 1975年に文化出版局から出た伊藤典夫編訳のショートショート・アンソロジイに、9編を増補したもの(これらも50-60年代作品)。編者が32歳で編んだ初のアンソロジイでもある。収録作となると、先週のディッシュよりさらに時代をさかのぼる。改訂されたとはいえ、中味が半世紀を優に過ぎた本書に懐旧以上の価値があるかどうかを確かめてみた。

 ロン・ウェッブ「びんの中の恋人」(1964)埃まみれの酒瓶の中から精霊ジニーが現れ、3つの願いを聞いてくれるという。しかしそれには条件があった。リチャード・マシスン「死線」(1959)クリスマスの夜、老人が死を迎えようとしていたが、医師の聞いたその年齢は信じられないものだった。ジェイムズ・サーバー「レミングとの対話」(1942)山中を歩いていた科学者は、たまたま居合わせた人語を話すレミングと遭遇する。レイ・ブラッドベリ「お墓の引越し」(1952)改葬が必要になり、親戚を集めて墓を掘り起こそうとしたとき、一族の婆さまは昔の恋人を優先するように指示をする。ロバート・L・フィッシュ「橋は別にして」(1963)この国で自動車が占有している面積はどれぐらいあるのか、橋は別にして。リチャード・マシスン「指あと」(1962)バスには奇妙な二人連れの女が乗っていた。アーサー・ポージス「一ドル九十八セント」(1954)道端で助けた小さな神が、お礼に願い事をかなえてくれるという。ただし、願いも小さく1ドル98セント相当だけ。ウォルター・S・テヴィス「受話器のむこう側」(1961)2か月後の自分からだと名乗る電話がかかってくる。いまから話す内容を、残さずすべてメモせよと告げるのだ。ロバート・シェクリー「たとえ赤い人殺しが」(1959)果てしない戦争で死んだ男は、望まなかった再生を強いられる。ロバート・F・ヤング「魔法の窓」(1958)1枚だけのカンバスを売る少女の作品は、陰気だが妙に心を奪われるものだった。リチャード・マシスン「白絹のドレス」(1951)入ってはいけない部屋はママのものだった。そこには真っ白な絹のドレスが掛けられている。ウィル・スタントン「バーニイ」(1951)島にはわたしとバーニイだけしか残されていない。しかしその知能の高さには問題があった。デイヴィッド・H・ケラー「地下室のなか」(1932)建て替わった地上の家とは不釣り合いなほど大きな古い地下室を、その家の長男は幼いころから恐れていた。マン・ルービン「ひとりぼっちの三時間」(1957)突然、人々の気配やラジオ放送すら消え去る。男はたった一人都会に取り残される。ジョン・ブラナー「思考の檻」(1962)地下に閉じ込められた男には、無数の思考がこだまのように聞こえてくる。R・ブレットナー「頂上の男」(1960)未踏峰に一番乗りしたのは、実は世間で知られるあの男ではないのだ。リチャード・マシスン「わが心のジュリー」(1961)強固な性的妄想に突き動かされる男は、一人の女子大生に目を付ける。クロード・F・シェニス「ジュリエット」(1961)医師が病院から帰宅するとき、いつもジュリエットが待ち構えている。アルフレッド・ベスター「くたばりぞこない」(1958)老人は周りにいる人々からすれば、時代遅れのくたばりぞこないなのだった。アラン・E・ナース「旅行かばん」(1955)旅を続けていた男は、ある町で一人の女に惚れこみ結婚を申し出る。W・ヒルトン・ヤング「選択」(1952)未来を視たはずの時間旅行者なのだが、なぜか何も覚えていない。マーガレット・セント・クレア「地球のワイン」(1957)ナパバレーのぶどう園に異星人が訪れる。園主は最高のワインでもてなそうとする。フリッツ・ライバー「子どもたちの庭」(1963)特別な魔力を持った先生のいる学校とは。ジョン・コリア「恋人たちの夜」(1934)天使と悪魔が人間の女性に変身し、お互いの正体を知らずに人間の恋人を奪い合う。リチャード・マシスン「コールガールは花ざかり」(1956)訪ねて来た見知らぬ女は、うろたえる男に性的サービスのデリバリーを匂わせる。ウィリアム・テン「吸血鬼は夜恋をする」(1956)医師の息子がほれ込んだ女性は、なぜか夜にしか会うことができない。マイクル・シャーラ「不滅の家系」(1956)過去を遡り、名を遺す祖先を探し出す会社の社長は、最後に自分の祖先を知ろうとするが。エドガー・パングボーン「良き隣人」(1960)軌道上の宇宙船から巨大生物がアメリカの上空に飛来する。人間たちは慌てて対処しようとするが。A・E・ヴァン・ヴォークト「プロセス」(1950)異星の森林に宇宙船が着陸する。その森には集合的な意識があり、遠い昔に起こった事件を記憶していた。ピージー・ワイアル「岩山の城」(1969)岩山の城が作られ、崩壊し、また別のものへと再建されていく叙事詩的な物語。フレデリック・ポール「デイ・ミリオン」(1966)肉体も心のありようも変化した千年後の世界で、奔放に生きる恋人たちの生活。ウォルター・S・テヴィス「ふるさと遠く」(1958)学校プールの用務員は、ある朝そこにクジラがいるのに気が付く。

 以上、忘備録もかねて全作品を挙げた。マシスンは最多で5編もある。今日的な倫理観とは相いれないが、サイコパスと女性に対する恐怖症とが入り混じった作品が異彩を放つ。テヴィスの2編は、後の短編集『ふるさと遠く』にも入っていたアイロニーあふれるもの。それ以外は1作家1作品である。

 予想通りのオチでも語りが面白い「頂上の男」、筒井康隆「お紺昇天」に先行する「ジュリエット」は自動運転時代に相応しいかも、現代でも通用する憂鬱な未来を描く「たとえ赤い人殺しが」と「くたばりぞこない」、ネットドラマにでも使えそうな設定の「旅行かばん」「恋人たちの夜」と「吸血鬼は夜恋をする」がそれぞれ印象に残る。「デイ・ミリオン」のレトロフューチャーな雰囲気も良い。(これらが厳密に元ネタとはいえないが)定番アイデアの原点を捜すという読み方もできるだろう。総じて(いくらか注釈は必要ながら)いまの読者でも十分楽しめるレベルと思われる。

 34編中22編はF&SFやギャラクシー、ウィアード・テールズなど専門雑誌からの翻訳、あとは短編集や一般誌から選ばれたトラディショナルな小品である。掌編もあるが、概ね20枚弱前後の長さに収まっている。傑作選や別のアンソロジイなどに転載された有名な作品も含まれる。

 編者はMen`s Clubに1965~91年まで翻訳の連載を持っていた。本書の半分(75年分まで)はそこから選ばれたものだ。他は同時期のSFマガジンや、ミステリマガジンの掲載作になる。1970年以前の作品であれば、比較的新しいもの(60年代)でも版権なしで翻訳が可能だった。本書のショートショートに限らず、雑誌に載った伊藤典夫訳の中短編は多かったが、著者もテーマもばらばらな短編はまとめること自体が困難なため、ほとんど本の形で残っていない。

 文化出版局は1975~77年に《FICTION NOW》というレーベルを冠して、本書のほか、豊田有恒『イルカの惑星』、高斎正『クラシックカーを捜せ』、眉村卓『変な男』、矢野徹『王女の宝物蔵』、荒巻義男『時の葦舟』、浅倉久志編訳『救命艇の反乱』、田中光二『エデンの戦士』、豊田有恒編『日本SFショートショート選』を出した。日本作家の作品は再編されたり文庫化された(といっても20世紀以前だ)が、アンソロジイは埋もれてしまっていた。

トマス・M・ディッシュ『SFの気恥ずかしさ』国書刊行会

On SF,2005(浅倉久志・小島はな訳)

装幀:水戸部功

 発表当時日本でも話題を呼んだ、「SFの気恥ずかしさ」(1976)を含む評論集である。ディッシュ(1940‐2008)が亡くなる3年前に出たものだ。内容は1970年代から90年代にかけての書評や評論を、意味深なテーマ名に分けてまとめたもの。ディッシュについては若島正編の『アジアの岸辺』以外、アニメ化された『いさましいちびのトースター』(1980)を含め新刊では入手できない。7年前も同じことを書いたが、聞いたことすらないという読者がさらに増えたと思う。それでも、本書を含む国書刊行会の2冊を読めば、(詩人ディッシュこそ未紹介ながら)魅力の一端がうかがえるはずだ。

第一部 森
 SFは児童文学の1ジャンルであり、小説とSFの関係は、科学とサイエントロジーとの関係に近い(SFの気恥ずかしさ)/SFはアイデア優先なのか。しかし科学のアイデアに対する小説のアイデアは、証明不可能という意味で違うものだ(アイデア――よくある誤解)/神話は文学のどこにでも宿るが、特にSFに顕著である(神話とSF)/SFの人気はこれまでになく高まった(80年代後半)。やはり人気を得ているのは児童文学の1部門と述べたタイプである(壮大なアイデアと行き止まりのスリル――SFのさらなる気恥ずかしさ

第二部 祖先たち
 名声がありながら、ポーほどみじめな人生を送った作家はいない(ポーの呆れた人生)/ポーは神秘主義者でモダニストであるより、ずっとペテン師で遊説家だった(墓場の午餐会――ゴシックの伝統におけるポー)/ハクスリー『すばらしい新世界』は、予言的な未来のヴィジョンというより、奴隷労働者階級が存在しなくなる前の神話的な黄金時代に対する郷愁といえる(『すばらしい新世界』再再訪)/ブラッドベリのホラーはハローウィーンの仮装を思わせる。彼が芸術家だというのは、水道屋ではないという意味しかない(テーブルいっぱいのトゥインキー)/(クラークの評論集を評して)SFの学問の命運が編者のオランダーとグリーンバーグその他にゆだねられているのだと思うと、この分野が学会内部でもゲットー化するのはほとんど免れないと思う(原文ママ、ママ、ママ)/機械についての小説という限定的なカテゴリーでは、『楽園の泉』がトップに立つのは間違いない(天国へのバス旅行)/『2010年宇宙の旅』は行きつく先に衝撃や感動はないとしても、知的に閉じた感じはする。『ファウンデーションの彼方へ』は何の動きもないのと全く同じで、アイデアとして通用するものも何もない(宇宙の停滞期)/我々の未来の本当の建設者は、スポーツ馬鹿(ジョック)ではなくて、アシモフのようなガリ勉(ブレイン)なのだ(アイザック・アシモフ追悼)/ヴォネガットは父と息子の軋轢をドラマ化する作家の中では珍しく、常に世代の賢くも悲しい側に同情を寄せている(世代の溝を越えたジョーク)/ギーガーのイラストが選ばれていないSFアートの本は、オランダ芸術の本にレンブラントが記載されていないようなものだ(時間、空間、想像力の無限性――そしてとびっきりの筋肉

第三部 説教壇
 キングの最も顕著な長所は、日用品として、均一で安定した「製品」を生産できることだ。そこに(独自性や文体を裁定する)批評が介在する余地はない(王(キング)とその手下たち――〈トワイライト・ゾーン〉書評担当者の意見)/『ヴァリス』などイエスを扱う5冊の本を取り上げようとすると、なんとディッシュの目の前にイエスが姿を現した(イエスとの対話)/1980年版のSF傑作選で4割を占めるグループ(当時30代半ば)をLDGと総称する。彼らは芸術を捨て量産できる娯楽路線を選んだ。中ではブライアントがひどい(レイバー・デイ・グループ)/5冊を批評、ディックの短編集は良いものが含まれ、マッキンタイアは将来性を見込むが、オールディスは玉石混交、ファーマーは読み通せず、ハーネスはSFにする意味がない(一九七九年――綿くずと水の泡)/クズの本を編集者と書評家がが焚書するという、この祭りにふさわしい本とは(聖ブラッドベリ祭

第四部 選ばれし大きな樹
 ジョン・クロウリーの『エヂプト』(未訳)は、いつもの景色の中で太陽がより明るく輝き、普段の景色が素晴らしいものに変わったように感じる、稀有な人生の特別な日々のようだ(違った違った世界)/『エンジン・サマー』は、まずなんといっても、芸術作品であり得ている点で並外れたSFだ(クロウリーの詩)/ジーン・ウルフは大人の読者も満足させられるし、奇想天外な要素も質の悪い奇想ではなく詩になりうる芸術作品を作り出した(ウルフの新しい太陽)/サイバーパンクというポストモダンのスプロール現象で、ギブスンはいまでも『ヴァーチャル・ライト』を証拠として、最先端の思想家である(サイバーパンクのチャンピオン-――ウィリアム・ギブスンの二作品について)/最高のSFは必ず仮定の力によって働くが、『ディファレンス・エンジン』ほど効果的にその原動力を作用させたものはめったにない(ヴィクトリア女王のコンピューター)/『太陽クイズ』の序文に寄せた詳細な作家論・作品論(ディックの最初の長篇)/『最後から二番目の真実』には、ディック特有のスキーの滑降的な(矛盾が生じても立ち止まらない)書き方が反映されている(一九六四年にならえ

第五部 狂った隣人たち
 UFO体験を描くホイットニー・ストリーバー『コミュニオン』はノンフィクションを装うでっち上げだが、それを批判するディッシュも宇宙人に拉致されてしまう!(ヴィレッジ・エイリアン)/UFO体験と新興宗教は似ている。何のメリットもない大衆が支持するところを見てもそうだ(UFOとキリスト教の起源)/SFと宗教とはよく似ている。センス・オブ・ワンダーと「崇高」とは同じ、「真理」を守護する正統派がいるところも同じだ(SFという教会)/ブラヴァツキー、グルジェフ、シュタイナーら神智学の導師たちの欺瞞的な行動(まだ見ていない事実の確認)/SFは宇宙を描いてきたし、その結果現在の宇宙計画に大きな影響を与えた。しかし、それが軍事化され政治利用されるとなるとどうか(天国への道――SFと宇宙の軍事化)/共和党の保守派キングリッチに徴用された、パーネルら御用作家たちの行動(月光の下院議長―ニュート・ギングリッチの未来学参謀)/この映画がヒットしたのは、印象的な神の実像を描いて見せたからだ(『未知との遭遇』との遭遇)/『宇宙からの啓示』のホイットニーは幽体離脱してディッシュの夢の中にまで登場する!(最初の茶番

第六部 未来のあとで
 ピーター・アクロイド『原初の光』はどこを読んでも目も当てられない(生ける死者の日)/シンドバットの時代と現代とを交互に描いた『船乗りサムボディ最後の船旅』は、ジョン・バースの真骨頂である(おとぎの国バグダッド)/レムが最新の作品を読まずにアメリカSFを難じるのはいただけない(SF――ゲットーへの案内)/ドリス・レッシング『マーラとダン』(未訳)の世界は使い古しのプロットでできていて、情景はどこを見てものっぺりとしてかすんでいる(川を越えて、森を抜けて)/バロウズが初めての方には『裸のランチ』の方をおすすめする(首吊りの方法)/クリスティーン・ブルックローズ『エクスオアンドア』(未訳)は詩の領域に達した造語小説の傑作(天才キッズの秘密の暗号)/『アメリカポストモダン小説集』(未訳)は文学におけるポストモダンの無意味さを知らしめる(とんちんかん、ちんぷんかん、ちちんぷいぷい

 さて、表題作を含む『解放されたSF』(もともとは講演集)が1984年に翻訳されたとき、「SFの気恥ずかしさ」をSFスノッブ(マニア)に向けた辛辣なジョークとする見方が多かった。多少の本音は入っているとしても、「腹を抱えて笑う」べき冗談とみなされたのだ。しかし、本書を読むとそのトーンは一貫している。つまり、ユーモアを交えているとはいえ、ジョークではないのである。

 本書では、SFの読者は少年が夢想するような冒険物語(児童小説)を求めると説く。それは逆境の英雄が活躍する神話伝承ととても近い。ベストセラーとなる小説が、神話のパターンで書かれているのは偶然ではない。(無知蒙昧とまでは言わないまでも)本を読みなれない読者に容易く理解できるからだ。その定型で新鮮さを感じさせるためには「文体」の工夫が重要になる。立場はまったく逆ながら、冲方丁もキャンベル『千の顔を持つ英雄』(本書にも出てくる)を引き合いに同じことを言っている。

 総じてディッシュは、パルプ世代の作家や(クラークを除く)第1世代作家、ナショナリスト、疑似科学や宗教類似の詐欺に関わる作家に厳しい。一方、ベンフォード『タイムスケープ』、クロウリー『エヂプト』『エンジン・サマー』、ウルフ《新しい太陽の書》、ギブスン&スターリング『ディファレンス・エンジン』、ジョン・バース『船乗りサムボディ最後の船旅』、そして欠点を挙げながらもディックの諸作品を称える。褒める技術も並大抵ではない。

 ところで、レイバー・デイ・グループ(LDG)にはジョージ・R・R・マーチン、ヴォンダ・マッキンタイア、タニス・リー、ジャック・ダン、エド・ブライアント、マイケル・ビショップ、ジョン・ヴァーリイらが含まれる。この中では最近翻訳が出た『時の他に敵なし』のビショップが高評価され、ブライアントが酷評されている。当時のファンは、どちらかといえば若いLDG側に同情的だった(そりゃそうでしょう)。とはいえ、作家として生き残っているのは、神話伝承風の物語「ゲーム・オブ・スローンズ」を当てたマーチンくらいだ。本書の正しさを象徴するかのようである。

李開腹・陳楸帆『AI 2041:人工知能が変える20年後の未来』文藝春秋

AI 2041:Ten Visions for Our Future,2021(中原尚哉訳)

装丁:関口聖司 、(C)shunli Zhao/gettyimages

 この表紙でこの帯なので、ほとんどの人はよくあるAI解説書、一般向けノンフィクションの類とみなすだろう。ところが、本書は『荒潮』を書いた陳楸帆の書下ろし中短編集でもあるのだ。中原尚哉という、SFに精通した翻訳者を充てたところも注目点。どの作品も今から20年後(原著は2021年刊)の2041年、AIが浸透した社会の中で、世界のさまざまな人々が生き方を模索する物語である。

 未来1:恋占い(インド)AI恋占いに熱心な主人公は、母親が家族情報を全提供する深層学習型保険に加入したことを知る。助言サービスは有益と思えたが。
 未来2:仮面の神(ナイジェリア)才能ある若手映像作家に、センサーをかいくぐるフェイク動画を作成するよう依頼が来る。その真の目的は何なのか。
 未来3:金雀と銀雀(韓国)養育院で育つ双子の兄弟は性格が全く違っていた。パートナーとなるAIも別々だ。二人は裕福な家とトランスジェンダーの家庭の養子となる。
 未来4:コンタクトレス・ラブ(中国)何度も繰り返すCOVID禍のトラウマで、主人公は部屋に引きこもってしまう。しかし、ブラジルに住む恋人はリアルの面会を求める。
 未来5:アイドル召喚(日本)アイドル一筋だった主人公に、そのアイドル絡みのプロジェクトから誘いがかかる。それはXRを使ったある種の謎解きだった。
 未来6:ゴーストドライバー(スリランカ)VRレースのチャンピオンだった少年は、精巧に作られたシミュレータでのゲームにスカウトされる。
 未来7:人類抹殺計画(アイスランドから世界各地)莫大なリソースを喰う量子コンピュータを使ったクラッキングが発生、それは世界を巻き込む騒乱の引き金だった。
 未来8:大転職時代(アメリカ)あらゆる仕事がAIに置き換えられていく中、転職支援サービスに勤める主人公は、信じられない成功率を約束するライバル会社と対峙する。
 未来9:幸福島(カタール)個人の嗜好をAIがすべて実現してくれる夢の島は、集められたエリートたちの満足にはなぜか結びつかない。
 未来10:豊穣の夢(オーストラリア)かつて名をはせた海洋生物学者も、今では保養施設に住む偏屈な老人に過ぎない。主人公は看護師として働く中、お互いの過去を知る。

 多数のAI関連用語が平明に説明されている。深層学習、ビッグデータ、コンピュータビジョン、ディープフェイク、GAN、GPT-3、AGI、アルファフォールド、VR/AR/MR、BCI、自動運転、トロッコ問題、量子コンピュータ、ビットコイン、AIで失われる仕事、ベーシックインカム、GDPR、信頼実行環境、シンギュラリティなどなど。

 最後の作品は、すべての国民を賄うだけの電力と食料が満たされた社会を描く。旧来の貨幣経済は意味を失い、新たな価値への転換を余儀なくされる。そこでは人々が生きていくうえで、何を目的にすべきかが問いかけられるのだ。

 惹句に「SFプロトタイピング(SFをプロトタイプにしてイノベーションを生み出すこと)の最高傑作」とあるが、本書はむしろ逆で、誤解の蔓延したAIの正しい意味を、読みやすいSFの形で物語化したものといえるだろう。

 専門家がノンフィクション内に置く物語は、(便宜上小説のスタイルをとっているだけなので)書割的で共感できないものが多い。一方、プロの作家だけで書くと、今度は自由すぎる作品になりがちだ(それはそれで面白くはあるのだが)。その点、本書は編著者と作家が綿密にコミュニケーションを取り、かつ作家もテクノロジーに精通しているため齟齬はほとんど見られない。お題があらかじめ定められた大喜利的な作品ではあるものの、どれも読みごたえ十分な小説になっている。

 本書はAIに関し(考えられうる)テーマを網羅している。その技術的な利点と限界、社会的な影響力と課題についても明記されている。プライバシー侵害や全体主義の恐怖を煽るものでもない代わりに、バラ色の未来にも多くの制約があることが分かる。ここで重要なのは、過度に悲観的になったり未来の可能性を摘むのではなく、難題を克服しながらいかにより良い明日へと繋げるかだ。SF作家が好むディストピア/アンチユートピアは避け、あえてポジティブな未来を描いたと陳楸帆もまえがきで述べている。

 本書の技術解説部分(各作品の末尾に置かれている)は李開腹により英語で書かれた。小説部分は、もともと陳楸帆により中国語で書かれ、翻訳チームで英訳されたものだ。日本語訳もその英訳版に依る。

イアン・マクドナルド『時ありて』早川書房

Time Was,2018(下楠昌哉訳)

装幀:川名潤

 2018年の英国SF協会賞短編部門を受賞、2019年のキャンベル記念賞の最終候補(この2つの賞で著者は常連)ともなったマクドナルドの注目作品である。長さ的には300枚に満たない中編(ノヴェラ)ながら、原著も本書と同様の薄手の単行本(チャップブック)で出た。

 ロンドンの老舗古書店が廃業になる。主人公は、廃棄処分となった値の付かない本の山から、『時ありて』と書かれた1937年刊の詩集を拾い出す。ところが、それには古い手紙が挟み込まれていた。ネット通販の古本屋だった主人公は、その謎めいた内容に惹かれ書き手を追跡しようと試みる。

 手紙は、兵役に就いている詩人の青年が、その恋人である科学者に宛てたものらしかった。しかし、それらしい人物を写した写真の年代が大きく離れている。手紙の主な舞台は第二次大戦下のサフォーク海岸付近(ロンドンから北東に100キロ)にある。物語は、手紙の謎を追いかける古本屋探偵の現在(フェンランド、リンカーンシャーなどサフォークと隣接する地域)と、確率的に散乱した複数の過去とを往復しながら進んでいく。

 同じ人物が時代を超えて写真に記録されている(年を取らない)という発端は、多くの物語でも使われている(評者は「ネームレス」という作品を書いた)。その探偵役を今どきの実店舗レス古本屋が務め、主な舞台を(日本ではあまり知られていない)イングランド東部に置き、点描された2人の男たちの愛情と絡めるなど、設定の組み合わせが面白い。加えて、文学的ミステリ的な趣向が凝らされているのが特徴だろう。

 「時ありて、また時ありぬ」(time was , time will be again)は本書中の詩人が記した一文である。過ぎ去った過去と未来との間を彷徨う、登場人物たちの悲哀と希望を象徴するかのようだ。

アヴラム・デイヴィッドスン『不死鳥と鏡』論創社

The Phoenix and the Mirror,1969(福森典子訳)

カバー画像:antopix/Shutterstock.com
装丁:奥定泰之

 翻訳が出てもう12年経つが、《ストレンジ・フィクション》の『エステルハージ博士の事件簿』(1975)解説で殊能将之が同書と並ぶ傑作だと褒め称えた、著者を代表するファンタジイ長編である。今回は《論創海外ミステリ》の一環で出たけれど、デイヴィッドスンの他の作品同様、ジャンルを問わない独特の物語になっている。

 ナポリの地下水道で、マンティコアに追われながら彷徨う魔術師ヴァージル(ウェルギリウス)は、出会った女主人から〈無垢な鏡〉を製作するように求められる。いったんは断ったヴァージルだが、罠に嵌められ引き受けざるを得なくなる。しかし、その鏡を作るためには、銅と錫の原石を入手する危険な旅に出なければならない。

 銅はキプロス島で産出する(銅Cuの語源はクプルム→キプロスに由来するという)。だが、地中海には〈海のフン族〉と呼ばれる海賊たちが跋扈し、ローマの軍船といえども安全な航海はできない。そこで、ヴァージルはフェニキア人の船長と知り合い、その商船で銅の鉱石を求めて旅立つ。

 全編デイヴィッドスン流のペダンティックな描写に満ちている。実在したウェルギリウスは紀元前の詩人だが、舞台はギリシャ、ローマや中世風など時代も混淆、非実在(フィクション)の神話や伝承、偽史を取り混ぜ、さらには錬金術に関わる蘊蓄までがいろいろ込められている。とはいえ(周到な訳注もあり)読み難さはまったく感じない。知識をひけらかすわけではなく、饒舌さを抑え自然体で書いているからだろう。

 『エステルハージ博士の事件簿』で、舞台となる(架空の)スキタイ=パンノニア=トランスバルカニア三重帝国が、いかに生き生きとしていたかを思い出す。マンティコアからホムンクルス、果てはキュクロプスと、各種怪物魔物満載だが、それぞれの由来はしっかり押さえてある。こういうディティールの凝り方こそが特徴なのだ。

 そもそも、竹取物語のような無理筋の条件が必要な鏡がなぜ必要になるのかというと、実は高貴な人でもある女主人が行方不明の娘を探すためだった。では、なぜ行方知れずになったのか、捜索に魔術師までを招聘する動機は何か。そういうミステリ的な要素も楽しめて波瀾万丈に展開する。とても面白い。

クリス・バドフィールド『アポロ18号の殺人(上下)』早川書房

The Apollo Murders,2021(中原尚哉訳)

カバーイラスト:Yuta Shimpo
カバーデザイン:岩郷重力+A.T

 1959年生まれのカナダ人元宇宙飛行士(ISSの船長も務めた)による、初のSFスリラー長編小説。20号まで予定されていたアポロ計画は、資金的な問題もあり18号以降は打ち上げられなかった。つまり本書は歴史改変小説なのである。70年代前半に起こった、アメリカによる架空の月面探査計画を巡るソビエト連邦との暗闘を描いている。

 1973年、危ぶまれていたアポロ18号の打ち上げは、軍事色を強めることを前提に実施されることになる。ソ連が打ち上げていた巨大な軍事偵察衛星アルマース(サリュート2号に相当)と、さらには月面で活動する無人探査車ルノホート2号が新たな目的だった。ミッション遂行には、事故で宇宙飛行士の道を絶たれた主人公がかかわることになる。

 スペースシャトルやソユーズを経験してきた著者だけあって、テクノロジー描写は恐ろしくリアルだ。そこに黒人や女性宇宙飛行士を登場させ、謀殺/脅迫/内通など冷戦期のスパイ活動に現代的なテイストを加えている。実際には黒人、女性の宇宙飛行士がそれぞれ搭乗したのは、スペースシャトル時代の1983年のこと。黒人で女性となると1992年まで下る。

 JAXAの活動だけを見ていても分らないのだが、本書を読むと宇宙開発というものの軍事的側面の大きさを再認識できる。NASAはアメリカ空軍から派生した組織で、本書の主人公も(著者も)空軍出身者である。アカデミックな科学技術調査はもともと付随的なものだった。(表立って兵器を搭載できないため)素手で殴り合うに等しくなる宇宙での攻防は、原始的であるが故に妙に生々しく思える。

 米ソが対等に競い合った宇宙開発時代は、改変歴史ものの1ジャンルになっている(本書の解説に詳しい)。国家による重厚長大テクノロジー、マッチョでホワイトな男たちの世界、何より明確に分離された2大陣営が平衡対立する時代だった(市場主義国家同士である米中対立とは大きく異なる)。そこに今風の要素を加味し、しかし当時の時代性を損なわない範囲でまとめたところが新しい。

パット・カディガン『ウィリアム・ギブスン エイリアン3』竹書房

Alien 3 The Unproduced Screenplay,2021(入間眞訳)

カバーデザイン:石橋成哲
Front cover artwork by Mike Worrall

 円城塔・ゴジラのノヴェライズの次となると、やっぱりギブスン・エイリアンだろう。本書は熱狂的なエイリアンファンだったウィリアム・ギブスンが書いた『エイリアン3』の脚本を、盟友パット・カディガン(キャディガン)がノヴェライズしたもの。ご存じのとおり、この脚本が映画に採用されることはなかったが、脚本がネットに流れてから逆に評価が高まった。ギブスンを外した映画『エイリアン3』は不評だったからだ。遅まきながら、2018年には脚本の第2稿がコミック化、2021年に第1稿(本書)がノヴェライズされている。第1稿と2稿では、エイリアンの設定や登場人物が異なっている。

 テラフォーム途上の植民惑星〈LV426〉は、棲息するゼノモーフ(エイリアン)により壊滅する。救援に赴いた海兵隊も歯が立たず、輸送船〈スラコ〉で脱出するが、船内にはクイーン・ゼノモーフが潜んでいたのだ。激闘の末、わずかな生き残りはコールドスリープに就く(『エイリアン2』)。物語は、その輸送船が独立ステーションの領空に侵入したところからはじまる。

 本バージョンでは、主人公はコールドスリープから目覚めたヒックス伍長とアンドロイドのビショップ、アンカーポイント(宇宙ステーション)の科学者スペンスあたり。登場人物はとても多く次々死んでいく。キャラの一覧表がないので、読むのが結構大変である。舞台は巨大なステーション内部、バイオハザード状態で数を増したエイリアン相手に、迷宮的な船内逃避行が繰り広げられる。

 エイリアンの続編として、何が正解なのかについてはさまざまな議論がある。リプリーの物語であるべきなのか、あくまでも殺戮者エイリアンが主役なのか。ただ、リプリー役のシガニー・ウィーヴァーが出演を渋ったため、ギブスンとしては後者を選ばざるを得なかった。結果的に、前作で活躍したリプリーや生き残り少女ニュートは、冒頭のみしか出てこないのだ(実現しなかったさらなる続編が匂わされている)。

 脚本の第1稿は、『エイリアン2』(1986)公開の翌年末には早くも完成。20世紀末、1980-90年代の社会状況(ソビエト崩壊直前、中国台頭のはるか以前)が設定に影響している。脚本からノヴェライズまで34年間のギャップはあるが、キャディガンはそこに余分なアップデートを加えなかった。あくまでも、上映されたかも知れない正統派『エイリアン3』であるわけだ。

  • 『ミラーシェード』評者コメント
    (謝辞が、当時若かった『ミラーシェード』の寄稿者たちに捧げられている。同時代の『エイリアン』には、そういうノスタルジーが含まれるという意味なのだろう)

オクテイヴィア・E・バトラー『血を分けた子ども』河出書房新社

Bloodchild and Other Stories,1996/2005(藤井光訳)

装幀:川名潤

 1947年生まれ(2006年に没)の著者は、SF分野では初の黒人女性作家だった。80年代後半に話題になったものの、(シリーズものが多かったこともあり)今世紀以降は作品紹介が途絶えていた。しかし、ジェンダーや人種の問題に対する先進的な取り組みが評価され、『キンドレッド』(1979)の翻訳がほぼ30年ぶりに復刊するなど再び注目を集めるようになった。

 血を分けた子ども(1984)ぼくは幼いころから保護区に住んでいる。生まれて一緒に育ったトリクとともに。
 夕方と、朝と、夜と(1987)遺伝的な要素のあるその疾患は、いったん発症すると周りの人間を巻き込む激烈な反応が顕われる。
 近親者(1979)シングルマザーの母はわたしを遠ざけたが、亡くなって遺品を引き継ぐときに伯父から意外な事実を知る。
 話す音(1983)何らかの異変が起こり、人々同士のコミュニケーション機能に重大な障害が生じる。
 交差点(1971)刑務所に入っていた元恋人の男が帰ってきて不満を垂れ流す。しかし、女との気持ちは相容れない。
 前向きな強迫観念(1989)6歳から、作家になるという強い意志を曲げなかった著者の半生(エッセイ)
 書くという激情(1993)書くためには文才ではなく書くという激しい思いが必要だ(エッセイ)
 恩赦(2003)形態も知性も異質な異星人は、少数の人間から彼らの通訳を養成する。
 マーサ記(2003)ある日主人公は神に遭遇し、その力を授けようと提案されるのだが。

 バトラーは《Patternist》など、シリーズものを書く長編作家だった。短編の数は少なく本書に収められたもので大半を占める。「血を分けた子ども」は、プロから一般読者までにインパクトを与えた異色作品である。ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ローカス賞、SFクロニクル賞(SF専門誌の読者賞)の各中編部門を受賞している。

 表題作に限らず、全編を通して一種異様な社会が描かれている。その異様さは、いまわれわれが暮らす日常との違いにあるだろう。「血を分けた子ども」では異星人との共棲が描かれる。人間と異星人とはまったく生態が異なり、物理的にも政治的にも対等ではないのに共存を強いられる(これはさまざまな社会問題のアナロジーとも解釈できる)。

 異種のものとの不均衡な関係は、後年に書かれた「恩赦」でも出てくる。人間は関係の本質に気がついておらず、何とか自分の論理/倫理で理解しようとして(おそらく)失敗する。異星人は怪物ではないが、文字どおり人とは異なるものだ。だが、それでも正常な関係を築いていかなければならない。全面降伏か殺し合いの(ハリウッド的)2択しかないと考えるのは短絡なのである。

 2編のエッセイと「マーサ記」(の一部)では著者の創作法が語られる。ふつうの環境でも、兼業で小説を書き続けるには根気が欠かせない。著者の場合はそこに社会的な圧力(黒人は、女は作家になれない、SFは小説ではない)が加わるのだから、並大抵ではなかったろう。それらを乗り切るために激情が必要だったのだ。